第9話 歪み
包丁の痕がついたスマホに目を向ける。
どうやらやってしまったらしい。
らしいというのも、姉の怯える表情を見て急にクールダウンしてその後に自分の取った行動が後から思い出されたためだ。
でも、後悔はしていない。
きっと今スマホがあってもお兄ちゃんを苦しめるだけだ。後でちゃんと謝ろう。
そもそも、お兄ちゃんの休みを取るために会社に連絡しようとしたが、はっきりとわかる連絡先がなく、人物名のある電話番号に片っ端から電話を入れたのに誰も電話に出なかったのが原因だ。
そうして、折り返しがかかってきたのがついさっき。
ディスプレイには太井部長と書かれていて、片っ端から電話した先の一つだった。
備考に、『業務時間外に電話しない』と書いてあったが、気付いたのはかけ終わった後だった。
結果的に絶対コイツだろ、と思われる原因が特定出来たのは暁光だった。まあ他にもいろんな要因はあるかもしれないけれど、お兄ちゃんはきっと誤魔化すだろうから知れたことだけは良しとする。
「くっさっっっ!何日洗ってないのこれ〜」
そして今は、お兄ちゃんの起きるまでの間、2人で部屋の掃除をしていた。
見た目にはかなり散らかっているけど、食べ残しや飲み残しはなかったから単純にゴミ捨てと衣類の洗濯でそんなに時間はかからなそうだった。キッチンはほぼ使われておらず綺麗なままだったし。
「バ
「なんだろうその呼び方、実家に帰ったような安心感!」
そんな他愛もないやり取りをしながら掃除をして、気づけば時刻は11時になっていた。
お兄ちゃんはまだ目を覚さず、小さい呼吸を繰り返すだけだった。
⭐︎⭐︎⭐︎
自動販売機で無糖のコーヒーを選び、ガコンッと音を立てて缶コーヒーが下に落ちる。
手を伸ばして取り出すと不意に声を掛けられた。
「黒川さん、今少しいいですか?」
彼女が最近まで太井部長のターゲットになっていたのは記憶に新しい。
「ああ、もしかして佐倉のこと?」
「あの、今日……佐倉さんが……そのっ」
「なんでも無断欠勤だそうだ」
「……っ」
普通、呼ばれたら大抵は仕事のことだがこの娘は違う。
この娘が俺を呼ぶ時は大抵佐倉のことだった。
「そういえば始業前に電話きてたな……」
「わ、私も……折り返したんですけど……」
始業時間前に1度着信が入っていた。準備していて気付かなかった。
きっと鈴井さんもそうなのだろう。
何かあったのか心配になる。うちの会社は休むのであれば総務部に連絡するというのがルールだった。
しかし、結局休みの連絡が部署に入れば太井部長の耳に入ることになり、太井部長から直接休んだ社員への鬼電と山のような罵倒の嵐が始まるのだから、暗黙の部署内ルールとして『休むなら、一旦出社したけどやっぱり体調が悪くて業務が続けられない』という姿勢を見せなければいけないというものがあった。
本当に歪んでいる。
「何か、あったんでしょうか……?」
鈴井さんは不安をそのまま口にする。
本当はこれを知りたかったのだろうが、随分遠回りする。
まあ、彼女らしいかと納得する。
「何もないってことはなかったな」
「……」
鈴井さんは例の事があってから、佐倉の口聞きもあって違う部署に配属された。
もう環境が変わり、それなりに上手くやれていることは鈴井本人から聞いたのでそれを佐倉に伝えたら喜んでいた。
それを今度は鈴井にも伝えるとお礼が言いたいと言っていたが、それはまだ実現していない。
1年も何やっているんだこの女は……。
と思うが、そこまで面倒を見る必要もないだろうと放置していた。
起きた何かを知りたい彼女は無言のまま立ち竦んでいる。
こういうはっきりしないところが人を苛つかせることも彼女は自覚はしているのだ。これでもまだ改善した方だった。
俺は小さく息を吐くと今朝の太井部長の荒れようを簡潔に伝えた。
「そ、そんな!そんなのって……」
「ひどいって思うか?そんなのみんな思ってる。けど、諦めちまってるんだよ。俺も含めてな」
彼女の憤りも理解できる。それはきっと俺も抱いていることだ。
でもそれが出来ない。相談窓口への通報や、他部署の人間への相談も全て先駆者がいた。
そしてその悉くが握り潰された。
結局当人がターゲットになり、会社を去るということが続き、この会社は幹から腐り始めていることを知ったのだ。
「クソがっ……」
ぐしゃり、と音を立てて缶コーヒーを握り潰したところで自分への苛立ちと胸の内のモヤモヤは晴れなかった。
結局、みんな嵐が過ぎ去ろうとするのを待っているのだ。うちの会社の方針で部長職は部署に留まるのは最高3年と決まっているから。
だから、息を潜めている。影を消し、視界に入らないように。
何とかしてやりたいという気持ちの一方で、諦めの気持ちが先に立つ。
結局何も出来ないままズルズルと1年が経ち、日に日にやつれる佐倉を俺は見殺しにしている。
「まったく、人のこと言えた義理じゃないな」
「……??」
どうにかして助けてやりたい。
結果、他の誰かがターゲットになってもいい。
なんて、佐倉に聞かれたらあいつはきっと「そんなの駄目です!」って言うに決まってる。
だけど、もうそんなこと言っている時期は過ぎた。
「……鈴井さん、協力してほしいことがあるんだ」
「はいっ!」
目を煌めかせる彼女に一抹の不安を思いながらも俺の考えを伝える。
「か、かなり強行手段というか」
「まあな」
俺の子供の我儘のような考えに動揺する鈴井だったが、少し考える素振りの後、小さく頷いた。
「ふんすっ!」
なんか気合いも入ってる……。
余計不安になるんだが。
そうこう言ってる内に、休憩終了の時間がきた。「また後で連絡する」とだけ告げてその場を後にした。
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