第20話
とぼけているのだとしたら、彼女は名女優に成れる。心の底から知らないと言っているようだった。夢、という話を信じていた私なら思わず諦めていたかもしれない。だけど、私は覚えている。確かにいた。この教室で彼を見た。
「ほら、チャイムが鳴りましたよ」
先ほどの言葉など忘れたと言って、たった今鳴り響いたチャイムを差す。
「————先生」
「これ以上は待ちませんよ」
「先生なんですか、彼を送っているのは」
笑みを崩さず、ゆっくりと近づいてくる。心臓が凍り付く、それは担任が銃を持っていないからだ。彼女は言っていた、私が銃を持っていないのは、あなた達には使うまでもないからだと。中等部の人間など、銃を使うまでもなく無力化出来るから。
「————ええ、そうですよ。もう隠せませんね」
嘘だ。私は知っている———だって、もう数度も見た。
「先生、2輪派ですよね」
「ええ、それが?」
恐怖だ。たった今嘘を言ったというのに、それを知っている私に言い、あまつさえそれが嘘だと見破られても、変わらずに笑みを浮かべて、認めた。
「ふふ、困りました。どうすれば、帰って貰えますか?」
「彼に、ヒジリさんに会わせて下さい」
「シズクさん、とても良い子ですね。確かサイナさんとも親しかった」
手から汗が噴き出る。腐った、切り裂かれた、あぶられた手のひらでは生まれることさえ無かった汗を握っている。それは、シズクが何をしたか知っているから。
「でも、ダメです。学校からお願いされた約束を破るなんて」
「………シズクさんに何かしたんですか」
「あれ、もうそのヒジリさんはいいの?」
シズクは言っていた。学校側からも彼を秘密にしてくれと頼まれたと。
「————先生、先生もオーダーですね」
「はい、間違いなく」
「秩序維持、それが一番の目的ですよね————ちなみに言っておきます。もし中等部内で授業と依頼、関係なく窃盗や傷害、恐喝などしようものなら———私は迷わず君達を逮捕します」
僅かに眉が動く。担任の顔にひずみが起こる。
「不起訴の可能性はありません。執行猶予もありません。犯罪たり得る証拠が揃った時、あなた達はオーダーとしての権利、並びに最低限の人権だけ残し、それ以外は剥奪されます。牢屋で死んでもらいます————そう言いましたよね。これは、依頼ですか?それとも」
「先生、嬉しい」
一歩。たった一歩進まれただけで、汗が凍り付く。
「弱いから搾取されて当然?気に食わないから殴る?それが許されるのは子供だから。しかし、あなた達はオーダーとなった。そして犯罪者を逮捕するのが我々の役目です。ここは犯罪を擁護する場ではありません。確かにオーダーである以上、暴力に巻き込まれる事は必ずある————覚えていてくれたのですね」
「………私もオーダーですから」
視線を走らせる。私の状況は、追い詰められている。
教室の中央で立っている私の目の前、扉の前には、あの担任が立ちはだかっている。
横を通り過ぎれば、ほんの1秒足らずで逃げられる————あり得ない、許される訳がない、私は担任の、この中等部で絶大な権力、指導を許されているオーダーに反抗した。
ペナルティー、それが一体なんなのかわからない。だけど、オーダーは必要があれば誰であれ、取り押さえる逮捕権がある。その為に帯銃帯刀が義務付けられている———その気になれば、私に指導として何をしても許される。
「良い顔ですね———無論、自己研鑽は必要です。手を抜いて生きられるほどオーダーは楽ではありません。死にたくなければ勉強も修練も続けること———それを守ってくれているようですね。先生、重ねて嬉しいです」
たった一歩でいい。身体を固定し、私がもっとも狙いやすい距離を作り出せればいい————踏み出すには近過ぎる。だから、一歩———下がる。
「逃げるんですか?」
「先生、お忘れですか—————能力が低く、周りに貢献出来ない子も出てくるでしょう。叱責したくもなるでしょう。しかし、それは自分の足りない力を人の所為にするただの言い訳です。能力が足りないなら別の人を雇えばいい。その子でも出来る仕事を任せて、指示すればいい————私、もう自分で自分に指示を。自分で自分の武装を用意できます」
制服の内側。中等部の生徒は、まだ帯銃の義務はない。だが、銃を持つ事を許されていない訳ではない———引き抜くは、あの黒い塊。許されざる悪魔でも殺せる銃。
「————それは、」
銃口はブレない。銃身に傷もない。ずっと隠し持ってきた、魔女狩りと言われた拳銃。実銃と比べれば、あり得ない程軽い銃。あの家から持ち出せた、たったひとつの銃。
「———どこで、それを」
「知っているのですね。まさか、先生————悪魔ですか?」
「………撃てるの。それは、」
「撃てますよ。だって、私もう人を撃ちましたから」
銃を持つまでもない。きっとそれは正しい。入学した初日に見た、あの一方的な攻撃。もう既に1年前とは言え、私ではどうあがいても届かない高みからの2撃。
だが、担任にはひとつ、たったひとつだが、あれを振るえない理由がある。
「私、まだ先生を傷つけてませんよね————弱いから搾取されて当然?気に食わないから殴る?それが許されるのは子供だから————でしたね。あと———あなた達はオーダーとなった。そして犯罪者を逮捕するのが我々の役目です。ここは犯罪を擁護する場ではありません—————先生、ヒジリさんとシズクさんを誘拐しましたね」
私はオーダーだ。オーダーならば犯罪の証拠収集の為の活動が許される。そして、担任は情報収集の邪魔をし、要る筈の彼はいなかった。つまり担任には。
「未成年者誘拐の疑いであなたを逮捕します。このボタン、先生から預かりました」
もうひとつのオーダー装備。ずっと使わないで制服の内ポケットの中に放置していたオーダー街でのみ使える緊急要請ボタン。使えば即座に近場のオーダーが駆け付ける装備。拳銃、要請ボタンという、オーダーにのみ許された構えだった。
「————何を知りたいのですか?」
「あの人はどこ?シズクさんに何をしたの?」
「知ってどうするのですか?」
「今言えば情状酌量の余地ありと牢屋に入れられる期間が変わります。オーダーとしての資格はまだ剥奪されないでしょうけど、起訴され有罪を受け、刑事罰を受けて貰います。何年牢に入るかは、どうなるかはあなた次第です」
ようやく笑みが消え始める。担任の無表情には、本来なら生きた心地がしなくなる所だが、今は違う。私は犯罪の疑いがある者に取り調べをしている。
「まず彼、ヒジリ君は今頃車両に乗せている筈です」
「すぐに止めて下さい————早く。だけど、スマホを取り出すだけです。それ以外の動きを見せたら、すぐに撃たせて貰います」
大人しく担任は自身のジャケットに手を入れ、スマホを取り出す。
「————護送を中止して下さい。理由は後で言います。止めました」
「次にシズクさんです。すぐに彼女を解放して下さい————終わったら、それを捨てて。こっちに蹴って下さい」
僅かに逡巡、することもなくスマホをもう一度使い、何処かへ連絡する。
「シズクさん、彼女を降ろして」
そして床に落とし、担任はつま先を使ってこちらに蹴り飛ばす。
指示が終わった担任は、自身のジャケットを守るように腕を組み、こちらを伺ってくる。やはり焦っている様子はない。こんな事は日常茶飯事なのだろう。
「彼は、ヒジリさんはどこですか?」
「会えると思っているの?今の彼に」
走馬灯が走るのがわかる。たった数分だけの会話で意識を失いかけた。あの力、魅了としか言いようのない圧倒的な力の余波だけで人が倒れ、今も彼の姿が頭に焼き付いている。シズクは言っていた、あの力が弱まってる、と。あの弱まった力だけでも校内を歩かせる訳にはいかないから、車両で護送などしている。
「私も見たからわかります。今の彼は、あの力を防げる方法がなければ何人も当てられてしまう。シズクさんに紹介されただけで求めてしまう、あなたに耐えられるの?」
「————わかりません。いえ、きっと狂ってしまう」
「だったら、」
「それでも私は彼に会わないといけません。私がオーダーに来たのは彼に会うため」
この言葉に、担任は静かに———笑みを浮かべた。
「そう、眩しいですね。これが————良いでしょう。そこまで言うのなら、こちらに」
「そう言って罠に仕掛ける人がいました。ここに連れて来て下さい」
「————そういう生活をして来てしまったのですね。分かりました」
おもむろにジャケットに手を入れる。だが、もう片方の手は上げる。
「良い腕でした。言葉にも迷いがなく、サイナさんからは確固たる目的を感じました。だけど、通信機器は2台以上用意するのが鉄則です。忘れないようにしてね」
もう1台のスマホを取り出し、小声で何かを告げる。そして、言われなくてもスマホをこちらに蹴り飛ばす。
「わかっていると思いますけど、彼は常人では耐えられない。私も直接見る事は避けたい————シズクさんなら多少は耐えられると聞きました、彼女に頼んで連れて来て貰います。だけど、約束————出来る立場ではないですね。では、聞き流して下さい。もし、彼との数度の会話を望むのなら、あなたが今後の彼のパートナーになって貰います。相棒、と呼んでもいいかもしれませんね」
「見捨てない、そういう意味ですか」
「そうです。ヒジリ君は、記憶の混濁があり、数度以上の一定期間の会話をしなければ相手の事を覚えられません。忘れるのではありません、すぐに消去してしまうのです。だから消去前、数度も繰り返せば彼の記憶は定着する。そして、それをした場合、彼を見捨てる、彼から離れる選択をしたのなら、彼はもう戻って来れない」
「心が砕ける————」
「そう」
重い契約だった。
彼の心も脳の記憶力も真偽はわからないが、数度も繰り返してようやく彼の記憶に、彼の世界に私がいるのが普通になったのら、それはとても喜ばしい。
しかし、それをした場合、彼の世界には常に私がいる事になる。そんな脆い世界しか持てない彼の世界から、もし私が消えたのなら、もし私が彼を見捨てたのなら、彼はもう戻って来れなくなる。欠片がひとつでもなくなれば、心は容易く崩壊する。
「その時、もうあの力を止める存在がいなくなる。彼自身すら消えてしまうからです————放出し続ける力を止める最後の方法。わかりますね?」
「………オーダーが殺人を」
「殺人。確かに許されざると判断されるかもしれません。じゃあ、ずっと何もない部屋で閉じ込めますか?彼はひとり、唯一の幼馴染であるシズクさんとも会えないで、死ぬまで、いえ、早期に死ぬように自然死を装う方法だってある。そんな目に彼を合わせますか?」
「………違います。そんな、そんな………そんなの許されないッ!!」
「そう、許されない。だけど、私達はオーダー。秩序維持が最大の使命です———彼は、秩序維持における最大の障害になる。これは確定事項です。これはオーダー校が判断し、この教室に閉じ込めた。誰もクラスメイトがいない世界で、1年以上も」
『そうか、あれは同じクラス、同じクラスってなに?』、確かに彼はそう言っていた。あれは世界が見えていないのではない、彼は正しく認識していた。
「———ほんとうに、本当に彼はたったひとりで」
「彼が入学して、あの力を放ち始めたのは数日経った時。すぐに、この教室に移動させたけど、この教室を以ってしても、彼は抑えられなかった。たちまち周りのクラスメイトすらも狂わせた。全員移動させて残ったのは彼ひとりになったの」
隔離なんて生易しい言葉では言い表せられない。これは、幽閉だ。
何もわからない、何も知らない彼をたったひとりで。あんな寒い教室に閉じ込めていた。暖房だって付けていない、食事だってシズクがいなければ取れなかった彼が。
「だから、聞かせて。本当に、それでも彼に会いたいの?今見逃せば、ただの他人のまま過ごせる彼を。あの力がいつ止まるかもわからない、一生終わらないかもしれない力の放出を。あなたに、ひとつの命を支えられる覚悟はある?」
銃口が揺らぐ事は無かった。だって、これは私を油断させる言葉の————。
「聞かせてサイナさん。あなたは、これからたったひとりの命を奪える?」
決心が揺らぐ。私は、自分の為にひとつの命を使い潰す為に、これまで過ごして来た。それは私が復讐を果たせれば、それで良かったから。それ以降なんていらなかったから。だけど、使われた側、残された彼はどうなる。私に裏切られ、私が消えた世界の中、たったひとりでまた寒い教室に閉じ込められるのか、それも殺すために。
「………行って下さい」
銃を降ろす。ボタンを捨てる。
「私には————私には出来ません」
「————じゃあ、良いのね。もう彼に会えなくても。なら彼には二度と会わないで—————それでいいのね」
彼の世界には今何がある。まだあの寒い教室の中、ひとりでいる世界か。弁当を持ったシズクがいなければ、本当にたったひとりでいるだけの生活か。彼は、オーダーに来てから何か得たのか。何か体験したのか。友人との出会いや別れは体験したのか———している筈がない。そんな事、彼の記憶と力が、そしてオーダーが許さない。
「………ありがとう。本心で彼の事を考えてくれて」
近づいて来た担任が手を握ってくれる。冷たい、だけど強い大人の手だった。
彼を守り続けた、本当のオーダーの手だった。
「じゃあ、今向かってる彼を止めます—————確認です、良いのですね」
拾い上げた2つのスマホのひとつに指を添わせ、こちらを見定めて来る。
「————私には、命を支えるなんて」
「サイナさん」
「止めないで下さい。揺らいでしまいます」
わかる。彼はもうすぐそこにまで来ている。暗くなった教室の外、廊下から足音がする。きっとシズクが手を引いて向かっている。周りに大人こそいないが、確実に監視している。窓の外は当然、一階の玄関には大量にオーダーの人間が揃っている。
「ヒジリ、これからサイナに会って貰うね」
「サイナ。シズクの言っていた友達」
「そう、友達。すっごい優秀なオーダーだから」
「止めて————」
「シズクさん、止まって」
教室のドアを開ける寸前だった。担任の声にシズクの声が止まる。
「先生、でも」
「いいの。無理に連れ出してごめんなさい。そのまま彼を車に連れて行って」
これで終わりだ。もう私と彼は会う事はない。同じ校舎にいるかもしれない、だけど教員やオーダーの人間達が壁となって、一般の生徒から隔離させる生活が続くだろう。もはや彼がシズク以外と食事を取る事も、紹介する事もなくなる。
「先生、最後に聞きたい事があります」
去って行く足音の最中、担任がこちらへ振り向いた。
「なに?」
「………どうして、彼を校舎に。ずっと寮に閉じ込めておけばいいのに」
残酷な質問だと思った。それは、さっき言った早期に自然死を装う方法と全く同じだった。彼にだって人権はある、ずっと同じ場所に閉じ込めるなんて、許されない。
「————彼は、まだ回復の兆しがあるから」
「回復の」
「人と会話できるようになった、記憶の混濁も薄れた、シズクさんによればあの力も弱まった。1年以上掛けても、あの力による弊害は変わらなかった。だけど、確かに一度倒れたあなたは、二度目では倒れなかった。耐性に近いものが出来ているのかもしれない。だけど、それでも彼はオーダー、いえ、ひとつの命として生きられる」
「ヒジリさんは、それを望んでいるのですか………」
「ええ、彼も現実を、世界を受け入れようとしている。会話が出来る様になったのが、その証拠。彼は、ヒジリ君は間違いなく帰って来ようとしてる」
分かった、これは知っている。彼の境遇まで理解した。彼は、私と同じだ。あの部屋に閉じ込められ、わけも分からず暴力を、人の性を叩きつけられて来た。彼は、この教室で誰にも関わる許可を与えられず、ずっとひとりで何も理解出来ずに閉じ込められて来た。人間扱いされてこなかった。命とさえ見らていない。
「待って」
許せない。彼の境遇を。こんな判断を下して、これは秩序の為と嘯くオーダーが許せない。こんな所にまで落とされ、なおも彼を秩序の為と言って、人間達の都合でひとりにした、何も知らない彼は復讐心さえ持たされなかった。許せない。
何も与えられず、何も必要とせず、何も教えない。そんなもの許せない。
「サイナさん、」
「待って!!」
教室に声が木霊する。こんな絶叫、久しぶりに出した。
「私、彼に会います。彼に会わせて下さい!!」
「………でも、一度記憶の定着がされたら、二度と、」
「構いません。私が彼のパートナーになります」
「————理解しているの。まだ中等部生のあなたに何が出来るの。彼の学校での世話さえすればいいと思ってる?昼に学食に連れて行けばそれでいいと思ってる?あの力に耐えながら、ずっと、本当に人生を掛けて彼の心を癒さなければならない———本当に理解している?一時の感情に振り回されている、絶対に否定できる?」
大人からの本物の怒りだった。遅刻や授業での間違いを指摘する声じゃない。本当に、心の底からの言葉だ。あの視線が怖い、自分の無力さを覚える、オーダーとして長く生きて来た、本物の教員の感情を向けられる。喉も眼球も何もかもが渇くのがわかる。顔の周りを氷で閉ざされている、背骨があまりの威圧感に折れ曲がっていく。だけど、私にはわかる。
「わかります!!だって、あの人は私と同じです!!」
「同じ、自分の生き方を彼に押し付ける気ですか?」
「だけど、わかるんです!!誰を恨むかも、何をすれば抜け出せるのか、いつ終わるのか分からない絶望が!!だって、私は哀れに思われたから、怖くて見たくないから、ここに置き去りにされた!!誰よりも彼の、ヒジリさんの心は私がわかってます!!」
私は復讐を果たす為だけに、今までオーダーで過ごして来た。それは一切揺らがない、決して忘れない。彼を使ってあの家に復讐を果たし、最後は私が仕留める。何も計画は変わらない、何も変更も介入も許さない。だけど、生涯の命題を彼に押し付けるのだ、彼の生涯の宿命を支えらなくて、何が対価を求めるだ。何が自分の価値だ。
「先生こそ理解していますか!?このままで彼が本当に回復すると言いきれますか!?」
「っ———」
「言えませんよね。だって先生こそ後2年もすれば、それで仕事は終わるから。それまでここに閉じ込めておけば、何もしなくても彼はいなくなるから。回復の兆しがあると言えるなら、どうして2年で治してあげようと思わないんですか!!」
牙を剥く、睨みつける、感情を叩きつける。自分はただの中等部2年のオーダーだ。まだ世界を知らず、事業だってまだまだ発展途上。キズキがいなければ、ろくに武器の販売はおろか、オーダーメイドの取り扱いだって止まっていたかもしれない。
だけど、自分にはあの部屋での経験がある。自分しか耐えられない、地獄のような日々が。いつ始まるか、いつ終わるかもわからない、なのにいつまでも殺されない本物の生き地獄が。そんな経験を、彼は今過ごしている。しかもたったひとりで。
「私には許せません!!私はオーダーです、いつ消えるともわからない危うい命です。なら、私は全力で彼を癒し、彼の為に時間を使います。お金だって稼いで、彼に使います。先生、私はあなたを否定している訳でも、責めている訳でもありません———だけど、怒っています。教員であるのに、オーダーという盾を使って、彼に近づかないあなたに」
扉の前にいる担任が視線を外す。その一瞬が、担任にとっては許し難い行動だったとしても。目の前の自分の生徒、幼い未熟な中等部2年の少女なんかに言われて。
「じゃあ、どうすればいいの。彼の力、あれは万人に降り注ぐ。防ぎ方なんて」
「彼を正気に戻します」
「どうやって」
「言っていた筈です。回復の兆し、人と会話できるようになった、記憶の混濁も薄れた。なら、なら………」
「そう、沢山の事を記憶して、沢山の人と会話すれば、もしかしたら彼は世界を見つめられるかもしれない。だけど、その為に記憶の定着をさせる。大量に記憶させた結果、彼の元から人が消えたら、裏切られたら、見捨てられたらどうするの。もう、彼は戻って来れなくなる————時間を掛けて、効果的な回復方法を見つけるしかないの」
きっと教員は、オーダー校側はここまで理解して彼をこの教室に閉じ込めている。
今は待つしかないのだ。待って、彼の心が人が去る事に耐えられるようになるまで待たなければならない。自分は所詮、中等部2年の少女だ。ただオーダーであるだけの。
「………ごめんなさい。あなたの言葉は何も間違っていない。あなたは正しいの。だけど、現実は、彼の心は脆く砕けやすい。無力なの、私は————」
「………叫んで、すみませんでした。私こそ、何も出来なくて」
私があの地獄から抜け出せたのは、哀れだと思われても、結局人の手で救われたからだ。何も出来ず、何も思いつかなかった私は、ただ耐えるしかなかった。それなのに彼は必死に戻って来ようとしている。彼は自力で回復し、周りの人も助けようと手を貸している。
「じゃあ、先生行きますね。今日の事は忘れて下さい。彼にもシズクさんにもサイナさんにも、もう何もしないから。———シズクさんを連れて行った理由は、彼を無断で連れ出したからじゃない。彼女にも、力の煽りを受けた検診をして貰いたかったから………ダメですね。生徒を脅迫なんて教員失格です。私こそ検診を受けないといけませんね」
自分にとって決して越えられない鋼のような担任の苦笑いは、心に深く残った。
そのまま担任は退室し、私はひとり残った。積み上げられた机と椅子の向こう側。
空の月は、私の無力さ、無視考さを嘲笑っているように三日月だった。
「私は、一体なんの為にオーダーに来たの。誰も救えない、復讐だってこのままでは果たせないのに————オーダーに来る子は皆、理由がある。とてもじゃないけど全ては言い切れない。とても言葉に出せない理由の子もいる。そして、全て加害者じゃない。全て被害者。あなたもわかる筈。選択肢の中でも、最も過酷で、最も現実的じゃない選択。だけど、選ばないといけない子供達がここに来る—————彼にも選択肢なんてなかったのに。オーダーとしての生き方、将来だって選べないなんて」
もはや奇跡が起こるのを待つしかない。そして、自分が出来るのも彼に奇跡が起こるのを祈って待ち続ける、それも彼の視界に入らないように、ただの他人として生き続けながら。シズクから彼の情報をもたらされるかもしれない。そうすればいつか。
「いえ、もう関わるのをやめるべきですね。シズクさんが傍にいるのなら安心できます♪」
彼女の判断で待ち続けるしかない。あの力の弱まりを実感できるほど、彼の所作に理解のある彼女の事だ。彼女に任せ、彼女の邪魔をしない事こそが最大の応援になる。
「ヒジリさん————ふふ、もう二度と————いえ、嘘です。もう一度会いたい」
自分も人の感情に応えなかったのだ。彼が振り返る筈もない。だって、そもそも彼はこの感情を知らないのだ。もう顔も薄れつつある男子生徒は、2度も私に告白したというのに、それに引き換え私は、彼の為と言って逃げてしまった。
「さて、帰りますか。もう真っ暗ですね~。バスは残っているでしょうか?」
ようやくひとり教室を後にする。もう3月の廊下だが、まだ夜は寒気が残っている。ただひとりの廊下は心細いかと思ったが、今の私の心は、そんな外的要因などどうでも良かった。今も心に残るのは、どうしようもない無力感。
「う~ん、忘れてと言われましたけど、明日から普通に先生と話せるでしょうか………」
自分は生徒で、向こうは教員なのだ。どうしたって区切りの付け方に差が出来てしまうだろう。しかも授業中に当てられて、どもったり噛んだりしたら気まずい雰囲気になってしまう。いっそ笑いものにされた方が楽である。何かを噂されるぐらいなら。
「まぁ、気にしても仕方ないですね~♪」
週末はマラソン。友人達と走る最後の行事。無人街を走る無意味な時間。
「あ、車のレンタル忘れてました。今からでも探しますか」
無意味に声を出して、自分の中身をかき消す。もう3月とは言え、マラソンという体力勝負なのだ。行きも帰りも出来るだけ楽に行きたい。きっとそれがいい。
「————私だけ取り残されちゃいますね。ペナルティー、受けてもいいかもですね」
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