第5話 病み、闇



「えっ……?え?」



小さい手は震えているのに力強く握って離してくれる気配はない。



「行かないで……行かないで……っ!」



彼女はそう繰り返すと僕を自分の方へ引っ張った。



「うわっ!!……っ!?」



抱きしめられた。

さっき握られた力とは逆に優しく包まれるように彼女の胸の中に僕はいる。


柔らかくて温かくて優しい匂いがする。

なんだか眠く……って違う違う!



「美優ちゃん!?あの、さっきも言ったけど会社に戻らないといけないんだ」



「お兄ちゃん……仕事は楽しい?」



唐突にそんなことを言った彼女は僕の肩に手を置くと、今度は正面から真っ直ぐな瞳で僕の瞳を見る。

……かなり近い。もう少し近付いたら鼻と鼻がくっついてしまいそうだ。



「仕事は……た、楽しいよ」



体からギリッと軋む音が聞こえる。



「やりがいもあって」



ドクッと心臓が重くなる。



「信頼できる……人達ばかりで……」



後頭部がぞわぞわと冷えていく感覚。



「だから、大丈夫、大丈夫だよ」



僕は嘘つきだ。

今の僕は笑えているだろうか?

彼女もこれから大人になっていく。

そんな彼女に大人の汚い部分を見せるなんてあまりにも可哀想だ。



「お兄ちゃん。–––––美優わたしを見て」



「っ……!!」



可哀想……?

違う。これは僕の小さな小さなプライドだ。



「お兄ちゃん、目が濁ってる」



「そんな、ことは……」



彼女の瞳が真っ直ぐ貫いてくる。

まるで目を通して僕の全てを見られているような錯覚を起こす。



「大丈夫、大丈夫だから!!行くよ、美優ちゃんもほら、そろそろ帰らないと」



僕の肩に置かれた手を降ろさせるともう一度立ち上がる。

僕が玄関に向かおうとするそのときだった。



「じゃあ、死ぬね?」



………………え?エ?絵?



「だって、わたしが行かないでって言っても行くんでしょ??

お兄ちゃんが苦しがってるのなんてわたしじゃなくたって見たらわかるよ。


少なくとも部屋で首を吊ろうとするくらい追い詰められてる人を放って帰るなんてできないし。


そんなこと、わたしがわたしを許せない。


お兄ちゃんが譲る気ないのもわかってるよ?

だって我儘聞いてくれるときはすぐ聞いてくれるもんね。


こうなったお兄ちゃんは頑固なのもわかってる。ずっと見てきたんだもん」



「……」



彼女の言うことは正しい。

だけど、虹彩をなくした彼女の瞳に僕の体は蛇に睨まれた蛙のように固まる。

つまり、恐い。



「お兄ちゃんを見殺しにするわたしに生きる価値ないもんね。アハハッ」



じ、冗談だよね?全然目が笑ってないんだけど。



「どうする?会社に行ってわたしが死ぬか、ここに残ってゆっくり休むか選んでお兄ちゃん」



これって脅迫……っ!



「……ゆっくり、休みます」



僕は屈した。

つけたままのパソコンや散らかったデスクのことが頭を過ったが目の前の少女にまったく勝てる気がしない。

いや、勝つ負けるじゃない。


何よりもこの行動を決定づけた最大の理由は、

ということだ。



「じゃあ、お兄ちゃんシャワー浴びちゃって!その間に少し片しておくから」



目に虹彩の戻った彼女は柔らかく笑うとベッド周りのゴミからまとめはじめてくれている。


僕、休めるんだ。

あの場所に行かなくて良いんだ。



「あ……れ……?」



そこから僕の意識は途切れた。

意識の途切れる直前、美優ちゃんが僕を呼ぶ声が聞こえる。


––––––––––なぜかそれがすごく安心する

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