第19話

「あれは、一体————」

 ヒジリ、と呼ばれた何か。今もその事で頭が埋め尽くされていた。

「………どうやって入学を、今までどこに」

 シャワーの水滴を浴びながら、密かに口にする。

「夢なんかじゃない。あれは、確かにいた」

 彼の顔が今も頭に残っている。あの声が耳に響いている。

「————怖い」

 あんな、力としか言いようのない何か。人を魅了する何か。私も1年以上オーダーに所属し、キズキのような異能に触れてきた。だが、あの力は見える力じゃない————だけど、確かに感じられる力だった。洗脳、侵略、占領。脳という重要な機関を塗りつぶす力の奔流。それらを原液で浴びたような感覚。

「————シズクさんは、あの力にずっと触れて来た。1年間も。狂って当然ですね」

 自慢、と言えば陳腐な言葉になってしまう。だけど、あれを見せられたのなら誰かに話したくなるのも無理からぬ話だった。しかも、彼女は彼に触れられる距離に長く居続けた。あの力を受け続けている。翻弄されない訳がない。狂わない訳がない。

「私が求めた彼————ずっと背中を見て来た彼————それが、あんなにも」

 ただの実力者ではない。ただの美少年ではない。あれは、一体なんだ。誰が作り上げた、誰が解き放った、誰がオーダーになんかに落した。あれがあれば、何でも出来るじゃないか。人をただの傀儡に出来る力、見るだけで気絶してしまう力————違う、あれは彼の力の余波に過ぎない。きっと、彼の力はもっと別の為にある。

「————魅了する力」

 シャワーを止め、脱衣所へと戻る。日課の保湿クリームを塗る作業に移る。何も考えずとも、これは忘れなかった。どれだけ翻弄されようと、何も考えておらずとも。

「え、あれ?」

 ふいに姿見を見た。手を止めてしまった。

「————傷が、塞がって」

 全身を蝕む火傷と打撲と切り傷。それらが、確かに薄くなって———消えつつある。

「うそ、見間違い————」

 見間違う筈がない。この傷を1年以上も見続けた。この傷を消す度にありとあらゆる手を尽くして来た。だけど、終ぞ消えず、諦めた結果の保湿クリームだったというのに。信じ難いことに、腕の靴底の後や腿の真一文字の傷さえ消えつつあった。

「あ、背中は————」

 振り返り、置いてあった小さな鏡を手に取り、合わせ鏡で見つめる。

「————火傷も刀傷も、治って———」

 完全に消えている訳じゃない。今だ深い痕は克明に残されている。だけど、あれだけ睨みつけた、息を呑まれた傷が、薄く、もう一枚皮膚を被せられている様に消えつつあった。何が起こっているのか分からない。人間の自然治癒力は、ここまで巨大なのか。

「て、手錠の痕は————」

 見るまでもなかった。あれだけ引きずられ、或いは手錠を掴まれて叩きつけられた、その時に手首を締め上げ続けた手錠の痕が、薄く、埋められている。

「き、昨日まではこんな———こんな………ッ!!」

 何が起こっているのか分からない。自分の身体は、どうかしてしまったのだろうか。脱衣所から飛び出し、スマホを持って病院の診察時間を確認する。だが、時刻はまだ明朝。こんな時間に病院が開いている訳がない。これから学校もあるのだから。

「———何が起こっているの」

 もう一度手首を見つめ、薄くなりつつある痕に触れた。



「あ、サイナ………おはよう………」

「はい、おはようございます………」

 朝も朝、まだホームルームまで数時間もあるというのに、イサラは既に登校していた。その目元を見ればわかる、ろくに眠れなかったというのが見て取れた。

「き、昨日の子、どうなったかな?すぐ救急車が来てくれたけどさ」

「多分、脳震盪かもしませんね—————何か、あったのでしょうね」

「やっぱ、そうだよね」

 それ以上の言葉が浮かばなった。間違いない、あれは夢なんかではない。確かに、目の前に存在していた。シズクが連れて来た、あの何か。あれをイサラも目に焼き付け、狂わされ、今あの幻影に囚われている。言葉に出来ない、あの何かを。

「………今日は、雨が降ってるね」

「そうですね」

 雨の匂いが教室に溜まるホワイトデーの翌日、ぞろぞろと生徒達が登校し、昨日の話に華を咲かせる、事は無かった。優美な友人も気だるげな友人も、早々と登校するが、目を合わせて一言二言挨拶を交わすが、それ以上何も言わずに席に納まる。

「………きっと衝撃的な事件が起こったのでしょうね」

 彼には申し訳ない。一世一代の、二度目の初恋の告白を果たし、敗れ去った。もう二度と彼は私に振り向かない。そう心に決めて、今日という日を心安らかに過ごしている事だろう—————だけど、彼のあの顔を忘れつつあった。

 シズクが連れて来た、あの何かが私の頭に焼き付いている。たった数分の会話だけで何かが、私の心の中心にいる。一目惚れ、という感覚なのかもしれない。けれど。

「もう一度、彼に会わないと」

 あれに会いたい。あれを見たい。あれを自分の物にしたい。会話を続け、微笑みを受け、褒められたい。何度も見たと、もう一度言われたい。だけど、それが叶うだろうか。

「シズクさんも言ってましたけど、彼はあの教室にいる—————近づけません」

 許されざる教室。別の棟の校舎の最果てにある教室。名称こそ付けられていないが、あれは本当に特別な学級であった。近づく事は愚か、話題にする事すら憚られる。あそこに所属する生徒は、皆—————皆、真に狂ってしまった存在達。

「学力、実技を高水準で維持。だけど、精神状態に—————」

 言ってはいけない。それ以上、言葉にしては許されない。誰が悪いかなど、もはやどうでもいい。何かで呼称するのも禁止された存在。教員も、あの学級の為に選ばれた、相応しい知識を持つ専門医達。そんな彼らでさえ、ひと目に触れるべきではないとした何か—————きっと、今日も彼は車両で護送されているのだろう。

「オーダー足り得る才能を持っているから」

 いつもの間にか担任がホームルームを開始しており、それもすぐに終わってしまった。教室内の空気は言葉では言い表せられない雰囲気を醸し出していた。別に匂いがキツイ、という感じでもない。だけど、確かに昨日を経験した人達は空気が変わっていた。

「サ、サイナっち………」

「はい、どうされました?」

「な、なんか雰囲気違くない?」

 笑顔を作るのも苦しそうに話し掛けて来た彼女。彼女も、確実に昨日を経験してきたのだろう。乗り越えたかどうかは、分からないが。

「………今日さ、時間ある?」

「ええ、勿論。何時間でも」

「じゃあさ、皆集めて話し合おう………多分、長い話になるからさ………」

 気だるげな友人は去り、自身の席へと戻っていく。続いて優美な友人も、

「サイナさん、ご相談したい事があります………」

「私で良ければ。今日の放課後、話し合いましょう。みんなと」

「………感謝します。それまでに話したい事をまとめておきます」

 そして去っていく背中の先、彼女越しのイサラを見つめ視線で許可を取りたかったが、気付いてしまった。イサラも、昨日の放課後の事件を忘れつつあると。宙を見て、何かを思案している。思い出そうとしている。彼女は、いまだ囚われている。

「………私達、どうなってしまうのでしょう」

 目を閉じれば思い出してしまう。あの力の発生源を。

 その後、意外と授業に身が入って、真面目に受け続けた。目的がある、それも私を求めて時間を欲しいと言っている友人達の為だ。とてもシンプルな目的だ。複雑な計算も人間関係も介入しない。彼女達の求めるものはわかっている。後押しだ。

 午前も午後も終わり、約束していた通りに集合————心ここにあらずなイサラにも声を掛ける。数度の応答を持って、ようやくイサラはこちらを視認する。

「あ、どうかした?」

「申し訳ありません。私達にお時間を頂けませんか?」

「時間?」

「その相談したい事があるっていうか………イサラっち、もしかして忙しい?」

「ぜ、ぜんぜん!!大丈夫、すぐ行こう!!どこ行く?」

 立ち上がったイサラがわざとらしく声を発する。本来なら何があったのか、と問い掛けるふたりであるが、ふたり共自分のこれからの相談を考えているらしく、無言を貫いた。人に気を回せる程の余裕がないのが見て取れた。それはイサラ自身も。

「では、図書館の談話室を使いましょう」

 そう提案して、事実上の3人を連れて図書館へと足を運ぶ。そこはオーダーらしからなぬ蔵書を誇る広い空間であり、狭いが共同作業の折に調べ物や相談も行える防音の談話室が用意されていた。運よく、談話室のひとつが空いており、すぐに入室出来た。だが、分かってはいたが、誰から話すかわからず、しばし無言の時間が流れる。

「週末のマラソン大会、無人街までは車のレンタルでもしないといけませんね」

「うん、そうだね」

「確か、運転手の発注も出来るとか。でも、その場合、話し合いに気を使ってしまいますね」

「ええ、そうですね」

「4人乗りですから、それなりに大きい物を。あの車は廃車になったそうですから、今日にでも頼まなければなりませんね」

「そだね」

 爆弾処理の方がまだ気を遣わない。ここには総勢4人の爆弾が集まっている。ひとりひとり仕様も規格もコードも起爆方法も違う。何かを立てればこちらが立たず。否定も肯定も出来ない時間を過ごし、そのあまりの重圧感に時計の針だけが動き続けた。誰も言葉が出ないのは、皆、何を話せばいいか、まだ積み上がっていないから。

 だが————ようやく、気だるげな友人が口を開いた。

「昨日、どうだった………?」

 自分から言えないと思ったのだろう。人の話を求めた。

「………少しだけ、未来を考えてしまいました」

「そっか………実は私も………まぁ、私達まだ中等部2年なんだけどねー」

「もう年齢って、関係ないよ。だって私達はオーダーに来ちゃったんだし」

「うん、オーダーに来た時点で選べる未来を選ばないといけないね………」

 髪を染めた友人が天を仰ぎ、次いで視線をみんなの中心に付ける。

「あのさ、私————これから付き合い悪くなるかもしれない」

 来るとわかっていた。これは、避けようのない未来だ。私達はまだ中等部2年生。14歳という、まだ外の世界をほとんど知らない未熟な年齢。だが、オーダーに来てしまった以上、そんな事は関係ない。誰かに落されて、忌み嫌われる組織に所属してしまった。もはや後戻りはできず、名前を奪われた以上、オーダーから逃げられない。

「だから、今度のマラソン。あれが私がみんなと参加出来る最後の行事になるかもしれない」

 最後まで言い切った彼女の顔は無表情だった。言ってしまった、取り返せない言葉の数々に放心状態であるのが知れた。座席に体重を預け、再度天井を見上げる。

「————私も決めました」

 立ち上がり、優美な顔を崩し、目を開いて口を開ける。

「誘いを受けました。男女の仲になるかどうかはわかりません。だけど、私は見ないといけません。もう既に私の席を用意してくれ、断ってもいいと言ってくれました————だけど、何も言わずに去るのは、私自身が許せません。だから」

 震えながらもそう宣言した彼女も席へと戻る。ふたりとも美しかった。未来を見据え、確かな道を模索し始めている。オーダーである以上、オーダーの道しか歩めない。奪われた時間も自尊心も帰って来ない、ならば今の自身から考えて、未来の自分が確実に目的を遂行出来る道を求める事は、誰も否定できない。彼女達だけの未来だった。

「そっか。ふたりとも決めたんだ。うん、良いよ、決めたんだから」

「ほんと……?逃げたとか、」

「いいません。絶対に。絶対に間違ってなんかいません。誰にも否定させません」

 ようやく震えが止まったふたりが、安堵の表情を浮かべる。敵に挑むのなら容赦を無くせる。我々が仕留める相手は紛れもない秩序維持の敵だから。犯罪者に向ける銃口が揺らぐ筈もない。みんな、彼らによってオーダーに落されたから。

 だけど—————オーダー相手に、親しい友人に覚悟を向けるのは、あまりにも。

「—————ありがとう。あー良かった言えたー」

「はい、私も言えました、ありがとうございます」

「お疲れ様、カッコ良かったよ。ねぇ、サイナ」

「勿論、堂々たる宣誓、お見事でした。とても美しくて格好良かったです」

「ちょっと褒め過ぎだよー」

 力が抜けたふたりはいつもの。だが、決して昨日までのふたりではなくなった。オーダーになる覚悟は当の昔に済ませて来ても、未来を選ぶのは途方もない知識と労力がいる。その為に1年以上も力を磨き、流れる事なく居場所を作れる真に人間となった。圧巻の覚悟は決してお金では買えない、ふたりは自分の価値を確かな物にした。

「ちなみにだけど、なんて言われたの?」

「………髪を染めてから目が離せなくなった、とか」

 そう言って、自身の髪に触れる。

「も、もちろん、技術的な意味でも褒められたんだよ。私も向こうの事知ってたし、悪くない手腕だったし、私の趣味とか………いい色って。仕事するなら同じ感性の人としたいからって………」

「その、恋愛的な?」

「さ、流石に私はオーダーだし、そう簡単に決めていい訳じゃないし!!仕事に色恋を入れて、崩壊したチームがいるって言うのもわかってるけど、だけど———うん、まったく未来が想像出来なかった感じじゃないって言うか………」

 仕事仲間との恋愛、確かにそれは危険だ。関係が善良な内は以心伝心が可能な完璧なパートナーなり得るだろうが、それが解消する程の事態に陥った時、最悪同士討ちすら視野に入ってしまう。彼女には悪いが、彼女はそういった方面で区切りが付けられる程、経験があるとは————いや、無粋だ。かならず理解して決めたのだろう。

「私だって理解してるもん!!結構危ない判断で決めたって!!それに異性だけのチームじゃない、女子だっているチームだから————でも、決めた。私、ずっと同じ場所にいる訳にはいかないって。得意分野を極めたい———」

「はい、オールラウンダーは危険だと言われましたもんね」

 オールラウンダーと呼ばれる何にでも適正のあるオーダーは、最初こそ重宝されるだろうが、その人を超える特化した人材が集まった時、必要性が薄れてしまう器用貧乏だった。いずれ影が薄れ、自分の存在意義を失ってしまう。それは避けるべきだ。

「私は、その————見極めて欲しいと、自分の技術を完成させるには君が必要だと」

「それって、完全に………」

「も、もちろん、そんな不健全なだけの関係ではありません!!戦闘技術、電子技術、対人関係、全てにおいて総合的に判断し………見どころがあるかもしれない、と思ったので決めました」

 思った以上に上から目線での決め方だった。自分の判断評価を絶対の物としているという意味だ。確かに彼女は現場判断が得意なオーダーで、送られてくる情報をすぐさま理解、適切に私達へ情報を行きわたらせる人材ではあったが。

「その、私の評価が最も自分には正しかったと。厳しい事も含めて、君の言葉なら信用出来ると。私も異性だけのチームではありません、ちゃんと同性の方もいます!!だけど、その————あそこまで私に律して欲しいと言われるなんて」

 これ以上引き出せる理由はなさそうだった。ふたり共、自分の分野を確定させ、高等部の科、学科に向けて踏み出している。何故、それを決めた?と問われても、『だって決めたから』、としか言いようがないのと同じだ。『自分のやりたい事をやって何が悪い、いちいち聞くなんて無粋だ』。と言いたくなるのと同じだった。

「イサラさんは、何かありましたか?」

「私?うーん、まぁ、あったけど断ったよ。………正直、私より弱い人とは組みたくない」

「おー、超ー俺様ー」

「だって仕方ないじゃん。自分より弱い人間の世話をしながら、自分の役割を全うできないオーダーと仕事しても経験なんて積めないし。————特別な関係でもない限り、成長を待って、我慢するなんて。私には耐えられないよ」

「では、特別な関係であるのなら、その限りではないと♪」

「………まぁ、成長が楽しみな人がいたら待ってもいいかもね。別にみんなの事を言ってる訳じゃないから!!みんな、私の事を助けて活躍できる場面を作ってくれたから!!」

 きっとこうやって4人で笑い合う、無償で意味もなく集まるのも数える程になるのだろう。次にあるとすれば、それは計画前か打ち上げの時————或いは、敵同士になった時。誰も言わないが分かり切っている。私達は必要があれば、人攫いも辞さない危険な組織。秩序維持という題目こそあるが、それが誰の秩序なのか分かれる時が来る。

「んじゃ、しばらくイサラっちはフリーになる感じ?」

「まぁ、そうなるのかな。実際、私って根無し草だからね。一ヶ所に留まるのは出来ないんだ。助けたい人とかいたら、多分誰でも助けちゃうし。気に喰わなかったら、そうするだろうから」

「まるでヒーローですね♪」

「ちょっと、馬鹿にしてるでしょう!!」

「まっさか~♪」

「そういうサイナはどうなの?」

 来ると思っていは矛先が届く、だがわかっていて聞いたのだろう。

「勿論、断りましたよ♪私、誰かひとりの物になる気はありませんから♪」

「それなら、サイナさんもフリーに?」

「フリーというよりも民間企業を立ち上げる気です。今のまま事業を拡大、いずれは目指せ資本金3億の大企業で~す♪」

 そんな筈がない。そんな物目指してなどいない。私は———必ず復讐を果たす。

 磨き上げた容姿も声も力も財貨も知識も、全てはあの家を火の海に変える為。私の悲鳴聞きたさに、多くの人間を招き、参加して凌辱したあの家の人間を切り刻み、燃やし、肉片すら残さぬ、ただに灰にする為。それも生きたまま悲鳴を起こす為に。

 今も————今も————傷が、私には、傷が————。

「じゃ、オフィスとか今からでも見るの?」

「流石に気が早いですよ~♪それに、無店舗経営が私の目指すところです♪まぁ、設備投資や競争苛烈化など、二番煎じ三番煎じが続いた時が恐ろしいですけど………」

「ブルーとかレッドとかの話だよねー。確かにもっと安いとか、」

「もっと高品質とか、」

「もっと高速とか、が揃った時は—————嘘です、嘘!!」

 私の牙城を崩す、諸々の敵対組織が訪れた未来予想を口々に言うものだから、思わず睨みつけてしまった。確かに無店舗など今日日珍しくもない。しかも、オーダーの武装を開発して、売ろうと虎視眈々と狙う軍需産業は続々と生まれるだろう。

「しばらくはサイナ商事のお世話になる気だからー、顧客に飽きられないよーに頑張ってー」

「うぅぅ、お願いしますね。乗り換えたりしたら押しかけますからね!!」

 ようやく空気が軟化した。お互い言いたい事を言い終えて、軽口のひとつも言えるようになった。そして、私自身も楽しんでしまっていた。これが最後の機会になるかもしれない。そう思うと、楽しまなければならない。友達を見送らなければならない気がした。

「じゃあ、解散する?」

「はい、解散ですね」

「うん、解散しよっかー」

「ええ、解散です♪————だけど、」

 これが最後かもしれない。これがただの友達としての最後の集まりかもしれない。

 だけど————これは始まりだった。

「また、お会いしましょうね。また必ず、一緒にお仕事をしましょう♪」

 そう言って全員で頷いて解散する。きっと人によっては薄情にも映る、あまりにも浅すぎる別れ方。全員で談話室を後にし、図書館から退室して別れる。きっとふたりは自分で選んで作り上げた居場所に向かう。今後は気安く話し掛けられない、確実にあちらのメリットになる話を持ち込まなければ、話し掛ける事さえ許されない関係になる————それはあちらも同じだった。向こうも、私に対価を支払わねなばならない関係になった。友達であるのは間違いない。だけど、友達だから許すのではない。

「友達だから自分の価値を示さねばならない————さもないと仕事も出来ない」

 そして————私は向かう。もう放課後。そう遠くない内に下校時間になる。その前に走る。廊下を走らない、と言われるのが恒例らしいが、そんな言葉を投げかける教員もいない。数人こそいるが、走る私の前に飛び出す人間もいない。

「はやくはやく———はやく会わないと」

 奪われてしまう。シズクがまた誰かに紹介してしまうかもしれない。誰かに奪われてしまうかもしれない。彼自身が気になった相手を見つけ出してしまうかもしれない。認められない、決して認めてなるものか。彼は渡さない。彼の微笑みを奪わせはしない。必ず、必ず————。

「私の物にするッ!!」

 別の棟までの道行き、渡り廊下を通過し、シズクに連れられた校舎の最果て、あの教室までの順路を思い出す。誰も私を止める者などいない。彼を求めるのなら邪魔をする暇だってないからだ。誰よりも早く彼と話し、彼の為に言葉と声と身体を使う。既成事実で彼をものに出来るのなら安い物だ。しかも、彼は私を褒めて、何度も見たと言ってくれた。私こそが彼に選ばれるに相応しい————。

「お願い、まだ誰にも奪われないで!!」

 欲望は止まらなかった。人から見れば、あまりにも正気ではない顔だった事だろう。瞳孔を開き切り、呼吸もせずに、ただ走る事しか考えない前傾姿勢での疾走。

 私を知っている者が見れば、乱心したと言われる姿だ。だけど、その通りだった。私は狂った。彼を求め、彼の為に時間を使い、彼を自分の為に————彼を———。

「み、みえた!!」

 最果ての教室。もう誰もいないかもしれない、あの特別な教室。だけど、彼を教員である専門医が、彼のあの力を何かしらの方法で防いで、正気を保っている教員が彼を車で護送している。なら、その時は最後の時間だ。一般のオーダー、中等部生が消え去った後に隠しながら校舎を渡る必要がある。だから、今なら確実に———。

「サイナさん」

 振り返る———振り返ってはいけない。構わず教室まで向かう。

「サイナさん————どこに行くの?」

 最初の声も後方ではあった。だが、一瞬だった。たった一瞬で肩を掴む距離まで接近されていた。だけど、振り向かない。相手が———担任であろうと。

「サイナさん、もうすぐ下校時間です。こんな所にいてはダメですよ」

「せんせいこそ、どうしてこんなところに」

「私は見回りです。サイナさんのように、残っている生徒がいないかの」

 痛みはない。軽く手を置かれている程度だ。今なら大人しく帰らせて貰える。だけど———今、ほんの数歩で、あの教室まで、あと数秒で彼に会える。

「どうしたのですか?ほら、玄関まで送りますから帰りましょう」

「せ、せんせい」

「はい、どうしました?」

「まだ最終下校時間まで時間があります。チャイムも鳴っていませんし、自習や自己訓練をしている人は、まだいますよね」

 顔も見れない。肩が抉れている訳じゃない。だけど、後ろにいるのは紛れもないオーダー。秩序維持————彼を隠し通す為なら、何も厭う事のないオーダー。

「知りませんでしたか?もうチャイムは鳴っています。サイナさん、走っていたから、」

「どうして、走っていたとわかるのですか————」

「さぁ、なぜでしょう。先生の勘、ですかね。悪い生徒はわかってしまうのです」

 あと何分だ。あと何分で彼は帰ってしまう。

 脳が熱を発する。心臓から身体中に届けられる筈の鮮血が全て脳へと届けられる。ソソギへ一撃を与えた時とは逆だった。10分が1秒ではなく、1秒が10分へと変換されていく。振り返れない、振り返れば今積み上げている思考を失ってしまう。

「帰りましょう。このまま届け出もしないで、学校に残るのならペナルティーですよ」

 ペナルティー。それは———それは————気付いた。思い出した。

「せんせい、わすれましたか?」

「ん?何をですか?」

「あの視察の日————先生は、私に言っていましたね————お礼をするって」

 振り払う。掴まれている肩を前へと弾き飛ばし、勢いのまま踏み出す。

「サイナさん————」

 声が飛ぶ。たった数歩でいい。たった数歩で彼に会える。

「ヒジリさん!!」

 教室へと飛び込む。他の教室となんら変わらない夕闇の教室。だが、そこはまるで————教室の掲示物、時計はない。積み重なった机と椅子。前面のホワイトボードまで全てが使われた痕跡のない。まるで———そもそも誰も使っていない、無人の教室。

「いえ、違います」

 床に埃がない。あまりにも整頓され過ぎた机と椅子。たった今、張り替えたようなホワイトボード。そして————鍵も掛かっていなかった扉。

「誰も使っていなのなら、鍵をかけている筈です」

「たまたま清掃が入っただけですよ」

 振り返り、笑みを浮かべている担任を睨みつける。

「気は済みましたか?さぁ、帰りましょう」

「彼は、彼はどこですか!?」

「彼?この教室はずっと誰にも————」

「いいえ、覚えてます!!あの人は、ヒジリさんはどこですか!?」

「————ヒジリ君?」

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