第24話

 そこにいた。病室のベッドで目を閉じていた。

「静かに。ずっと眠ってるの」

 口元に指を立てるシズクが小声で、そう告げて来た。

「でも、大丈夫。脈も心拍も、脳の活動も正常だって」

 今も寝息を立てている、その人にシズクが近付いていく。無防備に、何も装着していない彼に。

「シ、シズクさん………」

「こっちに来て。大丈夫だから」

 脛はもう砕けていない。爪もある。なのに、一歩が重く痛かった。

「見て、もう大丈夫」

 3度目の言葉で、ようやく呼吸を取り戻す。倒れそうになる身体を使い、揺れる視界の中に、彼の寝顔を捉える。システムベッドの中央で白い病院着を着込んだ少年。あの顔は変わらない、数度しか見ていないが、紛れもない、私の初恋の人。

「そ、そんな、あの力は………」

「わからない。この病院に運ばれた時には、もう消えてた」

「わからない………」

 見ているだけで意識が遠のき、彼しか考えられくなるあの魅了としか言えない力。

 それが消えている。見るだけで万人に降り注ぎ、心の内側から私を染め上げていった、侵略や洗脳すら生ぬるい、脳に直接植え付けていく、あの圧倒的な力は、もう消えていた。

「多分、状況から見てソソギ達が何かしたんだと思う。でも、ソソギもカレンさんも、何も言ってくれないの。先生達も詳しく教えてくれなくて。サイナは何か知ってる?」

 あの保健室で何が行われたのか、それは私にもわからない。

「い、いいえ。私も中には入れさせて貰えませんでした」

「そう、だよね」

 彼が届けられるのは早朝。誰も登校していない時間に行われる。そして、ソソギ達が彼を攫ったのも、その直後。具体的な時間はわからないが、手術や治療、あの力を消し去る程の何かをしたのなら、その短時間での————。

「あ、」

 目を開ける。彼が、僅かに薄目を開けて、また眠ってしまった。

「昔はこうだったの。一度眠るとなかなか起きなくて、何度か揺すってようやくって感じ。まぁ、それでも起きない時もよくあったんだけど。眠るのが好きな人なの」

「眠るのが………」

「病院の先生から言われたの。無理に起こしてはいけないって、今は自力で起きるのを待ってくれって。私も、今は眠らせてあげたい。眠るのが好きな人だから」

 シズクが彼の手を握り、未だかつて見た事のない微笑みを浮かべる。

 美しかった。彼の身を案じる、きっとただの幼馴染では済まされない顔。

「ごめんね。こんな朝早くに来てくれたのに、眠らせるなんて」

「………本当に、彼は、もう大丈夫なんですね」

「うん。もう大丈夫。私が保証する」

 改めて彼を眺めてしまう。その顔は眠っているのだから、あの微笑みは浮かべていない。だけど、彼の顔は、本当に、本当に—————。

「ああ、カッコいいですね………」

 私の好みの真ん中も真ん中。私の想像から作り上げたのかと問いたくなる、震える程に整った、見目麗しく、眉目秀麗で、暴力的で、圧倒的で、完璧で—————。

「サイナ?大丈夫?」

「彼は昔から?」

「………昔から、いや、昔はもっと幼くて可愛くて………」

「もっと可愛いなんて————今でも、こんなに可愛いのに………」

 想像するだけで溜息が出る。この容姿の未熟な幼さなど、一体どれほどの女子小学生を虜としただろう。中には危険な思想を持ってしまう、同性の友達だっていた事だろう。

「でも、相当なダメな人だよ」

「こんなに顔が良くてダメなんて………私、トキメいてしまいます……」

「そうだったね。サイナ、ダメな人が良かったんだよね………」

 私達が見ているというのに、無防備に寝息を立てている彼が愛らしくて仕方ない。もし、シズクがいなかったら、もし彼がシズクのものでなければ、つい魔が差してしまったかもしれない。指のひとつでも触れてしまったかもしれない。

「ありがとうございます。シズクさん、彼の元に案内してくれて。これで心置きなく————」

「うん、お世話して貰うね」

「ん?」

「お世話して上げてね。そう言われたでしょう」

 何を言っているのか、分からなかった。だが、当のシズクは気にした様子もない。

「大変だから覚悟してね。きっと後悔するし、嫌になる時も来ると思う。だけど、もう済ませたって言うんだから責任取って。私も、出来るだけ手伝うからさ」

「え、で、でも、彼は記憶が」

「もう治ったよ。もう正気になった。ちゃんと世界と現実を認識出来る。自分と他人、人の都合も、自分の事も別けて考えられるようになった。戻って来てくれた」

 彼女の言葉の全てがわからなかった。彼の記憶に定着した人間に見捨てられたり、裏切られたら、もう正気には戻れない。帰って来れなくなる、そう聞いた筈だった。

「夜中、そう診断されたから連絡したの。何度も知らない人に話し掛けられて、何度も実験とか、テストとかされた。試されるのも、知らない人と話すのも、あんまり得意じゃないのに、すっごい頑張ってくれた。でも、頑張れるって事は、世界を見つめられるって事。自分の現実を理解出来てる証拠だって。きっと疲れたと思うの」

「でも、確証がある訳。それに人の心と脳の診断なんて、絶対的じゃ」

「それは否定しないよ」

 そう言って、あの白衣の医者が入室して来た。

「どうやら相当ドタバタして、ここに飛び込んだようだな。こんな時間に呼び出される私の身にもなってくれると有難い。彼の様子は?」

「あ、ずっと眠っています」

「あれだけ脳を酷使したのだ。一日は目を覚まさないだろう。寝かせてあげなさい」

 そう言って医者はベッド傍らの椅子に座り、彼の手首を掴み脈を。そして彼の前を開けて————。

「す、すみません!!」

 あまりにも刺激的過ぎた。思わず目を背けてしまった。

「うん、良い判断だ。倒れられでもしたら、もうひとつ仕事が増えてしまう」

 恐らく心拍を測る聴診器を使っているのだろう。目を逸らしながら数分を過ごした後、医者が「もういいぞ」と言うのを信じて、視線を下から向ける。そこにはシズクの手によって胸を閉じられ、布団を被せられた彼がいた。思わず一息ついてしまう。

「サイナ、あれだけヒジリを探して、恋を語ったのに。結構初心だね」

「シズクさんが幼いだけです!!」

「わ、私は幼くなんてないよ!!ヒジリの世話をし続けた経験が活きてるだけで————」

「静かに。彼が起きてしまう」

 スマホに何か打ち込んだ医者は、最後に彼の顔色を確認する。

「血の気も差して、健康的だ。明日の朝にでも退院できそうだな」

「あ、あの先生。この人の容態は」

「—————名付けるとしたら、いや、やめておこう。それは彼にはもう必要のない名前だ。先ほど君が言った通り、人の心と脳の診断結果に絶対はない。必ず私達でも見逃してしまう病症がある。心の表層である自我、本能よりも深い、心の奥底、深層、アートマン、真我と呼ぶ宗教もある。そこは自我意識を作り出す、潜在意識。更に底には集合的無意識と呼ばれる全ての人が共有する海がある。母親、という概念はあるな。誰に言われるまでもなく、母親は母親として子供を守る存在だ。難しく考える必要はない————彼には、それがないのだよ」

「ない?」

「そうだ。心もある。脳で外界の認識も出来る。ならば、自分と他人という存在の区切りもつけられる。だが、彼には決定的に欠けているものがある—————自分が何者かがわからない。人類が普遍的に古くから持ち合わせている心の型、夢、或いは心に根差した原型たるイメージがない。集団での自分の存在がわからないと言ってもいい。これの意味がわかるかい?彼は、何者にも成れないのだよ」

 それは、それは、言葉にすべきではない。してはいけないのだけど、

「生きている意味が………」

「生きる意味、という形のないものを探す人生は確かにある。だが、彼にはそれがわからない。知らないのではない、心と脳に合わないのだよ。彼の生い立ちは知らないが、心の奥底をまとめて消し去る程の、人という席すら失う程の経験をして来たのだろう。見た事のない患者だ、昨夜に会話出来ていた事が信じられない」

 立ち上がった医者は、その言葉とは裏腹に仕事は終わったと言わんばかりだった。

「彼をここに置いても、私達が出来る事はない。明日にでも退院させよう」

「だ、だけど先生。彼は、彼をどうする気ですか」

「どうもしない。彼に回復の余地はない。このまま生きて貰うしかない」

「先生ッ!!彼を見捨てるんですか!?医者でしょう!!」

「そうだ、私は医者だ。傷や疾患があるのなら、私は全力を持ってこの世に留まらせる。だが、彼は違う。違うんだ。彼は、もうこの世にいない。人間じゃないんだ」

 そのまま去ってしまう医者に、何か投げつけるべきかと思った。だが。

「ひとつ、言っておきたい」

「………なんですか」

「もし、彼の今後が心配ならば、彼に形を与えなさい————欲望を教えるんだ」

 その意味を測る前に、医者は去ってしまった。

「欲望を………それは、一体」

「私にはわかるよ。うん、すごくわかる」

 シズクはひとり、そう口にして彼の手を握りしめる。

「サイナにもわかる。ただお世話するだけじゃないって事だから」

「………どういう意味ですか」

「そう睨まないで。教えてあげるからさ」

 訳知り顔なシズクは彼の手を元の位置に戻し、ベッドから離れていく。そして、私の真横に訪れた時、口を開く。

「まずは寝顔も見れたし、一安心でしょう?」

「………それは、そうですけど」

「ひとまず、ここから離れよう。ヒジリを起こすと不味いからさ」

 そう言って、シズクは私の腕を取って病室の外へと連れ出す。僅かに彼の顔を見るが、やはり起きる気配は無かった。確かに、あのまま病院で会話をしていれば、流石に起きてしまう事が察せられた。その上、彼への欲望という言葉が気になった。

 


 シズクに連れられた場所はすぐ近くの休憩スペース。ソファーと机、自動販売機の設置された清潔で簡易的な部屋だった。壁側を見ればお茶やお湯が出るウォーターサーバーまで用意してある。しかも、まだ早い時間の所為だ、誰もいなかった。

「まずさ、何が聞きたい?」

「欲望、とはどういう意味ですか?」

「んー、じゃあまず、ヒジリの過去に付いてちょっと話そうかな。私視点だけどね」

 私の質問に答えないシズクを僅かに訝しむが、彼女は気にした様子は無かった。

「ヒジリはさ、小学校、いや、もっと前かな?もう思い出せないぐらい前から一緒にいるの。正真正銘の幼馴染、親同士も親しかったから、一緒に夕飯もバーベキューもしたし、親がいない日は私と一緒にどっちかの家で料理もした関係なんだ」

「………その頃は、あの力は」

「うんん。無かったよ。まぁ、あの顔だからちょっとだけ人が寄って来てたりはしてたけど。それでもちゃんと一緒に勉強も遊びも出来た。うん、誰にも邪魔されないで友達も先生とも仲良く出来てた。本当に————何が悪かったんだろうね」

 天井を仰ぐシズクの流し目が痛々しかった。

「小学校の4年生の時ぐらいに急に変わっちゃった。急に絵とか音楽とか、芸術に興味を持ち始めてね。ヒジリ自身は認めなかったけど、かなりの腕だった。ヒジリが描いた絵を先生が展覧会に送ったら、特別な賞を取れるぐらい。勉強も私ほどじゃないけど出来てたから、みんな褒めてた。………だけど、おかしくなった」

「おかしく?」

「………言っちゃうと、狂ったの。勝てない相手に急に挑んで大怪我したり、見たいって言って————腕を切って血を流したり。先生達、みんな怖がってた」

 いや、自分でやった—————あの言葉が蘇る。

「でも、抗って見えた。あの時から余裕がなくなって見えた。みんな、ヒジリから離れていった。ヒジリひとりになったの」

「その時から」

「いいや、狂ったけど、ヒジリは勝った。自分の狂気に打ち勝った。正気に戻って、みんなに怖がらせて悪かった、一緒に遊んで欲しいって言ってね。そしたらみんなヒジリと一緒にまた遊ぶようになって、先生達の目つきはちょっと怖かったけど、それでも無視したり隔離したりはしなかった。治ったんだって思った」

 なのに、なのにシズクの顔は晴れなかった。治ったのに、オーダーになんて、どうしているのか。そんなに芸術の才能があり、勉強も出来て、友達も多く、あの容姿があるのだ。それこそオーダーなのではなく芸能の道にさえ進む事だって視野に入った筈だ。

「どうして、オーダーに?」

「………あいつ、自殺したの」

 たったの一言。息を吐くような軽い声で発した。

「自殺—————」

「未遂だよ。うん、未遂だった————聞かないでね、方法は」

 疑問に思うことさえ出来なかった。頭が、あの単語を考える事を拒絶している。

「意識が戻ったヒジリが病室のベッドでさ、泣いて謝るの。正直何言ってるのか分からなかったけど————でも、謝って来た。で、オーダーに来たの」

「で、って」

「私にも詳しくはわからないんだ。ヒジリと家族の間で何があったのか。で、晴れてオーダーに入学。私も色々あって、ここに来たの。ヒジリには内緒でね————前に言ったけ、ヒジリがオーダーに来た理由。私の所為でアイツをここに落したって」

「はい、見学室で」

「真偽のほどはわからないんだけど、私がテストで勝って、ヒジリが負けた。だから、ここに来たって。そんな訳ないじゃんね。そんな理由でオーダーになんて送る親、いる訳ないもん。私も何言ってるんだって、思った。だけど、遠からず近からずなんだと思う—————あはは、ごめんね。秘密だらけで正確じゃない話続けて」

「いいえ、話してくれて、ありがとうございます。卒業式、参加したんですか?」

「………うん、私は卒業式に参加。ヒジリはその前にオーダー街。私、別の場所で受けたの。だから、入学した時期はみんなよりちょっと遅いんだ。サイナと一緒にあの行事に参加するほんの少し前ね。————なのに、ヒジリは卒業式に参加した記憶を持ってる。あり得ないのにね」

「————それが彼の現実なんですね」

「うん。時間の矛盾とか記憶の混濁とかあるのに、それを現実だと思ってる。もし、そういう事があっても訂正しないであげて。ヒジリにとって、それが正しい現実だから」

 自分だけの世界や現実は誰だって持ち合わせている。だが、それを他人から見た世界と合わせた時、どうしたって矛盾が生じるのは仕方のない事だ。

 彼はそれに輪をかけて、受け入れる心をずっと持てなかった。私達、第三者から見た大多数の世界と彼の世界はずっと前から交わっていなかったのだろう。狂ったのが先か、それとも世界との整合が出来ないから狂ったのか、もはやそれは些細な問題だ。

「こんな所かな、私から見たヒジリの過去は。もっと色々あるんだよ。最初は数学が苦手とか」

「シズクさん、最初の質問、覚えていますか?」

「欲望の話、だったね。でも、なんとなくわかるんじゃない?」

「————彼には何もない。指針となる感情、いえ、感情の発生源たる海がない」

「そう。自我はあるかもしれない。だけど、それは薄っぺらくて、心の表層を軽く包んだ、過去の記憶による再現。ヒジリに必要なのは世間一般で言うところの欲望っていう概念」

「外界からの刺激。内部から湧き上がる物がない以上、外側から常人が求める欲望という形を教えて、心に与えて、養わせ、形成、自我意識から潜在意識へ影響を及ぼさなければならない———ですね」

 内側から外への干渉がない以上、外殻である自我を形成し続ける力はない。

 そう遠くない内に完全に停止してしまう。だから外からの振動を与えて内側にまで届かせ、その形を作り上げる。いずれは内側が波打つのを期待するが、それまでは私達が彼に欲望という心が分泌する概念を教え、与え、彼に自力で欲望という生きる意味を作り出させる。つまりは————。

「だから、その、言い難いけど、ヒジリが自分で求めるまで、色々与えて欲しいっていうか」

「ちなみにですけど、シズクさんは、色々与えたんですか?」

「食事とか眠る世話はしたけど、流石にそれ以外は………」

「—————やっぱり、そういうものですよね」

 確かに、人が求めるものは千差万別だ。芸術、美食、闘争、名声、物欲、様々だが、あの年齢の男性が求めるものなど嫌でも想像が付く。しかも、私はそれを長く求められてきたから。何を嫌がる事がある、堕落させる為なら何でも出来ると決めた。 

 それも、捧げられるのが自分の初恋の人で、ずっと探し求めて来たのだから。

「でも、多分難しいよね。サイナ、かなり初心だから」

「う、初心では………はい、正直彼の裸に耐えられる気がしません………」

 顔だけであれだけ舞い上がってしまうのだ。もし、裸で求められでもしたら———いや、そんな事を言ってられない。

「いえ、いえ。私、耐えます!!求められるまで、何度も———」

「何度も?」

「………その、同年代の男性って、やっぱり肌を見せないと?」

「いや、サイナ。中には肌を見せなくても興奮する人もいるそうだよ」

 そんな話をしていると、看護師が入って自動販売機を使用、水を購入して出て行く。思わずシズク共々うつむき、無言の時間を作ってしまう。

「ま、まぁ、それをヒジリが求めるかどうかは別にして、まずはヒジリのパートナーを買って出てくれてありがとう。私もずっと見れる訳じゃなかったからね」

「………でも、私は結局彼からすると他人です。それに、シズクさんは、」

「私?」

「………恋人なのでしょう」

 思わず伏目がちに睨みつけてしまった。彼女は幼馴染という圧倒的なアドバンテージを誇る、最強の恋敵だ。昨日、散々ミトリに嘆いたのだ。彼女の高潔さその蠱惑性は身に染みて知っている。もし私が彼のお世話をしても、彼が私ではなくシズクを求めたら。

「ち、違うよ。私達、そんな関係じゃ————」

「私には分かります。シズクさん、絶対ヒジリさんに恋しているでしょう?」

「違うって!!第一、私は王子様を待ってるの!!ヒジリは王子様って柄じゃないじゃん!!」

「でも、王子様な顔はしてますよ」

「確かに、相当な顔だけど———ダメ、やっぱりダメ!!」

「渡せませんか?」

「そうじゃないって!!私はヒジリの世話は出来ても、恋人にはなれないの———そう、決めたから」

 その声には、確かな感情があった。

「————シズクさん、いいんですか?」

「良いって、サイナが持って行って。そうすれば、私も肩の荷が下りるから」

 きっと彼女は、この瞬間を待ち望んで来たのだろう。彼の恋人にはなれない、成ってはいけないと身を引きながらも、彼のあの力に煽られながらも表面上は正常に振る舞えるのは、自分だけだったから。もうあの力はない。だから、これがいい機会だと。

「シズクさん、」

「良いって。私は最初から、」

「ヒジリさんはダメなのでしょう?」

 立ち上がって問い質した私に、シズクが顔を上げる。

「人と会話が出来なくて、試されるのが嫌い、なのに顔がいいから人に求められる。ダメでダメのダメです。そんなダメな人が唯一心を許している幼馴染に去られたら、どうすればいいのですか。あなたが言っていた事です、彼を途中で見捨てるのなら関わらないで。彼を見捨てる、裏切る気ですか?」

「………」

 シズクはこれまでずっと彼の世話をして来た。罪悪感という常人でさえ簡単に狂ってしまう感情を1年以上も続けてきた。そんな彼女に説教など許される筈もない。

「あなたがお弁当を作って、彼に与えていた事を知っています」

「………そっか、知られてたか。だけど、毎日じゃないんだよ。たまには友達と」

「はい、これからは友達と一緒にお昼を取れます。私もいますから、ふたりで分担も、いえ、彼ひとりで取らせる機会も設けるべきです。最初は遠くから監視すべきですけど。だけど、急に親しい人が居なくなり、疎遠になる感情を、彼に思い出させる気ですか?謝ったのでしょう、一緒に遊んでくれと」

「あぁ………」

 数分前のシズクの言葉だ。狂った彼は、自分の狂気に打ち勝ち、正気に戻った。そして、友人達の輪に入る努力をした。小学生どころか私達でさ、そんな事を出来る人は多くない。それも彼の誠意が伝わったから、友人達も許したというのに。

「シズクさん、私、あなたが誇らしいです。彼の為に時間を使っていたなんて、知りませんでした。あなたは、確かにたったひとつの命を救っていた。ならば、」

「責任取らないとね。うん、せめて自力でお昼が取れるぐらいまで見張らないと」

 ようやく立ち上がったシズクに手を伸ばし、握手を交わす。これはひとつの協定だ。

「まずはひとりで授業。次にバス、かな」

「そしてお買い物に料理。料理は自立の第一歩ですよ」

「大変だよ。前に私の方が上手くオムライス作ったら、もう作らないって投げ出したから」

「それは腕が鳴ります。料理が出来るダメな人に育てなくてはいけないなんて」

 今も眠っている彼はこんな協定が結ばれている事を知らないだろう。

「じゃあ、私は今日一日ヒジリの傍にいるね。急に起きて寂しがるかもしれないし」

「はい、お任せします。では、私登校しますね。帰りにまた来ますので」

 言葉数少なく、私は病院を後にし、

「まだ時間はありますね?」

 休憩スペースから出る直前だった。そこにはあの看護師が立っていた。

「診察時間前の侵入は、患者の為だったと許します。だけど、病棟内の走りは許可しかねます。まだ6時台です。オーダー中等部の予鈴まで1時間以上はありますね」

「で、でも、移動時間が………」

「なら、あなたは仕方ありませんね。だけど、今日一日彼の傍から離れない、と言ったあなたは違いますね?」

 シズクの視線を向けて、近づいていく光景にほっとする。そのまま去ろうとする。

「だ、だけど、サイナも学校が終わり次第戻って来るって」

「それは良い事を聞きました。必ず来るように、来なければ中等部に連絡させて頂きます」

 どうやら、今日という日は長く続きそうだった。



 今日の私は終始ご機嫌だった。何故かって?それは勿論、彼の寝顔を見れたからだ。光を纏うが如き絶世の美少年。美しく、儚く、脆く、だが確実に存在するとわかった。あれは夢などではない。今すぐ病院にとんぼ返りすれば、あの顔を供給できる。普段と比べても変わらない時刻に到着した私は、朗らかに心躍りながらホームルームを待った。そして、到着するクラスメイトの顔も見なかった。

「ああ、どうしましょう」

 彼がいる。彼が笑ってくれる。彼の微笑みがある。誰にも奪われない、私だけのパートナー。シズクも恋人という立場ではないと判明し、人に知られる立場ではなかった事から、完全に彼はフリーだと目される。つまり、私のしたい放題に出来る。

「何を差し入れしましょうね。シズクさんに好物を聞いておけば良かった、ああ、でも明日にでも退院してしまうのでした。なら送り迎えは私がしませんと。でも、あんな顔を持っている彼と一緒にバスに乗って噂でもされたら、私、もう校舎を歩けないではないですか。彼との関係を聞かれでもしたら、なんて答えれば………」

 めくるめく花の学園生活。それが決定しているこれから。2年生の3月。まだまだ2年の余裕ある時は残っている。既にバレンタインは過ぎてしまったが、カレンダーに記された年間行事はまだまだ残っている。合同訓練は勿論、宿泊訓練すらある。もし、男女混合でも許されでもしたら、彼は私と同じテント、狭い布一枚に覆われた二人だけの世界を作れてしまう。その時、自分は大人しく眠れるだろうか。

 彼の体温を感じながら、すぐ隣で目をつむり、あまつさえ腕枕を許可されたらどうしてしまう。写真を撮り、動画を撮影し、空気を保管し、眠りに付く。そんな大罪、私は最後まで受けきれるだろうか。到底耐え切れないではないか。こんな重い罰がこれから私に降りかかるなんて。許されない、許される筈がない、誰が許すものか。

 きっと私は自分の罪の重さに耐えきれず、そっと彼の膝に座ってしまう。

「—————!!!!!」

 眩いばかりの中学生活。外の世界がどうなのかは知らないが、これは私だけの、私にしか与えれない十字架。たったひとつの重い重い十字架。しかも、それは目に見える、人に指差される手に取れる罰の証。烙印と言ってもいい。誰もがうらやみ、誰にも支えられない私だけの罰。ならば罪とは何か?彼の今後のお世話が出来るというあまりにも深淵過ぎる、誰にも歩めない、私だけに許された罪の道。

「——————!!!!!」

 なんて罪深い私。なんて業が深い。罪と罰を同時に味わえてしまうなんて、しかも、これはいつかは反転する、許される時が来る解放への礎。彼の帰りを車両で待ち、私の用意した装備で敵を打ち払い、疲れ切った彼を私が慰め、抱き締めて上げる。そして、彼は耳元でこう言うのだ。

「サイナのお陰で生きていける————」

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