第21話
ヒジリという現実に存在する、だけど触れてはならない幻惑を理解した翌日だった。今日は雨だった。バスに乗り込めば湿った香りと濡れた傘や雨合羽から滴り落ちた水滴が目に入る。私も、例に漏れず傘を差して登校した為、僅かな歩きずらさを覚えた。教室で朝を過ごし、ぞろぞろと登校して来る見知った顔や友人達と軽く挨拶を交わし、今日の到来と終わりを待った————だが、今日は到来しなかった。
既にホームルームの開始時刻は過ぎ、それでも担任が教室に到着しない時間が続いた。にわかに教室内がざわつく、こんな事1年以上過ごして来たが、類似は無かった。
「そういえば、イサラさんも」
遅刻を叱責されてから誰よりも早く、という訳ではないが、それでも常識よりも早い時間に登校していた彼女もいまだ顔を見せていなかった。
「春の風邪でしょうか。それとも春眠暁を覚えず?は、もう少し後ですね」
教室の扉を見つめても、彼女達が現れる事はなく、ただ無言の時間が続いた。
「え、放送————」
誰かが言った。スピーカーから聞こえる、音が入るノイズに皆耳を澄ませる。
「はい、全校生徒の皆様、おはようございます」
「先生」
その声は紛れもない我らが担任だった。スピーカー越しの声は僅かに上擦っており、少しだけ違和感を覚えたが、声は構わずに言葉を続けた。
「これから全校朝礼があります。申し訳ありませんが、1年生は体育館に、2年生は講堂に、3年生は前庭に集まって貰います。繰り返します、1年生は体育館、2年生は————」
あり得ないと思った。確かに全校生徒の数は、オーダーなのだからかなりの数に上る。だが、朝礼で使う講堂は全生徒を収容できるほどの規模を誇る。なのに、それぞれ手間を掛けながら分ける理由があるだろうか。だけど、担任の声は更に続いた。
「それぞれ引率の先生が向かいますので、教室で待機して下さい」
「待機って、そんな事一度も」
何かが起こったのだ。それも、全員を別の場所に集めなければならない程の事が。これは、戦力の分散にも見えた。1年生はまだ戦力には足り得ない。2年生は既に多くの経験を培ってきた、3年生に至っては遠くない内に銃の携帯義務が通告される、中には既に拳銃や刀剣を用意している生徒も少なくいだろう。3年生が前庭という事は、ある種迎え撃つ事を考えた構えにも——————。
「………あり得ませんね。それこそ」
戦力の分散。それは確かに有用な場合もあるが、一度で仕留めきる必要がある敵個体が現れた場合、次々に返り討ちに遭う可能性も入る為、あまり好まれる戦法ではなかった。これは、まるで、まとめて全員を殺傷出来る爆弾への対抗に。
「みんな揃ってるね」
たった今スピーカー越しに聞いた声の持ち主。担任の先生が扉を開けて現れた。
「さっき放送した通りです。時計の通り、既に時間が押している為、速やかな行動を求めます。荷物は必要最低限でお願いしますね—————はい、開始」
その言葉に全員が廊下へ向かう。反抗する者も疑問を口にする者もいない。全員が悟ったのだ、これは訓練ではない。何かが起こったのだと。
ここはオーダー街という秩序維持の為に創設されたオーダー省が作り上げた清廉なる法の街。秩序の為なら武力行使もいさない秩序維持組織の総本山。そんな街の中の施設、オーダーが運用、運営、教育をしていくオーダー校のひとつ。
到底、一般人では歩く事はおろか、目に入れる事さえ憚られる純白の校舎。そして、危険な思想を持っている者からすれば恰好の的である贄が跋扈する箱。
「………大人しく従いましょう」
自分もその中の一員だった。ならば、自分の身は自分で守れる技術も訓練も受けて来た。銃だって扱える、体術だって心得ている。なのに、教員が我々の先導を買って出ている。事はそれほど重大だという事だった。決して、逆らえる筈がない。
廊下に全員が揃ったのを、最後に教室を確認した担任を先頭にすぐさま行動を開始する。放送通りなら2年生は講堂だった。ここからそう遠くない道行きだというのに、先生は時折振り返って————止まれと手で指示した。
「ちょっと待って下さいね」
あの鉄壁の笑顔を崩す事はない。凛とした佇まいが折れる事はない。だが、その先生が手鏡を使って曲がり角の先を確認し、ようやくこちらに振り返った。
「じゃあ、行きましょう」
やはり変わる事のない顔だった。我々を1年以上も指導し、日々の世話を焼いてくれた、あの圧倒的な教員だった。なのに、そんな大人のオーダーである彼女が自分の道に恐れを抱いている。オーダー中等部という自分の庭も同然の世界で。
「サイナっち————」
「今は従いましょう」
後ろの友人に声を掛けられるが、私は振り返らずに返す。講堂に到着した時、既に何クラスかは到着しており、皆一様に無表情だった。ここにいるのは、既に1年をオーダーで過ごして来た、外の世界すれば猛者ばかり。ただの子供の顔付きなどとうの昔に忘れ去っている。中には自分の腰や胸、脇の下に手を置く者さえいる。
「はい、到着しましたね。全員揃って———いませんね」
私達2年に宛がわれた座席は、舞台から数えて中程。最前列を3年生。後部列が
1年生に与えられていた。中程の座席へと腰掛けて、しばし過ごすと続々と2年生が訪れる。全員いるかどうかはわからないが、それでも2年生の8割9割が揃って見えた。
「イサラさんがいませんね。誰か知っていますか?」
担任からの言葉に私が答える。
「朝から登校していません。連絡しますか?」
「………いいえ、サイナさんはここで待機して下さい。私から確認します」
それだけ言うと担任は講堂の後ろ、出入りした扉近くに集まっていた、それぞれの担任や教職員の元へと足を運んで行った。ある種、教員があれだけ揃って扉を守っているのだ、これ以上安全な時間もないだろう。彼らは、私達が生まれる前からオーダーに所属している本物の凄腕なのだから。外からのテロリストなど軽々と。
「テロリスト————本当にそれだけなの」
校舎の様子は変わらなかった。爆弾でも仕掛けられていれば、紙袋でも、机の中でも、鞄の中でも、放置されていれば嫌でも目に付く。流石に本物こそ使っていないが爆弾処理の授業だって受けたのだ。近付かない、触らない、報告するという最低条件を忘れる筈がない。それは命に直結するからだ。オーダーに所属する上で必須な知識だ。
「あ、シズクさん」
数分を座席で過ごした時だった。スマホにチャットが流れる。
「………助けて」
チャットの最新の通知。そこには明確なSOSが表示された。
「………何をすれば」
そう返し、スマホの画面から視線を走らせる。自分よりも1列だけ舞台に近い座席に座る赤髪の少女。その少女は身じろぎひとつしないで、次のチャットを送って来た。
「————」
ヒジリが消えた。生きた心地がしなかった。その意味を脳が一瞬見ただけで示したから。
「………それはいつ」
返事は即座に届く————今日の朝、ヒジリと共に車で送られ、私だけ教室に行った後—————登校時はいた。シズクも確認していた。ならば、朝のホームルーム前、ひとりであの教室に閉じ込められた、たった数分、いや、教室に向かう時、目を離した一瞬で消えてしまったという事だ。あの教室には、あの時こそ鍵は閉められていなかったが、恐らくヒジリが入った後、すぐに鍵をかけて閉じ込めているのだろう————ならば、誰よりも早く登校して、校舎に潜み、彼を連れ去った誰かがいる—————しかも、彼の為に選任された別々のオーダーの眼を盗める程の実力者が————。
「………私は何をすれば————」
送る寸前で止める。シズクも状況がわかっていないのだ、分かっていないから助けて、などという曖昧なチャットを送って来た。僅かに目を閉じ、思考を文字にする。
「ヒジリさんがいなくなった。それは誰から」
—————先生が教室まで来て、私に聞いて来た—————。
「それはどんな内容でしたか」
—————ヒジリを最後に見たのはいつか—————。
ならば、彼が消えたという判断は正しい。理由は無意味だからだ。登校時には同じ車、玄関まで同じかはわからないが、確実に校舎内までは一緒だったという事だ。そして彼女から引き継いで教室に送り届けた。彼女が介入出来る時間は既に過ぎ去っている。なのに、そんな質問をしたというのなら、彼の状況がわからないという事。
シズクには前科がある。学校側からの約束を破って彼を連れ出し、訓練の時は手伝いを、私達には紹介までしてしまっている。ならば、3度目かと思うのも理解できる。————だけど、彼女は今もこうして座席に座り、助けを求めている。
「確認です。彼を連れ出してはいませんね」
————してない、信じて————。
「信じます。あなたは彼の為に、今まで我慢した————」
あれほどの力を間近に見続けて、私を説得し、手伝いこそさせたが誰も近づけなかった、と聞いた。しかも、それを彼の為に。シズクの精神性は驚嘆に値する。誰が真似出来る、彼女は彼のあの力が弱まるまで、ずっと耐え続けて来たのだ。ただの気の迷いで、彼の今後に波及する状況を作り出す筈がない。私は、友人を信じられる。
「状況を確認しましょう。彼がひとりで出歩く可能性、それは無いですね」
————ない、絶対にない————
「お手洗いなどはどうしていたのですか?」
————簡易用トイレを準備してたらしいけど、朝は何も食べてないから結局使わなかった————お昼の時は私と先生が確認して、誰もいない時に連れていった————まるで、本当に人間として見ていなかった。ただ時間を過ごすだけに留めていたのだろう。本当に私と同じだった。ずっと手錠生活の私はそれすら満足には許されなかった。許された僅かな時間、またはシャワー中に済ませていたのを思い出す。
「なら————彼を求める人。それに心当たりは————」
————正直、サイナだと思った。だけど、違うみたいだね————。
「うぅ、疑われていました。だけど、否定出来ません………他には?」
————女子の訓練の時は、話させない、近づけもしなかったから、煽られた人は少ないと思う。だからあり得るとしたら、イサラ————。
「イサラさん。まだ今日は登校していません」
————隠れている可能性は————。
「それは————わかりません。だけど、するのなら、イサラさんは逃げも隠れもしないと思います。もし、彼女が主犯であるのなら、堂々と会いに行くかと」
—————イサラが関わってる事、否定しないんだね—————
彼女もあの力を眼前で受けてしまった。弱まったとは言え、1度目をあの近距離で、あの微笑みを受けて褒め言葉まで受けてしまった。もはや忘れる事など出来ない。時折、何か考えている姿すらあれ以来見かけていたのだ、何もしないとは言い切れない。だけど、1年以上も友人をやって来た私の経験を信じるのなら、或いは。
「単独犯の可能性は低いかと。そして、突発的な犯行の可能性も低いと思います。これは、あの教室を知っている者の犯行。この学校を知っている、土地勘を持っている者の複数犯。それも、彼を知っている者達による———」
「サイナっち、どうかしたー?」
全てを打ち終えた瞬間だった。別のチームになった、だがイサラ同様1年も友人を続けて来た一人に話し掛けられる。彼女はスマホに目を落すが、すぐに私の顔を眺めた。
「なんか、大変な事になっちゃたねー」
「ええ、そうですね♪」
「もしかしてテロ時な何かかなー?」
言葉には出さないが、彼の誘拐という範疇で言えば、否定できない言葉だった。
「イサラっちが羨ましいよ。今日は休みなのかなー?」
「イサラさん、春の風邪ですかね?ウイルス性でなければいいのですけど」
もうひとりの友人も座席の前に集まり、チャットを確認するには不自然になってしまった。確かに連絡やメール、チャットが届けばスマホを取り出すのは不思議ではない。だけど、何かの拍子に見られてしまったら、そんな下手をシズクが打つはずもなかった。ふたりが集まった時、チャットの通知は止まり、視線を向けて来た。
「せんせー達もなんか殺気立ってる?って言うのかなー」
「はい。入学した時を思い出しますね。あの時とは場所も雰囲気も違いますが」
こうしている今も、彼の力が、どこかで誰かを襲っているかもしれない。彼がそれを認識しているかどうかはわからない。いや、分かっていない。だけど、そんな事は関係ない。回復の兆しがあろうが無かろうが、被害を拡大させればさせる程、彼の首に縄が掛かっていく。なのに、彼にはそれがわからない。執行が終わってやっと、彼は—————違う、それすらわからないのに。
「まぁ、今日は暇だしいいけどーいっそマラソン大会ごと消えてくれないかなー」
「そ、そんな事を言っては………」
「だって、仕事でもないのに週末の時間を取られるって割に合わなくなーい?」
「サ、サイナさん」
「そうですね~。もしかしたら、割に合わないかもしれませんね♪」
脳に鮮血が届く。酸素を存分に含んだ、鮮やかな血が。
「そういえば、イサラさん。2年からは自力で仕事を取ってくると言われてましたね————もしかしたら、今日もお仕事かもしれませんね~♪お二人のように」
空気が変わる。たったこれだけでふたりの眼に闇が差す。
この目を知っている。そして、もっと煮詰めた色も知っている。昨日だ。
「………サイナっち、私らは別に仕事なんか」
「私、マラソン大会当日の仕事と言ったつもりでしたけど、違うのですか?」
既に腰は浮かせていた。届くふたりの手を避け、横に転げながら座席から離れ、講堂の出入口へと走る。広い階段状の先、出入口の袂には教員達がいる。だが、まだこちらを見てはいない、後ろから追いかける足音も声も聞こえるが、私にはそよ風にも至らない。
既に、私はあの担任の手を振り切っている、逃げる者の覚悟を握りしめている。追いかける者の経験をまだ持っていないふたりは、決して私には届かない。
「サイナさん————ッ!!」
あの音がした。知っている、もう何度も耳にした。自分の手からも鳴らした事がある。振り向くまでもない、手に取るようにわかる。今だ人に実包を撃っていない彼女であろうと、数十度も経験した動きを身体が忘れる筈がない。だが。
「オーダーは逃げる背中を撃てません!!」
それだけ言い残し、最悪撃たれても構わないと走る。だって、この制服はオーダーの鎧。後ろから撃たれる事さえ予想した防弾性。1年経っても決して崩れない、私の身体を守り切った強靭なアラミド繊維を織り込んだオーダー校標準の装備。
「先生!!」
叫び、今も走っている姿に教員達が私を見る。
「私は———これからたったひとりの命を救いに行きますッ!!」
生徒なんかではない、教員の、オーダーの大人の手を伸ばされる、待ち構えられる、ジャケットに手を入れる。それがなんだ、私はそんな光景を何度も目にした。
———だけど、私と出入口を守るように担任の先生が全身を使って壁として立ちはだかる。そして同時に、今も上げられている銃口に対して、担任は———自身の銃を引き抜いて対峙する。先生はやはりオーダーだった。当然帯銃義務を負っている。
「嘘ばっかりなんですから♪」
講堂の廊下を疾走し、シズクに連絡を繋げる。
「シズクさん!!」
「わかってる!!でも、どこにいるかはわからない————」
講堂に繋がる渡り廊下を過ぎ去り、私達の棟へと到達する。中は完全に無人だった。彼がどこから現れるかわからないからだ。校舎に人など残せない、教員もその中にひとり、指導し、守る立場である教員まで倒れてしまっては————真に彼は害であると証明する事になる。彼の回復を待つ為、あの教室に閉じ込めるという選択をしたというのに。
「発信機は!?」
「も、持たせてたけど————もう反応しない」
「捨てられてたか、壊されましたね」
なら、やはり犯人はオーダーという存在を深く理解している。
「まずは、あの教室に行って。そこから証拠集めを」
「時間がありません。それに彼を知っていて、誘拐する計画を立てている者達です。証拠品なり得る物は何もないかと—————シズクさん。考えて下さい、この校舎に詳しくて腕の良いオーダーなら彼を誘拐できます。ずっと計画していた、彼はあの教室に閉じ込める事さえ知っていた、ならこれは手順や犯行手段は関係ありません」
「———動機を考えるべき。ヒジリのあの力を使う為の」
「あの力は使われる対象を選べない。確かに力を使う為かもしれません、だけど同時にあの力に魅せられた者の可能性もあります。シズクさん、思い出して下さい————私とイサラさん、教員、そしてあなた以外で誰が彼を求める程知っているのかを。誰があなたを通して彼との接触を図ったのかを」
数秒だ。たったの数秒。だけど、それがあまりにも長い。続けて何か言うべきかと思ったが、それは違う。彼女の邪魔をしない事こそが彼を救う最大の応援になる。
「………ソソギ」
その名前に側頭部に鈍痛が走る。
「ソソギから聞かれた。あなたの隣にいた彼は誰だって」
「なんて答えたんですか?」
「知らない。いないって。でも、確かに見た、隠しても無駄だって————それでも、私は絶対に答えてない————だから、知れる筈がない。………いえ、違う」
「何が、何が違うんですか」
「————ソソギもあの教室の出身だった筈。入学した時に向かうのを見た」
12月のクリスマス。彼しかいない教室だった筈だ。だけど、担任は言っていた。あの教室を以ってしても、彼は抑えられなかった。たちまち周りのクラスメイトすらも狂わせた。全員移動させて残ったのは彼ひとりになった、と。その僅かな期間。
まだソソギがあの教室で過ごし、彼とクラスメイトであった時に知った。
「ソソギさんが第一候補、いえ、高い確率で犯人ですね」
「でも、今どこにソソギがいるかなんて」
「私の友人ふたり、今どうなってますか?」
気付いたのだ、ようやく我に返ったのだ、スマホから声が途切れたと同時に、何かが転がる音が響く。確実にスマホを落した音だった、続けざまに叫び声や銃声すら鳴り響く。それらが収まった後、シズクの肩で息をする音が聞こえた。
「ほ、ほけん、保健室ッ!!」
足に全力を込める。床のタイルを踏み付け、身体を弾き飛ばす。
保健室は校舎の一階にある。飛び降りる覚悟で階段を瞬時に駆け下がり、足音など気にせず、無様だが全力で下がる。そして階段の終わり、一階へと続く踊り場から次の足場へ踏み入れる寸前で目撃する。
「だ、だけど気をつけて、そこには!!」
分かっていた。察していた。だって、その可能性はあると口にしていた。
「や、やぁ、サイナ」
「イサラさん」
階段を下りた先。自分は見下ろす格好でイサラを見つめる。
「イサラさん、私行かないといけない場所があります」
「………そうだよね。でも、私にも理由があるんだ」
「—————あなたは、これからたったひとりの命を奪える?」
あのイサラが身震いをした。私の視線を受けて、絶対に挫けなかったイサラが息を呑んでいる。
「ひとりの命、なんの話………」
「何も知らないのなら、邪魔しないで下さい。—————私、友達をまだ殺したくありません」
一歩下がる。たったそれだけでイサラが拳を作る。
「わ、私はソソギに依頼されてさ、ふたりも朝早くに」
「それが————それが、私に何か関係ありますか」
仕留める。確実に命を奪う。素手でイサラの首を握りしめ、動脈を潰す。
手元にあるのは1年以上も使わなかったナイフとあの黒い拳銃、そしてボタンのみ。だけど、どれも使う気は無かった。そんな時間はない。
「サイナ、私はこれでも」
「あなたにも秩序がある、それは否定しません」
更に降りる。ついにイサラが一歩下がる。
「だけど、同じように私にも秩序があります———オーダーを宣言します」
それは犯罪者相手に送る、これから武力行使も辞さないと告げる最終通告。
「お、オーダーって、私はそんな」
怯える姿など見た事もなかった。私達はあくまでも先輩方の依頼の手伝いしかしなかった。自分から人に発砲はおろか、オーダーを宣言して詰め寄った事もない。だからなんだ、私は自分の為にオーダーを宣言し、私の秩序を守る為に力を行使する。
誰にも止めさせない。誰にも邪魔させない。これは、私のオーダーだ。
「通して貰いますね。邪魔をするなら逮捕します」
イサラのすぐ横、彼女の体温や汗すら漂う、すぐ隣を通過する。そして、もう一度走り保健室を目指す。もうすぐそこだ、あと何度目かの扉の前を越えれば到着する。
あの曲がり角を越えれば、すぐ目の前に————。
「————シズクさん、彼は意識があってもなくても、あの力を」
「………そう。眠っていてもあの力がある。だけど、記憶には残らない」
「良かったです」
確認するまでもない。確かめる必要もない。確実にそこにいるから。
「ソソギさん」
曲がり角を越えた時、あの長身が目に入る。長い手足、刀剣を思わせる鋭い目と美しい同性という感覚をそのまま形にしたような骨格。長い艶やかな黒髪を流した、身に着けている制服すら彼女には相応しくない、無理やり着せている感覚すら覚える————到底同年代とは思えない、完璧な身体付きを持ったアブノーマルがいた。
「来てしまったのね。イサラはどうしたの」
「通して貰いました」
「そう」
気にした様子もない。イサラは、あのイサラはあくまでも時間稼ぎでしかない。ただ、相手をするのが億劫だから雇っただけの傭兵でしかない。彼女は我らが女子の2大エースと銘打たれているが、イサラは結局彼女に一度も勝てていない。
孤高の頂点。切り立った山脈をその身に侍らせていようと、本物の頂上には届かない。そして、彼女はそれを気にした素振りも見せなかった。自分とそれ以外でしかないと、理解しているから。自分の様な堕落させる手管など、思考すらしていまい。
「そこに、いるんですね」
「誰が?」
「隠しても無駄です。そこに————彼がいるんですね」
イサラに対して出来た一歩。それが、踏み出せない。
「あなたが知ってどうなるの?」
「————そうです。私には関係のない、覚えられてすらいない他人です」
側頭部に痛みが走る。あの酩酊感が蘇る。冷たい床に頭を落し、両肩が上がらない感覚を思い出す。ただソソギに立ち上がるのを見つめるしか出来なかった、あの光景が。
「なのに、ここに来たの。それはどうして」
ソソギから歩んで来た。ソソギの一歩に全身が強張る。
「あなたは逃げた。届く筈だった手を落し、諦めて去って行った。そんなあなたに今更何が出来る。彼を見捨てたあなたに、今更何が出来るというの」
彼と目を合わせただけで意識を失い、二度目ではろくに会話だって出来なかった。彼の純粋な褒め言葉になんの対応も出来なかった。そして、去っていく背中だって追えなかった。声を掛ければ良かったのに、先生を止めずに飛び出せば良かったのに。
「あなたに出来る事はただひとつ。このまま去って、彼を忘れる事。違う?」
ソソギの視線と言葉が、あの時とは規格外に身体を包み込んでいく。全身を蝕む傷よりも深く、ただ耐えるだけでは済まされない、このまま留まり続ければ、何も出来ないただの人形に成ってしまう。オーダーに成った意味を失ってしまう。
「………いいえ、違います」
だけど私には答えがある。私の中だけで作り上げた、たったひとつの答え。
「復讐です————」
「復讐?誰にするの?」
今も私の中に燃え上がる復讐の火種。誰と出会っても、誰と言葉を交わしても、彼の力を受けてもなお燃え盛る業火。炎の足跡を造り、私の痕跡に誰もが慄く、圧倒的な焔を作り出す感情が、今もなお心の中心にいる。
「ソソギさん」
焔を纏う足、それがソソギに一歩近づく。
「あなたはとても優秀なオーダーです」
全身に燃え移り、髪さえ燃やす圧倒的な勢いはそのままに。
「私では到底敵わない、同じ頂きには踏み込めない力の持ち主です」
私を知っている者が見れば、口を添えてこう言うだろう———サイナじゃない。
「だけど、あなたは私には成れない————あなたには無いものがあるから」
なおもソソギも下がらない。だけど、攻勢にも出ない。その気に成れば、すぐさま側頭部を狙える。それどころか毒蛇の一撃を使えば喉だって潰せるというのに。
「あなたにもひとに言えない理由があると思います。決して口に出せない理由でオーダーに来てしまったと思います。私も同じです。到底、人には言えません。だけど、私はあなたとは違います。私は自分でオーダーに成った————」
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