第22話

 これは私だけの感情。あの部屋での地獄に耐えて来た、私にしか歩めない道の中で作り上げた、たったひとつの感情。あの二人からの言葉、四人の友達との経験、一人の担任からの覚悟、一年をオーダーで過ごして来た私だけの世界、そしてたったひとりしか許されない彼を知った私自身の怒り。

「彼の孤独は彼にしか歩めない、彼だけの世界です。あなたに邪魔する権利はありません。現実に戻って来ようとする彼の、戻って来た時の秩序は、私が守ります」

 睨みつける。あのソソギと正面から視線を合わせる。

 世界への復讐。彼をこのままでいいと放置して、何も出来ないと言い訳をして、ずっとひとりにさせている世界への復讐。私は、それが許せない。許していい筈がない。

「彼の力しか知らない、あなたにそんな事が出来るの?」

「はい、私は彼の事を何も知らない。これからも知る機会はありません。彼の記憶に残る事さえありません。それがなんですか、何も知らないから彼の為に何もしてあげられない理由があるんですか」

「————哀れみ」

 その言葉に拳が揺れる。手袋越しの手のひらに爪を喰い込ませる。

「哀れだから助ける。知らなかった、あなたはそんな理由で彼に近づいたのね」

「違います………」

「違わない。あなたは結局安全な場所から彼を見ているだけに過ぎない。哀れだから、可哀想だから彼に手を貸したい。せめて恋であったなら良かった————理解している?その感情は一過性のものでしかない。別の可哀想な人が生まれたら、あなたはその人も助けるの?ここはオーダー。あなたの言う通り、ひとに言えない理由。決して口に出せない理由でオーダーに来てしまった子達の集まり。なのに、彼だけ救いたいのはなぜ?たまたま彼が美しいから?それとも、まだ自分でも救えそうだから?」

 意識が、意識が遠のく。先ほどまでの復讐の炎が尽きつつある。

「あなたは何も知らなかったかもしれない。彼が1年以上も孤独にいた事を知らなかったのは無理からぬこと。だけど、知ったというのにあなたは周りのオーダーと同じ選択をした。彼への庇護欲を売って、周りの利益を買った。あなたに、今更何が出来る。一度見せた以上、繰り返すのが人間。あなたに彼は救えない」

 肩を押される。それだけで床に倒れてしまう。

「あなたに出来る事は何もない。人間の神にでも祈って、奇跡を信じていて」

 呆然としながらもソソギの言葉が頭に響いていた。

 私は何のために彼を求めた。復讐の手先にする為だ。その後、彼はどうなる。復讐に使われたことさえ理解出来ないのではないか。私に都合よく頷くように彼を洗脳し、私は檻の中で過ごすのか。彼を欲望のまま使い潰すだけじゃないか。

 私は彼を救いたいと思ったのは、いつからだ。それは彼の力に当てられただけか。

「そのまま動かないで、邪魔はさせない」

「………ソソギさんこそ、彼の何を知っているんですか。何が出来るんですか」

 保健室へと入ろうとする背中に声を掛ける。だが、ソソギは振り返りもしない。

「少なくとも、ただの人間よりも理解している————あなたへの感情、これは勘違いだったようね」

 そして部屋へと入ってしまった。どれくらいこうしていただろう。誰に言われるまでもなく、無様に座り込み、宙を眺めていた。

「………私は、間違っていたのでしょうか」

 目を閉じ、耳を澄ませる。自分の後ろから足音がする。

「サイナさん、大丈夫?」

「せんせい、」

 首だけで振り返ると、そこには担任が立っていた。そして後ろには、ばつの悪そうなイサラの顔も。だが、構わずイサラは私に手を貸し、立たせてくれる。

「話は聞きました。ソソギさん達が計画したと————間違いないですね」

「えっと、はい………」

「ソソギさんは中ですね。彼も、そうですか?」

 手を貸して貰い、どうにか立っている私は頷き、視線を保健室に向ける。

「わかりました。ふたりともここを動かない様に。決して中には入ってはいけません。————発見しました、保健室です」

 スマホを手に何処かへ連絡した先生が保健室の前を取る。誰も入室も退室も許さない構えだった。私には、もう私に出来る事はなかった。なんの為にここまで来たのか。友人達から逃げ、先生に守って貰い、イサラにはオーダーの宣言までしたのに。

「サイナ、あのさ」

「良いんです。睨んだりしてごめんなさい」

「ち、違うよ。私がもっとよく考えれば良かったんだ。ふたりも巻き込んでさ………聞いたよ、銃を向けられたって。まぁ、オーダーなんだし、銃を向けられるぐらい————そうじゃないよね。ごめん」

 イサラが顔を覗き込もうとするが、途中でやめてしまった。私も、合わせる顔がなかった。すぐさまあの教室の教員であろう専門医達が訪れ、部屋を取り囲んでいく。その光景を最後まで見れなかった。本当に人間への扱いではなかった。

 まるで爆弾か猛獣への対応だ。彼は、危険な存在なんかじゃないのに。

「開けます。準備を————」

「二人とも行きましょう」

 男性の専門医の声に従って、担任に連れられる。振り返る事も出来ず、階段を登り、教室まで向かう。まだ教室には誰もおらず、担任と私達ふたりだけにされる。

「近々、いえ、今日にでも聞き取りをされるでしょうから覚悟しておきなさい。特にイサラさん」

「………そうですよね」

「理解していないかもしれませんが、彼は」

「いえ、分かってます。わかってやりました」

「————そう」

 それ以上は何も言わず、ただ時が過ぎるのを待った。

 そして、解放を許可されたらしくクラスメイト達が戻り、自分の席へと腰掛けていく。その中には、当然ふたりもおり、顔を向けるに向けられなかった。

「えー、では、急なお願いばかりで申し訳ないのですが、今日は休校とします。みんな速やかに下校して下さい。心当たりのある人だけ残り、他は解散。寄り道も自習も訓練もせず、速やかに帰宅して下さい。はい、開始」

 誰からも問い質す声は無かった。皆言われた通りに早々と教室から出て行き、残ったのは私達だけとなった。誰かが近付いてくる事もなく、私達4人は静かに自分の座席で待ち続けた。




「サイナさん、大丈夫ですか?」

 通されたのは生徒指導室という、外でなんと言うか知らないが、どう見ても取調室だった。オーダーに初めて来た時の事を思い出す。だが、取調官はあの尋問官ではなく、担任の先生だった。正直、あの尋問官よりも恐ろしい存在だった。

「あなたにも聞いておきますが、あの教室の噂は知っていましたね」

「………はい」

「なのに、関わった。詳しく言わなかった私達学校側が言える事でもないけど、近付くべきではありませんでした。あの教室の子達は皆優秀で、他を引き剥がす才能を持っています。確かに人脈形成は重要で優秀ならば引き入れたい気持ちも分かります。だけど、彼らには彼らの世界があります。すり合わせには時間が————言うまでもないですね」

 顔を振り、私とあの教室で過ごした時に言った言葉を呑み込んだ。

「オーダーであっても常識、相手の事を考える感情は必要です。サイナさんには言うまでもないでしょうけど————ダメですね。どうしても感情的になってしまいます。同じクラスの3人、シズクさんからも聞きました。あなたは、ただ巻き込まれただけだと。あなたはあの教室の時と同じように、彼を救おうとしただけだと」

「………私は、救えませんでした」

「そうですね。サイナさんには出来なかった」

 いっそ胸がすく思いだった。担任の言葉は正しく、こちらを思いやる声さえした。

「だけど、それは私も同じです。サイナさんの言う通り、私は教員でありながらオーダーという盾を使って、彼を閉じ込める選択に加担した。あの教室での時間を過ごさせる事だって、ただの罪滅ぼしでしかありませんでした。———ああ、ダメもダメ。生徒に諭されて、ようやく気付いて、悩みを打ち明けて、懺悔するなんて————オーダーで教員の前に大人失格です。こんなに教員って苦しい仕事だったのね」

 二度目の苦笑いを浮かべているであろう顔が私には見れなかった。

「主犯、いえ、計画者はソソギさんとカレンさん。二人はヒジリ君を拉致した後、あの保健室に立て籠もり、前日から依頼していたイサラさんに防衛を。イサラさんからはクラスメイトのふたりに、あなたの足止めを。向かって来るとしたら、サイナさんだと踏んでいたのですね。あの用意周到さ、もっと別の事に————いいえ、依頼の完遂の為に自分の出来ない事を人に求める。私の言った通りですね」

 微かに笑った先生は、大きく息を吸い、私に視線を向けたとわかった。

「聞かないの?これからヒジリ君がどうなるか」

「………怖いです」

「そうね、とても怖い事だと思います。あなたは必死だったのに、友人達には止められて、あなた自身には何も出来る事がなくて、ただ待つしかなかった。ソソギさんに何を言われたか分かりませんが、相当言い負かされたようね」

 あのソソギの言葉は、何だったのだろうか。あまりにも人の心を正確に見抜いていた。私も、あの部屋での経験、人の性の邪悪さ、凶悪さ、凶暴性は身をもって知っている。だけど、ソソギはそれすら超えている。一線を画す程に人心への理解を知っている。

「だけど、あなたには責任があります。彼に関わり、感情を持った責任が。だから、逃げる事は出来ません。責任をとって、彼の道行きを知って貰う必要があります」

「………わかりました。彼は、ヒジリさんは、どうなるんですか………」

 教室で担任に向けた感情など、もはや持てなかった。哀れな子羊よりも、もっと弱々しくもっと小さな存在に見えている事だろう。ステンレス製の机を挟んで、ジャケットを守るように腕組みしている担任を見つめる。

「結論から言います。彼は、あの教室から移動です」

 必ず来ると思っていた。彼を救えなかった、それどころか彼の世界を破壊してしまった。言い知れぬ絶望感。自分の不幸よりも、近しくて恋してしまった相手の不幸がこうまで恐ろしいなんて思わなかった。うつむき、全身で耐えるが涙が止まらない。

「ごめんなさい………私の所為で………」

 やはり、関わるべきじゃなかった。あのまま会わなければ、クリスマスの夜に提案に頷かず、ホワイトデーの時に教室に走らなければ良かったのだ。シズクの言う通り、彼女の判断を待ち、彼が戻って来るまで待てば良かったのに。私は彼を殺した。

「そうですね、あなたの所為です。何もしなければ、まだあの教室だったのに」

「………私は、罰せられるのですか」

「はい、重い罰が下ります。追って伝えるので、今日は帰宅の許可を与えます。————私も、沢山の先生に歯向かってしまい、生徒に銃を向けましたからね。しばらく忙しくなりそうです」

 立ち上がった担任に連れられ、生徒指導室から出される。そこには見知った顔が3人。同じクラスメイトで、つい最近まで同じチームを組んでいた友人達だった。

「サイナさん、あの」

「ごめんなさい。今は何も言えません」

「………わかった。またね、サイナっち」

 担任も何も言わず、私を連れて玄関まで一緒に行ってくれた。

「大丈夫?ひとりで帰れますか?」

「………大丈夫です。それに………今はひとりにさせて下さい」

「わかりました。気を付けて」

 それからはあまり覚えていない。気が付いたら寮の前で、コンシェルジュが迎え入れてくれる。彼もプロだった。何も言えない私を気遣って、エレベーター前まで案内してくれ、部屋番号まで押してくれる。そして、何も言わずに最後まで見送ってくれた。何もやる気の起きない私は、日課の売り上げ確認やオーダーメイド注文も見ずに、ベットに倒れ込む。ようやく気付いた、今までの感情など錯覚だ。

 これこそが、失恋の痛み。恋した彼が消え、傷心の私はひとりで耐えるしかない。

「こんなに苦しくて、痛くて、無力なんですね」

 心に穴が開くという感情が、本当にあるとは思わなかった。胸じゃない、心に穴が開くと言われる喪失感。自分を構成する欠片が、それもとても大きくて失い難い存在が消えてしまった。元々持っていた訳じゃないのに、彼の背中と笑顔が消えてしまった。

「ああ、苦しい………失恋を癒す方法は、新たな恋と言われましたが、違いますね。———何もいらない。ただ耐えるしかないんですね。忘れる事も出来ない」

 時が解決してくれると言われた気がしたが、それすら違う。これは、生涯残る傷だ。それも深い深い所に残る裂傷だ。上から修復出来ても、奥底にはずっと残る痕。

 いつ開くかわからない、縫合すら出来ない、深い場所に根差した傷だ。

「………なんて、無力」

 目を閉じ、傷の痛みに耐える。今日は疲れた。食事も取れない程に疲れた。今は、ただ眠る事しか出来ない。彼の道行きを祈る事さえ出来ない。そんな資格なんてなかった。きっと夢すら見ない、脳が完全に停止していくのがわかる。

 私は今、死のうとしていた。脳も心も止まり、後は心臓を止めるのみだった。




「———でも、今日は来るんですね。なんて憎らしい」

 誰よりも早く登校していた。早起きの日課だけはどうしても抜けなかったらしい。

 ほぼ無人のバスの中、スマホも見ずに揺られて、何を待つでもなく無言で登校してしまった。試しに窓から外を見ると、少数ながら生徒が登校して来た。その中には見知った顔もいる————意外だ、3人示し合わせた様に早く来るなんて。

 そのまま席で待っていると、あの3人が入室して来る。

「おはようござ、」

「「「サイナ!!」っち!!」さん!!」

 疾走だった。私の顔を視認したと同時に3人が駆け寄ってくる。身構える暇もなかった、逃げ出す時間もなかった。ただあ然としていると、全員が頭を下げてくる。

「ごめん、ごめん、サイナ。私、何も知らなくて、何も考えてなくて———良い事なんだって思って、邪魔して迷惑かけて。ほんと、どうしようもない私で………」

「サイナっち、あれだけ会いたがってたのに、依頼されたとか言って、邪魔して」

「本当にごめんなさい。私、止められないサイナさんの背中に銃なんて向けて」

 彼女達自身も何から言えばいいのか、わかっていなかった。私の顔を見た時から決めていたようだが、積み上げていたものが全て崩れ去ったらしい。

 言葉にならない声を発し、頭を下げ続け、最後には嗚咽まで上げ始めてしまう。

 見ているこちらが苦しかった。だが、止める訳にはいかなかった、彼女達は心の底から私に謝罪し、心の底から身を案じていてくれた。もう気安く話かけられないと思っていたのは、私の勘違いだったのかもしれない。彼女達は、例えチームが変わって、一緒の時間が少なくなっても、私の友達でいてくれるらしかった。

「なに言うか飛んじゃった………ごめん、サイナ。謝る事すら出来なくて」

 何か言うべきだと思った。気にしていない、もういいという言葉すら浮かんだ。だが、そんな言葉は求めていない。彼女達に真に必要なのは、もっと別の言葉だ。

「詳しく聞かせて下さい。何があったんですか」

 私は残酷だった。いっそ、二度と話し掛けるな、或いは、代償に何かを支払わせる、などを求めているとわかった。だけど、今私に必要なのは理由であり真実だった。私の言葉に身震いする3人は、全員で視線を合わせて、ようやく口を開いた。

「一昨日、ソソギから呼び出しを受けて。オーダー中等部があの人、ヒジリを監禁してるって聞いて、助ける手助けをしてくれって————」

「信じたのですね」

「………うん、その、ソソギの事はよくわからなかったけど、誰かを助けるのは間違ってないって思って。それに、本当にあの教室で閉じ込められてるのは間違いなかったみたいだし」

「どうやって攫ったんですか、あの人は————」

「知らなかったんだけど、駐車場から地下に入る、直接校舎に入る装置があって。案内されて校舎内で待ち構えたの。最初にシズクが降りて教室に向かって、最後に先生と降りてきて、頭巾とかマントとか被らされてるヒジリを見つけて。ソソギが言ったの。間違いないって————私にもわかった。なんとなくわかった」

 あの力は姿形を隠しても、通じてしまっていたのか。どう防止すれば同じ車に乗れるのかと思っていたが、出来る限り顔や身体を隠して連れて行っていた。対症療法であるが、オーダー校側にとって最大限の防止策であり譲歩であったのだろう。

「廊下まで追って、あの教室の前まで行って。教室の中で待ち構えてたカレンさんが先生に話し掛けて隙を突いて攫ったの。だけど、正直あんまり覚えてないの。ソソギとふたりで————わかんない、担いだのか、腕を掴んで連れて行ったのかも覚えてない」

 頭巾やマントを被らされていても、触れただけであの力に当てられてしまったのだろう。思えば、声だけでも頭が酩酊して行った気がする。触れるという直接的な接触をしながらも、保健室まで連れて行けたのだとすると、やはりイサラは強靭だった。

「だけど、どうしても私だけだと————必ず問題になって、学校中で騒ぎになって。先生かシズクからサイナに話が。それで多分探しに来るって考えて。ごめん、だからふたりに頼んで見張って貰ったの。絶対、サイナが関わるって思ったから」

「————私を遠ざけたかったのですね」

「………これは、私達の計画だったから」

 私の事を考えて共犯にしたくなかった。彼女なりに私を思っての事かもしれない。もし、この計画を私が知ったのなら共犯になって—————いや、あり得ない。

「イサラさん、記憶の定着について聞きましたか?」

「記憶の、いや、分からない。でも、ソソギが何か知ってそうだったけど」

 彼は一定期間の間に数度も会話をしなければ、脳が消去してしまう。だが、それが叶い、彼の脳に記憶されたのなら、彼を絶対に裏切っても、見捨ててもいけない。そうしなければ彼の心が砕けてしまう。あの力を止める手立てが無くなってしまう。

「イサラさん—————良かったですね、彼が頭巾を被って、顔を見られなくて————私、あなたを生涯死んでも許せなかったかもしれません」

 抑えきれない殺意だった。シズクも、こんな気持ちだったのもしれない。

「サ、サイナ」

「イサラさんは知っているのですか、中で何をしていたのか」

「わからない。カレンさんが入ったら、ソソギからあなたは入れられないって言われて。私、だから階段の所で構えてたの。サイナなら必ず来るって思って」

 きっとこれ以上の言葉は生まれない。そして、廊下から足音が聞こえた。

「わかりました。今はこれだけにします————話、ありがとうございます」

「う、うんん。じゃあ、後でね」

 三人は身体中に入っていた力が抜けたようだった。イサラは話し続けられたが、2人はずっと押し黙ったまま立ち続けていた。どちらが苦しいかなど、当事者にしかわからない。そして解放されたのが嬉しい反面、もっと何か言うべきなのではないかと言いたげにも見えた。だけど、私にはもっと興味がある話があった。

「カレンさん、恐らくソソギさんの隣にいた彼女ですね」

 眩いばかりの美少女。一度しか見ていないが、辺り一面に光が差すようだった————見方を変えれば、ヒジリのあの力にも通じそうな力を容姿に変えていた。

 だけど、ソソギやカレンを問い質しても、もはや意味はない。

「それに、私には罰が下る。この学校も見納めかもしれませんね」

 復讐も救済も出来なかった。やはり私はどこまでも無力だったようだ。続々と登校する生徒に視線も向けずに、私は春の曇天の空を見続けた。



 今日の学校にはひとつだけ普段と違う事があった。

「先生、来ませんでした」

 担任不在。ホームルームでの必要な報告は別の教員が行い、その教員もすぐにどこへ行ってしまった。担任も、何かしらの責任を負ったのだろう。同僚の教員に歯向かい、生徒に銃口を向けた。オーダーなのだから銃を向ける向けられたなど、よくある関係だとは思うが、中等部という帯銃の義務付けをされていない生徒に向けるのは、もしかしたら許されざる事かもしれない。忙しくなる、とはこういう意味なのか。

「追って伝えるとは、どう伝えるのでしょうね。寮で待ち構える、眠っている所を襲う、いえ、登下校中に襲撃する事だって————オーダーも公的機関でしたね。流石に、不意打ちでの逮捕が相応しいですね」

 その時の尋問官はあの人かもしれない。全くの他人と見知った相手に尋問されるのは、どちらがつらいだろう。実際に受けてみない事には分からない。バスに揺られる事数分。いつ連絡が来るかと思い、ずっと教室で待機していたが、ついぞ担任もオーダーの職員も在られず、下校時間になってしまった。そして、普段使いのスーパーマーケットのある商業区前で止まる。そこに、また知った顔が乗ってくる。

「サイナさん、これから帰宅ですか?」

「………ミトリさん」

 乗り込んだのはミトリだった。ミトリは微笑むと、

「えっと、隣いいですか?」

「………どうぞ」

 と、答える。だが、ミトリは不思議そうな顔をして見つめてくる。そして、ようやく座るも、まだ顔を見つめて来る。何だ?とこちらも首を捻る。

「あ、ごめんなさい。なんというか、雰囲気が変わりましたね」

「………そうですか」

 また買い物カゴを手にしているミトリは、膝の上に乗せ胸の前で抱えている。

「昨日色々見ていましたけど、何かありましたか?」

「————昨日、失恋をしました」

 あ、と息を呑んだミトリが少しだけ目蓋を閉じる。またすぐに開く。

「失恋を。その、つらいですか」

「ええ、そうですね。初めての失恋ってこんなに苦しんですね」

 この優し気で包み込むような包容力を持っているミトリの雰囲気に、つい口にしてしまった。友人とは言え、他人の失恋の話など聞くに堪えない事だろう。

「すみません、聞き苦しかったですか」

「いいえ。話してくれて、ありがとうございます。でも、サイナさんが失恋ですか」

「むぅ、私だって恋ぐらいしますよ。それも初恋も初恋ですよ」

「え、初恋!?」

 バレンタインデーの時にミトリの事を全て話してしまった所為だろうか。余計な事まで言ってしまった。バスは私とミトリぐらいしかいないが、それでも公共の場所で初恋、などというごく個人的かつ隠し通すべき乙女の秘密を言ってしまったのは不味かったかもしれない。

「初恋で失恋、すごいですね。その、ちょっとだけ————」

「初恋と言えば、失恋が付き物です。叶う初恋なんてそうそうありません!」

「そ、そうですね。………もし良かったら、私の部屋に来ませんか?」

 話の流れから察するに相手を聞きたい、という事だろう。意外とミトリもそういう話が好きであったようで、頷くまで逃がさないと、申し訳なそうだが楽し気な顔で告げていた。



 思えばミトリとは入学前からの付き合いではあったが、部屋に招く招かれるのは初めての事だ。一人部屋のミトリの部屋は、中学生の少女が作り上げる自分だけのお城。白いクロスが敷かれた食卓はひとり分の大きさで、窓際の勉強机と共に置いてある椅子すらも愛らしかった。特別広い訳ではないからこそ、手のひら大で、まとまっており、清潔で白を基調をした、病院室にも見える世界だった。

「どうぞ、ベットに座って下さい」

「いえ、椅子に失礼します」

「そうですか。じゃあ、今お茶の準備するので、待っていて下さい」

 床の毛足の長いマットレスに足を置く感触が心地よかった。勉強机の本棚には、既に多くの看護学科の教科書が用意されており、何度も開いた形跡も残っている。

 勤勉で清楚で世話好き。ミトリに一度でも溺れてしまえば、もう取り返しのつかない堕落に陥る事だろう。それも、無自覚に万人に降り注ぐのだ、もし一個人になどしてしまえば、たちまち傀儡にしてしまう。ミトリなしでは生きていけなくなる。

「いい匂いですね」

 柔軟剤に香りだろうか。柔らかな香りは、頭を解きほぐす感覚がした。

 ベッドと勉強机は対角線上。それと三角形を作る感じの壁際、そこには備え付けらしいテレビが用意されており、暗い画面は自分の顔を映していた。

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