記念日

増田朋美

記念日

その日はどこかの地方で大きな地震があって今年で一年とか、そんな記念日的な日だそうで、テレビでは、どこのチャンネルでも地震のことばかりやっていた。そういうことは仕方ないことかもしれないが、いずれにしても、楽しいことをするとか、盛り上がったことをするというのは少々憚れる日でもある。

その日、製鉄所では、いつもと変わらず、水穂さんにご飯を食べさせようと、格闘していた。水穂さんがどうしてもご飯を食べてくれないので、杉ちゃんもブッチャーも本当に呆れてしまって、

「ほんまにどうしたらいいんかな。いくら食べてもこんなふうに吐き出されたら、畳の張り替え代が、いくらあっても足りないわ。」

杉ちゃんは語勢を強くして、水穂さんに言った。本人にどれだけ通じているかは不明だが、水穂さんは食べ物を口にしても咳き込んで吐き出してしまいうのだ。それと同時に、赤い液体が口元から漏れてくる。それのせいで畳は汚れてしまうし、杉ちゃんの言う通り、畳を張り替えるのは大変手間がかかる。

「あーあ、どうしたらいいもんかねえ。なんとか栄養を取ってもらいたいと思うけど、これでは無理かなあ。」

「でも杉ちゃん。人間は動物だから、なにか食べないと生きていかれないって言ったのは、杉ちゃんだろ。」

杉ちゃんとブッチャーがそう言い合っていると、

「こんにちは。右城先生いらっしゃいますか。あの、できたらレッスンしていただきたいとおもいまして。よろしくお願いします。」

という声が、玄関先で聞こえてきた。

「あ、浩二くんだ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「またレッスンの希望者を連れてきたんでしょうか。俺、今とてもそれどころじゃないって断ってくる。」

ブッチャーがそう言って立ち上がったが、

「まあまあこういうときは、浩二くんにやらせろやらせろ。そうすれば、水穂さんもご飯を食べるきっかけができてくれるかもしれない。」

杉ちゃんはそういうのであった。ブッチャーはなるほどと思って、汚れたところに、ビニールの風呂敷を敷いて、ブッチャーはそれを隠した。杉ちゃんがはいどうぞとでかい声でいうと、よろしくお願いしますと言って、桂浩二くんが、一人の女性と一緒に入ってきた。

「こちらは、雨宮信子さん。今現在、学校に行ってなくて、精神疾患で休養しています。僕の教室に、先日から精神疾患の回復を図るために来ているのですが、あいにく僕のところには、そのための楽譜がありませんので、右城先生ならなにか知っているのではないかと思って連れてきました。どうぞよろしくお願いします。」

浩二くんはそう説明した。

「そうなんですか。それではレッスンする曲もまだ決めてないのか。」

と杉ちゃんが言うと、

「どういう経緯で、体調を崩されたのか、教えてもらえますか?」

水穂さんが、細い声で口元を拭きながら言った。

「はい。どうも学校と相性が悪かったようでして、本当に困りますよね。そんな子がどんどん増えていて。学校って、何を教えているか、疑問を持ちたくなりますよ。ほら、この間能登で地震がありましたねえ。もう一年以上経っていますが、それが彼女にはいつも同じ日になっているようです。」

浩二くんがそう言うと、

「そうか。能登で被災でもしたのか?」

杉ちゃんがでかい声でそう言うと、

「いや、それはありません。彼女は生まれも育ちも静岡です。能登に親戚や友人がいるとか、そういうわけでもないのです。」

浩二くんはそう答えた。

「そうなんだねえ。直接的に被害を受けたわけではないのなら、どうして精神疾患にかかったのだろ?それでは本人が相当感じすぎるほど感じやすいということかな?」

杉ちゃんが言うと、

「いや、今の時代は本人の感じやすさばかりの問題ではありません。どこへ行っても地震の報道ばかりだし、ましてや生きたくても生きられなかった人の美談ばかりが報道されていますから、つらい思いになってしまうのも仕方ないと言えます。」

水穂さんが静かに言った。

「そうだけどテレビや新聞は必要なものだし、それを怖がって精神疾患を発症してしまうということは。」

杉ちゃんがいいかけると、

「でもなってしまったものは受け入れるしかありません。事実彼女は連日の地震の報道で精神がおかしくなってしまったのですから、それに善悪つけることはやめましょう。じゃあですね、雨宮信子さんといいましたね。今日からレッスンを始めるわけですが、何をやるかを決めなければなりません。今日は、楽譜をお貸ししますから、次は楽譜を持ってきてくださいね。信子さんは楽譜は読めますか?」

水穂さんは優しく雨宮信子さんに聞いた。

「はい、子供の頃ピアノを習っていましたので多少は読めます。」

信子さんは答えると、

「そういうことなら、モンポウの歌と踊りとかいかがでしょう。あの曲であれば、あまり派手なパッセージはないですし、そんな難しくなく弾けると思います。」

水穂さんはそう言って、楽譜を一冊本箱から取り出した。かなり分厚い楽譜であったが、2ページから、3ページくらいの小さな曲がたくさん入っている。演奏会で聞かせるための曲ではないらしく、派手なカデンツァや、超絶技巧などは一切なかった。

「じゃあ、この歌と踊りをやってみましょうね。初見で弾くことはできますか?間違ってもいいですから、まずは弾いてみてください。」

水穂さんは信子さんをピアノの前へ座らせた。

「それでは、冒頭部分から弾いてみましょうか。技巧的な作品ではありませんが、和声の響きを大事に弾くのがコツです。ではどうぞ。」

水穂さんに言われて、信子さんはピアノを弾き始めた。一つ一つの音が美しく、きちんと弾くととてもきれいな曲であった。すると信子さんは、涙をこぼして、泣き始めてしまった。

「どうして泣くんだよ。なにか理由があるのかい?」

杉ちゃんに言われるが、信子さんはごめんなさいごめんなさいと言いながら泣いてしまう。

「先程の、地震の話と、なにか関連があるのでしょうか?なにか、いけないことでもあったのですか?」

水穂さんが優しく言うと、

「そういうことならすぐに誰かに話しちまえよ。大体のやつは、辛いことを言えないで、そのまま頭の中にしまい込んでいるからおかしくなるんだよ。そういうことは、さっさと話をしてさ。頭を空っぽにしてしまうのが大事なんだ。そうでなければ新しいものは入らない。」

と、杉ちゃんが言った。

「先ほど浩二くんが言っていた通り、学校でなにかトラブルがあったんですか?」

水穂さんがまた聞くと、

「トラブルがあったとかそういうわけではないんですけど、なんとなく学校が辛くて、第一志望校にも受からなかったし。学校では、普通の生徒で、一応成績は中の下くらいで、うんと偉いわけでもないし、変に勉強ができなかったわけでもないです。でも、なにか辛くて仕方なかった。」

と、雨宮信子さんは言った。

「はあ、そういう平凡な人生だったのなら、何もなかったはずなんだけど、地震の報道で、学校にいけなくなるほど辛かったの?」

杉ちゃんがそう言うと、

「そうなんです。あたし、だめな人間ですよね。なんだか能登の地震の報道を知ったとき、辛くて仕方なかった。何で私は、こんなにだめなんだろう。」

雨宮信子さんは、それ以上のことは語りたくないようであった。水穂さんがもう一度弾いてというと、雨宮信子さんは、一生懸命歌と踊りに取り組んでいた。でも時々、曲の美しさのせいなのか、涙を流してしまうことがあった。

「じゃあ、今日は、ここまでにしましょう。次回は、楽譜を購入するか、コピーするなりしてきてください。それではよろしくお願いします。」

水穂さんがそう言うと、

「はいわかりました。楽器屋さんで買ってきます。」

と、信子さんは答えた。

「それから、僕からもお願いなんだけど。」

と、杉ちゃんが言う。

「可能であれば、カウンセリングとか連れて行ってもらってさ。お前さんの抱えているつらい思いを吐き出して、頭を空っぽにしちまえ。もう一回言うが、古いものを出さなければ新しいものは入らない。もし、適宜なカウンセラーが見つからなかったら

こっちで紹介することもできるし、セラピストを紹介することもできるよ。」

「そうですか。わかりました。でも私、そんなことをしてもらう資格ありません。だって、私は、大した身分ではありませんから。」

信子さんがそう言い返すと、

「涼さんのカウンセリングは、やすいそうですよ。確か、一回5000円だったよねえ。」

とブッチャーが言った。

「ほら、そうやって助けてくれる人がいるじゃないか。本気で楽になりたいと思えば、いくらでも材料は転がっているんだ。」

杉ちゃんがそういった。信子さんは、そうですねと小さい声でいうだけであった。

「また、2週間後にお稽古に来てください。ここにいるときは、辛かった過去のことも気にしないでピアノを弾いてくれると嬉しいな。」

水穂さんがそう言うとやっと信子さんは、ハイと言ってくれたのであった。杉ちゃんたちはちょっと安心して、信子さんと浩二くんを製鉄所の玄関口まで送り出した。

その次の日。杉ちゃんたちがまたいつもと変わらず、掃除したり、ご飯を食べさせたりしていると、製鉄所の近くの道路で、消防自動車が走っていく音が聞こえた。

「あれれ、火事かなあ?」

と、杉ちゃんが言うと、

「そのようだねえ。」

とブッチャーも言った。消防車はどんどん近づいてくる。ブッチャーが心配になって外へ出てみると、少し離れたところに赤い塊のようなものが見えた。消防車たちは、そこへ向かっているようなのだ。幸い製鉄所からは離れているので延焼の可能性はないが、でも消防自動車が5台も出て、かなりの火事であることがわかった。一時間くらいして、赤い塊はなくなったので、まず鎮火したと思われた。ブッチャーが建物の中へ戻ると、

「火事はどうですか?」

と水穂さんが布団から起きてそう聞いた。

「ええ、まあ無事に鎮火したようですが、大きな火事だったようですね。何でも消防自動車が5台出てました。そのうち、なにか噂話が回ってくるはずです。」

ブッチャーはできるだけ水穂さんに負担をかけないようにそういったのであるが、水穂さんは心配そうだった。何故かというと、製鉄所を利用している女性が、火事で燃えてしまったのは、友人の家かもしれないと騒ぎ出したからだ。

「友人って誰のことですか?」

と、水穂さんが言うと、

「赤木愛子。」

彼女はそういうのだった。

「赤木愛子。それは、誰ですか?」

水穂さんがそう言うと、

「学校で同級生だったんです。」

とその女性は言った。

「どこの学校で?」

水穂さんがそう言うと彼女は答えない。水穂さんは、そのような女性は実在しないのではないかといったが、女性はいると信じ切っているようであった。精神疾患の症状として、妄想というものがあり、事実にないことを口走ることがある。だけど、杉ちゃんたちはそれを嘘とか、作り話と定義してしまうことはなく、その裏には真実が隠されていると、思っている。

「そうですか。あなたは、一人ぼっちで寂しかったんですね。本当は、同級生で心配してくれる人がいてほしいと思っていたのでしょう?」

水穂さんはそうできるだけ叱らずに、彼女に言った。彼女は、水穂さんにそう言われて小さな声でハイと答えた。

「それは悪いことではありません。だから、これからは、実際にこの世に存在する人を心配してあげてください。そうだな、具体的には誰にするのかは、あなたに任せます。」

「そうですね。水穂さん。水穂さんはとても優しいですね。そうやって、怒らないで私の気持ちをわかってくれるのだから。あたしは、そうするしかありませんでした。どうしても、心配してくれる友達が欲しかったんです。もちろん、人を騙すとかそういうことはいけないことはわかってますが、でもそうしなければ私は、本当に寂しくて、その寂しさを忘れられなかった。」

女性がそういうのであれば、そのとおりなのだろう。それが、彼女に課されている事実であり、また症状なのだ。それは、やはり彼女が変わろうとする意思が何より大事である。

「そうなんですね。そういうことなら、また新しい人間関係もきっと作れますよ。それをどんどんやっていけば、寂しさも忘れることはできるはずです。だからそれに向かって頑張ってください。」

と、水穂さんがそう励ますと、利用者の女性は、ハイと小さな声で言って、自分の部屋に戻っていった。

それから二三日経って、火事のニュースがテレビで流れるようになった。火事の被害にあった家の名前も知らされる。確かに赤木という女性ではなかったが、火事にあった家は、坂本という家だったらしい。幸い住んでいた人は、すぐに外へ出てしまったので、誰も死者は出なかったようであるが、二階の窓から裕美という女性が飛び降り、彼女は下半身不随になってしまったという噂がたった。噂が噂なので、それが真実かはわからないが、裕美という女性が、家の人達と不仲であったとか、ご両親がうまく行っていないとか、そんな噂が蔓延った。

更に時間がたつと、火事のことは、もうテレビで報道されなくなった。そうなると、もう事件のことは忘れ去られてしまうのだろう。だけど、それだけではなく当事者にとっては、何時までも忘れられないものになってしまうのだと思われる。

それから、水穂さんのもとに、雨宮信子さんがやってきた。しっかり楽譜も持ってきてくれている。なんでもインターネットで取り寄せることができたらしい。昔だったら東京まで買いに行ったと水穂さんが言ったのであるが、そんなことをしなくてもいい時代になったということである。

「それではレッスン始めましょうか。じゃあまた歌と踊りを弾いてみてくださいますか?」

と水穂さんがいうと、ハイと言って、雨宮信子さんはピアノの前に座った。そして、モンポウの歌と踊りを弾き始めた。一生懸命練習してくれていて、音の間違いもなく、上手である。

「ええ、なかなかいい感じの演奏になってますね。あとはそうですね。音は取れてますから強弱はつけましょうね。もう少しピアノで歌うところを、小さくしてみてくれれば。」

と水穂さんがそう言うと、雨宮信子さんはもう一度弾くまえに、

「先生、この間の火事は、すごく大変だったんですってね。」

と、呟いた。

「ああ、あの、テレビでも話題になっていた火事ですか?」

水穂さんがそう言うと、

「ええ。私はテレビは処分してしまいました。もう、地震の話ばかりで、辛くて仕方ないので、家族が処分してくれたんです。それで良かったのかな。そうなれば、もっと私も安定することができると思うから。」

と、雨宮信子さんは言った。結局彼女はそれをいいたかっただけだろう。

「そうなんですね。テレビは確かに一方的に情報を出すだけで、何も意味もないですからね。あの火事のニュースも、あなたはなにか感じたのですか?」

水穂さんは、そう彼女に言った。

「ええ。ほんと可哀想だなと思って。私も、あの家族と似たようなところがあるから、なんとなくわかるんですよ。あの家族、きっと、裕美さんが働かないので、困っていたんでしょ。それで、親御さんが家に火をつけて、歩けなくさせたんじゃないかなあ。どっちもどっちだと思うんですけど、私も、なにかあの人達に力を貸してあげられたらなって思いました。」

雨宮信子さんの話は、筋が通っていないように見えるが、それだけではないということも、水穂さんは知っていた。

「そうなんですね。なんでもご自分と関係があるように考えてしまわれるんですね。でもそれを僕は悪いとはいいません。あなたは、普通の人が感じないようなことまで感じてしまうんでしょう。ですが、僕とあなたには決定的に違うことがあるんです。それはね。僕は銘仙の着物しか着られない身分ですが、あなたはそうではないというところです。」

水穂さんは、そう彼女に言った。

「ということはどう違うのでしょうか?」

と、雨宮信子さんがそう言うと、

「きっとあなたは、これからもすごい災害や事件に遭遇するんでしょうけど、それに振り回されている精神障害者の方々の気持ちがわかると言うこともあるんです。そうすることが、できる身分であるということも、忘れてはいけない。僕みたいな、新平民とは違うんだってことです。そうして実際に行動を起こせるってことですよ。」

と、水穂さんは、そういったのであった。

「そうなんですね。水穂さんは、そういう身分であったなんて、全く知りませんでした。そういう人は、もっと、高い地位にあるべきであるはずなのに、何で私より、低い立場でいなければならないのでしょうか?」

雨宮信子さんはそこがわからないという顔をしていった。

「だって、偉い人って自分のことばっかりでしょ。ずっと偉い人は、自分のことばっかり考えてるでしょ。病院の先生とかそういう人見ればわかりますよ。そうやって、人を人だと思ってくれる人が何で立場が低くて、偉くてすごい業績残している人は、自分のことばっかり考える。不思議ですね。世の中って。」

「そうですね。」

水穂さんは小さい声で言った。

「こないだ、火事があったとき、火事のことを自分のことだと思ってしまう精神障害者の方がいました。とても、すごく切ない話でしたけど、心に障害のある人って、とても優しいんですね。だからそれを何処かで使うことができたら、日本ももう少し優しい国家になってくれるのではないかなあ。」

「でもあたしは働けないし、社会的には何も役に立ちません。だから、社会から外れていないとだめなんですよ。だからもう生きていても価値もないのかな。」

雨宮信子さんがそう言うと、

「そう見えるのかもしれませんが、きっと生かされているんだと思います。そのために生きていると思えば、また変わってくるのではないでしょうか。きっと人間自らの意思で生まれてきたわけではないのですから、自分の意思で生きているというわけではないのかもしれません。」

水穂さんはそう静かに言ったのであった。それは、きっとすべての障害のある人に伝えておきたい言葉なのかなと、信子さんは思った。

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