第26話

 マラソン大会が始まっても、皆上の空だった。後から来た者は、到着していた者達の異常性に気付きながらも、それが具体的になんなのかわからずにいた。だから、唯一彼への耐性が作られていた私は、与えられた電子機器を片手に無人街内を率先して走っていた。そして、しばらく走っていた事で、ようやく正気に戻った者達が、大きく自分が遅れている事に気付き、必死に後を追ってきているのを肌で感じた。

 なのに—————。

「え、もう着いてたの?」

 イサラが驚きを隠せずに言葉にした。

「うん、早いでしょう」

 一般のジャージに着替えていたシズクと彼のペアが誰よりも早く到着。次いでソソギとカレンと呼ばれている、彼女も見目麗しい姿を晒して、目的地である過去の拠点、公園の中心地で待っていた。数えるのも嫌になる回数の一位二位。彼女達が常に上位を独占し、疲労困憊の私達を嘲笑うかのように汗ひとつかかずゴールしていた。

 信じ難い光景だ。ソソギ、カレンのペアもソソギしか脚力の実力はなさそうなのに、あのシズクが、運動音痴でキーボードしか叩けないと影で私が心の中で思っていた彼女が常に先を行っていた。これはこれで許し難かった。

「シズクさん、どうやって………」

「まずは給水して。ミトリが渡してくれるから」

 肩で息をしている私を気遣って、だが、ほんの僅かに余裕を見せるシズクが給水所であるテントを指さす。言いたい事もあったが、ひとまず水でのどを潤す為に、そこへと向かう。ミトリも私が近付いてくるのを確認しながら、水が大量に注がれたボトルを手渡してくれる。急には飲んではいけないと聞く気もしたが、私は構わずに呷れるだけ呷り、大きく息を吐く。

「お疲れ様です。サイナさん、体調はいかがですか?」

「————かなり疲れましたけど、もう少しいけそうです」

「意識が朦朧、クラクラしてきたら急には止まらずに軽いスピードで止まって下さいね」

 不意にミトリの顔を見てしまう。彼女は給水所で己が仕事を全うしている。これから続々と訪れる生徒の為に水分を準備するのだ、彼女だけずるいなどとは思うまい。

 だけど、ミトリは知らないし初めて見た筈だ。彼の姿を。

「ミトリさんは、大丈夫ですか?」

「私はずっとここなので疲れてませんよ。すみません、私だけ」

「いいえ、せっかくお水を貰えるのならミトリさんからと思う人は多いですよ」

 僅かに掛けたカマにも引っかからず、彼女は笑顔のままだった。

「では、私行きますね。後で会いましょうね」

 踵を返し、私は友人達と入れ替わりにシズクの元へと戻る。今もいる彼には出来るだけ視線を向けず、既に給水を済ませ一息付いている彼女の傍らで止まる。

「ミトリさん、彼女は—————」

「私も驚いた。ミトリ、全然気にしてないの」

「ミトリさんには、既に夢中な方がいるそうですけど、もしかしたら」

「恋は盲目って奴?だったら、いいんだけど」

 私の背中越しに給水所を盗み見るシズクも、ミトリの対応には違和感はなかったと告げていた。シズクは既に狂っていたから耐えられた。なら、ミトリも既に或いは。

「————問い質す、のももう意味ないし。ミトリにはしたくないね」

 私もそれに頷き、彼女への話題を止める。もう意味のない事な上、彼女も友人のひとりだった。前々から彼女には射止め、射止められた男性がいるのだ。それ以外の男性がどれだけ魅力的でも、気にならないのかもしれない。恋は盲目という奴だ。

 その後も電子機器へ指令が走り、向かうべき場所を示される。勝手知ったる庭なのだ、迷う事なく次々とスポットへ向かうも、終ぞ最後のスポットにも件の4人が到着しており、私達は何故?とうな垂れるしかなかった。




 帰りの車内は酷いものだった。確かに正気に戻った者達が後から徐々に合流し、足に自慢を持つ男子生徒や女子の陸上をしている名立たる実力者達とデッドヒートをし、一歩届かず、な場面もあった。むしろそれだけなら良い思い出、と名付けて心の本棚に蔵書出来たかもしれない。だけど、現実はそこまで青春を謳歌出来るものではなかった。どれだけ速度を上げても、最短コースを選んでも、常にあの4人がいた。

 しかもそれを鼻持ちならない事もせず、当然の結果と受け入れていた。

 嘘だ、ほんの僅かにだがシズクは、誇らしげに彼の隣を取っていた。

「羨ましい………私のものなのに」

 本当に嫉妬した時は頬が膨らむのだと知った。そんなつもりは無くとも口に力が入ってしまい、自然と頬が浮き上がってしまった。だが、中にあるのは嫉妬という少女の愛らしくはあるが、それでも女の恩讐そのものであった。許し難かった。

「結構本気出しちゃったね。もうクタクタ」

「はい、ただ走るだけでしたけど、かなり精神に来るものがありましたね」

「わかるー。ああいう終わりが見えないのって、一種の拷問にも感じたー」

 無理にテンションを上げているのがわかった。確実に、何かを隠したがっているのが知れた。だけど、私は口にしなかった。聞かれなければ、教えたくなかった。

 だけど、来ることもわかっていた。

「—————サイナ」

「はい」

「パートナーって事は、あの人、ヒジリと」

「誰にも邪魔させませんよ。本当に、誰にも—————」

 助手席を取っていたイサラを視線も向けずに威圧する。だけど、

「うん、聞けて良かった。じゃあ、サイナはヒジリとチームを組む。それで終わり————このメンツも完全に解散だね」

 きっと、ずっと前から決めていたのだろう。そう思ってしまう程、あっさりと身を引いた。一度、イサラは私の足止めをして、彼を奪った。それは、今を以っても許し難い事だった。何も知らなかったとは言え、彼の心も彼の未来をも打ち砕きかねない蛮行。心の底から憎んで、復讐の対象に選んでしまったかもしれない。だけど。

「はい、解散です。だけど、イサラさんはフリーで活動するんでしたね。なら、いつか、こちらから誘わせて————」

「本当にいいの、それだけで————私、サイナの為なら一度だけ何でも言う事聞いてもいいよ」

「私達、そう決めていました。どうか、言って下さい」

 それでも、彼女達は同じ時間を共有した友人だった。同じ銃弾を浴びて、同じ仕事をして、あの訓練では何日にも掛けて情報の共有や他チームと交渉をした、真に戦友だった。もう、これは消し去れなかった。あの人への思いと同じ棚へしまえてしまう程に、忘れがたい、失えない、捨てがたい、大切な時間だった。私の日常だった。

「では、オーダーとして、そして友人としてのお願いです————」

 それを告げた時、ほのかに後悔した。あれだけ誰にも奪わせない、渡さない、独占すると決めていたのに。共有にも似た事を頼んでしまった。だけど、思えば私も同じ事を頼んでいた気がする。シズクに、大切な人は共有すべきと。

「いいの。あんなに渡さないって」

「ええ、渡しません。だから、私はあなた達を利用します。お金も払いませんし、それ以外の対価もありません。降りるのなら今ですよ」

「————降りる訳ないじゃん。サイナの、同じチームだった戦友の門出ぐらい祝わせて。確かに聞き届けたから、サイナこそやっぱり訂正とかはやめてね」

「言いません、決して。だって、彼の為ですから」

 振り返れば、まだ戦友達がいる。気心の知れた、親しい代えがたい実力者達が。だけど、もう既に彼女達は己が一歩を進んでいる。なら、私も振り返らずに進むべきだった。事業を展開するという逃げ口上も、復讐の為という使命も使わずに。

 私は、真に自分の人生を歩むと決めた。




「いい?もうすぐ来るからね」

 マラソン大会明け、休みを挟んだ週の始まり、午前の授業を終えた昼の時間だった。シズクにも通達し、3人とも位置に付いていた。念の為、担任にも伝えて許可を取り、私達は万全の状態で迎え撃つ陣を形成していた。これから起こる嵐に対して。

「確認です。私達は壁となって、」

「ふたりを警護、」

「そして送り出す————護衛任務って、思えば初めてだけど」

 昼の時間が始まると同時に私達は教室を飛び出し、学食に訪れていた。未だ絶望から立ち上がれない1年生も、未来に向けて諦めを受け入れた3年生もいる、この空間に。総勢50人にも及ぶ、無作為な人の波。お弁当派や売店、登校途中での買い上げなどを抜けば、想像通りの数だった。そして、これからもっと混む事が予想される。

 隣のイサラが首元のマイクに指示を出し、優美な友人は学食の外、気だるげな友人は私達の席の近くではあるが、背中を向ける位置に付いていた。

「————サイナ、もうすぐ」

「はい、後はお任せします」

「じゃあ、予定通りに」

 次々に到着する生徒達の中を見つめ、私は手袋越しの手を握る。何も問題はない、彼女達は優秀でこれまで何も失敗はして来なかった。背中を預けられる実績と経験を兼ね備えた戦友。そんな彼女達が私の為に立ててくれた、最後の作戦。

「————来ました」

 優美な友人が一言。それが肉眼でも確認できる。周りの生徒達が逃げ惑い、或いは恍惚の表情を、または驚愕の口をする。そして、シズクが彼を連れて姿を見せる。

「もしかして、遅れちゃったかな」

「いいえ、私達もたった今来ましたから。先に食券をどうぞ」

「うん、席、ありがとね」

 一歩引いた位置にいる彼の腕を取りながら前へ出て、数語のやり取りをしたシズクが彼を連れて食券機へ。次いで購入した食事をそれぞれ運び、私達の前へ腰掛ける。

 想像通りの動き。何ひとつ違和感のないただの日常。なのに————。

「すごい………」

「見た事ないけど、1年か?」

「先週のマラソン、あの時見た………」

 口々にそう言い、彼に視線を向けていく。たったそれだけで彼が奪われていく気さえした。だけど、当の彼は気にした様子どころか、気付いた様子もない。

「じゃ、紹介するね。私の前にいるのはイサラ。隣にいるのがサイナ。挨拶して」

「わかった。初めまして。シズクから紹介されていますか。ヒジリです」

「苦手な敬語なんて使わないで。ふたりとも気にする子じゃないから。ねぇ?」

「そうそう。私も気にしないから。よろしくヒジリ。私の事も呼び捨てにして」

「………ああ、ありがとう。イサラ、これから見かけたら話してくれると有難いよ」

 思わず拳を握りしめてしまった。私よりも先に彼の微笑みを受けるなんて。

「で、隣のサイナ。サイナ、前に話したヒジリだよ。あんまり話すのが得意な人じゃないから、サイナから話し掛けて上げて。もう、大丈夫だから」

 初めましての挨拶など、もう何度もして来た。オーダーメイドの聞き取りの中では、第一印象は完璧でなくてはならない。だから、何度も使った声を使う。

「初めまして、ヒジリさん。紹介されました、サイナです」

「サイナ———」

 二度目なのに、二度目なのに、名前を呼ばれただけで、こんな破壊力が。

「シズクから聞いた。良い腕を持って、良い商人だと。どういう品を扱ってるんだ?」

 彼が、彼が私に興味を持ってくれた。その甘い囁きで私の事業に意識を。

「サイナ?どうかした?」

 イサラが肩を揺らしてくれたお陰で戻って来れた。

「わ、私はオーダーメイドの品を、武器とか防弾服を—————」

「オーダーメイド。聞き取りを、してるのか?」

「————はい」

「なら、今度頼むかも知れない。時間があったら会ってくれいないか」

 限界一歩手前だ。彼からこんなアプローチをしてくるなんて。

「知らないの?サイナのオーダーメイドって、結構するよ。ヒジリ、お金持って無いじゃん」

「………そうだったな。なら、金が用意出来たら世話に————」

「こ、今度から弾丸や備蓄品の取り扱いもする予定ですので、それでしたら」

「弾丸。そうか、弾丸なら俺でも買えそうだな。だけど、その前に」

「だ、ダメですか?」

 人が徐々に集まって来る。この学食全体にではない。彼を求めて、話し掛けようと群れを成していく。中にはすぐ近く、彼の真後ろを取っている女子生徒まで現れる。

「ローンはやってるか?」

「ローン。さ、流石に金融は」

「分割で銃を買いたい。弾丸はあっても、銃本体が無いなんて、おかしいだろう」 

 ようやく、ようやく、彼が私を視認して、微笑んでくれた。

「も、勿論です!!いいプランをご紹介しますよ。だけど、絶対に支払って貰いますから————どこに逃げても、見つけ出しますから。必ず私の元に来て下さいね」

「ああ、支払うよ。どれだけ掛かっても。君の、サイナに直接」

 口元が弧を作る。目元を細める。彼が、ヒジリが私に会う約束をしてくれた。ただの口約束に過ぎない。商人をしているという私に対してのリッピサービスでしかないかもしれない。だけど、私が彼と出会って、初めて繋がりが生まれた瞬間だった。

「あの、すみません。どこの組、」

「あーと、すみませーん」

 女子生徒である二人組がヒジリに話し掛け、あまつさえ肩に手を置こうとした。許し難い蛮行をしようとした、その瞬間に私の戦友である、優美な人と気だるげな人が彼への壁と成って立ちはだかり、彼の背中で世間話を始める。

「あ、あの、すみません。その人に」

 僅かな申し訳なさを感じながらも私も何も言わずに、二人の世間話を見続ける。仕方ない、またの機会に、と顔で表した二人組はその足で去って—————。

「待ってくれ」

 彼が立ち上がった。視線も向けていないどころか、振り向いてすらいない彼が立ち上がり、友人達の間に入り「悪い、通して」と両断し、去って行こうとした二人に顔を向ける。何を始める気だ、そう思い、イサラと共に腰を浮かせる。

「俺に話だったのか?」

 あの顔が眼前にあるのだ。気が動転し、二人組はオーダーであるのに言葉を失う。

「クラスは、俺は移動させられるらしくて、今はまだ分からないんだ」

「そ、そう、なんですね………」

「だから、分かったら教えるから。校舎でもバスでも見かけたら、話し掛けてくれるか———自分から話し掛けるのは、その———苦手なんだ」 

 ああ、分かった。理解した。察した。シズクがあれほどダメだと言った理由が。

 彼は、自分で防衛策を、それも初対面の相手に作ってしまう程に人に依存してしまう人なのだ。話し掛けてくれ、もさることながら、自分から話し掛けるのは苦手だ、と二重に念押しした。

 これはダメだ。まごうことなきダメな人だ。1年も正気を失っていたとしても、今の年齢まで対人関係構築能力が育っていない。むしろ、手放しているのだ。弱気で人に依存して、求められるのを待つしか出来ない。自分から価値を売り込む事が出来ない。自分を卑下している節さえ見受けられた。だから、相手に求められれば、ああして話せる。

「………ねぇ、ダメでしょう」

「はい、ダメです………」

「うん、相当ダメじゃん………」

 便乗したイサラを睨む気すら起きない。彼は正真正銘のダメな人だった。

 だけど、彼の言葉と申し訳なさそうであろう顔を受けた女子生徒二人組は。

「はぃ………話し掛けさせて、貰います………かならず………」

 と、はっきり言えば酩酊状態。擬音を使うのならメロメロだった。

「じゃ、またな」

 と、席に戻り、気まずそうに目線を合わせない。これもダメさポイントだ。

 諦めて自分達は食事に手を付け、軽い雑談や授業の話。担任のビックスクーターの話を投げかけていると、過去の記憶による再演が出来たらしく、必死に対応してくれるのが見て取れた。慣れない会話に四苦八苦する彼は————正直可愛かった。

「あ、もうこんな時間。私選択授業があるから」

 そう言って、食事を一気に頬張り席を立つシズク。

「私も自己訓練があるから、もう行くね」

 次いでイサラ。今日は午前中のみの授業であった筈なのに、二人は続々と去って行く————様に見せる。食器を預けた後、二人は食堂の外へと行くが、首元のネクタイに隠しているマイクから声が流れる。ようやくだった。ようやくの二人きり。

「—————俺も、そろそろ」

「あ、待って………」

 立ち上がろうとした彼に声を掛ける。

「どうした?」

「………もう少し時間はありますか?」

「ああ、まだクラスが決まってないから、授業を取れなくて。今日は時間がある」

 そう言って、私の前へと戻る。ずっと待ち望んでいた時間だった。しかも、こんなよくある、友人達が気を利かせて去っていく状況まで作り上げて、臆面もなく支払いはない、なんて告げたのだ。今この時間を使って堕落の糸口を掴まないでどうする。

「え、っと。ヒジリさん」

「呼び捨てでも」

「い、いいえ、まだ早いと言うか………」

 シズクが言った通りだった。自分は初心だ。彼の眼にすら視線を合わせられない。こんな事、屈辱的だった。私は誰をも虜にする愛らしい顔と人を堕落させる手管を揃えた妖艶で蠱惑的な性格。男性であれば誰もが求めてやまない、この身体を持っている。

 言ってしまえばいい。私に興味がありませんか。あなたならご褒美を上げるから、使ってあげてもいい。こんなダメな彼の事だ。上げる、使う、という単語には一切抵抗もしないで頷く筈だ。それを、私という美少女が言うのだから決して断る、

「サイナ」

 一言だ。たったの一言で、今立てていた牙城が崩れ去るのを覚えた。

「はい………」

「君は———シズクと親しいらしいな」

 ここまで来て、こんな時間まで作ってシズクの名を口にするなんて。この後の言葉も想像が付く。だって何度も予行演習をした。素敵な彼なら————これからもシズクと仲良くして欲しい。や、シズクと出会ってどれくらい、などと言うのが目に見えている。

「………はい、親しくしています。出会ったのは、」

「いいや、それじゃない————サイナは、何が得意なんだ?」

「え?」

 理解出来ない、分からない会話の飛び方だった。

「私が、得意な事—————」

「サイナ、君は———普通の人とは違う気がする。シズクとも違う。あのイサラとも違う」

 何を言いたいのか分からなかった。だが、彼にしかわからない世界を感じた。

「サイナがとても優秀なのもわかる。だけど、違うんだ」

「な、なにが………」

 マイクの向こうの彼女達も何も言わない。過ぎ去りながら彼を盗み見る生徒達もいる中、彼は少しだけ視線を外しながらも、確かに私を見ている。

「————君は美しい」

 い、いみが、いみがわからない————。

「美しい………」

「ああ、オーダーに来てしまった以上、常人の生活は望めない。オーダー中等部で商売までしているサイナなんだ。言われるまでもないとわかる。だから、聞きたい」

 昼を終える鐘が聞こえる。一音一音、耳に残っていく。そんな音をかき消すように、彼が口を開いた。

「それだけの美しさ。ただオーダーとして生きる為だけの筈がない。君は何をしたくて、そこまで積み上げた。君は、何を為す為にシズクに近づいた」

「近づく………」

「シズクは優秀ではあるけど、見た通り。運動は苦手だ。それを取り返すように電子機器の知識、パソコンやコードを勉強して自分の物にしてる。だから、シズクは優秀なんだ。自分の得意分野では、誰も追随を許さないぐらいに————シズクを使って、何をする気だ」

 怒りじゃない。責めてもいない。ただ、彼女の身を案じて見えた。

「あんまり危険な目に合わせないでやって欲しい。言うと怒るけど、あまり外に出ないから、あんなに肌が白いんだ。見た事はないけど、多分体育とか訓練なんてろくに————」

 ネクタイのマイクから声が上がる。だが、それもすぐにかき消されてしまう。

「シズクさんが大切ですか」

「………ああ、無視は出来ない」

 視線を逸らしながらそう告げる姿には、微かな感情が込められて見えた。

「だから聞いておきたい。サイナは何が得意なんだ。シズクを使いたいのなら止めない。シズク自身もきっと楽しんでる—————何を為すかは言わないでくれ、悪かった」

 静かにうつむく彼の頭は、思ったより小さいのだなと思った。

「目的はいい。だけど————俺は君の事が知りたい」

「知りたい………」

「腕が良くて商売も出来て美人なんだ。なら、その中の一番はなんなんだ」

 これは過去の再現でしかない。心の奥底、多くの人が共有する海は既になく、人という席すら失わている。自我だけで話す彼は、もしかしたら本心なんてないのかもしれない。なのに、目の前の私を求めて、慣れない会話を繰り返している。

「無理にとは言わない。だけど、サイナが知りたい」

「————それって、私に、」

 ネクタイのマイクから息を呑む音がする。だけど、私の言いたい事と彼女達が考えている事は違う。私には分かった。彼が何を以ってダメと評価されたか。

「私に————甘えたいんですね」

「あ、あまえ………」

 その言葉に彼が狼狽えた。過去の再現、でもこれなのだ。一体どれだけの女の子に甘えて来たのだろう。これはダメだ、確かにダメだ。そうダメだ。

「そういう訳じゃ………」

「違わないですよ。私に、幼馴染の初対面の友達に甘えたいなんて————そんなに私って美人ですか?もしかして、それ—————一目惚れでは?」

 顔を赤く染め、再度うつむく彼が愛らしかった。この顔でこんな表情をするのだ。思わずいじめたくなってしまう程に、だけど、流石に初対面でこれ以上は出来ない。

 立ち上がった私は、自身の食器を手に持って背中を見せる。未だ何も言えない彼のダメさ加減には諦めて、振り返って言葉を————欲望の形を与える。

「もし私との時間が欲しいのならお金を用意して下さい。そうすれば聞き取りを二人きりでして上げます。頑張って下さいね~♪では、私はこれで~♪」

 と、食器を返して、学食を後にする。学食外の廊下には知った顔が5人もいた。

「サイナさん………あなた、相当な悪ですね………」

 あの担任すら絞り出すような声を上げる。それに対して———対して。

「どうしましょう………」

 私は思わず抱きついてしまった。聞いた事のない声を先生や友人達が上げる。

「サ、サイナさん、どうしたの?」

「どうしましょう………あんな事を言ってしまいました。私、嫌われた………」

 涙が溢れ、嗚咽を漏らしてしまう。周りを友人達が囲って壁に成ってくれるが、担任も含めて狼狽えさせてしまう。言ってしまった、彼にはあれが最適解だと思ったが、あんな上から目線な物言い。常人であったのなら二度と口も利いてくれない。

「せっかく会えたのに、話し掛けられたのに………あんな事を………」

「ま、まずはここから移動しましょう。生徒指導室を開けますから」

 それからはあまり覚えていない。涙が止まらず、全員に壁に成って貰い校舎を歩き、すぐ近くの生徒指導室に連れ込まれる。何か言われた気もする。背中を擦られたのもわかる。だけど、もう二度と彼には会えない。校舎で会って無視でもされたら。

「私————もう、生きていけません————」

「そ、それは一時の感情だから。大丈夫だから。ヒジリはそんな事で嫌ったりしないから、ね」

「でも、また失恋を————やっとパートナーに成れたのに—————」

「あ、あんなの失恋に入らないよ。何度でも続けられるから………」

「そうです、サイナさん。関係構築には回数と忍耐力が必要です。ですよね、先生」

「え、ええ、そうです。彼だってオーダー。たった一度掛け違いがあった程度では関係の破滅的な崩壊は起こしません。それに必ず彼とは近しい距離に置かれますから」

「だ、大丈夫だよ。サイナっち、絶対嫌われたりしてないから—————ちょっと」

 ちょっと、ちょっととは何だ。

「ちょっと、なんですか………」

「————サディスト過ぎた、かな?」

 まただ。また涙が溢れてしまう。もう止まらない、私の顔が涙で腫れていくのがわかる。彼があれだけ美しいと言ってくれた、甘えたいと、一目惚れさえしてくれた顔が崩れて行くのがわかる。後悔、懺悔が頭の中に渦巻き、涙となって溢れる。

「せんせい………オーダーに、嫌われた時の罪はありますか………」

「だ、大丈夫です。そんな罪状はありません。しばらくここを預けますので使って下さい。少なくとも怒り以外の癇癪で人は死にません。まずは落ち着くまで待ちましょう」

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