第23話
「ミトリさん、テレビをつけても?」
「いいですよー」
確認を取り、テレビの元へと向かい、テレビ台の上にあるリモコンで映像を映す。だが、あまり興味深い番組は流れておらず、適当に最近の流行らしい歌を流す番組で止める。アイドルである男性ユニットが激しく踊り、カメラが彼らの顔を抜いていく。それに対して、スタジオにいる女性観客が悲鳴を上げる。確かに世間一般でいうところの美男子かもしれないが。
「あの人の方がずっと好みです」
今も目に浮かぶ彼の顔。あの力に煽られた結果、見せた幻影かもしれない。
だけど、そうだとしても私は彼こそが好みだった。色々と顔に種類や呼称をつけているらしいが、あの顔はヒジリという名前で知られるべき顔だ。そう呼ばれるべき。
「お待たせしました」
中央の食卓にふたつのカップを乗せたトレーを運び、湯気を立てるカップを私とミトリ自身の元に置く。私もテレビ前から移動して、勉強机近くの位置に座る。
「サイナさん、歌に詳しいんですか?」
「流行は何度か聞きますけど、アイドルの事はさっぱり。彼らのユニット名すらわかりません」
「あ、同じですね。私も疎くて」
一度テレビに視線を戻すが、やはり彼らの良し悪しがわからない。顔も声も身体付きもいいのだろうが、オーダーの基準からすれば、貧相な身体付きとしか名状出来ない。たった数分で飽きてしまい、「消しますね」と確認を取って電源を落とす。
「お聞きしてもいいですか?」
「私の失恋ですね」
「ふふ、ごめんなさい。でも、なんだか放っておけなくて」
そう言って、くすくすと微笑む顔は、この顔が見れるのなら話してもいいかと思ってしまう魔性の魅力があった。また申し訳なさ50。興味深さ20。そして残り30は、私の為なのだろう。そして、ひとしきり微笑んだ所で口を開いた。
「では、聞きますね。失恋した相手、どんな方なんですか?」
「—————素敵な顔です」
「あ、顔ですか。もしかして一目惚れ、ですか?」
「初恋ですから、どうしても見た目が採点基準の多くを占めます」
楽し気に両手を重ねるミトリは、続けて質問をして来る。
「いつ出会ったのですか?」
「最初に彼を知ったのは1年生の頃です。夏休みに入った時です」
「あ、結構前ですね。お仕事で一緒に?」
「………シズクさんに紹介して貰いました。映像だけでしたけど」
「意外な知り方ですね。じゃあ、向こうはあなたの事を知らなかったのですね。もしかしてサイナさん、惚れやすいのですか?」
「違いますー!私は恋愛脳なんかじゃありません!もし、ミトリさんも見る機会があればご確認下さい!絶対に射止められてしまいますから!とは言っても、ミトリさんは既に射止められた相手がいるのでしたね」
彼女の彼が、どのような相手かは未だ以って知らないが、もしかしたら、あの背中を見ても、ふーん、程度にしか映らないかもしれない。だけど、それはそれで悪くない。彼へのライバルが減るという事だ。————もう、彼には会えないけれど。
「そ、そんな射止められたなんて。私は全然————」
「でも、部屋にまで通ってお世話している彼がいるのでしょう?」
「………はい、います。もう、私の事はいいです!それより続きを!」
恋愛脳はむしろミトリの方ではないだろうか。今の心底嬉しそうなうつむき顔には嫉妬してしまいそうになる。だけど、ここで質問を返す訳にはいかない。せっかく失恋の苦しみを吐き出す機会なのだ、出来るだけ吐けるだけ吐いてしまおう。
「あの人は私の事を知りません。クリスマスパーティーの時に、少しだけ見かけたのですけど、私いつの間にか倒れてしまって。でも、確かに向こうも私の事を見たんですよ。心配して見に来てくれてもいいと思いません!?ちょっと薄情なのでは!?」
「そ、そうですね。知らないとはいえ、冷たいですね」
「そうなんです!!しかも、別の女子生徒ととは親しく話していたのに!!あんな見せつけるような事をして、私には一言だけですよ。俺を見たなって、あれなんですか!!ええ、見ましたよ。何か悪いですか!?あんな顔してるんだから、見ない訳がないでしょう!!あの月の中、あんなかっこいいんですよ!!見るに決まっているでしょう!!」
失恋の愚痴が止まらない止まらない。聞いた本人であるミトリさえ慄いている。
「サ、サイナさん、お茶を飲んで下さい」
「止めないで下さい。その前、女子の訓練。あの時だってその女子生徒には運転手として雇われて、荷物運搬に荷下ろしに片付け、設置までしたのに私には姿も見せないで!!しかも、その女子生徒、彼に近づこうとする女子生徒をみんな追い払ったって————まぁ、それはいいんですけど。でも、私が帰った時に連絡して、手伝わせてるっていうんですよ、あの顔をずっと隠してたんですよ、許せなくないですか!?」
「ラ、ライバルがいるんですね。しかも、かなりの強敵ですね」
「うぅ、はい。すっごい強敵です………あんな、あんなに可愛くて料理も出来て、お世話も出来て、ずっと彼を独占出来て、しかもそれを彼も気にしていなくて、彼の為でもあって………許せません。だけど、私には太刀打ち出来ません………」
思えばシズクはずるい、本当にずるい、心底ずるい。オーダー入学前から彼の幼馴染をしているのだ。あまりにもスタートラインが違い過ぎる。幼馴染というのは幼い頃から一緒にいて、ずっと友達で、そして徐々に友達と男女の間で揺れる存在。だけど、揺れる以上、それがどちらに転ぶかわからない。しかもシズクには揺らす決定権もある。震度を自分で決められ、心の表面が揺れる程度でも、心の奥底を揺るがす大規模な天変地異すら起こせる神のような存在。しかも、それをヒジリも預けている。
「目下最大の敵ですね。あ、すみません。これは、」
「ええ、はい、失恋の話です………」
勢いが止んでしまい、続けて吐き出す言葉も尽きてしまった。大人しくお茶を飲み、一時愚痴を止める。良い香りだ、柑橘系の酸味は神経系に働く作用を持っており、言うなれば心を落ち着かせ、ヒステリーに利くらしい。
「私はヒステリーなんかじゃありません!!」
「ヒ、ヒ!?ヒステリーなんて思ってません!!」
突発的な言葉を我慢出来ず、それその物になってしまった。
「………すみません、興奮してしまいました」
「もう一杯、飲みますか?」
「………頂きます」
立ち上がったミトリがポットごと運んで来てくれ、継ぎ足してくれる。
「そんなに素敵な方なんですね。写真とかないんですか?」
「………そんなに親しくありません。前のミトリさんと同じです。でも、ミトリさんは恋が叶ったんですよね。おめでとうございます………」
「そ、そんな、まだそういう関係じゃあ」
「でも、通ってるって事は親しくしてるって事ですよね」
「………はい、親しくさせて貰ってます。あぁぁ………」
言ってしまった、といった感じだ。また顔を赤く染めうつむくものだから、これが彼女ののろけの合図なのだと察する。彼女はオーダーという立場でありながら一途に彼に恋をして、恋が叶う後一歩の今を楽しんでいる。もし叶ったのならどうなってしまうのか。乙女モードを越えた、この幸せモードに四六時中入るのだろうか。
「で、では、諦めたのですね。まさか、その女子生徒と彼が一緒になったんですか?」
「………私が入る余地などありませんでした。ずっと前から彼は彼女のものでした。そもそも彼はあの女子生徒がいなければ何も出来ない方でした」
「そ、それっていわゆる、ダメでヒモな………」
「ええ、ダメな人です。そして近い将来ヒモになっていたでしょうね………」
正直次の言葉が生まれない事から察せられる。だが、ここでそんな奴、や、あなたには相応しくない、と言わないのだから、ミトリは優しかった。
私だったら、私だったら————。
「でも、そんな彼が好きでした。ずっと待ち望んでいました。私がオーダーに来たのは、彼に会う為でした————」
今も目を閉じれば彼の笑顔が浮かぶ。あの背中を思い出せる。私は、確かに恋をした。あの力を受ける前から、ずっと前から彼一筋だった。これだけは誰にも否定させない。まごうことなき生涯でたった一度の一心不乱の初恋だった。
「す、すごいですね。本当に初恋だったんですね。では、諦めるんですか?」
「略奪は難しいかと………だって彼の心はもう」
「内側がダメなら外堀です!!外から刺激、埋めて、圧迫すれば、遠くない内に城を占拠できます!!後は忍耐力の勝負です!!サイナさんなら、必ず城を奪えます!」
「ダメなんです………あの人は他人との会話に耐えられないんです………外堀なんて埋められません。それに、城はもう落城しました。あるのは天守閣を失った城と既に埋められた堀だけです………大名には敵いません。彼は牙を抜かれました………」
彼の心はいつ砕けておかしくなかった。脳に定着した記憶の人に裏切られたら、もう帰って来れなくなる。既に彼は別の場所に移され、奪う事は出来なくなってしまった。私は、彼が手厚く看護されるのを祈るしかない。遠くから。
「う、すみません。そんなにダメな———ごめんなさい」
「いえ、いいんです。ダメな人でしたから。ダメだから私は好きになったんです」
きっと呆れ返っている事だろう。好きに、しかも初恋の相手がそんな人で、既に誰かの物であったなど。好きになった相手が悪すぎる。私の感性の判断ミスも良いところ。
「私の初恋はここまでです。悪化はするでしょうけど、発展も好転もしません。ジエンドです————ミトリさんの彼は、どんな方なんですか?」
「え、私の彼———」
「まだ彼ではないんでしたね。でも、どんな方なんですか?」
「もしかしたら、もしかしたらなんですけど、ちょっとサイナさんの初恋の人に似てるかもしれません………」
結局ミトリの部屋に泊めて貰った夜、ベットの預け合い争いに負けたミトリは、寝息を立てて就寝していた。清く正しい彼女の寝息には安眠効果があった。私も、うつらうつらしており、あと数分も経たずに眠りに落ちてしまうのが予想された。
「………あと、何回こんな生活が送れるでしょう」
私には罰が下る。しかも、大きな。そう遠くない内に痛感するだろう。自分のした事の重大性を。たったひとつの命を自分の為に使おうとした、しかも救済すら出来なかった無力な己の無謀さを。なのに、彼はそれに気付かない。彼は理解できない。
「ごめんなさい。ごめんなさい………」
枯れた筈の涙がまた流れる。あの部屋で流し続けた涙は自分の為だった。私は、これからは復讐の為だけに生きようと誓った。どんな事でもし、必ず私の復讐の為に、強く有能なオーダーを堕落させ手先にしようと誓っていた。なのに、私にはまだ流す涙があった。他人の為に流す涙は、こうも苦しく熱いのか。
「通話、」
私のスマホからだった。こんな夜更けの呼び出し初めてだった。
「ん、電話ですか?」
バイブレーションではあったが、ミトリも自身のスマホをそれに変えているのだろう。自分の事のように感じ、目を覚ましてしまった。申し訳なかった。
「すみません。外で————」
「大丈夫です。こんな時間なんです、緊急ですよ」
瞬時に意識が覚醒したらしく、ミトリは立ち上がってライトをつける。ミトリの好意に甘えて、スマホ画面を見つめる。正直、驚いてしまった———シズクだ。
「………サイナです」
「ご、ごめんなさい。こんな時間に。だけど、言わないといけない事があって」
尋常じゃない様子だった。たまに空回りする事はあっても、シズクはいつも冷静で的確に私を導いてくれる、良き観測手でありオペレーターだった。
「何があったんですか?すぐに向かいますか?」
「そ、そう!!あ、ダメ、今はダメ!!ち、違うの。明日、明日、サイナと会わないと行けなくて———ごめん、もう切るね。時間がないの。明日の朝、病院に来て、必ず、必ずね!!」
それだけ告げて切れてしまった。あの慌てよう、やはり何かあったのだ。時刻は深夜0時。私の失恋の話とミトリの彼の話を交互に繰り返した結果、既に日付が変わる時刻になっていた。明日の朝とはこれから何時間後の事だろうか。あの慌てよう、無論一般の診察時間の筈がない。可能ならばこれからでも来て欲しそうだった。
「サイナさん」
「すみません。ミトリさん、起こしてしまって————明日、早く出ますので、鍵をお願いできますか。その後、すぐに眠って下さい」
「いいえ、私も一緒に起きます。サイナさん、怖い顔してますよ、今は休んで下さい。そんな顔で病院なんて歩いちゃダメです。明日、5時には起きましょうね」
「………ありがとうございます」
再度明かりを消したミトリはベッドへと戻る。シズクのあの動転はでは、今夜はろくに眠れないだろう。せめて私だけでも冷静でいないといけない。
「………明日、病院に」
横になり目を閉じるだけで人は眠りの3分の1程だが、脳を休める事が出来る。今は休み、明日の動乱に耐えなければならない。明日こそが、私の最後の一日になる。
「………おやすみ」
人間の体内時計は馬鹿に出来なかった。目が覚めたのは4時55分。上半身を起こした私はミトリと視線を合わせる。ほぼ同時にミトリも起きたようだった。
「おはようございます、今お茶を淹れますね。すぐに行ってもいいですよ」
「いえ、頂きます。少し落ち着きたいです」
「わかりました。すぐに準備します」
ベッドから起き上がったミトリと共に、床に敷いていた布団を片付け、食卓を準備する。お茶はすぐに用意され、ミトリと共に無言で飲み終える。そして。
「すみません。後片付けもしないで」
制服を着込み、玄関で革靴に足を入れながら振り向く。
「いいえ、気にしないで下さい。私、少しでもお役に立てましたか?」
「ええ、こんなに人に救われたのは始めてです。また、お泊りしに来てもいいですか?」
誘われたとはいえ、急に押しかけ、失恋の愚痴を長々を吐き出し、彼女の彼の話を無理に話させた。だというのに深夜の通話に片付けもしないで、すぐに行ってしまうなんて。幻滅してもおかしくない。なのに、ミトリはあの笑顔を向けてくれた。
本当に、変わらずに。
「はい、必ず来て下さい。私も彼の事を話し足りない所でした。私こそ、今度押し掛けちゃいます。覚悟してて下さい。一晩中お話しましょう。———頑張って」
「はい、また学校で」
扉を開け放ち、寮という名のマンションに近い廊下を早足で歩く。コンシェルジュもいない、カーペットも敷いていない固い床だ。だけど、ここには多くの生徒が住み、起き抜けの顔を見れ、その気になれば深夜開始のお泊り会だって出来る。ここはオーダー校のもうひとつの日常だ。だった、じゃない、私は必ず帰ってくるから————。
「————罰なら受けます。逮捕も受け入れます。だけど、決めました。必ずミトリさんともう一度お泊りします。いえ、ミトリさんとだけじゃありません。みんなと」
エレベーターに飛び乗り、一階を押す。点灯するそれぞれの階数の最後、誰にも邪魔されない最速の時間で扉は開き、寮母の窓口を通り過ぎ、朝の空気を浴びる。
そこで私は走った。まだバスは始まっていない、なら走るしかない。
「車、買えば良かったですッ!!」
寮のある地区から病院のある行政地区までは、バスなら30分程度。徒歩で帰った時は、結局無かったが、それでも2時間もあれば走り切れる。
「脛も砕けてません、足も斬られてません、爪もありますッ!!」
両手を振り、全力で走る。私には1年以上を使ってオーダーで鍛え上げた身体がある。何を厭う事がある。誰が私を止められる。ああ、だけど、正直現実的じゃない。
「10キロを1時間で走るランナーだっています。バスの30分がなんですか!!」
だけど、この全速力は間違いなく短距離走にスピードだ。後数分もしないで限界が来る。維持費が保険がガソリンが、なんて言わずに購入しておけば良かった。
「まぁ、あるんですけどね。レンタルですけどッ!!」
コンシェルジュ付きのスウィートな寮の駐車場の中のひとつ。
そこには私が友人達の為に発注した車がある。ワイルドハントでもピックアップトラックでもいわくつきでもない。私が最後に用意したのは、あのモーターホーム。
彼女達と共に乗り込み、何度も送り届けてもらった高級車。
「予行演習で頼みましたけど、やっぱり大きいですねッ!!」
広い後部座席に飛びつき、届けられていた画面をスマホに呼び起こし、自動改札にも似た画面に押し付け、ドアを解除————飛び乗ると同時に運転席へと視線を向ける。車の運転はもう慣れている。オーダー街でも外でも既に終えている。
「だけど、こんな大きい子初めてです。安全運転ですね」
運転席へと乗り込み、電源スイッチを押し起動させる。僅かな唸り声を上げてエンジンを始動させたのを確認。周りの確認を終えた時、アクセルを踏み付けハンドルを大きく切る。
「やっぱり高級車は違いますね。ハンドリングが違います————」
自分の思考をそのまま読み取るような操作性。アクセルの加速度、ブレーキの踏み心地。全てがこれまでの車両とは一線を画する。身体が巨大化、文字通りに車になったような意識になる。しかも、こんな朝早くに走っている車など皆無だ。
「せっかくの試運転です。渋滞は避けたいですね」
自分の寮の駐車場から飛び出し、中等部、高等部、大学部の寮を通り過ぎ、オーダー街に張り巡らされている大動脈たる巨大な道路へと至る。既にスピードは安定し、万全の乗り心地となる。
あのふたりにはまだ届かない。同じ車両を使っても、彼女達のようにたった数日で人を救え、同時に監視する事も出来ない。彼女達には感謝しない、あのふたりにも目的があって私の世話をしていた。だけど、私とは決定的な違いがある。
「認めたくありませんけど、私は救われてしまいました」
ただの気まぐれかもしれない。哀れに思っただけかもしれない。秩序維持というお題目があったとしても、私などいつでも見捨て、危険な思想を持っていると牢屋に放り込む事だって出来た筈だ。だけど、しなかった。彼女達はオーダーという組織への貢献を選んで私を数日とは言え、世話をし、遂にはオーダー校に入学させた。
「だから、私もオーダーに成りました。なら、私がすることも決まっています———今は、オーダーに貢献しましょう。与えられた恩を返すのが商人の教義です」
今はまだわからない事だらけで、自分の未来すらわからない。この後、どう扱われるのか、病院で何が待ち受けているのかもわからない。だけど、向かわなければならない。
「シズクさんが待っています。彼を教えてくれた恩義、まだ返せてません———」
たった今、行政地区に入った。あの尋問官と出会ったオーダー本部や外に続くゲートが用意され、外からの視察者である人間が使うホテルも揃っている、私が放置され、逃げ出したホテルもある街だった。そして、同じ地区にはあの病院がある。
「さぁ、見えましたッ!!」
病院の門を通過し、数台の車両が停まっている駐車場に飛び込み、駐車場の最も奥にある場所————後部を振り回す様にハンドルを切り、大型車両の枠に納める。
彼女達が止めている所を見たので、知っていた。この車に相応しい位置があると。
「うん、我ながらなかなかの駐車位置です」
運転席から飛び降りると同時にスマホでロックをする。走りながら軽い音を発したのを片耳で確認。そのまま病院の扉にまで走り込み————鍵を開けて待っていたシズクに叫ぶ。
「シズクさんッ!!」
「こっち、急いで!!」
きっと許されざる事をしている。だけど、私達は止まらなかった。
分厚いガラス扉の隙間に飛び込み、誰の眼も気にせずに走る。病院は早朝という事もあり、受付外来にも人は立っておらず、待合のソファーにも人はまばらだった。だが、それら中のひとり、私の看護をし続けてくれたあの看護師もいる。だから。
「お騒がせします———」
「後で話があります」
それだけの短い、けれど、重要な契約を交わして病棟へと続く廊下を走る。多くの診察室、施術室を飛び越え、ようやくエレベーター前まで到着する。私が数日も乗り続けた、あのエレベーターだった。
「こっちッ!!」
扉はすぐに開いた。飛び乗ると同時にシズクが目的の階層へのボタンを押し、扉を閉める。ようやく到来した、僅かな、だが、最後の呼吸を整える暇。本当に最後の。
「シズクさん、私は決めました」
「うん、私も決めた。もう誤魔化しも逃げるのもしない」
それ以上の言葉は要らなかった。上へと上がる重力感、せり上がる内臓、血さえ感じる浮遊感。それら全てが私に対して強くのしかかる。こんなにも病院とは重く苦しい場所であったのか。多くの人の命を預かり、助け出し、或いは切り捨てる裁定を下す、神のような館。私もここにいたというのに、それにされ気付かなかった。
ここはオーダーの運営する病院。ここでの逮捕劇など日常茶飯事な事だろう。
だからこそ、私にはここが相応しい。最後を飾るにはぴったりの舞台じゃないか。
「————急いで」
走る背中を追いかけ、だが紛れもない自分の意思でシズクの隣に付く。
「何があっても一緒ですよ。逃げたりしません」
「なんか、プロポーズみたい」
「だって、シズクさんに言いたい事、沢山ありますから————お覚悟を」
笑みを浮かべたとわかるシズクの呼吸を耳にし、人少ない廊下を、白で統一されている、消毒液が香る施設の、それも食事を運ぶ前の時間に走る。そして、ようやく————シズクが足を止める。同じように私も足を止め、睨み返す。
「ソソギさん」
やはり、私の最大の壁として立ちはだかった。制服こそ着ているが、私とは別物の空気を纏う、それでいて一切それを気にも留めない隠しきれない実力を持つ女子生徒。ソソギは何を言うでもなく、目的であろう病室の扉のすぐ横で、背中を壁に付けていた。何も言わず、こちらも見ずに、ただ床に視線を向けている。
「ソソギさん、私は」
「あなたに出来るの。逃げたあなたに」
「—————できます」
「そう」
壁から離れる。ようやく私を視線に入れる。それだけで背筋が凍り付く。凍てつく風が顔を捕らえ、呼吸すらままならなくなる。あれを、ソソギは無自覚にしている。
「理解して、覚悟して、ここに来た。人間にしては悪くない心根を持っている。だけど、それだけで、」
「ひとつ、訂正があります」
私は止まらない。ソソギの言葉を遮り、ソソギの隣に立つ。
「まだ恋なら良かった—————私、恋をしています」
「恋………」
「私には1年の時から思い続けた初恋があります」
彼の孤独を知ったというのに、私は自分の感情を売って、周りの利益を買った。担任に言ってしまった事を私は繰り返した。オーダーという盾を使って彼から逃げた。あの教室に閉じ込める選択をした。なんて愚かさ、なんて卑劣な感情だ。しかも、それを彼の為と嘯て。私は目を閉ざした。彼は私を見てくれたというのに。
だけど、あの感情を、初めて彼を見た、初めて持ったこの感情は否定せない。
「ソソギさん。あなたの彼への心情、それは私にはわかりません、計り知れません。あなたのように彼の事を知らないから。いえ、彼の事を見れなかったから—————怖かった。彼が、私の思ったより使えなかったら、想像した機能を持っていなかったら、私の命令に背き最後の機会を見逃したら—————そう思う時もありました」
「なんて傲慢なの。やはり、あなたは人間ね」
「でも、私にはこの恋心があります。誰にも否定できない、邪魔もさせない初恋が—————ソソギさん、恋の感情を知っていますか?きっとあなたは知らない」
過ぎ去る。ソソギに背中を向け、傍らの扉に手を付ける。
「この感情は誰にも主導権がないんです。持ち主たる私だって持て余す強い鋭いわがままな感情なんです。とても人には見せられない、売る事さえ出来ない、一生抱えて生きるしかない在庫なんです。すごい重くて大きくて、一生掛けて養わないといけない私の分身であり影、いえ、本体かもしれません—————理解しました?」
「なにを?」
「これの手綱の握り方。一時でも使いこなす方法、知りたくないですか?」
「なにを言っているの?」
あのソソギが振り返る。彼女は知らない、この感情を。この感情の使い方を。
どれほどの実力者、どれだけの肉体、身体性能を誇っていても、彼女には知り得ない力。いずれ彼女も知る時が来る、もしかしたら一生知らないままかもしれない。いや、違う。
「簡単です————見事な玉砕ただひとつ。そして砕け散った、バラバラの破片を薪に、新たな一歩を踏み出すのみです。いつか知って下さい、あなたにもきっとその時が来ます————そして、新しい日常が、失恋のその先が来るんです」
私はあのソソギに勝利した。あのソソギが一歩下がり、端正な顔立ちを崩して、困惑の表情をしている。ついにやってしまった。初恋しか知らない、恋少なき少女が恋の講義なんて、しかもソソギの後ろにいる恋敵に負けた私がこんな言葉を使うなんて。
「—————そう、それが恋、初恋なのね————」
「お覚悟を。その時が来たら、あなただって苦しんでヤキモキして嫉妬して———そして、叶わない恋に、敵わない恋敵に奥歯を噛み締める時が来ますよ、ソソギさん」
たじろぎ、その圧倒的な身体と顔を誇るソソギが更に下がる。そして。
「いい、もう聞きたくない。その時が来たら、私から相談させて貰う————」
「お待ちしております。その時、私のこの失恋の経験、たっぷりと聞かせてあげますからね」
微かに、ほんの微かに笑みを浮かべたソソギが満足そうに背中を向けて去っていった。シズクの隣を通り過ぎ、廊下の端へと行き、廊下の角へと消えていった。
「サイナ、もしかして私を」
「さぁ、どうなんでしょうね。でも、他人事と思っていたら足元すくわれますよ」
「………そうだね。責任のひとつでも取らないとね」
シズクが隣に来て、少しだけ気まずそうな笑みを浮かべ、一緒に病室の扉に手を付ける。
「サイナ、言わないといけない事がある。覚悟して、きっと後悔する」
「覚悟も後悔も、もう済ませました」
「じゃあ、もういいね。開けるよ—————」
ゆっくりと、だが容赦なく開かれる病室。窓ガラスから差し込む光に当てられる。目を閉じそうになる、だけど、覚悟していた事だ。恐ろしい感情は捨てきれない、この後の扱いに恐怖もしている。しかし、これは私の責任だった。無為に近づいた私だけしか取れない、たったひとつの責任。なのに——————。
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