第18話
バレンタイン爆弾も過ぎ去り、外の世界でもオーダーでも春の香りが漂ってくる晴れた日。風の強さに耐えながら、暖かな気候を待ち望む、今日この頃だった。
「ソソギさん………」
あのソソギが廊下を歩いている光景に出くわす。
「————あなたは、訓練の時の」
「………サイナです」
「そう、サイナと言うのね」
高い背丈、鋭い眼光、自分にも届く豊満な肉体と長い手足。異性であれ同性であれ、見た目だけで関係を想像してしまう肉体の持ち主に声を開けられる。あの時のような寒気は感じない。即座に頭を狙われる訳じゃない。だけど、圧倒的な強者から漂う、言いようのない圧迫感に目を逸らせない。
「頭は大丈夫?」
「あ、頭………はい、もう大丈夫です」
「前に倒れたと聞いた。鋭く打ったけど、手加減はしたつもりだった」
あのソソギに心配されるとは思わなかった。ソソギは声すらも美しく、刃で風を切るイメージが湧いた。
「もし、後遺症があるのなら————いいえ、病院に運ばれたと聞いた。なのに、ここにいる。なら、もう治ったのね」
全てが自分の中で完結する言葉には、僅かに非人間性を感じた。
「あなたの一撃、とても効いた。私が、あそこまで時間を掛けて治したのは初めて」
「そ、それは、すみませんでした………」
「いいえ、謝らないで。私も手加減を見誤ったのかもしれない。あれは正しい選択で、対等な立場だった。だから、私も謝れない。だけど————」
何を言われるのか、思わず身構える。
「あの武器を使うのなら見極めた方がいい。あれは、確実に意識を奪う一撃。身体の弱い人間に使えば、命すら落としかねない。————私も気を付ける事にするから」
さよならも言わずに私の横を通り過ぎて行った。あまりの自然な動きに対応出来ず、振りかえる事にすら数秒数えてしまった。正直、生きた心地がしなかった。
「そう、忘れる所だった————」
振り返ったソソギの言葉に、心臓が締められる。
「シズクという子、あの子は知り合い?」
「はい………そうです」
「あの子の隣にいる彼、彼は知ってる?」
彼?顔こそ思い当たらない話だった。だけど、何もない訳じゃない。
「………世話をしている男性がいる、とか。顔はわかりません」
「————そう」
ようやくソソギは去っていった。思わず深呼吸をしてしまう。だが、改めてソソギの後ろ姿を確認する、という時に教室にまで引きずり込まれる。
「ちょ、ちょっとサイナっち!ソソギっちに何言われたの……?」
声を潜めているのは、何故だかわからない。だが、分かる気はする。
「く、訓練での怪我は治ったかって」
「え、もしかして謝られたの?あのソソギっちに?」
「い、いえ、謝らないけど、今度から気を付けると。あと、私の一撃、あれを使うなら見極めるべきだって」
「————すっごいじゃん。ソソギっちに覚えられたって事でしょう?」
確かに、もしかしたら喜ぶべき事かもしれないけど、それって真に敵になると見られた、という事ではないだろうか。もし、あの場面を繰り返されたとしても、同じ結果をもぎ取るのは至難の業だ。確実に、ソソギは反省を生かして、先手を取ってくる。
「………もし、ソソギさんとまた敵対した時が恐ろしいです」
「それねー。もし、イサラっち達と組んでも、今度は簡単に返り討ちにされそうで怖いわー。私達が1年より強くなってても、ソソギっちも強くなってるって意味だもんねー」
あちらもゾッとしているらしく、苦笑いで告げた。その通りであり、一切異論を挟む余地がなかった。これは、春を待つ冬の終わりを覚える、とある日の記憶だった。
「マラソンなんて、オーダーに必要なんですか………?」
春一番が今日明日にでも吹くのではないか、という時だった。もう2カ月、だが外の世界からすると新2学年に入ってそうそうの行事だった。正直、マラソンをするぐらいなら早々と訓練の実施でもしてくれれば、という思いを持ってしまった。
「ちなみにですが、もしサボったりすると、体育教科の点数が付かないので、絶対に参加して下さいね。勿論、体調不良の場合は仕方ありませんけど、その場合は何かしらのペナルティー、何か手伝って貰う保護観察対象になるので、悪しからずね」
言ってしまえば、そちらの方が楽かもしれないけど、いつどんな時に、どんなお願いをされるかわからないから、大人しくマラソンとやらに参加せざるを得なかった。
「じゃあ、ホームルーム終了です」
その宣言に全員の溜息が聞こえた。終わってすぐにいつものメンバーで集まる。
「週末に無人街で2年全員参加のマラソンねぇ。体力造り的な意味?」
「マラソンで体力作れるわけないじゃーん。体力を発揮する為の科目でしょー?」
「無人街に点在するスポット、スタンプを押して次の場所にまで向かう。あの様子では車両の持ち込みは不可のようですね」
「暑くもなく、特別寒くもない時期なのが幸いですね~」
無人街は確かに広いが、それでも実際の街よりも小規模なのは間違いない。しかも、水や食料の持ち込みには言及されていない為、恐らく自由だろう。一体何キロ走らされるかはわからないが、無意味に何十キロも走らされる訳ではない筈だ。
「もう土地勘はあるし、何も知らない場所で走らされるよりマシか。でもさ、当日までスタンプの場所は秘密って————まぁ、理由はなんとなくわかるけど」
「準備のいい、やる気のない人は前日とかに乗り込んでスタンプ奪うかもしれないからねー。先生達が隠し持ってるんじゃなーい、正直狙ってたけどー」
私達はオーダーで1年を過ごして来たのだ。並みの女子中学生よりも体力はあるだろう。体力の有無を問うているのではない、恐らくその時刻。道順。などを測っているに違いない。
「ただ、最悪最下位でも構わないかもしれないけどー。体育教科の点数を口にしたってことは、意外と配点取ってるかもねー。あーあ、手を抜くわけにいかないじゃんかー」
「先輩方が嘆いていた様子もありませんから、今年からの行事にするつもりでしょうか?春先、というのは良い実験の機会だったのかもしれませんね」
真実の程はわからないが、ふたりの言っている事は恐らく間違ってはいない。
「………私達はいいですけど、体力に自信のない人には、不公平では」
並みの中学生よりも体力に自信がある————それは間違いないが、どうしたって身体の成長具合、目指す役割、男女の肉体的な格差、などなどがあるのだから、一律に同じ配点はやはり不公平だ。上から選んで一番早い人に高得点を与えるのなら、そんな物はオーダーがやる必要はない。無意味だからだ。何の為に運転免許の早期取得の機会を与えているのか。確かに、車両の入れない場所はあるが、それでも。
「うーん、何かあるんだろうけど、今は週末を待つしかないね。平日休みは貰えるのかな?」
その言葉を皮切りに、授業の支度に入り、時間まで待つ事になった。授業は滞りなく進むが、やはり皆上の空。朝のマラソンの件が頭から離れず、一日を終了した。
そして放課後になるが、私はひとりだった。
理由は、皆————ホワイトデーだからだ。イサラはホワイトデーの事など忘れていたが、男子生徒達の言葉で思い出し「なんかお返し貰えるみたいだから言って来るね」と、優美な友人は「特別な話があると言われました、なんでしょう?」と、気だるげな友人は「自分で言っちゃったから待つわー、あーめんどくさー」と返される。
誰も彼もが爆弾を抱えていた。どう対処するのか気になるが、それは彼女達自身の仕事だ。自分で蒔いた種なのだから、他人ではどうする事も出来ない。
「————彼、というものが出来たら、友達が減ってしまうとか」
これも都市伝説の類だが、分からないがなんとなく事実だとわかる。
彼女らはそんなつもりはないだろうが、もし、心変わりのひとつでも、または哀だからしばらく相手をする、という選択をした場合、私はひとりになってしまう。彼女達の選択だ、それは大いに祝福するし、助言のひとつもするだろうが————。
「私も呼び出されましたし、行きますか」
仕事としての、対価としてのチョコレートだったが、お客に呼ばれてしまった以上、無視は出来ない。それに私も心変わりのひとつでもしてしまうかもしれない。
「値踏み、でもしますか」
呼び出された教室は、別の棟だった。あまり踏み入れた事のない、踏み入れる機会は数えられる場所。あれほどまで金銭を支払ってくれたのだ、渡り廊下を通る労力のひとつやふたつ。そう言い聞かせて、自分から来ないのか、という無粋な文句は忘れる。
「あ、サイナさん———」
その姿には見覚えがあった。1年前、私に好意を寄せてきた男子生徒だった。
「いつもご利用の程ありがとうございま~す♪武器の使い心地はいかがですかぁ?」
「勿論、最高ですよ!!」
1年で多くの修羅場を潜り抜けて来たのだろう。あの未熟さ、あどけなさは薄れて凄みに近い物を感じた。彼は真にオーダーに成ろうと決めたのだろう。
「それはありがとうございます♪では、今日はどのようなご利用を?」
「————君が、」
「欲しい———というのは無しです。私は売り物じゃありませ~ん♪」
「そうじゃない、いや、最初はそういうつもりだった」
少しだけ見直したかもしれない。
「1年前、君に迫った、悪かった。俺は、奪われるのが怖かったんだ———奪われる側の気持ちを忘れていた。自分の事なのに、オーダーに落す側になっていたんだ」
夕暮れの中、今度は彼が窓側にいた。
「あれから色々あった。本当に、色んな時間を過ごした。夏休み明けの訓練では、凄い必死だった。きっと無様な姿を晒した、あれを君が見ていない事を願うけど……」
「————すみません、確認していません」
「いいんだ、それならそれで」
健やかな顔、優し気な目、だが、その奥。目の奥には確かに闇がある。しかも深い深い絶望が。彼がここに来た理由など知らない、聞く事もない、だが、彼にも誰にも言えない、とても人には話せない理由でここに来たのが察せられる。
「だけど、俺は必死だった。本当に頑張った————もし、君に見られたらと思うと、必死にならざるを得なかった。どうしても忘れられなかった」
真剣な言葉だと思った。蔑ろにしていい筈がない、感情はとても尊い物だから。
感情はとても色鮮やかな代物。一瞬一瞬で移ろう、光で輝く宝石ににも似ている。その上、同じ輝きは二度としない。今の感情はその今しか煌めかない。だからこそ、尊く価値がある。———————二度とない輝きに、私は今、魅せられている。
「不器用でも頑張った。体力的にも戦闘技術でも届かないとわかっても、頑張った。頑張りたかった。まだまだ目指す先は遠いけど、それでも頑張れる————君の商品、本当に手に馴染むんだ。自分の手足みたいに。当然か、聞き取りをして貰ったんだから————あんな事をした俺なのに、君は構わず聞き取りをしてくれた」
感情は、きっとお金では買えない。彼の感情は、金銭では代えられない力を持っている。彼の彼だけが磨き上げた技術には、確かに上がいる、上位互換が出回っているとわかる。だけど————彼の意思は彼しか発せられない、かけがえのない力だ。
「————嬉しかった。本当に。君の笑顔が眩しかった————だから、言わないといけない————言わないと、前へ、先に進めない———未練がましい、無様にも程がある。だけど言わせて欲しい、君が好きだ。どうしても、忘れられない」
「————私に、何を求めますか?」
「何も求めない。何か欲しければ、対価を払う————違う、本心を言うべきだ」
私では歩めない、彼だけが歩んできた道の最中、何か答えを見つけた、そう言っていた。その顔は晴々としていて、とても得難かった。到底、同じ物は得られない。
「君と一緒にいたい。どうか、俺に時間を下さい」
頭を下げ、言葉を止める。その姿は、ただただ美しかった。心の底からの、純粋なる懇願。私を求め、私の為に金を払い、私の為に頭を降ろしている。この光景は、もはや少年ではない、男性の、心からの感情だった。ひとりの人間だった。
————ああ、ダメだ、これはダメだ。あまりにも————堕落しない。
「ありがとうございます。あなたの言葉、心の底から嬉しいです。私を選んでくれた事、誇りに思います————だけど、私の時間を与えるのはあなたではないのです」
「………そうか」
頭を上げ、それでも彼の顔は晴々と、いや、心の底から晴々としている。
「三度目は言わないよ。もう、二度も無様を晒してる————君は、俺なんかより、もっと、もっと、」
「あなたはとても優秀です。自分以上の男性がいるなんて、口にしてはいけません」
彼は、きっと必ず有能なオーダーに成る。火を見るよりも明らかだ。だが————それは私が求める異性じゃない。私は、もっと役に立たない、もっと私に手間をかける、私の手から離れない存在を求めている。彼は、最初から私には相応しくなかった。
「酷いね、そういう事言うから。俺は————いや、ありがとう」
それだけ告げて出て行ってしまった。もう彼に私は必要ないのだろう。惜しい事をした、二度と手に入らない、永遠の力を手に入れる機会だったのに。私は、それを断った。彼は、私の言う事を最後の最後に断ってしまう。私の手から離れてしまう。
————それではダメだ。私は、私の言う事には無条件で頷く何かを求めている。
「高望み、いえ、いる訳ありませんね。そんな人」
夕暮れを望み、私以外誰もいなくなった教室でただ時を過ごす。そこにスマホが鳴る————無粋だと思ったが、私が空気を壊したのだ、仕方ない。
「シズクさん————」
その相手はシズクだった。
「あー、サイナ」
シズクに呼び出され、向かった先は学食だった。放課後の学食はほとんど人がおらず、それどころか向かう廊下にすら人はほとんどいなかった。そして、先に訪れていたイサラは、何か言いたげであったが、何も言わずに隣の席を視線で差した。
「はい、イサラさんも到着したのですね♪」
「う、うん。そうなんだ………」
「————どうでした?ホワイトデーは」
「………うん、特別な日だったよ。でも、私には早いかな」
断った、という事であったらしい。勘違いしちゃダメ、サイナは誰に対してもあんな感じ、という言葉の重みを身をもって体験してきた事だろう。私はそれ以上何も言わずに席に腰かけ、呼び出し人であるシズクを待った。
「シズクさん、遅いですね~♪」
「シズクも、忙しいみたいだね………」
彼女の今までの実力は誰もが知っているが、それ以外は知らない。
彼女の目的が、今の私達に対しての助言の求めであれば、この空気が持続してしまう。それは、避けたかった。だけど、それはないとかぶりを振る。だって、彼女は。
「王子様、見つかりましたかね~」
何を、誰から言われたか、誰にも分らないが、イサラは黙ったままだった。
数分を過ごし、人が数える程に居なくなり、窓の外がにわかに暗くなって来た時———シズクが姿を見せた。
「ごめん、遅れちゃって———色々あったの」
「構いませんよ♪今日は、特別な日ですからね~」
「そうだね。当別な日だから————」
日、だったではなく、だからと言った。その言葉の違和感に目を細める。
「今日は、友達を紹介しようと思って。もう少し、時間はある?」
あの目だ。完全に思い出した————あのクリスマスパーティーの夜に見せた、あの時と同じ極寒を思わせる、視線だ。殺意こそ乗っていないが、その気になれば、即座に首を切り落とすことも辞さない、隙があれば、ひとつでも自分の意にそぐわない事があれば、容赦なく処断する————先ほどの空気など消え去った。
あのイサラが、外の世界で多くの依頼をこなし、今年度からは自力で仕事を取ってくると息巻いていたイサラさえ、この目から視線を外せないでいる。座席を蹴り飛ばして、飛び掛かる隙さえ見つからず、意のままに座って、事の次第を待っている。
「シズク………何があったの?」
「約束、いや、お願いがあるの。あんまり人と話すのが得意な奴じゃないから、優しくしてあげて————いいよね」
あの寒い廊下などまだまだ生ぬるかった。時間さえ凍り付いて行くのがわかる。こんな目をしながら、私を背中に置いていたのか。振り返られなくて良かった、こんな目で見られ続けたら、二度とシズクに話し掛けられなかったかもしれない。
「………はい、分かりました。イサラさん」
「———わかった。任せて」
「良かった」
ようやく、この目を止めてくれた。一気に体感時間、体温が元に戻って行くのがわかる。だけど、それは裏に戻っただけだ、その気になれば、すぐに反転するとわかる。
「ちょっと待ってね———いいよ、来て」
手に持っていたスマホに、何かを告げた。
「すぐ来るから、イサラにも紹介してあげる————きっと、驚くよ」
ようやく笑みを浮かべてくれた。いつものダウナーな、だけど友人が多く、ほっとけないと決めたら手を貸してくれるシズクの顔だ。
「————ほら、来た」
声を上げてしまった。それはイサラも同じであった。————思い出した。
その人が学食に現れた。足音を立てて、近づいてくる。たったそれだけで意識が遠のく。
「私の幼馴染、ヒジリね。はい、挨拶」
「ああ、ヒジリ、です」
すぐには言葉が出なかった。先ほどまで、あれほど優しい空間、美しい夕暮れ、かけがえのない時間を過ごしていたというのに、それが音さえ立てずに崩れ去って行くのがわかる。まるで暴力だ。私の頭を力でねじ伏せ、自身の欠片を植え付けていく、暴力。洗脳、或いは脳への侵略。顔立ち、目元、鼻、口、声、言葉、全てが私の中に入り込み、彼しか見えないように塗りつぶしていく。あり得ない、こんな————こんな存在、未だかつて————人間とは思えない。
「そう、ヒジリって言うの。何度か幼馴染って話はしたっけ?」
「—————ヒジリ、」
「ん?どうしたのふたりとも?」
何故、シズクはあれほどの存在の隣にいられる。どうして平気そうに紹介などしていられる。どうして————私達に紹介してしまった。どうして独占しないで気が済む。何かもに疑問が湧く。どれもこれもを問い質さなければ気が済まない。
だけど、そんな疑問など消え去っていく。後光が差していないのが不可思議だった。こんな、異性同性関係なく、人の好みという概念的な、しかして必ずある意識の枠を自分という色で塗りつぶす姿が、あっていい筈がない。
「え、っと………ヒジリ、くん?」
「ヒジリで良いよ。君付けなんてイサラしないでしょう」
イサラが言葉を漏らす。だが、それは喉が勝手に動き、空気が通っただけの現象であったらしい。続けての言葉が生まれないのがわかる。私も同じだった。
「まずは座ろう、私の隣ね」
そう言って、シズクがイサラの前に、隣に彼が座る。私の前に。
たったそれだけで意識が更に遠のく。この場から逃げ出したくなる。だけど、動けない。足どころか腕すら、首も動かせない。息を吸うのがやっとだった。
「じゃあ、紹介するね。私の前に座ってるのがイサラ、隣がサイナ」
「………ああ、前にシズクが話してた二人か」
「二人ともすごい優秀だから、頼りにしていいよ」
手を向けて紹介された私達は、まだ言葉が出せなかった。頭のひとつも下げられなかった。目が焼かれてしまった。頭がくらくらしてくる。彼の発する何かに取り込まれてしまっている。
「ちょっと、二人とも聞いてる————優しくしてって言ったじゃん」
その言葉に意識の一部が戻ってくる。
「あ、あーごめんごめん。なんかぼーっとしちゃって。ヒジリね。うん、覚えたよ。よろしくね」
「イサラ、」
たった名前を呼ばれただけだ。それだけでイサラが言葉を失う。
「イサラさん、あの訓練映像見た。すごいな」
「え、な、なにが————」
「射撃も戦闘も出来てた。白兵戦が得意なんだな」
イサラが気絶しそうなのがわかった。彼が、微笑んだからだ。
「————そ、そうだった、かな————」
「ああ、とても良い腕だった」
尚も正気を失わないのはイサラの強靭性があっての事だと察しさせた。致命傷の最中、トドメとして刺突を受けている。しかも長時間。ここまでしない。あまりにも容赦がない。
「サイナ、」
不意に呼ばれ、息を呑んでしまう。
「サイナさん、であってるか?」
呼びかけられている。すぐに応えるべきだ。だけど———言葉がわからない。
「そうだよ、サイナ。サイナ、答えてあげて」
「はい———サイナ、です」
自分がロボットになったようだった。無意識に言葉を習慣として発する。
「君はすごいな。何でもできた————何度も見た」
ただの微笑み、ただの褒め言葉。なのに、たったそれだけで今まで私が作り上げて来た壁が、あの部屋から今までで作り上げて来た対人の心の壁が崩れ去って行くのがわかる。彼が、彼が—————彼が、私を———私を染め上げていく。
「そろそろ行こう。さぁ、立って」
「わかった」
立ち上がり、シズクに連れられて去っていく。背中を見せて行ってしまう。だけど、その背中に声を掛けられない。もう、耐えられない。もう、見られたくない。
イサラと話し合う事すら叶わない。学食の外へ去っていく背中から目が離せない。完全に彼が見えなくなっても、まだ放心状態から脱せられない、言葉が生まれない。
だが、そこにシズクが戻ってくる。
「大丈夫?」
「あ、」
最初に声を発したのはイサラだった。
「言っておくべきだったね。ごめんね」
「シズク—————」
「わかったでしょう。アイツを見せたくなった理由———」
振り返り、恐らくまだ彼がいるであろう廊下に続く学食の扉を眺める。
「あんな感じだからさ。毎日先生が送ってくれてたの、バスに乗せられなくて」
「————シズクさん」
「お蔭で学食も使えなくてね。お弁当の腕が上がっちゃった」
オーダー校の選択は正しい。あんな存在、オーダーとは言えバスという衆人環視の元、放つなんて出来やしない。彼女の選択も正しい。あんな姿を一般のオーダー中等部生が見てしまえば、誰も彼もが正気を失ってしまう。倒れる人すら生まれて———。
「———私、倒れて」
「うん、アイツと目を合わせたから。ごめんね、見つけて上げられなくて————私、サイナじゃなくてアイツを、ヒジリを優先して探したの。本当にごめんなさい」
心の底から頭を下げてくれている。本当に、長く下げてくれた。
「シズクさん、もういいです。頭を上げて下さい」
「………そうだね、迷惑だよね」
そこで学食に音が響いた。振り返ると一人の女子生徒が倒れていた。
「あ、行かなきゃ!!」
立ち上がったイサラが、倒れた女子生徒の元に駆けていく。私もと思ったが、腕を掴まれる。その理由がわかった————まだ、足が震えていたから。
「聞いて。あれでもすごい話しやすくなってるの。会話も出来て、意識も取り戻せてる。視線が合っても、今度はサイナは倒れなかった————あの力が弱まってる」
「あ、あれで………」
「うん、あれが始まった時は、もっと酷かった」
そんな状態の彼と会える訳がない。夏休み明け後、クリスマスまで通過しても、私は彼と目を合わせただけで倒れてしまった。あの力に呑まれてしまった。
「多分、酷い事をしてたと思う。会いたがってるサイナを誤魔化し続けた————だけど、許されなかった。学校も秘密にしてくれって。あの教室に閉じ込めてた」
「なら、なんで、彼を私に————」
「————私もヒジリの力に呑まれてた。ヒジリを見せたくて仕方なかった」
彼女は、とっくに正気ではなかった。既に狂わされているから近くにいれたのだ。
「だけど、やっと正気に戻って来た。あの力も弱まった。ごめんなさい、私はあなた達で試した。許されるとは思ってない、だけど、ヒジリまでは恨まないであげて」
「………あの、人は今………」
「廊下で待たせてる。だから、見つからない内に連れて行かないといけない———私、もう行くね」
腕を離された私は、再度去っていくシズクの背中を視線で送る。
「サイナ!!こっちに来て!!」
ようやく我に帰れた私は振り返って、彼に当てられてしまった女子生徒の元に走った。息もしている、脈もある。あの時の私と同じ失神。外傷のない脳震盪だ。
「すぐに救急車を呼びます。イサラさんはこのまま呼び続けて下さい」
指示をし、私はスマホで救急車を呼び、今も倒れている彼女を運ぶべきか逡巡。だが決めた。
「彼女はこのまま。動かすべきではありません」
「うん、そうだね。脳に傷でも出来てたら動かせない」
それは便宜上でしかなかった。正解は、まだシズクが彼を連れて近場にいるかもしれないからだった。
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