第29話
ひとまず部屋へと戻り、花束を花瓶に差し、水をそそぐ。
いい香りでいい色だった。白や青はお見舞いには相応しくないと聞くが、彼もそれを知っていたらしく黄色や桃色、赤を使っていてくれた。その中でもひときわカーネーションの黄色が輝き、彼の笑顔にも見えた。だが、彼の笑顔はどちらかというと。
「—————光であるのは間違いないのですけど、それ以上に黒を感じますよね」
それも深宇宙の底知れぬ果てを感じさせる。一度空へ落ちてしまったら、もはや自力では帰れない、遥か彼方の深淵だった。ミトリと共にしばらく花を眺ていると。
「そうです、サイナさん。明日の天気を。あれ、違いましたか?」
「確か、明日は晴れますか、と言われたのでしたね」
スマホを取り出して、『明日 晴れ』と入力するが、明日は雨という予報しか現れない。春の入り口なのだ、天気のいい日もあるが、雨の日も徐々に増える今日この頃。マラソン大会の日は冴え渡る晴れではあったが、季節風や湿度、気温、気圧の関係でどうしたって雨が降る事だろう。だが、それよりも気に成る事があった。
「お金。結構入ってますね」
シズク曰く彼は財力がないと聞いたが、あの日から二日間で仕事を受けて、ここまで用意するのは難しい。きっとオーダーに来る上で、それなりに持ってはいたのだろう。1年の頃の彼ではお金を稼ぐはおろか、使う事すらなかなか無かったとわかる。
「武器が欲しいんでしたね。かなりありますが、どれくらいの品が買えますか?」
「—————既製品の拳銃なら3丁程。もし、彼の手に合うように仕立て直すなら、私から聞き取りをするので、少し時間は掛かりますが、私と契約をしている技術者の手に掛かれば至高の1丁に変えられます。或いは、高品質のナイフ。ククリナイフでしょうか。どちらが望みかは分かりませんが、彼は銃を欲して見えました」
「銃ですか。確かに、もう揃えている方も多いですね」
「—————ただ、彼はまだ銃での訓練はしていな、いえ、苦手と聞きます」
あの教室で1年も閉じ込めれていたのだ。訓練という言葉は知っていても、実際に銃を握る訓練は数える程しかしていまい—————いや、おかしい。
「どうして、彼は免許を————」
彼がオーダーに入学してから数日経ってあの力を放ち始めたと聞いたが、どうして車の運転など出来る。それどころかシズクのパソコンの知識だって、どうして彼が知っている。彼は、ずっと正気を失っていた筈なのに。誰から学んだ、どう教えた。
「サイナさん?どうしました?」
「今晩も泊まって行かれますか?」
「あ、はい。お世話になりますね」
ミトリとの二日間のお泊り会が終わった朝。私達はバスに乗って校舎に向かい、それぞれの教室を目指した。彼女への埋め合わせは出来ていないが、ミトリは「この2日間、とても楽しかったです。ありがとうございました」と、手の掛かる私に言ってくれた。どこまでも肯定してくれる彼女には申し訳ないが、今はそれ以上にしなけばならない事がある。シズクに聞かなければならない疑問が浮かんだ。
ホームルーム前、シズクの教室に向かい、連れ出し、図書館の談話室に入る。
「どうしたの?もう、大丈夫なの?ヒジリなら大丈夫、気にしてないって。その、失恋の苦しみって、あんまり詳しくないけど、サイナなら絶対に射止められるから」
シズクは心配そうに口にしてくれた。彼という存在を共有した私に、心の底から身を案じる言葉を送ってくれる。彼なら心配ないと、繰り返し知らせてくれる。
「だから、今度ね。ヒジリも交えて食事とか、」
「シズクさん。お誘いありがとうございます。だけど、私には聞かないといけない事があります」
なんだ?急に、と言った感じにシズクが首を捻る。
「シズクさん。彼が正気に戻る前、あのクリスマス前の訓練で彼を運転手として雇ったと」
「や、雇った、っていうか————みんなに見せたくて————」
「それはいいんです。シズクさんの精神には感服しています。だけど————どうして彼が車の免許を持っているんですか。なぜ、シズクさんは、あの彼に頼んだのですか」
「え、だって——————」
そうだ。クリスマス前の訓練時。彼は正気を失い、あの力も放出していた。到底、人に車の運転を習える状況じゃなかった筈だ。なのに、彼女はそれを間近で見て来た筈なのに、あの彼に運転手をさせた。それどころか機材の荷下ろしすらさせた。
「だ、だって、それはヒジリが免許を、」
「何故、彼が免許を持っていられるのですか」
「そ、それ、それはさ、前に車の免許を取ったら、どこかへ、」
「それはいつですか。オーダー入学時ですか。シズクさん、彼には内緒でオーダー来たと言っていた筈です。いつ、彼と免許の話題を出来たのです。私達が話題にしたのだって夏休みの集中講座の時だった筈です」
シズクの顔がみるみる青ざめていく。彼女も気付かなかったのだ、彼がどうして、外で何時間も掛けて教習を受けなければいけない免許を保持しているのかを。彼女自身が言っていた、私も余波を受けて狂っていたと。だから、彼を人に見せたかったと。
「そしてもうひとつ、聞きたい事があります——————どうして、彼があなたの専門知識、パソコンの技術を持っていると知っているのです。シズクさんは、勉強を————シズクさん?」
あのシズクが、自身の肩を抱いてしまった。言い過ぎたと後悔し、私もミトリと同じように抱きしめる。私の体温を分け与え、しばらく時を過ごす。そして、予鈴が鳴った所でシズクが「あ、」と正気に戻る。そして、一旦は離れる。
「もう時間がありません。シズクさん、あなたを保健室に」
「い、いいや。大丈夫。落ち着いたから—————それに、少し考えたい」
シズクは視線を合わず、独り言のように囁いた。
彼女と別れ、私も急ぎ教室に向かう。遅刻寸前であったが、なんとか間に合い一安心。既に担任の先生は復帰しており「サイナさんが遅刻寸前は珍しいですね」と目を丸くして驚いた。2日前とは言え、あの惨状を知っている先生だが、流石に失恋で遅刻など許せないと私でもわかる。自分の席でそのまま授業を受け、昼休みに入った時、シズクが私の元へと訪れた。
「ごめんなさい、私行かないといけなくて」
私の体調を思ってくれた3人に謝る。
「いいよ。それにシズクって事は彼関係でしょう。だけど、何かあったら話してね」
と、言われる。未だ以ってあの時の事は許せないが、それでも3人は私の為にあの陣形を作ってくれたのだ。彼女達にも事の顛末を知る権利ぐらいはある。だから私も「必ずお話します」、と返す。急ぎシズクと再度図書館の談話室へと入る。
「サイナ、私も自分がおかしかったって気付いた。確かに、私もあの力に呑まれていたけど、だけど、あの時のヒジリに運転手を任せたのはおかしい。しかも、アイツがなんで免許を持ってる事にも違和感を持って無かったのかも、考えなかった」
「それは、あの力の所為ですか」
「わからないけど、多分そうだと思う—————今、ヒジリは午前は中等部で、あと寮と病院を往復してる。実験とかテストとか、外で問題なく暮らせるかの訓練もしてる————だけど、ヒジリは気付いてない。あれも授業の一環だと思って受けてる」
「彼だけの世界ですね」
彼には彼の世界があり、そのすり合わせには時間が掛かる。
今、彼は自分と自分を取り巻く現実を理解しようとしている。病院に行っているとはいえ、それを中等部での授業だと思い込ませているのだろう。クラスが決まるまでの軽い勉強だと教えて。
「ヒジリさんの体調は?」
「すこぶる元気。しっかり話せるし、しっかり食べる。自力で家事もするし、もう私が何か命令しなくても大丈夫—————なんで、家事なんて知ってるの。だって、」
「誰かに教えられたから、ですね。シズクさんが?」
「………色々させたけど、それだって正気に戻る前。それから、何を言った記憶もない」
なら、彼は自力で生活をしていたと記憶している。身体が覚えているから、家事が出来るのだろう。そう、彼に信じ込ませて家事の手ほどきを与えた誰かがいる。
「——————ヒジリさんに直接聞けませんか」
「それはやめた方がいいと思う。今の生活を崩したくない」
「………そうですね。すみません」
例え彼の世界と現実の世界とに矛盾が生じても訂正しない。それがシズクからのお願いだった筈だ。だけど、このまま放置してもいいのだろうか。
「いつ頃、彼はクラスが決まる予定ですか」
「実験とかテストの結果にもよるだろうけど、それでも近々って言われた。多分、来週には配置される。—————サイナ、もしアイツが勝手に外に出ていて、誰か知らない人と会っていたなら、どうしてあの力による被害者を聞かないの。だって」
「私にもわかりません。もし、あの力が効かない人が居たとしても、免許なんて個人で取れるものではありません。それに、もし夏期講習を使ったのなら私と何処かで—————」
あの丸刈り。あいつは、何かに怯えていた。外に立っていたと呟いた筈だ。
「—————いえ、無理に探るのはやめておきましょう」
今、彼は自分と現実への折り合いを付けようとしている。無理につまびらかにしても、それは彼の為にならない。これ以上は、ただ私の興味本位になってしまう。
明らかにすべきじゃない。今はただ彼を見守るだけに留めるべきだ。
「来週、彼が来るのでしょう。なら、私達は—————」
そこに扉が叩かれる。
「あれ、もう時間?でも、まだ入ったばかりだし」
シズクが応対しようと扉へと向かう。だけど、違和感を覚えた。
「待って下さい」
彼女の肩に手を置き、振り向かせる。
「ど、どうしたの?」
「私達、誰かにここへ行くと、話しましたか」
「話してはいないけど、係りの人が」
「例え図書館の係員だとしても、ここは秘密の話をする談話室。オーダーの生徒である私達が使っているのに、無為に扉を叩く必要がありますか」
「え、でも」
「はい、もし外でテロでも起こっているのなら話は別です。だけど、未だに緊急ボタンが押されている様子も、私達の安否を確認する連絡も来ていません。彼のパートナーである私やシズクさんにも—————」
そうだ。私達は彼のパートナーであり、もし私達が消えてしまえば、取り返しのつかない事態に陥るかもしれない。もう一度、彼が正気を失い、あの力を放出し始めたら、誰にも止められない。彼の世界から私達が消えてしまうから。
「どなたですか」
私は扉を叩く主に声を掛ける。手元にナイフとボタンを呼び出して。
「私達が使用し始めて、まだ短時間も経っていません。このまま使いたいのですが」
シズクを下がらせ、扉の前へと踏み出す。だけど、返事は来ない。
「—————探り合いはやめましょう。あなたは、私達に用があって来た。違いますか?」
「————いい判断です。扉を開けなかった事を褒めましょう」
女性の声だ。それも声だけで想像を絶する美女だとわかる美声だ。
「あなた達には彼の世話をする役割がある。その為なら私達も力を貸す事をいとう筈はありません。だけど、だからと言って全てを知らせるつもりはありません」
「全て………」
「もし、彼の力が再度人の害になった場合、私は彼を始末しなければならない————」
息を吐くようだった。ただの事実だと告げている。
「彼が無害に見えているのは、人間にとっての害が消えた様に見えているだけ。あの力は今も流れています。微弱ですが、今も人を狂わせている。徐々に徐々に、確実に人を深淵に引き込んでいる。理解していますか、あなた達も例外ではありません」
「それは、彼の顔………」
「あれは副次的なもの。人類が想像し得る最高峰の肉体を作り上げていますが、それだけであれほど人を惹きつける事はありません。魅了の力により、当人達が望む美しい姿に見えているに過ぎない。彼の力に完全に呑まれてしまえば、目鼻立ちだけでなく性別も種族さえも変わって見える。理解しておきなさい、あれは夢越しの姿でしかない」
彼女が何を言っているのか分からない。だけど、夢越しという意味は分かった。
「—————彼の真の姿は、別にある」
「これ以上、あなた達に伝える気はありません。その時が来れば、彼自身から聞かされるでしょう。けれど、忘れない様に。彼は未だ以って人を心の底から憎み、激情に囚われている。そして、あなた達は引き返せない場所にいる。彼を見張り、欲望を教え続けなさい。真に彼が人から離れたのなら、あなたの願いは叶うでしょう」
足音を立て、その人は消えてしまった。扉を開ける気すら起きない、圧倒的な威圧感を感じた。同じ人間とは思えない。姿形を見ずとも、私では太刀打ちできないとわかった。
「サイナ、今の声」
「………私達は、引き返せない場所にいる」
真に彼が人から離れたら、それは彼は人間ではないと告げている。そして、願いが叶う、とは私の復讐が知られているという事。私の出自を知っている人間は限られている。あるとすれば、名前を奪ったオーダー本部、オーダー省、オーダー校、査問科、法務科————或いは。
「尋問官、ですね………だけど」
彼女の立場を私は学んだ。捜査科査問学科、それも『公』の所属で、研修としてオーダー大学部から査問科尋問官として働いている。今の私では、どうあっても出会えないエリートのエリート。もし、再会を望むのなら同じ立場か。または。
「確か、司法取引でしたね」
それは犯罪者に対して減刑を条件に、自身の犯罪組織の居所や手引きをする事を望む交渉。その時がくれば、出会える事を示唆している。そして、どうやら私は、犯罪組織の構成員として見られているようだった。あの家の人間としてまだ見られている。
「—————復讐、そう遠くない内に果たせそうです。彼を人間から離れさせれば」
「サイナ、どうしたの。独り言なんて」
「いいえ、しばらくはここにいましょう。そして、イサラさん達もお呼びしませんか」
まだ彼女が見張っているかもしれない。いや、きっと彼女達は常に私を見張っている。いつどこで、どんな仕事をしていようが見張っている。あの寮であっても。
「だけど、お生憎様です。私には経験があります—————あなた達では私を捉えられない」
翌週の朝だった。そこにあの人がいた。
「えーでは、今日からこのクラスに配属されます、ヒジリ君です」
もう数度目なのだ。あの凄みと言える容貌には慣れが生まれるかと思ったが、どうやらそうではないらしい。今も光を纏うが如き身体と顔を持ち合わせている彼には、私はすぐに堕落してしまいそうになる。本当なら私が、その役目を担う筈だったのに、何度見ても彼の顔は素敵で愛らしくて神々しくて、憎らしく感じるほど私の好みだった。だけど、彼は気まずそうに目を逸らし、そのダメさ加減を遺憾なく発揮している。もう我々もオーダーに来て2年目だ。今更、どれだけの容姿を湛えていようが悲鳴も歓声も悪態も上げる事はない。そんな事をしている暇もないから—————。
「え、えっと、ヒジリ、っち………」
「っち?」
いの一番に走り寄ったというのに、髪を染めた気だるげな友人は視線を受けただけで、意識の中に入れられただけで言葉を失ってしまった。目を焼かれてしまった。
「えーと、私、そう呼びたいんだー………い、いいかな?」
「ヒジリっち?ああ、いいよ。友達みたいだ」
きっと彼は無自覚だ。そんな無自覚な言葉と無自覚な笑みが何よりも彼女の脳を焼いたらしかった。一歩下がり、その衝撃に耐えている。だけど、彼はそんな彼女の対応の意味が解らず、「そ、その?」と何かしてしまったのだと、恐れている。
「気にしない気にしない。こういう子だから。私の名前、憶えてくれてる?」
「イサラ、であってるか?」
「そ、正解。改めてよろしくね。私は、見た通り白兵戦が得意なの。女子だからって思ったら、肋骨にヒビ入れちゃうからね」
「いいや、よくわかるよ。その肩に腕と足の筋肉。相当に鍛え上げている。ボクシング、いや、その腕の筋は長物、それも刀だけじゃない。槍か薙刀を使っていたのか?」
「え、どうして………」
意外な事実が判明した。イサラは薙刀を嗜んでいたようだった。どうりで、あの制服の折りたたみ方は道着や袴を扱って来たから出来る技術と習慣であったようだ。それを言い当てられたイサラは「あ、あははは。私はあんな繊細な事出来ないよう」と慣れない嘘をしている。彼女の申し訳なさそうな顔を見て、ヒジリは、
「わ、悪い。聞かなかった事にしてくれ。本当に悪かった………」
と頭を下げる。彼は知らなかったのも無理はない。彼はついさっきこの教室に訪れた。そしてイサラも、今までその話を私達にして来なかったのだから。オーダーに来てしまった子には、人には言えない理由がある。それも一人余す事なく全てである。過去を言い当ててしまい、心の底から謝罪した。だから、私達も流す事にした。
「そうです。ヒジリさん」
優美な友人が両手を叩いて声を上げる。
「もし、昼食時にお時間があれば、ご一緒してもいいでしょうか?」
睨みつけるでは足りない。私に人並を大きく超える高潔な友愛がなければ、ナイフを取り出していたかもしれない。だけど、優美な友人はそんな視線に気づかずに、笑顔で彼を待っている。断る筈がない、彼は断れないとわかっての狼藉だった。
「あ、いや、昼は」
「何か不都合が?」
「ひとりで取ってくれと、シズクから………」
「では、私はただあなたの隣にいるだけに留めますね」
有無も言わさぬ、私ルールで彼女は彼の隣を予約した。あの上から目線のチーム選択をした甲斐はある。彼女は、チームとの食事ではなく彼との時間を選択したという事だ。常にチームで昼食を取らねばならない理由などないが、それでも成立したばかりで他の男子生徒を誘う事などするだろうか。それも、私と彼との関係だって知っている筈なのに————。
「大丈夫です………」
と、私に頭だけで振り返り口にした。
「放っておいたら狙われますよ………」
私は、彼女を人面獣心だと信じていた。友の想い人を奪う、悪女なのだと信じてしまった。だけど、彼女は真に友を想う女性だった。今度何か割引しようと心に誓う。
「いいね。じゃあ、折角だから—————」
「ねぇ、少しいいかな」
イサラが振り返り、その男子生徒に無言で視線を向ける。その人はイサラの同郷であり、男子生徒側のエースと目される少年。学力、運動能力、射撃、白兵能力、そして性格と容姿まで持ち合わせた秀才。入学当初から今までも、その力が高く評価され、既に襲撃科からのスカウトが来ていると言われた————オーダー内で最も頭が飛んでいる科であり、逆説的に言えば飛んでいないと成り立たないと言われる科に選ばれた存在。
「なに?今話してるんだけど?」
「君じゃないよ。僕は、その彼に用があるんだ」
隠しきれない敵意だった。見た試しもない視線に、私達全員が身構える。本来の秀才であれば、礼儀正しく謙虚な姿勢で、ヒジリを出迎えて歓迎するだろうに。
「俺か?」
「そう。君だ。僕の事は覚えているかい?」
「………わるい、覚えてないんだ………」
「—————仕方ないよね。一回しか、それも話してもいなかったんだから」
記憶にない事に怒っているのか。それとも、あの映像で彼に敗北した事に憤りを覚えているのか。どちらにせよ、今の秀才は彼らしからぬ雰囲気を纏っていた。
「これから少し付き合ってくれるかな?」
「今から授業が始まるじゃん。中抜けして怒られたいならひとりですれば」
「そう言わないで欲しいな。別に授業を受けさせたくない訳じゃないんだ。だけど————」
イサラと一触即発だった。彼女はこの秀才を目の敵にしていた訳じゃない。必要があれば気楽に話し合い、笑顔だって浮かべる関係だった筈だ。だけど、今も秀才は彼への敵意を剥き出しにし、一歩も退かない様子なのが見て取れる。オーダーである以上、仕事や依頼で衝突するのは必然。それも訓練での勝敗など日常であった。男子生徒には、あの組手だってあるのだから、昨日勝利した相手に、今日敗北を喫し、明日には合同でチームを組むなど、外の世界でだってある筈だ。なのに。
「————いいや、急な話で驚かせたね。またあとで、」
「放課後なら空いてる。あまり時間は取れないけど」
「そうかい。じゃあ、少しだけ時間を貰おうかな」
そう言って秀才は自身の席に戻り、自身と親しい男子生徒と話し合う。けれど、直接長く視線こそ向けていないが、紛れもなくこのヒジリの様子を伺っているのが、時折向ける視線で分かる。彼への態度を今も崩していない。
「いいよ、放っておいても。無理に付き合う必要ないからね」
イサラが彼への視線を背中で守り、そう告げる。
「いや、オーダーである以上、身内との衝突は避けられない。それに、俺に用があるのなら無視は出来ない。関係の修復も放置も出来る。だけど、まだ何も聞けてないから————まずは話を聞きたい」
「いやーなんとなくわかるじゃん。あれ、連れ出されてボコられるよー」
「オーダーは喧嘩なんてしない。喧嘩を取り締まる法と秩序を作るのがオーダーなんだ————もしそうであったなら、俺にはオーダーとしての役目がある」
少しだけ彼を見直したかもしれない。今までダメな所しか見受けられなかったが、自身への敵愾心を受け止め、オーダーとしての存在意義である秩序維持を口にした。イサラも驚いたらしく、こちらに視線を向け「いいじゃん」と褒めてくれる。
まるで自分の事に様に嬉しかった。嬉しかったが、正直不安だった。
「でも、あの人、かなりの腕ですよ」
「………ああ、分かるよ。良い身のこなしだ」
そこに1時間目の教員が訪れ、第一回目の話し合いは終了した。私達も自分の席に戻り、大人しく授業を受け続ける。教員は口にこそしないが、彼があの教室出身であり、あの力を持っていた事を知っている筈だった。だというのに、彼を特別視する事もなく、一人の生徒として授業を続けた。当てる事こそなかったが、それでも普通の時間を与えてくれた。そして4時間目が終了した時、私達は彼を誰よりも早く連れ出し、彼を待っていた女子生徒の視線を阻害して学食まで向かう。
想像通り、学食に既にいた生徒は彼へ視線を向けてくる。どうやら噂になっていたらしく、それぞれ思い思いの言葉で囁いている。
「ついにオーダーも特別なスカウトを開始した」
「オーダーが隠し続けた生体兵器」
「オーダーの皮を被った隠さねばならない血筋」
などなどの一見すれば根も葉もない、だけどもしや、とも思わせる噂。しかし、彼はそれに気付いていないらしく、私達からの視線に気まずそうに俯いている。
「んでさ、あいつ」
「あいつ、ですか?」
「朝話し掛けてきた男子生徒。あいつと何か因縁でもあったの?なんか、向こうは知ってるみたいだったけど」
注文したエビフライを口にしながらイサラが問い掛ける。だが、彼は知らないと首を振る。あれは彼がまだ力を放ち始める前の段階。正確の程はわからないが、記憶の混濁が強く、正気を失い、世界が見えず、会話も出来なかった前の時間なのだ。彼がわからないと言う以上、本当に彼の現実には無い存在なのだろう。
「ふーん。じゃぁー逆恨みかもねー。前に授業でやってたけど、逆恨みって誰でも持つ感情らしぃーし。あの感じだとーなかなか根が深そうじゃーん」
「そう、かもな。………覚えてると言っておけば、」
「いいえ、それは危険です。お互いの話の整合性が合わなければ、逆上していたかもしれません。ヒジリさんのまずは会話という判断は正しいかと。嘘は危険です」
優美な友人も彼の判断に同意する。
「私もそう思います。彼は1年もオーダーで過ごして来た生徒。それも優等生として選ばれて来た存在です。そんな彼が、あれだけ敵意を露わにしている、気付かれかねない嘘は避けて下さい————放課後、私も一緒に行きますね」
「い、いや、サイナ、それは危険、」
「いいえ、行きます。私には見届ける義務があります」
ひるまず返すと気の弱い彼は、大人しく頷く。
「そうだね。私も一緒に行くよ。何かあった時、私も介入するから。それに、どう考えても罠も罠だよ。タイマンで話し合いなんて空気じゃない。正直、集団でのリンチだってあり得るよ。そんな事して大怪我でもしたら、私だって許せないし」
ヒーロー気質のあるイサラも頷き、断るに断れない状況を作り出す。二人に目配せすると、二人も頷いた。最悪の事態の為に人を呼ぶか、遠くから監視してくれると暗に告げている。そして、私達は別の議題を上げて会話を続けた。
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