第28話

「——————え」

 脱衣所であるここには、洗濯機や乾燥機、体重計などの機器と共に当然洗面台も設置されている。広い白い傷一つない大理石のそれは化粧品をいくらでも乗せられた。

 そして、その上。大きな鏡。姿見と言える程に大きなガラスと銀で作られたそれが私を覗いていた。割られている訳じゃない。汚され、文字が描かれている訳じゃない。そこにいるのは私ただひとり。紛れもない、見慣れた————違う。こんな姿見た事もない。ずっと昔、あの部屋に閉じ込められる前でさえ、こんな姿は見た試しがなかった。

「き、き、傷が—————」

 私の胸に残っていた青黒い手の痕。握りしめ、千切れる寸前にまで達した痛みを今も覚えている。なのに、それが—————消えている。

「————————」

 それだけではない。肩の切り傷も鎖骨の火傷も消えている。

「—————え」

 思わず自分の目で確かめた。あれだけ深かった腿のナイフの痕も。蹴りつけられた肋骨の痕も、腹に残されていた赤いミミズの痕も。全身を蝕んでいた火傷、打撲、切り傷が全て全て。跡形もなく消えていた—————そして。

「手錠が—————」

 手袋を外し見てしまう————手首の痕さえ消えているのを。

「サイナさん!!どうしました!?」

 気付いたら自分は過呼吸で床に倒れ伏していた。床の模様すら見えない程に脳が酸素を求めている。自分は叫んだのだ。それも、今もミトリがドアをあれほど叩き、こちらの名前を叫び続ける程に。今すぐ、声を掛けるべきだ。問題ないと、転んだだけだと言って、彼女を安心させるべきだ。だけど、喉が麻痺して声帯を使えない。

「すみません!!開けますよ!!」

 見るな————そう叫びたかった。だけど、声は出なかった。響きさえ出せなかった。こちらを確認したミトリはすぐさま置いてあったバスタオルを掴み取り、私の肩を包んでくれる。目を合わせ、呼吸の時間を与えてくれる。直後、身体を抱きしめて体温を分け与えてくれる。ミトリの身体が心地よかった。ようやく肺を取り戻せる。しばらく目を閉じ、ミトリの呼吸音に合わせて、自分も大きく深く呼吸を続ける。

「安心して下さい。ここには私しかいませんから」

 いつまでそうしていただろう。少なくとも数十分まで続けていた筈だ。空調の音とミトリの心臓、呼吸、体温に包まれ続けた私は、ミトリの肩越しに自分の手首を見届ける。傷ひとつない白い手首。浮き上がり青い血管しか見当たらない。

「落ち着きましたか。そのまま動かないで下さい」

 脱衣所であるここで人に抱きしめられるとは思わなかった。それも、彼よりも先にミトリになんて。思わず、自分にはほとほと彼との繋がりがないのだと思ってしまう————いや、違う。あのシズクからの紹介の後、自分の傷が薄く埋められていたのを。

「そんな訳ありませんね………」

 誰にも聞こえないように心の中だけで呟き、ミトリの肩を軽く叩く。

「ありがとうございます、ミトリさん。もう大丈夫です」

「良かったぁ」

 自分よりも安堵の声を上げたミトリと離れ、しばし呆然とする。

「どうしました、急に声が、それに倒れる音まで」

 それでもミトリの顔は晴れなかった。本当に、心の底からミトリはこちらを思ってくれている。本当に、彼がいなかったらミトリに堕ちてしまう所だったかもしれない。

「すみません。私にも、分からなくて」

「わかりました。まずは寝室に行きましょう」

「い、いいえ。私はもう」

「認めらません。今のサイナさんをお風呂に入れる訳にはいきません」

 あの狼の鼓動を感じ、ミトリの手に従って起き上がる。落ちるバスタオルを拾おうとするが、その前にミトリが拾い上げ、再度肩を、そして胸の前まで隠してくれる。

「歩けますか?」

「はい、歩けます」

 思わず脛を見るが、そこは既に処置が完了していた。そして、あれだけタイツで隠していた腿やふくらはぎ、足先まで傷は消え去り、あるのは赤みが差した肌だけだった。ミトリの手に従って、廊下、リビングまでを通り、寝室まで足を運ぶ。

「横になって下さい。それから、少し質問があります。話せますか?」

 ベッドに横になり、袂の椅子に座ったミトリに頷く。

「では—————気分はどうですか?」

「大丈夫です。今は落ち着いています」

「良かった。少し失礼しますね」

 これは彼女のルーティンであるらしく脈拍の有無を確認される。彼女は私の脈を取る時は、いつも手首ではなく首元から取っていた。常に手袋を付けている私を気遣っているのだと感じていた。けれど、今の私は手袋を装着しておらず、全身を晒していた。

「少し早いですけど、正常だと言えるかと。寒いですね、今布団を」

「待って、待って下さい」

 足元の掛け布団を手にしたミトリに、そう告げる。

「あ、暑いですか?」

「——————すみません。1分だけでいいです、私に時間を下さい」

 たった1分すら許し難かっただろう。たった数分前まで脱衣所で叫び、倒れていた私を一人にする事など出来ない筈だ。私の想像通りにミトリは申し訳なさそうに首を振る。

「すみません、今あなたを一人にする訳にはいきません。どうか、お願いします」

 決して折れないのが顔で分かった。顔は、今も悲し気に申し訳なさそうな表情を浮かべているが、手に持つ掛け布団を私の胸元まで運び、椅子に腰掛ける。

「叫んで疲れましたね。今は眠って下さい」

 布団の中へと手を入れ、私の手を握ってくれるミトリの心遣いが嬉しかった。

「………はい、先に眠りますね」

 ミトリの言う通り、叫び疲れた身体はすぐに力が抜け、睡魔が襲って来た。



 目が覚めた時、既にミトリはおらずリビングにいるのだろうと考えた。

 だが、まるで確認でもしていたかの様に彼女が寝室へと入ってくる。薄目を開けているだけだった私を見たミトリは再度、椅子に座って笑みを浮かべてくれる。

「………今、何時ですか」

「朝の7時です。だけど、学校に伝えたので、このままお世話させて貰いますね」

「そんな、ミトリさんまで休まなくても」

「診察した者としての役目です。このまま一人にしてしまう訳にはいきません。それに、もうすぐ私の先輩が訪れます。現場で傷の治療や診察、看護をして来た先輩ですから、私よりもずっと頼りになりますよ」

「………では、その方には私からお支払いを」

「今度、あなたのショップから買い物をするから、その時口利きをしてくのなら、と言われています。すみません。勝手に決めてしまって」

「………仕方ありません。ちょっとだけ割引をしちゃいますね」

 ふわりと笑ってくれるミトリに合わせて、私も口元を歪ませる。ベッドの中で手首を確認する。手首の溝が邪魔だが、あれの傷の痕————そこだけ失われた皮膚の再生箇所を感じられない。薄い取っ掛かりのない箇所を覚えない。

「サイナさん。もうひとつ謝らせて下さい。本当にごめんなさい」

 そう言って、ミトリが頭を下げてくる。

「いえ、謝らないといけないのは私の方です。最初は失恋のショックだったのに、急に叫んで倒れて。迷惑かけてばかりで。申し訳ありません—————」

 そう返すが、頭を上げたミトリの顔は晴れなかった。

「いえ、その事は気にしないで下さい。私がサイナさんと話したいから来たんです。だけど、私—————あなたに無断で身体を調べました」

 その言葉に返すものがなかった。

「その、もし頭でも打っていたらと思うと、調べないといけないって」

 ミトリの判断は正しい。私自身は気が付いたら倒れていたが、頭や別の場所を打って内出血でもしていたら取り返しのつかない事になっていたかもしれない。

「い、いえ————嫌な物を見せてしまいましたね」

「嫌だなんて、そんな」

 ミトリが椅子から立ち上がって私を見つめてくる。ミトリは決して悪気などない。本当に心の底から私を心配し、自身の役割を全うしてくれたのだ。恨み言など言える筈がない。

「—————きっと、見苦しかったと思います。だけど、どうかこの事は秘密に」

「はい、勿論です。決して言いません。だけど、近い内に病院で検診を受けて下さい」

「大丈夫です。もう受けて治療を————」

「治療?まだ一晩しか経ってませんよ。記憶の混濁があるようですね」

「え、だから、全身の傷は」

「全身の傷なんて。頭に外傷もなく、肌もなんとも————すごい綺麗でしたよ」

 綺麗?ミトリは何を言っている?

「やはり、記憶の異常があるようですね。必ず検診を」

「————私の肌が綺麗?」

 あれは、あの記憶は夢ではないのか?

「サイナさん、私ずっとサイナさんが手袋やタイツ、夏でも長袖だったので————きっと、見せられない理由があるんだと思ってました。すごい驚きました。ずっとお手入れしていたんですね。確かにそれほどの肌なら焼きたくないのも分かります」

「————ひとつ、お願いがあります」

 突然の言葉にミトリが驚いたのがわかる。だけど、時間がない。ミトリの先輩が訪れるのなら、今において時間は無い。本当ならもう一度鏡で全身を確認したかったが、今の私をひとりにする筈がない。だから、彼女の善意を信じるしかない。

「私の背中、確認して貰えますか?」

「背中、分かりました。強く打ったんですね」

 頷きを確認した後、私は掛け布団を払い抜け、うつ伏せになる。オーダーで来て初めての事だった。あんな刀傷と火傷、医者でもない相手に見せるなんて。

「——————少し触れますね」

 私の了承を求めて来たミトリに無言で返し、背中に触れさせる。ミトリの温かな手を感じながら肺の裏や背骨に触れてくる。時折、「痛くありませんか?」と問わるので、「大丈夫です」と返す。そして、しばし触診をした後、ミトリが椅子に戻る。

「どうでした」

「はい。傷一つなくうっ血の後もありません。正確には分かりませんが、痛みも感じないのなら骨折もないかと」

「傷が————」

「はい?傷なんてどこにも」

「しゃ、写真を」

「さ、流石に写真は取れません!!」

 ミトリの様子に違和感はなかった。だけど、いくらあり得ない程の再生力を持っていたとしても、刀傷とその上からの火傷まで消え去るだろうか。

「ミトリさん、本当に傷は————」

 全て言い終える寸前だった。備え付けの受話器から呼び出しの音がした。



 彼女の先輩が訪れ、私の診察を行ってくれた。だが、先輩である女子生徒も何も問題がなく、せっかく足を運んだ意味がないと嘆く程に。苦笑いのミトリを背後に控えた先輩はお茶で満足し、そのまま帰ってしまった。

「なんというか、その—————」

「す、すごい先輩なんですよ。確かにちょっとだけ」

 言わずもがなわかった。あの先輩は血を見るのが好きなのだろう。

「このまま休んで下さい。私はリビングにいますから」

 それ以上は何も言わずにミトリは寝室から去ってしまった。私も、1時間程度だが診察やお茶を用意して疲れてしまった。ひとまずベッドで横になり、天井を見つめる。何かあればすぐにミトリを呼べるという状況は精神安定状、とても有難い状況だった。彼女はまだ中等部生ではあるが、既に治療科看護学科を目指して勉強に勤しんでいる。オーダーという、言ってしまえば必要最低限の学力しか要らなくて入学できる子供であっても、いや、学力こそあってもそれが許されない子供も集まるのがオーダー校である。彼女の言葉の端々や身のこなしまで、全てにおいて気品を持ち合わせて見えた。彼女の口からは何も聞けていないが、やはりいい家の出身なのだろう。

「—————ミトリさん、もう何度もお世話になっていましました」

 シャンプーや化粧水の類ではもう返しきれない恩を受けてしまっている。彼女自身は求めないかもしれないが、必ず彼女にはサービスだけではなく形を持った返礼をしなければと誓う。恩を仇で返すのは、商人としてのプライドが許さない。

「………ミトリさん、何が好きなのでしょう。お茶は、もう持ってますよね」

 そんな事を考えていたら、うとうと、としてしまう。違う、完全に眠りに落ちていた。軽い睡眠が取れ、一昨日の癇癪も昨日の疲れも抜けた時、扉が叩かれる。

「サイナさん、お昼ご飯を用意しましたが、食欲はありますか?」

 思わずスマホを手に取って時間を確認する。既に時刻は12時を指し、昼時となっていた。ベッドから立ち上がり、呼びかけに扉を開きながら答える。

「はい、頂きます」

 ミトリが用意していたのは卵粥という病人に相応しい食事だった。湯気を放つ鍋には三つ葉の青が映え、食欲をそそられる一品である。考えれば1年次は大病を患う事もなく、軽い風邪を引いても自力で治していたのだった。人による看病とは、ここまで身体も心も養ってくれるとは思わなかった。病院とは違う、私の為だけに作られたサービス。それも無償の慈愛を持つ精神には、本当に彼がいなければ骨抜きになっていた。

「頂きます」

「はい、召し上がれ」

 微笑みの許可を貰った私は用意されていたスプーンを掴み取り、熱さも考えずに一口食す。絶品という言葉さえ足りない最高の一品。塩加減、卵の熱し加減、米の柔らかさに歯ごたえ。そして、小さな鍋を使用した事による香る僅かな焦げに匂いと色。

 今私が欲している全ての要素がまとめられた、真の献身性の創造。

「————あぁぁ」

 口から流れる空気さえ愛おしい。身体中を暖める湯気には、心を洗浄されている気さえしてくる。一口、また一口と次々食していくと、鍋は瞬く間に空になってしまう。つい、ミトリへ視線を投げると、彼女は申し訳なさそうに首を振る。

「すみません。もうないんです」

「うぅぅ」

「あ、待って下さいね。まだお米は—————す、すみません。私勝手に」

「いえ!もっと作って下さい!お米も何もかも使って下さい!!」

 私の食欲は邪で貪欲だった。私の言葉と勢いに気圧されたミトリはすぐさまキッチンに立って、次の調理に入ってくれる。炊飯器も食器も鍋も食材も何もかも使いこなしてくれ、私の胃袋が我慢の限界に達した時、次の粥を用意してくれた。

「た、沢山食べてくれるのは嬉しいのですが、急には————」

 その言葉を最後にミトリの粥へ邁進してしまった。私もネットを参考に見よう見まねで粥を作った事はあったが、病院の粥があまりにもトラウマで上手には作れなかった。だが、ミトリのそれは一線を画す。今は卵がメインだが、ここに鶏肉など入れてしまったら、一体どれだけの爆発力があるのか、想像を絶する。

「—————ごちそうさまでした」

 完食した。何もかも胃袋に納めた。朝食を取らなかったからと言って、一食でこんな量の米を摂取したのは、オーダーに来て始めてかもしれない。いや、未だかつてないのが目される。腹に溜まった粥の温かさを心地よく感じ、だらしなくも天を仰ぐ。

「お、お粗末さまでした。た、沢山食べてくれましたね」

「はい、こんなに食べたのは初めてです————ミトリさん」

「は、はい」

「もし、良かったら、商品化しませんか。このメニューを売れば、必ず大成功しますよ————いえ、忘れて下さい。これは門外不出。オーダーにのみ伝わる伝説にしましょう」

 胸に誓い、私はひとり頷く。これは秘密にすべきだ。それも少数にも知られる、幻のメニューにすべきだ。もし、こんな味が知られてしまったら、ミトリは看護だけでなく料理まで始めてしまわねばならない。これは、私だけのものにしたい。

「え、えっと?はい、メニュー化は出来ません」

「出来ない?やっぱり、門外不出の」

「あり合わせで作っただけですので。正確な塩の量もあまり覚えてはいなくて」

 申し訳なさそうに笑むミトリは、私が使った食器をキッチンに運んで去ってしまう。これがあり合わせ?しかも塩の量も考えていない?信じられなかった。

 キッチンから食器を食洗器に入れていく音がする。そして軽く水で流しているらしく水道の音もする。やはり、惜しかった。もし、彼がいなかったら私は心底ミトリに堕落していた所だ。彼女を専属のオーダーにして四六時中甘えていた所だ。

「あ、片付けは私が————」

 そう言ってキッチンに足を運ぼうとした時、受話器から音が鳴る。

「サイナさん、どうぞ出て下さい。私は気にしないで下さい」

「すみません。この埋め合わせは必ずします————」

 受話器は寝室だけでなく、リビングの壁にも備えられていた。彼女との時間を邪魔されたと、少しだけ強めに受話器を取り、耳に当てる。無論、呼びかけの主はコンシェルジュだった。彼には今日だけで2度も世話になっているが、恨み言のひとつも。

「お加減如何でしょうか。お見舞いと申される方が訪れています」

「お見舞い、どなたですか」

「中等部の男子生徒です」

 訝しんでしまう。確かに、昨日今日と学校を休んでいるが、まだ時刻は昼だった。私が心配だったとしても午後の授業を休んで寮のある地区まで戻るだろうか。そもそも、私を求めているとは言え、寮にまで押し掛ける程の勇者などいただろうか。

「どうされます。お引き取り願いますか?」

「————お名前を伺って下さい」

「はい、ただいま」

 通話が途切れ、心地いいクラシックが流れる。

「どうしました、何か荷物とか?」

「いえ、男子生徒が訪れていると」

 キッチンから戻って来たミトリが、タオルで手を拭きながら聞いてくる。その姿はまさに看護師。それも大家に召し抱えられている医療の知識を持つ家政婦にも見えた。事業が成功し、一国一城の主になったあかつきには、まず彼女を雇うと決めた。

「男子生徒————もしかしたら、その人はサイナさんの————」

 その言葉を耳にした時、私は思わず自身の姿を省みた。

「あ、き、き、着替えないと————」

 そして、コンシェルジュからの通話が再度届く。

「中等部2年、ヒジリ様と名乗っています」



 その一言で私は部屋中を疾走した。脱衣所の制服に寝室のYシャツ。靴下にタイツなど手に持ち、大慌てで袖を通す。だが、全てを一瞬で終える事は出来ず、コンシェルジュから「いかがされますか?」という言葉にも返さなければならない。

 追い返す?そんな事は出来ない。なら招くか?そんな事も出来ない。決して部屋は汚れておらず、常に整理整頓を心掛けて来たが、同年代の男子生徒。しかも、彼を入れるなど到底承服できない。1日使って、ありとあらゆる場所に手を加え、最高峰の茶葉を用意し、食事も準備し、異臭など絶対にさせない為に入浴し————何かが起こった時の為に寝室のシーツも整え、枕の位置も完璧に納め、万が一には、男女のエチケットを————。

「サイナさん!!」

 ミトリの声で我に返り、

「まずはお返事を。お見舞いに来てくれたのです、待って、と言われれば待つかと」

「————少し待って欲しいとお伝えくれますか」

 コンシェルジュはそれに頷き、通話を切ってくれる。

「ど、どうしましょう」

「まずその人はサイナさんの彼なんですね」

「ま、まだ彼では————いいえ、彼です」

「なら、今の体調を確認して下さい。彼に会える体力はありますか?」

 その言葉を噛み締め、今の自分の体調を確認する。体力は回復し、肌には血の気も差し、空腹も感じない。お手洗いも必要なく、髪も乱れてはいない筈だ。

 だけど—————。

「お、一昨日に私————」

 今もよみがえる、あの大失態。目を閉じれば思い出す自分の言葉。

「か、彼に、彼に嫌われていたら、」

「サイナさん。彼はあなたのお見舞いに来ているんですよ。嫌われている筈がありません」

 そうだ。彼は私の体調を思って足を運んでくれた。嫌っている相手にそんな事をするだろうか。お礼参り、でなければそんな事をする筈がない。シズクも言っていたではないか、あれぐらいでヒジリが怒る事はないと。友人の言葉が今は何よりも頼もしかった。

「ひとまず服を着替えましょう。ロビーで迎えるも、部屋に招くも必須事項です」

 言われた通りに寝室へYシャツを取りに行き、袖を通しているとミトリが制服を手に入室し、着替えを手伝ってくれる。たった数秒でスカートの長さもネクタイのバランスも整えた時、私は口臭ケアのタブレットを飲み込み顔に力を込める。

「ミトリさん、確認して下さい」

 私の言葉に彼女は無言で答えてくれ、私の全身を確認していく。そして、頷いた。

「準備完了です————もし、彼を招くのなら言って下さい。隠れたりすぐに帰りますから」

 ここまで世話してくれた彼女に帰れだと?言える筈がない。それに、ミトリには前々から約束していた事がある。必ず彼を紹介すると。今ここで果たさねばならない————何より。

「どうか、一緒に来て下さい。彼を紹介させて下さい」

「でも————はい、分かりました」

 彼女を後ろに控え、私は玄関から外に出る。柔らかな絨毯を踏み付け、季節によって変わる観葉植物を視界の隅に置き、エレベーターへと踏み入れる。やはり、まだ生徒達は帰って来ておらず、エレベーターはノンストップで1階へと降りていく。

 全身にのしかかる重力感も、今は感じない。内臓に痛みも感じず、爪も揃っている————思わず、手首を見てしまう。そこに手袋は装着されていなかった。

「————いいえ、このまま」

 戻る時間はない。もし、戻ってしまったら意思が揺らいでしまうかもしれない。

「大丈夫、大丈夫」

 自分にそう言い聞かせて、ようやく1階のロビーへとエレベーターが到着する。開かれる扉を確認した後、私は一歩ずつ踏み出し空気を突き破る。既に3月。暖房も強くなく、空調も涼し気な風を流している。いまだ桜こそ咲いていないが、季節は間違いなく春だった。誰が否定出来る筈もなく、新たな命が芽吹く春の入り口。

「通して下さい」

 入寮者にのみ許されたエリアの先、分厚いガラスの自動ドアが開かれ、私は彼が待っている待合のロビーへと踏み込む——————そこには、コンシェルジュが。

「彼は————」

 全身から力を抜き、一度だけ目蓋を閉じる。そして、コンシェルジュの言葉を待つ————待ったのに、コンシェルジュは何も言わなかった。それどころか彼らしからぬ、目線を外すという行いをしてくる。そして、その手には花束が。

「………も、もしかして」

 後ろのミトリが口ごもってしまう。

「はい、既にお帰りに————い、いえ、私が言った訳では、」

 このコンシェルジュだってオーダーの一員。

 しかも、この高級寮のコンシェルジュ兼門番として雇われている、超が頭に付く腕を持っているのが推察される。きっと私では想像もつかない厳しい研修と実績を誇る、選ばれしオーダーだ。そんなコンシェルジュが、入寮者のお見舞い相手を帰らせる筈がない。ないけど、瞳孔を開きってしまう。そして、眼球から視線を外せない。

「こ、こちらをお見舞いの品にと。う、美しいカーネーションです———確か、花言葉は、そう————愛————かと」

 多くの花に混じっている一輪をコンシェルジュがピックアップした。母の日で送られるものだが、その花弁のボリューム感から花束の華やかさに力を付けられ、日持ちする事から長く咲き誇る好まれる花であった。しかも、その花言葉は。

「————愛—————」

 ミトリが呟く。コンシェルジュから花束を受け取った私は少しだけ溜息をする。受け取るのなら彼の手からが良かったが、最速ではあったが私は準備時間を掛けてしまった。しかも、待てと言って。なら、私の体調を気遣って待ち続けるのは紳士的ではない————それに、彼は自分に自信が持てないのだ。

 ほぼ初対面の私を寮の前で、無理に待ち続ける事は出来ないだろう。

「申し訳ありません。引き留めたのですが、彼女を急かして待ち続ける事は出来ないと。あと、もうひとつ預かっているものがあります————ただ、これは」

 そう言って、ひとつの封筒を手渡してくる。これは————札束。

「お金————お金ですよね」

「はい、間違いないかと」

 ミトリに花束を任せ、封筒の中に視線を移す。そこには紙幣が入っていた。大金ではないが、そこそこの厚みから決して楽に稼げる額ではない事がわかる。

「これは、なんと言って」

「————あなたの武器が欲しい。一緒の時間を過ごしたいと。そして」

 コンシェルジュは、一息おいて知らせてくれた。

「明日は晴れますか————と」

「明日?明日は、雨では」

 後ろのミトリに視線で聞くが、ミトリも頷いてくれた。

「いえ、そうではないのです。そういう意味だけではないのです————」

 そうは言いながらも、背の高いコンシェルジュは続けなかった。

「どうか、ご自分で調べて下さい。それも、ひとりで」

「ひとり—————何故ですか?」

「これは、彼からあなたへの気持ちです。どうか、ご理解下さい」

 これ以上は言えないと、自身の受付へと戻ってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る