三章:闇と時が刃を交えて


 弥夜はロングスカートをはためかせながら、必死に裏通りを駆けていた。紅仁とこの島へ落ち延びてからも鍛錬は続けていたが、以前ほどは身体がついてこない。

 それでも、一秒でも早く息子の元へたどり着かなければならなかった。

 昨晩は自分以外に二つだった能力者の気配が、今朝になって四つになっていた。加えて、さっきは三人分の能力発動を感じ取った。統制派と共生派の小競り合いならいざしらず、紅仁が巻き込まれている可能性は高かった。

 とにかく走るしかなかった。

 もっと息子の行為を強く諫めるべきだった。力を使えば、この島の近くまで能力者が迫っていたら存在を気取られてしまう。その懸念が的中してしまった。

 紅仁が深夜の街へ繰り出したのは、昨日が初めてではないはずだった。弥夜はその理由をはっきりとは知らない。だが大体の想像はついていた。

 少し前から、深夜帯の不良の姿が減っていると話題になっていた。だから昨晩、能力が使われたのを感じ取ったとき、息子が関係しているに違いないと確信した。

 紅仁は呆れるほど、彼に似ていた。

「勇悟さん……」

 樋谷勇悟。紅仁の父親であり、弥夜のすべてを変えた存在。

 もう、この世界のどこにも、存在しない人間。

 煙に巻く言動ばかりなのは父親とはっきり違っていた。しかし。不意に覗く真摯な瞳。心の中に秘めている情熱。見た目や心は、よく似ていた。

 彼らの能力は、その精神の象徴ようだった。

 弥夜は胸を押さえる。彼はもういない。子供を守れるのは、自分しかいなかった。

 早く、早く、早く。

 足の回転がこんがらがりそうになってきた。それでも速度は落とさない。

 角を曲がったところで、正面に独特な服を身にまとった女性が目に入った。以前、本で見たことがある装束だった。確か着物という名前の、民族衣装。

「止まってください」

 彼女は狭い路地裏の道を塞いでいた。弥夜はやむなく足を止めた。

 女性は腰に、ずいぶんと長い獲物を下げていた。先端に向かって緩やかな楕円を描いている。弥夜の記憶が正しければ「刀」という剣の一種だった。着物を着ている民族が武器として持っている。

 体格は中肉中背だったが、背筋が真っ直ぐに伸びており、実際よりも高身長な印象を受ける。つり目と引き締まった唇も目立つ。

「あなたは能力者ですね」

 弥夜は目の前の人物がどういう存在か、すでに確信していた。

「そこをどいて……。早く子供を迎えに行かなくてはいけないの……」

「それはいけませんね」

 女性は刀を鞘から引き抜いた。鈍い銀色の光が閃く。

「噂だけは聞いています。『猛る火』との間に一児をもうけ、組織を抜けたと」

 弥夜は、自分が最悪のパターンを引いたと把握した。

 息子の元へたどり着くには、この女をどうにかしなければいけない。

「私が統制派に入った当初から賞金首のリストにありましたよ。行方をくらませた元共生派『無限の闇』のミヨ。まさかこんな辺境の島に引っ込んでいたとは。思いもよりませんでした」

「邪魔をしないで……」

 時間はかけられない。

 居場所を隠す必要もない。

 全力を出さない理由がなかった。

「闇に消えて……」

 弥夜の瞳が髪の間から覗く。陰鬱な黒を宿していた。力を解放する。

 身体から闇が這いずる。それは純粋な暗闇。暗くなる、という言葉では足りない。そこにあるはずの空間が、視認できなくなる、真なる闇黒だった。

「これは、なかなか」

 着物の女が頭上を見渡す。闇はただそこにあった。光との境目が不自然なほどはっきりしていて、周囲の建物が端からどんどん抉られていくかのような景色が広がっていく。

「私たちは、あなたたちの争いに関わるつもりはない……。だからあなたたちも、私たちに関わらないで……」

 弥夜の身体から、絶え間なく黒が湧き出る。底なし沼よりも静かに、世界を沈ませていく。着物の女も逃れることはできなかった。

 やがて、すべてが闇へ呑まれた。

 目に見えるものすべてが死んだ世界でも、闇の能力者たる弥夜はどこに何があるかを認識できる。女の場所も、進むべき道も、手に取るように分かった。迷いなく駆け出す。

 女のそばを横切り、背を向けた瞬間、鋭い殺意が飛んできた。弥夜は反射的に、腿へ仕込んでいたナイフを掴んで、振り向きざまにそれを受け止めた。

「油断したところを一刀両断、とはいきませんでしたか」

「あなた……、どうして……」

 剣先が目と鼻の先にあった。金属音が弾け、女が刀を引く。

「あなたの視界には、何も映らないはず……」

「確かに何も見えません。『無限の闇』と言うだけあります。ですが、人間に備わっている感覚器官は目だけではありません」

 彼女はそもそも目を閉じていた。

「視界を封じた程度では、私からは逃れられません」

 弥夜は唇を噛んだ。一刻も早く紅仁の元へ向かいたいのに、遁走すらこの女は許さない。

「私の島では『侍』と呼ばれる武人たちが腕を競い合っています。その修行の一環で、気配だけで相手の場所を探るというものがあります。たとえ一寸先が闇であっても、敵を見失いはしません」

「着物に刀に特殊な修行……。盛りだくさんで疲れる……」

 愚痴を吐いて頭を冷やす。ナイフを手元で回し、構え直した。

 この闇の中で動けるのは完全に想定外だった。しかし効果はある。まったく影響がないのなら、背後からの攻撃は連撃になっているはずだった。

「すごいけれど……、十全には戦えないでしょう……」

「試してみますか」

「試す時間ももったいないのだけれど……」

 弥夜の声は冷え切っていた。

 立ちはだかるのなら、相応の代償を払ってもらうほかない。

「仕方ない……」

 しなやかに腕を振った。

 着物の女へナイフが飛んでいく。

「投擲ですか」

 彼女は刀を眼前に立て、それを防いだ。何気ない動き、だが弥夜は確信を持った。

 反応が鈍っている。

「それなら、次も効くでしょう……」

 弥夜がつぶやくのが早いか、着物の女がはっとした様子で頭上を見上げた。

 何も目にすることができない、黒い空。けれどそこには、確かな殺意が浮かんでいた。

「雹よりは痛いでしょう……」

 上方へ一気に撒いたナイフが、獲物目がけて降り注ぐ。

 それが演舞の開幕合図だった。

 弥夜はロングスカートのファスナーに手をかけた。自分で取りつけたお手製のものだった。腰から足側へ半分ほど下ろし、内側に通してあった紐を思い切り引っ張る。紐はレールの役割を果たしていて、いくつものナイフがぶら下がっていた。一気に手中へ収める。

 着物の女は刃物の雨を避けるため、奇妙なステップを踏んでいた。だが、数の暴力に屈して、幾本かがその身体を蝕んでいく。着物の一部を切り裂き、頬や腕を掠め、一本は肩へ深々と食い込んだ。「うぐ」と声が漏れる。じわりじわりと、彼女に赤い筋を増やしていた。

「それがあなたの十全なの……?」

 弥夜は女を軸にして、円を描くように駆ける。手を休めず、次々とナイフを放った。喉元、心臓、頭部、急所を狙う合間に、部位を意識しない大雑把な攻撃を挟む。女は前者こそきっちり反応するが、後者をさばききれていなかった。そのうち、一つが女の背に刺さった。「くっ」と体勢がわずかに崩れる。弥夜は見逃ない。

「精々が五全でしょう……」

 両手にナイフを逆手で持ち、踏み込んだ。

「確かにリップサービスが過ぎました」

 側面からの強襲だったが、女は刀で受けてみせた。顔が近づく。彼女の口元はわずかにほころんでいた。

「八全です。そして、それで十分です」

「八割は案外と信用できない数字よ……」

 連撃をしかける。その最中、女の重心が後方に偏った。すかさず足払いをかける。

 かかった。

 経験からの確信。

 そのはずだったのだが。

「冷や汗ものですね」

 後方へ飛びのかれてかわされた。

 タイミングが遅かったのか。感覚が鈍った可能性はある。だが、弥夜の内に残る戦いの記憶はそれを否定していた。

 何かがおかしい。

 おびただしい手汗が滲んだ。闇の中でも動けるのは、故郷の訓練で身につけたもので、能力とは異なる。この女の能力はなんなのか。

 女は腕から垂れる血を拭った。肩に突き立てられているナイフはそのままにしている。

「油断なりませんね。長く戦場を離れていたのだからと、甘く見ていました」

「そうね……、甘く見るのはやめた方がいい、お互い……」

 弥夜も油断があった。闇に撒いてしまえば何もできない、そう高を括っていた。現状はこの様だった。相手は闇の能力について情報を持っているが、こちらはどんな力か分かっていない。

「今度はこちらからいきましょう」

 女が踏み込んできた。正面から癖のない真っ直ぐな剣閃が襲いかかってくる。弥夜は両手に持ったナイフで受け止めた。

 つばぜり合いの最中、弥夜は隙を見て蹴りを試みた。

「甘いです」

 かわされてしまい、逆に隙が生まれる。浮いた足を絡めとられ、体勢が崩れた。背中から地面へと落ちていく。

「もらいました」

 胸部へ狙いをつけた凶刃が降り下ろされる。

 それは形を持った死。

「まだ……」

 弥夜は咄嗟に、ナイフを胸の前へ持ってきた。刀の軌道が逸れる。それでも、脇の下を深々と抉られた。激しい痛みが、急激に熱を伴って、身体を苛む。思わず苦悶の声が出た。

 地面に背が着くより前に、弥夜は右手のナイフを女へ投げつけた。避けられたが、接地した勢いで後ろに転がり逃げることはできた。

 片膝をつき、出血箇所を手で押さえる。その上から血が滝を作って、流れ落ちていった。服が赤黒く変色していく。

 絶対におかしい。

 抱いていた疑念が確信に変わる。久々の実戦とはいえ、身体に刻み込まれた戦いの呼吸はしっかり呼び起こせていた。攻撃をかわされるのは不自然だった。

 弥夜の感触より、女の動きは明らかに早い。能力によるからくりを疑うべきだった。

「もう変調を自覚していますか。さすがですね」

 女が刀を振って、弥夜の血を払う。視界を奪われているとは思えない、冷静な所作だった。

「厄介なタイプね……。目に見えない類のものは、これだから……」

 詳細は看破できていないが、女の能力の系統だけは予測がついた。かつての仲間に似たタイプがいた。火や闇とは違い目に見えず、気化した毒のように、じわじわと身体を蝕む。

 おそらく身体の動きを鈍化されている。

 弥夜は記憶にある、ほかの能力の発動条件を呼び起こす。類推するに、武器越しに作用した可能性が高かった。ほかにトリガーになりうる事象がなかった。

 とはいえ、弥夜の知識にない発動方法の存在は否定できなかった。

「私は長期戦向けなのだけれど……」

 立ち上がり、目標を見据える。敵は目を閉じたまま悠然と構えていた。

「今日は急がせてもらうわ……」

 女が肩をぴくりと震わせた。軽い舌打ちが聞こえてくる。

「芸がありませんね」

「芸が必要な世界ではないでしょう……」

 弥夜が放ったのは、再びの雨だった。

 今度は先ほどよりも本数を増やした、豪雨。

「いいえ、必要です。一度した攻撃は、見切られる運命ですから」

 女は頭上で刀を回し、即席の盾とした。すべては防げないが、負っても精々がかすり傷だった。

 そこへ弥夜は、腹部目がけてナイフを放る。

「一本だけ投げたところで」

 女の言葉が途切れる。まぶたを大きく持ち上げ、口を広げた。浮かんだ感情は、驚愕。

「さっきの言葉は訂正するわ……」

 弥夜の足元、地面へ突き立てたナイフがあった。持ち手の先には紐が巻かれている。紐は地面すれすれを伝い、女の横をとおり、その背後にある壁へ食い込んだナイフへとつながっていた。

 雨の最中、ひそかに投げていたナイフだった。

「確かに芸は必要ね……」

 女の身体が宙を舞う。原因はピンと張った糸の罠。闇に紛れた、子供じみた仕掛け。

「十全でも足りなかったわ……」

 音もなく目標へ接近した弥夜は、蛇のように女の背後へ回り込み、その喉元へ鈍い銀色の牙を当てた。

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