第25話
なんて、なんて、明るい、暗い、神々しい、毒々しい、清廉で淫靡で、優しくて暴力的で、不器用で献身的で、言葉足らずで十分過ぎて、愛らしくて憎たらしくて。
そんな未来が待ち受けている。きっとその障害は何度も立ちふさがるだろう。何度も私を絶望させる。だけど、彼がすぐ隣で私を支えて、私より前に出て、背中で守ってくれる。その度に彼は傷付くかもしれない、苦しむかもしれない。だけど私がいる。私が彼の手を握り、私の薬箱を使い、彼の指を治してあげる。もし、もし、そんな瞬間に指にそっと何かはめられでもしたら、そして跪かれでもしたら。
「でもでもでも、まずは恋人の甘い時間をって気が早すぎますよね。まずはお友達からですったら。お友達以上恋人、以上なんて、そんな!!!!」
完璧だ。完璧な人生設計だ。彼と一緒に企業を大きく展開し、誰もが知る一流企業に作り上げ、私達は高いビルの上から世界を一望し、日常として恋人の時間を過ごす————仕事中に疲れたら、彼と一緒に同じ部屋に入り、数時間も滞在して。
「そうなったら、皆さんに合わせる顔がありません!!!」
「サ、サイナ………」
邪魔をする声に思わず「あ?」とはしたない声を上げてしまう。
「サ、サイナ。どうしたの………なんか、ずっと独り言を………」
「邪魔しないで下さい。私は大切な人生設計をしているんです」
「そ、そっか。邪魔してごめんね。でも、もう授業終わったよ………」
その声に時計を確認する。既に放課後に入っていた。
「あ、もう一日が」
「そうだよ………ずっと授業もお昼の時間も………」
ようやく脳が人生設計以外に使えた。既に日は傾き、斜陽の空となっている。窓から教室に視線を移すと、同じチームを組んでいた3人と担任の先生が心底心配に私を見つめていた。何がおかしい、私は彼との生涯の命題に挑んでいたのだ。恥じる事なんて。
「サイナさん———大丈夫?疲れているなら言って。救急車を呼ぶから」
「救急車………そんな、そんなに私と彼を早く一緒にさせたいなんて。知りませんでした、中等部って恋愛禁止どころか恋愛促進だったなんて。私、困ってしまいます」
「すぐに呼びますからね。待ってて、気を確かに持ってね。大丈夫だからすぐ良くなるし、良い医者知ってるから安心して。みんな、サイナさんを見張っていて、重症よ!!」
何か失礼な事を言って担任が教室外で飛び出し、その足で廊下を走って行ってしまった。私には肩を掴んで嘘を吐き、脅迫まで使って強制的な帰宅をさせようとしたというのに。でも、とは言いつつ救急車という病院までの直通の足を用意してくれる。
「先生、そんなに申し訳ないと思っていたんですね。すみません先生、私、先生よりも先に幸せになってしまうかもしれません————招待はすべきしょうかね」
「ミトリっち!!早く来てーーー!!!」
続いて廊下を騒がさせ駆け込んで来たのはミトリだった。教室に飛び込み、一目散に私の元へ走り込み、遠慮も無しに首元に手を押し付け、脈を取ってくる。
「サイナさん、大丈夫ですからね。脈は正常です。心拍に異常はないという事です。心臓は悪くありませんから落ち着いて下さい。呼吸も出来てますし異音もしません。呼吸器系内臓に異常は見られません。サイナさん、私の手は分かりますか?」
「彼の手はもっと大きかったです、あ、でも冷たいか温かいかは、まだわかりません————だって、まだ繋いでないんですから」
「————。今の私には何も出来ません。ごめんなさい」
「諦めないで下さい!!私達は、私達には何が出来ますか!?」
「………そうです、諦める訳にはいきません。サイナさん、横に成れますか?リラックスしましょうね。みんな、制服の上着を脱いで床に敷いて下さい」
「床?そんな、私には床はレベルが高過ぎます。ミトリさん、上級者なんですね………」
「大丈夫です。ゆっくりと話して下さい。イサラさん、サイナさんを立たせて、床に寝かせてあげて。誰か、チョコレートを持ってませんか?一口で良いです」
「チョコレート。そうですね、今からでも用意すべきですね。きっと喜んで」
「サイナ、大丈夫だよ。まずは呼吸をしよう」
そう言って私の腕を掴み、立たせた私の腰に腕を通し、肩を押しながら床に押し付けてくる。優しい手腕だった。これがもし彼であったら、私はどうなっていたか。
「あ、ダメ!!」
思わずイサラを押してしまう。
「サ、サイナ?」
「私を押し倒して良いのは、彼だけです!」
そうだ。私を押し倒していいのは彼だけだ。あの笑みを浮かべながら私の肩を押して、一緒に深いベットに落ちる。彼の肌を見るのはまだ早いが、一緒に寝息を。
「お、落ち着いて下さい、その彼?彼はここにいませんから。さぁ、ゆっくり横になりましょう。そうです、サイナさん、明日のマラソン大会の為にあんな大きな車を用意してくれたんですね。きっとすごく高かったと思います」
「あ、そうそう。みんな驚いてたよ。駐車場にあるあの車を見て。あんな資金力があるのはサイナっちしかいないって」
「はい、彼を乗せるのですから。あれぐらいないと、一緒に同じ空間で」
「大丈夫だよ、その彼が待ってる病院にもうすぐ行けるからね」
立ち上がったイサラが私の両手を掴み、僅かに上へと持ち上げる。自然と腰が引けていく私は下半身から制服が敷き詰められている床に落ちていく、最後には完全に上半身まで床に落ちる。そして、誰からか受け取ったらしいチョコレートバーをミトリが砕いて手渡してくる。大量生産だというのに悪くない味だ。どこのメーカーだ。
「サイナっち、ひとまずスマホを貸してね。あの車、病院に運ぶから」
「ああ、彼と私の為に運転手を担当してくれるなんて………」
「う、うん。そうだよ、私もサイナっちの手伝いが出来て嬉しいよ」
「まだ来ないのですか………サイナさんはこんなに………」
横になった所為だ。うつらうつらしてくる。彼との時間を夢でも見れればいいのだけれど。現実でも夢でも彼に会えるなんて、私にはもはや逃げ場所はないのか。
「サイナさん、ゆっくりと目を閉じて。眠ってもいいですよ————見ているのなら、保健室から先生を呼んで毛布を持って来て下さい!!!はい、開始!!!」
ミトリが、恐らく振り返って教室に残っていたクラスメイト達にそう叫んだ。慌てて走り出した彼らの足音をバックに、私は完全に目を閉じる。どうせなら、彼の腕を枕にしたかった。
「はい、そのまま大きく吸って、吐いて———気持ちいいですか。続けて下さい」
ミトリの心地いい声に従って呼吸を続けるだけで、こんなにも安心できるなんて。
「………ミトリさん」
「はい、サイナさん。どうしましたか?私はここにいますよ」
「ミトリさんにでしたら、彼を紹介しても良いですよ………彼の紹介合いをしましょうね………」
「ありがとうございます。楽しみにしていますから————」
まるで床を突き抜けて落ちて行くようだった。私の身体は重く、柔らかなベルベットで包まれる。その色はきっと赤だ。甘い眠りに相応しい赤い布だ。不意に身体が持ち上がり、落ちた腕を誰かが拾い上げてくれる。この手を知っている。先生だ。
「サイナさん、聞こえる?このまま一緒に救急車に乗りますから。面会を望む人はそれぞれ自力で、皆さんはあの車で来て下さい。ミトリさん、先生に容態の説明を」
そのまま一緒だけ湿り気のある空気に晒されるが、恐らく車内へと連れ込まれた。
「サイナ、サイナ大丈夫?」
「………シズクさん」
「もう面会時間が終わったから、みんな帰ったよ。スマホ、預かったからテーブルに置くね」
システムベッドの上に寝かされていた私の顔をシズクが覗いている。またベッドの上に備わっていた机に、件の私のスマホが置かれており、恐らくたった今シズクが置いたのが想像される。ベットから状態を起こし、ぼやける目でシズクの顔を眺める。
「………ここは」
「病院だよ。サイナ、搬送されて来たの。私の顔は見える?」
「………ええ、見えます。シズクさん、顔が白いですね」
「サイナも白いよ。待ってて、今水を用意するから」
立ち上がってカーテンを閉めて出て行ったシズクの影を追う。この病室には見覚えがある。過去、私は数日入院していた病室だ。だが、腕を拘束していた革のベルトの形跡もなく、オーダーの運営している病院だと言われなければ気付かないかもしれない。机の上のスマホに手を伸ばし、時刻を確認する。既に20時を回っている。
「————えっと、今日は朝に病院に行って、そこで彼の所に案内されて————」
ゆっくりと思い出していると、シズクが戻って来た足音と影、また後ろには大人の影がふたり伴っていた。背格好だけで分かる。あの医者と帰って来るように言った看護師だと。シズクと何か話し込んだ後、あの医者の声が聞こえてくる。
「私の事はわかるな。開けてもいいだろうか」
「………はい、どうぞ」
「失礼するよ」
カーテンを開けて顔を見せた医者は、一日中働いていたであろうに顔色は朝と変わらなかった。私の許可を取って脈や聴診器、眼球運動や気分を確認した後、後ろの看護師に何か告げて退室させる。一連の動作には迷いもなく、憧れを持ってしまう。
「私も彼と、先生達みたいになりたいです………」
「お褒めに預かり光栄だよ。だが君は看護師ではなく商人を目指しているらしいな。良い商品があったら発注させて貰うので、販路の拡大を続けて欲しい。ちなみに、彼はまだ眠っている。もうこんな時間だ面会は認められない。君も今日は休んでくれ」
「………私、どこか悪いんですか」
「色々言い方はあるが徹底的に疲労、ストレスによる余波だろうな。別の車から追いかけて来た彼女、君の診察と応急処置をした彼女の判断は正しかった。一日という長い間の混乱があり、言語機能の乱れ、認知機能の著しい低下が起こったようだ。オーダーなのだから身体は資本だ、決して休息を疎かにしてはいけない」
「明日には退院できますか………」
「正直認めたくないが、明日はマラソン、だったか?オーダー校による行事と担任の教師から聞いた。君へのペナルティーや保護観察は設けないと言われた。だが————君が求めるのなら軽い運動程度は認めよう。その為のあの車両だろう」
「………はい」
「明日の朝の検診で問題がなければ外出を認めよう。そして行事が終わり次第、速やかに病院に戻ると約束するなら参加許可も与える。言っておくが無理はしないように。では、失礼するよ————」
再度カーテンを閉めて、あの医者は出て行ってしまった。代わりにシズクの声が聞こえる。
「私はもう少しヒジリの部屋にいるから、何かあったら呼んで。水、置いておくね」
カーテンの下から手を入れ、ペットボトルを置いてシズクも退室、明かりも消して行った。ひとりになった私は枕に頭を深く落とし、呼吸を整える。
あまり記憶には無いが、私は多くの人に迷惑を掛けてしまったようだ。だが、思えばこの一週間、マラソンの話をされてから週末である明日まで、確かに気の休まる日が無かったかもしれない。それもこれも自分で蒔いた種ではあるが、激動の日々だった。こんなに疲れたのは入学試験の前日から終わりまでの三日間にも匹敵する。
「………疲れましたね。平日休みは貰えるかもしれませんけど、個人的にも休暇を取ってもいいかもしれません。彼も明日は参加しないで、しばらく休むでしょうし」
さっきまで眠っていたらしいが、思えば今日も5時には起きていたのだ。数えれば15時間以上、ずっと活動していた事を考えればこのまま泥の様に眠ってもおかしくない気がして来た。だが、ミトリには悪い事をしてしまった。朝も放課後も、昨日の夜にも世話になった。その上、病院にまで同行して、私の容態の説明なんて。
「………知りませんでした。私もかなりダメな人ですね」
「すみません、私まで乗せて頂いて」
「大丈夫ですよ。こういう時の為の車両です」
ミトリを含めた私達3人で後部座席に乗り、無人街を目指していた。朝一番で4人が揃って私の病室に入り、体調や気分の確認などをして来た。問題ない、と言って運転手を買って出てたが、未だ入院患者扱い、外出許可が出ているに過ぎないと、後ろからあの医者が言うものだから、イサラが助手席を取り、髪を自分の色に染めた友人がハンドルを握っていた。
また、大丈夫、というのにミトリが私の隣から離れず、顔を見つめてくる。
「はい、顔色が治りましたね。朝食は取りましたか?」
「全部頂きましたよ。ただ、あまりおいしくは………」
「でも、全部食べた、それはすごい事です。流石です、サイナさん」
何をしても褒めてくれるミトリには魔性の魅力があった。思わず私自身が堕落してしまいそうにも思え、溢れ出る献身性から逃れるべく、優美な友人に視線を向ける。
「シズクさんは見ませんでしたか?挨拶もしないで来てしまったので」
「サイナさんの入院室に向かう直前、お見かけましたので、もし良かったら、この後、ご一緒にと言ったのですが、入院している方がいて放っておけないと。後から向かうから先に行って欲しいと言われました。サイナさん以外にも中等部で入院している方がおられたのですね。でも、その方は確認していません。申し訳ありません」
「いいえ、教えてくれて、ありがとうございます。そうですか、後から」
役割分担と言いながら、昨日も今日もシズクに彼を任せてしまっている。明日の休みを挟んで、来週の一週間は私が彼の世話をしなければと誓う。学校を休んでもいいから、彼との時間を作るべきだと思った。
「そーいえば、サイナっち。うわごとみたいに言ってた彼って、あの人なの?」
「あの人?」
ミトリが誰、と言った感じに呟いた。
「————はい、彼です。あの人です」
「そっか。会えたんだ、良かったじゃん。おめでとう、サイナっち」
おめでとう、という単語に合わせて、口々に祝福の言葉を上げてくれる。ただ一人置いてけぼりのミトリも疑問符を浮かべながらだが、「おめでとうございます?」と言ってくれる。この場にキズキも居てくれたら、同じ様に言ってくれただろうか。
「サイナさん、新しい恋ですか?」
「いいえ、初恋が実りました」
「まさか、略奪が成功したんですか!!」
新しい恋、という単語にも車内の空気が確実に色めき、その直後の初恋が実った、もさることながら、略奪が成功した、という大爆撃が成功してしまった。
「りゃ、略奪ですか!?そ、そんな————なんて純愛でしょう」
「純愛からは程遠いのでは………いえ、むしろ長い初恋が勝利した純愛そのもの?」
いつかの仇だったのかもしれない。だが、大人しく受け入れる事にした。一昨日の夜、そしてバレンタインでの時間でも、ミトリには世話になったのだ。そろそろ自分を種に花を咲かせるのもやぶさかではなかった。いや、正直に言ってしまおう。
「今日は無礼講ですよ、何でも聞いて下さい。私、なんでも話しちゃいますから」
こういう事にした。無論、具体的な名前は言わなかったが、ここ数日の経験をして来た者達からすれば、私の語った内容には嘘偽りはないとわかるから。しかも、もうすぐ春だった。春一番も吹くだろうし、春の雨もさざめく頃だろう。
一足先に私を桜に見立て、花見をしても悪くない。むしろ、聞いて欲しかった。
「じゃあ、そろそろ、その彼、教えてくれなーい?」
「はい、きっと素敵な方なんですね。ミトリさんも知りたいですよね?」
「はい、ぜひ聞きたいです。秘密も内緒も————」
ミトリが全て言い終える直前だった。私のスマホに着信が届く。腰を折られてしまったミトリに視線で謝罪をし、通話を許可し連絡口の相手の名前を呼ぶ。
「シズクさん、どうされました?」
「————ヒジリ、ヒジリが参加するって」
既に何台かの車両が到着しており、私達は全体の3割目ぐらいの順番で駐車場に入った。温かな空気、湿気もあり、日光も心地よく、世間一般で言うか知らないが絶好のマラソン日和だった。認めたくないが、オーダー中等部の判断は、特別外している訳ではなかったようだ。男子生徒も女子生徒も、自身が作り上げた戦闘服に身を包み、万全を期している様子も見受けられる。早く終えて、帰りたい、と暗に告げている気もしたが、もしかしたら、この気候の中を走るのも悪くないと考えているかもしれない。————私は、そうであったらいい、と考えてしまった。
「で、もーすぐ来るんだよねー?」
「………はい、そう言われました。彼の体調が悪化しなければ」
「入院しておられると聞きましたが、その彼も軽い運動なら許されたのでしょうね」
「———うん、きっとそう」
顔を知っているイサラが頷いた。彼の眼が覚めた、という連絡を受けた私達は、せっかく会えるなら、と話を一時中断し彼とシズクがオーダーの車両で到着するのを待った。思えば、正気に戻った彼と対面するのは、今日が初めてだった。
「一体、どんな方なのでしょう。イサラさんは一度お会いしたと」
「少しだけだけどね。ほんとにちょっとだけ、だから記憶にも残ってないと思うよ」
「ふーん、まぁーこれから覚えさせて貰おっかなー」
彼の事を知らないふたりは、初恋である私の意見である、素敵、という単語しか知らない。おおよそ話半分、と言った所だろう。私も眠っている彼と目覚めている彼の違いには、少しだけ怯えを感じ始めていた。しかも、病院側の出した条件があった。
「無理に話し掛けてはいけない。彼は、他人とのコミュニケーションの取り方をまだ思い出せていない。過去の再現を完全には取り戻せていないから———」
気安く話かけられる訳でも、自分を売り込む事も出来ない。だけど、徐々に彼の感情に刺激を与えて、話したい欲、理解されたい欲、自分の事を知られたい欲、などを教えて行く必要がある。それがいつかはわかないが、きっとそう遠くない内だ。
「ミトリさん、知りませんでした。運営側だったなんて。特別扱いですね」
「そりゃ、あのミトリだもん。ある意味、保健室の先生と同等かそれ以上に頼りにされてる子だからね。見たがってたけど、時間がないって行っちゃったね」
「必ず紹介します。約束しましたから————きっと、その時にミトリさんの彼も」
見えてしまった。連絡を受けて、説明されていた車両が。
「ワイルドハントじゃーん。あの病院、あんな車も持ってるんだねー」
違う。あの車は病院の物じゃない。確実にオーダー本部、省庁の所属だ。
黒いワイルドハント、低い重心から成るハンドリングの良さ、頑丈さに高い馬力までを備えた、オーダー法務科が多く保有する、オーダーが開発した———事実上の護送車。逮捕した犯罪者、或いは守らなければならない護衛対象を送り届ける走る鎧。
ひと際目立つ漆黒の車体が、光の照り返しをしながら駐車場の中央に停車する。何も知らなくても、ワイルドハントという高級車であり公用車を目にした他の中等部生も、何事かと一斉に視線を向ける。まず、降りて来たのは我らが担任。
「あ、先生」
特に気にした様子もなく、優美ながら割と上から目線の選び方をした友人が呟く。
次いで降りて来たのは、運転手の黒服。確実にオーダー本部の監視人だ。また、次はシズク。それだけで、肩透かしを受けたらしく、視線の一斉が鈍るのを感じる————だが、運転手がもう一つの扉、自身の後ろであり、シズクの隣の座席に通じる扉を開け、その人を降ろす。たったそれだけの動作だ。一工程で済む、それだけの行動の結果————皆一様に言葉を失う。ただの一目で目を焼かれ、視線を外せなくなる。私も改めて息を呑んでしまった。その、後光さえ感じさせる姿に。
「————嘘」
優美な友人が一言。気だるげな友人は言葉を失い、イサラに至っては二度目である筈なのに、またも頭を揺らしてしまう。あの力は失われた。それなのに、絶句する程の次元違いの美。到底、ただの人間では纏う事は愚か、目に入れる事さえ叶わない光。そんな光の人が、眩し気に手を太陽へかざし、目を細める。
「まずい、私————倒れそう———」
ようやく言葉を取り戻した気だるげな友人が呟く。
目を細めただけだ。誰に向けた訳でもない。なのに、ただの目蓋だけで、皆言葉を失ってしまう。女子生徒は言わずもがな、男子生徒すらも目を閉じられずにいる。
格が違う。同じ血肉を持つ存在とは思えない。どうすれば、あれほどの姿を今まで隠して来れたのか。オーダーは、あれほどの何かを、何故今まで隠して来たのか。
「シズク————」
ただの言葉だ。しかも、自分が呼ばれた訳じゃない。なのに、その響き渡る美声、声の強弱、息遣い、空気に震わせ、余韻まで、全て可視化されそうだった。
「思ったより、暑いな。今日は、何度だったか」
「えーと、16度。季節外れって訳じゃないけど、少し早い暑さかも」
「そうだな。でも、良い空気だ。春はあけぼの、夜明けじゃないし、もう冬は過ぎたけど、春の朝も良いものだ————味も感じそうだよ」
「君の場合は春眠暁を覚えず、じゃない?少しは目が覚めた?」
「ああ、ゆっくり話せたからな。それに良い車だった。いつか欲しいよ」
特出する会話じゃない。送られて来た二人が軽い世間話をしているに過ぎない。なのに———なのに、どうして誰も視線を外せない。どうして、シズクはあんなにも朗らかに、楽しそうに彼と話せている。彼の言の葉を正しく咀嚼出来る。羨ましい、憎らしい。これは嫉妬だ。自分に無いものを、見せつけられた、ただの負の感情だ。
「先生」
「あ、はい、ヒジリ君。どうしましたか?」
「送ってくれて、ありがとうございます。お世話になりました」
「私からもありがとうございます。先生が手配してくれたんですよね」
「え、ええ。朝早くでしたから、少し手間はかかりましたけど。ヒジリ君、病院の先生に言われましたけど、無理はしないように。今日は軽いジョギング程度で良いですよ」
あの担任が、笑顔を鉄仮面にしている先生が翻弄されている。担任自身も気付いていないようだが、私達に対して使う言葉と雰囲気が違って見える。恐れている。
「そう、ですか………はい、無理はしないように気を付けます」
「約束ですよ。じゃあ、先生は行きますから。シズクさん、彼をお願いします」
「はい、しっかり見張っておきますね」
その後、運転手に軽く会釈をした二人は、無人街へと向かって行き、その姿を隠した。そこでようやく時間が動き出す。確かに感じた。世界が止まったのを。時間さえ彼の美しさに屈服して、その身を放置していた。次いで、私達の世界も動き出す。
「————サイナっち、あの人が彼————」
だが、未だ放心状態であるのは間違いなかった。彼の姿を初めて目にしてしまったのだ。無理からぬ事だった。残り二人は、彼の残像を追って、無人街に目を向けている。
「はい、あの人が彼です。私のパートナー。ヒジリさんです———欲しいですか?」
きっと許し難い言葉であった事だろう。思わず睨みつけてしまう程に。だけど、それは私が1年以上も感じ続けた、追い続けた感情だ。私こそ許し難い。あんな彼を1年以上も隠し通し、誰の眼にも触れさせないで、別棟の最果てに閉じ込めていたなんて。だけど、これからは違う。これからは、私は彼に触れられる距離にいられる。彼を容赦なく堕落させられる位置を独占出来る。欲望は言葉にすべきだった。
「欲しくないんですか?」
「………欲しい。くれるの?」
「欲しいです—————」
「私も、欲しいよ—————」
皆目が正気ではなかった。彼を見て、彼を求め、彼を使う。この場にいる皆がそう想像、いや、今後の設計を立てている事だろう。だけど、それが許されるのは私だけ。彼を使い復讐を果たすも、彼を見せびらかすも、彼をただの私利私欲で遊ぶも私の勝手だ。もうあの力はない、遠からず、私の名がシズクを通して伝わる事だろう。
「—————あげません。彼は私の物。誰にも渡したりしません。ずっと私の物」
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