第27話

 生涯分泣き続けた私を、どこからか用意してくれた車を使って寮まで運び、最後まで言葉を掛け続けてくれた友人達はリビングで。私はひとり寝室で夜を明かした。

 そして、どうあっても訪れる朝日が私の腫れ上がった顔を照らし出す。

「サイナさん、起きてますか?」

 寝室のドアにノックをして来たので、制服のまま眠っていた私はスマホを取り出し、ひとつ返事をする。たったそれだけで全労力を使い果たし、布団に包まる。

「わかりました。今日はお休みですね。先生に伝えておきますので」

 それ以上は何も言わずに彼女達は足音を立てて退室。恐らく学校に行ったのだろう。昨日から今日までの流れも、シズクが用意してくれた演習用映像で確認したのを思い出す。こんな事起こる筈がない。だって、私は彼のパートナーなのだからと鼻で笑っていたが、それそのものよりももっと壊滅的な結果を招いてしまった。

「—————こんな悲劇のヒロインなんて。いえ、ヒロインにすらなれないなんて」

 もし、恋や恋愛に利く薬を配合出来る医者がいたとしても匙を投げるどころか、視線すら与えてくれない事だろう。完全なる手遅れ、もう回復の見込みはないと。

「いっそ誰かに————いえ、ダメです————もし、そんな姿を見たら、もう」

 私は正気を失うだろう。狂う事さえなく、ただの廃人と化してしまうのがわかる。

 もう考えるのはよそう。考えたくもない。彼がそれほど怒っていない事を宇宙視点の中の塵ひとつ分は信じて、目を閉じる。だけど、閉じれば閉じる程、彼の顔が浮かぶ。

「なんなんですか、あの顔は。忘れられないじゃないですか」

 思わず悪態を付いてしまう。あんなに顔が良くて、ダメで、甘えん坊なのだ。どうして私の好みの中央をこうも抉るのか。狙っているとしか思えない。私の為に誂えたとしか感じられない。キズキの武器にも迫る勢いで、私の思考を形にしている。

「————まずはサイトの確認でもしますか」

 起き上がり、デスクのパソコンから自身のサイトを開く。

 受注梱包発送は既にキズキの設備とシズクの手によってオートメーション化。

 聞き取りに値しない、恐らく既に製作済みのオーダーメイドはアンケートをサイト内で実装し、数度の選択をした後にキズキの武器の写真を一例として取り上げ、ナイフならば刀身の色やグリップなどを選択させ、最も近いものを送っている。本来なら手抜きと言われかねないが、シズクのデザイン力とキズキの武器に設備、今までの売り上げ情報があれば出来てしまえる商売だった。

「………悪くない売り上げですね。無借金経営で業績も右肩上がり………」

 中には未だ製作されていない、真のオーダーメイドの要望もあるが、今のところは見当たらない。だが、買主のコメントには気に成る内容もあるのだから仕方ない。

「いい品、早く届けられ、手に馴染む—————思考を読まれている気がする人もいるのですね。でも、全部完全に聞き取りひとつでは、売り上げに限界が来ます。キズキさんとの約束がありますし、このまま届ける商売を続けますか。良い額ですし」

 彼女の未来の武器の形が見える能力は今も健在だった。

 むしろ、溜まり続けるだけだった作品の行き場が続々と決まり、彼女は薄く笑みさえ浮かべるようになった。しかも、届けられた品も全て高水準、高機能、高性能な事もあり、皆が手放しで喜んでくれている。

 確かに値が張ると時折言われるが、本当に世界に二つとない一点物の未来の武器なのだ。それは我慢して貰うしかない。私とキズキ、メンテナンスや新機能実装時にはシズクにも金銭が流れる、ひとつの武器で3人分まで行き渡らさせるのには、それ相応の額がいる。

「本当ならもう少し値上げしたいですけど、今はこれが限界ですね」

 ひとまず溜まっていた確認作業を終え、再度ベットに戻る。時計を見てもまだ9時にもなっていない。高性能なパソコンを購入してからというもの、作業がはやく終わって仕方ない。このままいけば、いずれはこの作業すら人を雇う事も視野に入る。

「そうなったら、私はずっとあの人と—————」

 だが、その可能性は私が打ち砕いた。彼をいじめたいという一時の感情で。

「私、復讐の為に今まで頑張って来たのに————手段と目的が逆転してしまいました」

 私の目的は、あの家に復讐する事。その為にお金を稼いで身体を磨き上げて来た。

 彼をお金と私の身体で堕落させ、私の言う事には二つ返事で頷かせる為に。確かに、彼はその素養がある。あのダメさ加減、瞬く間に堕落させられ、私の商品を使って復讐の手先に作り替えられる。だけど、今は彼との時間を作るためにお金を稼ぎ、身体を使っている。これも復讐の延長線上にあると言われれば、その通りだが。

「でも………裏切りたくありません………」

 認めてしまう。私は彼を裏切りたくない。あんなにダメで甘えん坊で顔の良い彼をひとり放置して、私が牢屋に入るなんて許せない。私は、もっと彼との時間を享受したい————パートナーとなって、一緒に時を過ごし、その先だって夢見てしまう。

「————その時が来るまで、いえ、真にあなたが必要だと思った、裏切りたくないと思った人にだけ話して。必ず会える。あなたの言う通り、美人で優秀になれば確実に————人生は長い。復讐のその後はどうしたってやって来る、でしたか」

 欲望は言葉にすべきだ。口にしたから彼との対面が叶った。

「………でも、あなたを復讐に使いたいなんて言ったら、本当に嫌われて」

 そこに連絡が届く。スマホではない、備え付けの受話器だ。腕を伸ばし、枕元の受話器を手に取り、一言返して、コンシェルジュの言葉を待つ。

「……おはようございます……」

「おはようございます。お加減如何ですか?」

「………はい、大丈夫です。何か荷物ですか?」

「いいえ、ご友人と名乗る方がいらっしゃってます。オーダー校中等部2年ミトリ様です」




 起き上がった私は一目散に玄関へ向かい、待っている友人を出迎える。

「サイナさん。おはようございます」

「………おはようございます。どうぞ、入って下さい」

 軽く一礼をしたミトリは扉を通り、履物すら正確に揃えて後ろに続いてくる。たったそれだけの気遣いに、私の傷心は少しだけ癒されていく。そしてリビングに通した後、「今、お茶を準備しますね」と伝えて、ダイニングテーブルの椅子を視線で示してキッチンに向かう。ミトリには数度以上も世話になっている。今できる最高峰の歓迎をすべく、特別な時にしか使わない茶葉を使い、紅茶を仕上げていく。

「お待たせしました」

 濃いオレンジの水色を誇り、微かなメントールをその身に宿し、甘さと清涼感も兼ね備えた複雑、だが世界中に愛好家を持つ三大紅茶にも数えられるウバ茶。ただカップに注ぐだけで香りが脳を安定化させ、直接飲めばすぐさま続けて感じたくなる一杯。銀のトレーに乗せて、ダイニングテーブルで待つミトリへ預け、評価を待つ。

「頂きますね」

 そっと一口、ミトリはしばし味と香りを堪能。そして一言。

「美味しいです。これがウバ茶なんですね」

「ありがとうございます。ミトリさんにだけの特別ですよ」

 そう囁き私も椅子に腰掛け、暖かなカップで指先を暖める。

「彼女達、イサラさん達に頼まれたのですよね。すみません、平日に学校を休ませてしまって」

「いいえ、気にしないで下さい。それに、私から言い出したんです。昨日の、ほとんど人はいませんでしたけど、少しだけ見てしまいましたから、どうしても気に成って聞いてしまったんです。先に謝らせて下さい、理由も聞いてしまいました」

 カップから手を離したミトリが申し訳なさそうに目をつぶる。そして、次の言葉の為らしく、もう一口カップからウバ茶を啜る。美しい所作だと思った、やはりミトリも、こんな所に来てはいけない人種。大きな家で大切に育てられるべき淑女だった。

「初恋の方と二人きりになったとか」

「………学食ではありましたが」

「でも、そんな方との一対一に臨んだ。なかなか出来る事ではありませんよ」

 この全肯定には、同性ながら思わずのめり込んでしまいそうになる。

「なんでも、皆さんが造り出した陣形の中に彼を取り込んで、サイナさんとの時間を作り出したとか。とてもいい友人達ですね。私も、憧れてしまいます」

「………はい、とてもいい戦友達です。昨日もこの部屋に泊まってくれました。でも、私ずっと寝室でひとり引きこもってて。お泊り会、逃してしまいました」

「きっと、あなたが望めばいつでもお泊り会を出来ますよ。彼女達に頼って下さい。勿論、私にも。サイナさんとの時間、私大好きですから」

「………私もミトリさんのような包容力があれば良かったのです。そうすれば、あんな事はしませんでした」

 今も思い出す、大失態。二度と彼は私に振り向いてくれないかもしれない。

「無理に思い出してはいけません。ご自分を傷つけず、今は休んで下さい。もし良かったら、私とお話しませんか?私の彼の事以外なら、少しだけ話せますよ」

「………ミトリさんの彼とは、その後どうですか」

「うぅ、ダメだと言ったのに。わかりました、あのマラソン大会の時、私は給水スタッフと参加していましたので、顔を見る事が出来ました。だけど、彼もダメな部類ですからね。私だけならまだしも、他の人の目がある場所では話せませんでした」

 それを楽し気に話すのだから、ミトリの器の大きさには脱帽する。自分の思い人を教えるのなら、そんな致命的な欠陥は出来るだけ隠すものだろう。だけど、そんな所も愛らしいとミトリはにこやかな顔で説明してくれた。あまりにも私とは違う。

「………きっと、素敵な方なんですね」

「ダメな所もありますけど、とてもいい方ですよ。純粋では、もうないかもしれません。彼もオーダーに来てしまいましたから、きっと私では想像もつかない絶望に苛まれたのだと思います。1年経っても、話してくれませんから。とても口には出来ないのでしょう」

 ミトリを以てしても話せない程の大きな絶望。きっと私でも到底慰撫できない、深い深い心の傷。オーダーに来た子供たちは、それぞれ別の理由があるとしても、ミトリの彼の心には開け放ってはいけない闇があるのだろう。少しだけわかる気がする。

「その方とは、確か入学したばかりの時に」

「はい、あの探し物の時です。彼、全然人と話せなくて、私がずっと彼を連れて先生方や先輩方に話し掛けて、まだ慣れない校内を走り回って、すごい大変でした。本当に————」

 先週のお泊り会でも聞いたが、それのどこに好きになる程の理由があるのか。どこを切り取っても彼のダメさ加減しか伝わって来ない。言ってしまえば、彼女の好みのツボがわからなかった。その献身性に響く何かがあったのではあろうが。

「その、気を悪くしないで下さいね。そんな彼のどこを好きに?」

 そう言うと、ミトリは困ったような笑みを溢す。確かに、この顔見たさにミトリを困らせる男子生徒達がいるのも納得できた。本当に愛らしくて犯し難い顔だ。

「実は私もよくわからないんです………いいえ、嘘です、その、変に思ったりは」

「しません。ずっとの秘密にします。約束します。待って下さい、今お茶のお代わりを」

 私の傷心はどこへやら。腰を据えて、ミトリの衝撃に耐えるべくキッチンから紅茶ポットを持ち運び、ダイニングテーブルに乗せる。そしてミトリと自分のカップに再度注ぎ。今一度紅茶で心を落ち着かせ、話を、と視線で望む。

「じゃあ、ちょっとだけ。—————空が暗くなって、廊下に月明かりが差した時でした」

「わかります。私もシズクさんと夜中まで探していましたから」

「はい、そうです。ずっと探していましたけど、結局見つからず途方に暮れていました。だけど、そんな時でした。その、正直今までお荷物でしかなかった彼が言ったんです—————」

「な、なにを————」

 思わず身を乗り出してしまう。声も小さくしてしまう。

「————保健室に行こうって」

「保健室?保健室にあったのですか?」

「はい、ありました。だけど、保健室にはなかったんです」

 妙な話だ。保健室にあったのにない。煙に巻かれている気になるが、当のミトリの顔は真剣そのものだった。今は敢えて何も言わず、ミトリに続きを促す。

「私達の求められた品はメトロノームでした。そして彼が掴んだのは保健室にあった聴診器でした—————ごめんなさい、急な話で付いていけませんよね」

「………少しだけ」

「もう少し付き合って下さい。いずれわかりますから————彼、聴診器を手に持ったら、また私に言ったんです。音楽室に行こうって。でも、音楽室は散々調べ尽くした後だったので、私は多分嫌な顔をしました。でも、彼は大丈夫だって」

 まただ。またミトリがあの顔をする。今の話の流れのどこに顔を赤く染めて乙女になる箇所があったのだろう。きっと訝し気な目をしている私にミトリは続ける。

「音楽をなんでもいいから聞かせてくれって。私ももう疲れ切っていたので、このまま休んでもって思ったんです。適当にスピーカーに繋がれている入力機器からクラシックを流しました。少しそれを聞いて気持ちを落ち着けていたら、もういいって」

「すみません、ミトリさん。私にはもうわかりません」

「はい、私にもわかりませんでした。だけど彼にはあったのです、自分だけの世界が」

 自分の世界。その単語は知っていた。あの教室で担任に言われた言葉だ。

「数分聞いただけで、もう大丈夫って。もう行こうって。本当にそれだけで聴診器と私の、その、手を取って走り出して————初めて男の子と手を繋いでしまいました—————あ、すみません」

「い、いいえ。続きをお願いします」

「と言っても、もうすぐ終わりです。先生達の待つ教室に向かって、私が待ってと言っても構わず入りました。そして言ったんです、メトロノームを持ってきたって」

「も、持ってたんですか?」

「————はい、彼は持ってました。彼の胸に」

 分からない。ここまで聞いてもわからない。何がこの後、待ち受けているのか。

「彼、急に上着の前を開けて、言ったんです。心臓を聞いてくれって」

「心臓………だから、聴診器を?」

「はい、だから聴診器でした。先生に聴診器を渡して胸に付けさせたら、先生は合格だって。君達は成功したって。もう帰って休みなさいと」

「—————え?」

「はい、え、でした。当時私も同じ事を言いました。もう訳が分かりませんでした」

 もう話は終わった、と言った感じにミトリはカップに口を付けてしまった。

「つ、続きは?」

「ありがとう、その一言でした—————これで終わりです」

 と、当時を自分の言葉で思い出しているのか顔を赤く染めて幸せな空気を噛み締めている。ミトリは、誰からも好かれる、そして誰に対しても毅然に立ち向かえるオーダーだ。その彼女は生徒は勿論、教員にだって頼りにされる存在だ。そんな彼女は。

「ミトリさん。結構、変わってますね」

「か、変わってなんか………もう、変に思わないでって言ったのに………」

 ミトリのこんな言葉遣いは初めてな気がした。でも、分からなかった。

「それで、どこを好きに?」

「………すみません。私にもよくわかりませんでした。でも、素敵だったんです」

「————顔ですか?」

「………はい。あ、勿論顔以外もですよ。月明かりの廊下を私の手を握って走る彼は、本当に素敵でした。多分周りに人は沢山いましたけど、私には彼しか見えませんでした————ああ、素敵な時間でした————」

 一人夢心地に入ってしまい、なかなか戻って来ない彼女に声を掛ける。

「ミトリさん、ミトリさん」

「あ、はい、すみません」

 正直今の話で分かったのはひとつだけ。ミトリはもしかしたら極度の。

「面食い、いえ、恋愛脳なのでは?」

「うぅぅ、恋愛脳では無い気ですけど————でも、彼の顔は本当に素敵で」

 まだ今日は始まったばかりだった。

 ゆっくりとお互いの恋愛遍歴を語り合おうと決めた。




 昼食を過ぎて午後となり、空が夕焼け色に染まった時だった。長話はする方ではないと思っていたが、ミトリとの会話はまるで中毒だった。優しく献身的で、朗らかで清楚で。こちらから質問すれば誠心誠意込めて答えてくれ、たまに意地悪な事を聞いたら、困ったように返してくれる。しかも、時折私にも質問を交えてくれ、会話のキャッチボールの心地よさを覚えてしまった。看護という仕事は、ただ身体の世話をすればいいのではなのだろう。患者の心も養いを安定化させ、心身ともに清潔に浄化してくれる。ナイチンゲール誓詞という言葉をどこかで聞いた試しがある。

 「害をなさず」、「病気になっている人が困っているときにいつでもどこでも熱心に看護する」。これはアメリカ看護師の倫理であり原則であると。日本でもこの倫理綱領は取り入れられ、国際的な基準となるべく採択されたと。

 —————だけど、オーダーは違う。この原則は確かにオーダーであろうと、医療従事者であるのなら、この倫理は心に宿すべき物かもしれない。だけど、オーダーの医療を司る者達は—————自らの手で傷つけた者を癒すのだから。過去に言われた、法務科であろうと査問科であろうと何人も寄せ付けないというのは、無論、他の外部組織に対しても同じ対応を取るという意味だ。結果、誰であろうと患者を傷つける者には容赦しない。武力を以て排除する。当然、それは患者張本人であろうと変わらない。傷と病に苦しむも者であろうと、他の患者や自分自身に害を為すと判断されれば、迷いなく貫き、切り裂く。そして、傷を癒す。例え、患者本人が望まなくとも。

「ミトリさん、お泊りしていきませんか?」

 と、聞くと、待ってましたと言わんばかりに顔を輝かせてくれる。

「はい、はい!お泊りさせて貰いますね。私も楽しみにしていました」

 愛らしく子犬のようにはしゃぐ彼女には、最高のおもてなしとしなければと誓う。ひとまずキッチンに立ち、冷蔵庫を開く。自分で買い出しに行く事もあるが、コンシェルジュの言葉に従って、重いコメや冷凍輸送が可能な食材は定期便で発注し、届けて貰っていた。勿論、届けられるのは最高級の、ではなかった。

「舌が肥え過ぎるのはオーダーらしからぬ、ですからね」

 オーダーだって潜伏潜入をするのだ。水と固いパンしか食せぬ期間は絶対的に存在する。そんな生活を長期間過ごすのかもしれないのだ、せっかく苦労して手にした食材を、不味いからいらない、と言いかねない舌を持つべきではない。調理して、自分好みに変えるという手はあるが、それは贅沢な話なのだろう。だが、今はその期間でない以上、全力を以て味を追求し、お友達とのお泊り会を楽しもうと誓う。

「ミトリさん、時間が掛かると思いますので、先にお風呂をどうぞ」

「はい、先に頂きますね」

 リビングへの呼びかけをした後、ミトリの足音を聞いた私は冷蔵庫から食材を取り出していく。私も自慢できる程の手腕ではないが、オーダーで既に1年をひとりで生活しているのだ。必要最低限の調理技術は持ち合わせている。授業でも煮る焼く茹でる。などの毒を抜く方法は習っている。後は塩や砂糖での味付けに、コショウと言った黒い宝石の降り掛けであり、今日のメニューには必須事項であった。

「白身魚の包み焼き」

 あのホテルで食してから数度試した料理のひとつだった。久しぶりの手の込んだ、暖かな料理は、例え大量生産の中のひとつであろうと、私の記憶を取り戻させてくれた。だが、なかなかあの味に到達しなかった。もしかして、腕の良い料理人を雇っていたのか、それとも有名店からメニューを考案して貰ったのだろうか。

「まずは—————」

「サイナさん」

 キッチンから廊下へと視線を向けると、ミトリが立っていた。

「どうしましたか?」

「あの、シャンプーを、使ってもいいですか?」

「勿論、使って下さい。化粧水も乳液も保湿クリームもありますので、存分にお手入れして下さいね」

「あ、ありがとうございます。でも、あれってすごい高い品では」

「ミトリさんには今日どころかクリスマスからずっとお世話になっているんです。そんな方に高いから、なんて理由で使わせない程、私は友達不幸ではありませんよ。どうか、使って下さい。そして、もしお気に召したのなら————我がサイナ商事からお求めを」

「え、化粧品まで売ってるんですか?」

「………すみません。嘘を吐きました。でも、使って下さい。取り扱いは嘘でも、ミトリさんには返せるものは返したいと思っています。知らないかもしれませんけど、私もミトリさんとの時間を楽しんでいるんです。少しだけでも、私をお役立て下さい」

 私なりの誠心誠意を言葉にし、ミトリに伝える。

「はい、分かりました。サイナさんからの贈り物、使わせて頂きますね。沢山使っちゃいますから、後から怒らないで下さいね。じゃ、今度こそ先にお風呂頂きますね」

 微笑み返してくれたミトリは今度こそシャワー室に向かい、扉を開けて入っていた音がした。それを確認した私も用意した食材を見つめ、調理に入った。



「すごい美味しかったです。サイナさん、なんでも出来るんですね」

「お世話様でした。でも、これはミトリさんだけの特別ですよ。秘密ですかね————」

 既に戦友達にも施した料理を自慢する。きっと、ミトリだって気付いているのに、

「はい、秘密にしますね」

 などと返してくれる。彼女も純粋ではないかもしれない。オーダーで1年を過ごしているのだ。人の心の闇からなる、何も知らないと嘯く、ただ気に喰わないから、或いは私腹を肥やす為に造り出された犯罪の数々を知っている筈だ。そんな彼女が空気を読んで、返してくれる今が、ただただ愛おしかった。かけがえのない時間だった。

「後片付けは私がしますので、サイナさんもお風呂を」

「いえ、私が」

「ダメです。ここまでもてなしてくれたんですから、私にさせて下さい」

 あの狼の誇り高さを思わせる強気なミトリが顕在化してしまった。この空気に気圧されて、同級生は勿論、3年の実戦を知っている先輩方も、そして教員すら慄く程に恐れられている。それも、勤勉で献身的で、人の心に安らぎを与えてくれるミトリがするのだ、豹変とまではいかないが、この矛先が向くのを誰もが恐れている。

「では、お任せしますね。乾燥機がありますので、それをお使い下さい」

 ここで争いをするのは無益だと考えて、私もシャワー室へと向かう。そこには既にミトリの制服がハンガーに掛かっており、その皺ひとつない掛け方にはミトリの几帳面さを感じた。イサラは、というと彼女は田舎や土や森で生活していたと言いながらも、自身の装備だからだろうか泊まりに来た日は自身の制服に合うハンガーは勿論、しっかりと皺を伸ばして、スカートさえ1mmの狂いもなく折りたたんで内側に掛けていた。その姿は、洋服の扱いではなく、着物、それも袴に通ずる姿を覚えていた。

「意外と器用で物持ちがいいんですよね。装備にも常に手入れをしていますし」

 自分もミトリに倣って制服をハンガーに掛け、昨日から着ていたYシャツを洗濯機の中に入れる。本来ならミトリの物もそうすべきかしれないが、流石に人のシャツに勝手に触れるのは憚れた。それに、お泊り会も明日の朝には終わってしまう。

 回収する二度手間をさせるぐらいならと、考えながら下着を取り払う。

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