第8話 天使と悪魔
「ん……っ」
目を覚ます。
夢は見なかった。
だらしない姉の寝顔と憔悴し切ったお兄ちゃんの顔を確認してから立ち上がると「ふがっ!?」と年頃の女性らしからぬ声をあげて姉も目を覚ます。寝てんのかい。
てっきり起きててくれるのかと思ってたよ。
時刻は7時30分。
学校に行く気はないので、もう少ししたら学校に電話して休みをもらおう。
お兄ちゃんの頬を撫でると少し低い体温が手のひらを通して伝わってくる。
それと同時に薄暗くて見えなかった顔色の悪さや肌荒れ、そして頬に伝った涙の痕がわたしの心をキリキリと締め上げる。
「ねえ、なんで優しい人がこんなに苦しまなきゃいけないんだろうね」
「……」
姉は何も答えなかったけれど、同じ痛みを感じたことは表情を見て理解した。
「コンビニ行ってくるよ。欲しいものあったら買ってくるから」
優しく微笑んだ姉に自分のほしいものを伝えると、「やっぱ尊敬するっす!乙女っすね!」なんてよくわからない三下ムーブをしながらコンビニに出かけて行った。
普通に洗顔とかケア用品お願いしただけなんだけど。
もう一度、お兄ちゃんに向き直ると小さな声で寝言を言っていた。
「……申し訳ございません。申し訳ございません……」
「なんで……っ」
一晩明けて落ち着いたからなのか、今度は沸々と怒りが込み上げてきた。
この世は理不尽でできている。
優しい人が幸せになれるわけではない。
頑張る人が報われるわけではない。
それでも、そんな人達が傷つけられていいわけなんてどこにもない。
⭐︎⭐︎⭐︎
コンビニの買い物が終わって、もう一度パーキングに車を止める。
言われた洗顔とかケア用品はメーカーまで言われていたけど、そのメーカーはなかったから代わりに置いてあったやつを適当に買った。
だ、大丈夫だよね?
私はある時期からこういうのに無頓着にしていったからかなり疎くなってしまっていたから実際どんぐらい違うとかわかんないし、不安だ。
まあ、大丈夫か。妹は天使だし。
プリプリ怒る姿も可愛いのだから。
しかし、実際にあの部屋の荒れ用や憔悴し切った千歳の顔を見ると私にもクるものがあった。
一体どんなことが彼の身に起きていたのか想像すると体が震える。
『うちの会社の人屋上から飛び降りて自殺したの』そう社会人になった友人が迷惑そうに話していたのをふと思い出した。
おかげで裏手から入らないといけなくなったとか、一日中上司が不機嫌だとか。
「結局、他人事ではあるんだよね」
誰がどんな不幸を背負い、たとえ友人であっても他人事なのだ。私もそうだからわかる。
同情や共感はあっても解決はできない。
それなのに、自分の身に降りかかると、『なぜ助けてくれないのか』と嘆く。
それが当たり前でそれが普通なのだ。
だが、普通じゃない人間を私は知っている。
アパートに着いたので思考を止めて、玄関の扉を開ける。
リビングの扉は開いたままで、遠目に愛する妹が見えた。
なぜか手には包丁を持っていた。
–––––リンリンリン
–––––リンリンリン
鈴のような着信音。
テーブルに置いてあるスマホを見下ろす妹の表情は長い黒髪に隠れて見えなかった。
細く綺麗な指がスッとスマホに触れると、今度はそのスマホから中年男性の怒号が部屋中に響き渡った。
「佐倉っ!!!お前今なにしてる!?仕事も碌にしない上に遅刻だあっ!?全部中途半端のまま帰りやがって覚悟しとけよ!!
聞いてんのか!?返事しろコラァ!!」
その瞬間、
ダンッ!!!!!!!!!!!!
衝撃音に体がビクッと一瞬震える。
そして思わず目を見開いた。
躊躇なく振り下ろした包丁がスマホに垂直に突き刺さり薄い木のテーブルを貫通していた。
「 コ イ ツ か 」
確かに美優はそう言った。小さな声で、それなのにはっきりと耳に届いた。
感じたのは轟轟と煮え沸る怒りと殺意。たった四文字の呟きなのにゾゾゾッと冷たいものが背筋を走る。
昔、美優はいじめられていた友人を助けられなかった後悔があった。
そんな自分に絶望し、一時期は私や両親を遠ざけた。そんなとき千歳はずっと美優のそばにいた。荒れる美優がどんなに汚く罵っても暴力を振るっても千歳は側を離れなかった。
千歳の献身もあって美優は立ち直った。
でも、美優は変わった。いじめが起きようものなら解決に尽力し、起きそうな雰囲気があれば起きる前に解決する。友人の悩みに真剣に寄り添い放置することは決してなかった。
だが、その行動は全員に受け入れられるということにはならなかった。
だから、あの事件は起きてしまった。
「お姉ちゃん、帰ってきたんだ。おかえり」
不意に話しかけられて思考が止まる。
そこにいるのは、美優だけど美優じゃない誰か。
昏く淀んだ瞳の奥は怒りと殺意に渦巻いていた。
「あっ、ごめん。包丁駄目にしちゃった」
そう言うと包丁を引っこ抜き潰れた刃をみて苦笑している。
なんで包丁持ってたの?とか疑問はあるけどとても聞ける雰囲気ではない。
完全にブチギレている。
一番手に負えなかったあの時期の美優がそこにはいた。
私の体は痺れたように動かない。
「お姉ちゃん?どうしたの?」
「え?あっ……ああ、そうそう!千歳のご飯はお粥にしたよ。胃に優しいもののほうが良いかなって思って……あははっ」
必死に話しを逸らした。
気がつくと美優の目も表情も元に戻っていて、今見たのは幻だったのだろうか?と困惑してしまう。
夢であって欲しい。私は立ったまま夢を見ていたのだと、そんなおかしな状況であったほうが笑って終えられるのに。
コンビニの袋を渡して、テーブルの上のスマホに目を向けるとやっぱりスマホの中心には包丁が刺された痕があって、現実を目の当たりにすることで私はある種の覚悟をするのであった。
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