第4話 行かないで



「千歳お、にいちゃん……?」



やけに聞き覚えるその声は震えていた。


もしかして、天からのお迎え?

どこで聞いた声だっけ……



『お兄ちゃん!その、連絡先を……教えて……?』

『お兄ちゃん元気してる?ちゃんとご飯食べてる?』

『お兄ちゃん実はわたしね……んーっやっぱり内緒!』



思い当たる女の子の顔が脳裏に浮かぶがそんなわけがない。彼女がここにいるわけないのに。


思考を消してもう一度ロープに手を伸ばすと、



ぎゅっ



体を締め付ける感覚と共に僕の体が前方に押し出されて、首にロープが食い込む感触。



「……おぐっ!?」



「お兄ちゃん……!?!?!?」



⭐︎⭐︎⭐︎



「おえっ……し、死ぬかと思った……」



あれからすったもんだあって僕の体は床に落ちて、僕の前には黒髪の女の子が大きな瞳をうるませながら真っ直ぐに僕を見つめていた。



「……」

「……」



気まずさと沈黙が小さな部屋を支配する。

僕を呼ぶ声。シミのない綺麗な肌と長い黒髪。誰もが見たら皆、美少女と言うだろう容姿。

少し会わない間に大人っぽくなってはいるが、僕は確かに見覚えがあった。



「美優ちゃんだよね……?なんでここに……?」



「……っ」



僕がそう問うと彼女は小さく頷いたけれど、後半の部分に返事はなかった。



「……」

「……」



無言が続く中、視線を彷徨わせていると壁にかけた時計が18時10分を示していた。


しまった!シャワーも浴びれてないけど、予定の時間を過ぎてしまっていた。



「ごめん、美優ちゃん。僕、会社に戻らないといけないから……」



足に力を入れて立ち上がり彼女の横を通り過ぎようとすると、震える手が僕を掴んだ。



「……行かないで……行っちゃだめ」



⭐︎⭐︎⭐︎



玄関にあったそのままになったゴミ袋、脱ぎ捨てられたままのシャツ、小さいキッチンには洗わないままの食器が積み上げられていた。


部屋に入った瞬間、不安がズシンとお腹の底に重りが落ちたような気がした。

『ここには君の知る人はいない』と言われているようで……


リビングに繋がるドアノブを捻ると、あまりの衝撃に自分の時間が停止した気がした。


よく知る背丈の男性の後ろ姿が、まるで助けを求めるように、乞うようにしてロープに手を伸ばす。


『止めなくちゃ!』と、そう思った瞬間に体は反射に従って駆け寄った。


……ハプニングはあったけど、固定が甘かったロープは勝手に切れて、わたしとお兄ちゃんは床に落ちた。


カーテンの隙間から入ったわずかな光がお兄ちゃんの姿を浮かび上がらせていた。

わたしとお兄ちゃんは向かい合う。


ボサボサの髪、こけた頬、無精髭、腕や手は骨張っている。この薄暗闇でもわかる目の下のクマを見ていると心臓がギュッと握られたように苦しくなる。



「美優ちゃんだよね……?なんでここに……?」



わたしは頷くことしかできなかった。

何かを喋ろうとしたら、泣いてしまいそう。



「ごめん、美優ちゃん。僕、会社に戻らないといけないから……」



お兄ちゃんは立ち上がってわたしの横を通り過ぎようとして、瞬時に手首を掴んでお兄ちゃんを引き止めた。



「……行かないで……行っちゃだめ」



わたしに何ができるかわからない。けれど、これだけはわかる。


今、この人を行かせちゃいけない……!







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