第14話
女子生徒達の実戦訓練から数日後、冬休みに入った時。オーダー校が主催するクリスマス会の立食パーティーが開かれた。しかも費用はオーダー校持ちで参加自由。色とりどりのテープで飾られた食堂に、大量の七面鳥にチキンにミートパイ、あとケーキも用意されていた。
「これって、あれだよね。感想戦って言うの?」
「まぁーそうだよねー。実際、あれで知り合ったっていう人もいるし、言っちゃうと、あれを機に有能だなって思った人と仲良くなりたいって人の為、だねー」
「立食会、本当に立って食べるのですね。でも、フォークとナイフもないのに、どうやって七面鳥を食べるのですか?」
セミロングの優美な友人も、実はかなりの大家の出自だと知らせて貰った。何故、こんな所に来てしまったのかなど決して聞けないが、それでも時折私以上に世間に疎い場面が散見された。並べられ、大量に男子生徒が持っていく背を眺めている。
「それはもう、こう、かぶり付くんですよ♪」
「あ、まるで海賊ですね。憧れます!」
はしたない、と一蹴せずに言われた通りに噛みつく姿はとてもワイルドで、もし自分が男子生徒だったら、この清楚な姿からのギャップにくらりと来たかもしれない。
「じゃあ、私世話になった人に挨拶してくるや。メリークリスマース!」
と、イサラがひとり。
「私も気になった奴、人がいるっていうかー。そんな感じだから行くわー」
と、徐々に髪を染め始めた友人が、またひとり。
「わらひ、私もお誘いを受けていますから、失礼しますね。ずっと同じ人とではダメと先輩方からも言われましたので」
ひとり、またひとり、三度ひとりと消えていく。訓練映像を見せて貰った結果だ。私達も善戦していたと思っていたが、同レベルの戦闘はそこかしこで頻発しており、決して自分達だけが特別有能であった訳ではない。もっと複雑な戦闘さえあったと知った。外の世界を知った気分だ、あの訓練の為にネットワークを構築したが、それはただ表面上の実力しか知らないのだと理解した。皆、将来に向けて歩み始めた。
「私も、誰かに———」
そう見渡すも、既にそれぞれが集団を作ってしまっており、暇そうにしている者はいなかった。わからなくもない、こんなクリスマスパーティーに集まる者など、話したくて仕方がない、いわゆる陽の者だ。その逆の者などそもそも参加もしまい。
と、その中、輪の中で心苦しそうにしている女子生徒がひとり。
「ミトリさん」
思わず呼んだ時、ミトリは淡い茶髪を揺らして駆け寄って来た。ミトリを取り囲んでいたのは、ミトリ目当ての男子生徒達。やはり、この子は嫌でも人に好かれてしまう性質を持つようだった。だが、訓練の時は見かけなかった。
「サイナさん、楽しんでますか?」
「ちょっとだけ困ってます」
「あ、同じですね。私も、ひとりでは来れなかったかもしれません」
朗らかに邪気なく笑う少女は、その笑顔だけで男の何人もの膝を折って来たと噂で聞いていた。そして、この顔見たさに必死でミトリを笑わせようと画策、しかし得られた物が苦笑いだとは知らない愚か者達に、疲れて来ていたらしい。と悟る。
「ミトリさん!ダメですよ!はっきり言わないと!」
「はっきり?」
「困りますって、治療科を目指すなら無理な事は無理って言わないと!」
ここまで言ってもミトリはわからないらしく、首を愛らしく傾けるのみだった。
「治療のお世話をしただけで勘違いされては困りますって!」
「勘違い?でも、お礼を言ってくれるのはとても嬉しいですよ?」
「————はい、ミトリさんはそのままで良いです。ごめんなさい、変な事を言ってしまって。そういえば、訓練の時はどこに、ミトリさんを見かけませんでしたけど」
「実を言うと、私参加してなくて。訓練後のみんなの傷の治療に参加してました——ダメですね。ちゃんとオーダーなのだから、せっかくの機会を無駄にしては」
実力の足りないと思った者は参加しなくてもいい———確かにそう言われていたのを思い出す。確かに、今回の実戦訓練でも、治療と看護の専門家を目指すミトリはあまり出番のあるタイプではなかったかもしれない。皆、治療はそこそこに出撃していたのだから。
「二年生からはしっかり参加しますね。あ、サイナさん、頭に怪我を。大丈夫でしたか?」
「はい、ちゃんと検診をして問題なしと言われましたよ♪」
「すごいですね。あのソソギさんに挑むなんて。私は……」
「それこそダメですよ!自分を卑下しては!!ミトリさんには、ミトリさんの目指すオーダーがあるんですから。それに、私だって負けて気絶してしまいましたから、もしあれが実戦だったらと思うと、挑むべきではありませんでした」
恐怖も痛みも知っていた。叩きつけられる時の、あの一瞬の浮遊感をソソギと対峙している時は常に感じていた。あんな経験を今後もした場合、即座に退却や応援を待つべきだと思う。取り返しのつかない傷を受けても、もう治らないのだから。
「そう、ですね。でも、」
「でも?」
「もし強くなりたいなら、きっと気絶するほどの事態に一度陥るべきなのかもしれませんね。私は、もう1年も経つのに、まだ怖くて……恐怖を消せなくて……」
「ダメです」
即座に返した言葉に、ミトリが狼狽える。
「ミトリさんが気絶する事態に陥ったら、誰が傷を治して看護してくれるんですか。誰が助け出してくれるんですか。陣地を守ってくれるんですか」
目を開くミトリの両肩を掴み、更に続ける。
「極限状態で最後に物を言うのは自分の判断力です。それは誰も否定できません。だけど、何もなくなった時、最後に縋りつけるのは自分以外のオーダーです、ミトリさんの様に怖い事を怖いと言える、実力を見誤らず、人の為に傷を癒せるオーダーです。絶対に、ミトリさんは気絶なんかしちゃダメです!」
「でも、それじゃ———」
「聞いて下さい。私が負傷して帰って来たとき、頼れるのがミトリさんしかいない時、ミトリさん自身が傷を負っていたら、私は自分の役割を全うできなかったのかと絶望してしまいます。約束の時間までに戻らなかった私の救出要請を、誰がオーダーに求めるんですか。重ねて言います、絶対にミトリさんは気絶なんかしちゃダメ」
心細そうに目を閉じ、しばらく呼吸をしたミトリが、ようやく笑ってくれた。
「はい————はい。その通りです。私、間違ってました。でも、やっぱり強くなるべきです。教えてくれてありがとうございます。私、頑張りますね」
「はい、もし困った事があれば、私で良ければいつでもお呼びくださいね♪」
楽し気に笑うミトリが、クラスメイトであろう女子生徒に手を振られ、「あ、ごめんなさい。今度、お礼させて貰いますね」と去って行った。心配をして損をしたかもしれない、彼女は間違いなく優秀なオーダーに成れる。治療科という専門知識の。
「サイナ」
これは想像していた。私がひとりに成るのを、待ち構えていた。
「シズクさん———メリークリスマース♪」
「うん、メリークリスマス。ちょっといい?」
「ここじゃダメという事ですね」
それに頷いたシズクと共に食堂から退室する。消灯された廊下を歩き、月明かりのみが照らす教室へと足を伸ばす。必ず来ると、それも直接話に来ると察していた。
「サイナ、訓練での映像見たよ。すごいじゃん、あのソソギと相打つなんて———今更怪我の心配なんかしない。それより、大事な話がある———」
赤みがかった髪と白い肌。そして、この大人びた、ある種日本人離れした顔付き。この顔で真剣な眼差しを受けると、ソソギとの対峙とは違う緊張感を持たされる。けれど、この感情は間違っていない。きっと、シズクにとっても同じだ。
「言ったじゃん。自分からアイツの話をする事はない。紹介して貰う必要もないって————なら、なんでまだアイツを探してるの」
「探してなんかいません」
「嘘、ならなんでクリスマス会に参加したの。それに感想戦目的だったら、サイナならどこの輪に入っても歓迎されるじゃん。あのマシンガンにアタッシュケース。車両の操作だって、みんな驚いてる。ドローンだって操れて————なんで、まだ誰も選んでないの」
「…………」
「————ごめん。責めてる訳じゃないの。だけど、言わせて————アイツに、まだ会いたいんじゃないの———」
軽口を叩ける、下手な言い訳を考える余裕もなかった。あまりにもシズクの顔が鋭く、そして誰よりもその人の事を———わからない。彼女のこの感情がわからない。
「————罪悪感、ですか」
「否定はしない、だけど、それだけじゃない。今は、言えない」
私は、この1年間、多くの人と関わり、多くの知見を得て来た。男子生徒にどういえば自分を魅力的に見せられる、印象付け出来るか、数分話すだけで悟れた。女子生徒になら、どんな言動を取れば有能で敵愾心を取り除けるか、その破片を集められるようになった。だけど、彼女のそれはどれとも違う。今まで得て来た答えだけでは、辿り着けない—————違う、本当に心の吐露を望んでいる。
「————もし、もし見てしまったら、心変わりするかもしれません」
これが自分の限界だった。だって全て話してしまう気がした、絶対に彼女は許してくれない。復讐の為、その人を使って家を追い詰め、トドメを自分が刺す気だと、全て話してしまいそうだった。自分の中の獣性が、抑えられなくなってしまう。
「半分本当で半分嘘だったんだ。———今日、いるよ」
来ると、心の何処かで待ち望んでいた答えだった。
「————本当に、ここに」
「うん、いる。待たせてる————だけど、話すのはダメ。ようやく心が落ち着いて来た所だから。無理に自分を売り込もうと、取り入ろうとするなら、私はサイナを殺す———必ず仕留めて、誰にも見つからない場所に捨てる。そんな事させないで」
殺意だ。それも抑える気のない、抜き身の殺意。シズクの細腕では、どれだけ鋭い刃を持っていても、一歩私には届かない。だけど、今のシズクなら確実に私の喉を切裂ける自壊覚悟のひと斬りが出来る。それも、こちらが刃を認識するよりも早く。
「————約束します。友達に、そんな事はさせません」
「…………わかった。こっちに」
決して信じている者がする顔じゃない。喉元に刃がないのが、不思議なぐらいの感覚だ。シズクから放たれている殺意が、今の返答を受けても一切揺らいでいない。
振り返り、背中を見せるまで視線を変えず、私を見つめていた。この暖房も付いていない真冬の教室の中、何が一番凍える存在か、今も背中を見せて歩いていくシズクその人だ。息を取り戻し、足音も立てずに去っていく背中を追う。
「彼は、どこに」
「着いて来て」
二度はない。そう言われた気がした。
教室を出て、再度寒い廊下を渡る。シズクの背中以外色彩のない世界の中、生者は自分ひとりになった気分だった。あるのであれば冥界へ二つとない己が大切な存在を見つけに行く旅に等しい。そこに確かにいる、だけど、それは自分が求める姿をしていないかもしれない。いや、きっとそうだ。そう思ったからシズクは許しをくれた。
「…………」
シズクは今、何を考えている。激怒しているのか、失望しているのかさえ分からない。あの部屋で数年を、暴力と凌辱の中で過ごしてきた自分でもわからない感情だ。欲望なのかどうかすらわからない。彼女は、何を求めて、今私を案内している。
渡り廊下の中間、食堂のある棟から離れた時、シズクが止まる。
「————もうひとつ約束して。絶対に目を合わせないで」
「目を、」
「遠くから見るだけにして」
それだけ残して、シズクが再度歩みを進める。
凍える一陣の風になびかれようと、シズクは一言として発しない。体温すら失って見えた。そして、異議を挟むのなら容赦しないと告げている。無言のまま、私は必死に背中を追いかけ、渡り廊下を終える。そして自分とは違うクラスの使う棟へと踏み入る。何が違う訳じゃない、だが、そこは確かに別世界だ。大気すら違って感じる。
「—————ここ」
そして、ようやくシズクが振り返る。長い廊下の果て、校舎の最果てで。
手に何も持っていないのが不可思議だ。ポケットに手を入れていない、その白い爪先は、きっとどこまでも冷たい。触れれば切れてしまうぐらい、冷たくて鋭い。
「ここにいて。中に入らないで————ドアの隙間から覗いて」
「———約束します」
それを聞き終えたシズクが、ドアに手を伸ばす。そのままゆっくりと開ける。
「誰———」
心臓が止まりそうだった。待ち望んだその人がいるからじゃない、あまりにも弱々しく、繊細でか細い声だった。けれど、その細さが針の様に鼓動に干渉した。
「私だよ、ヒジリ」
「シズク」
シズクという幼馴染に対する声じゃなかった。
ただ、名前があるから呼んだだけの無感情な声色。
「寒かったよね、大丈夫だった?」
「…………そうか、寒かったな」
「うん。暖房、付けても良かったのに」
「…………いや、月を見てた」
話が噛み合っていない。たった数語で感じた、選んだ単語の数々に人間性を感じない。何も知らない人間が今の会話を聞けば、そこにいるのは出来の悪いAIでもいるのかと感じる筈だ。だけど、そこにいるのは紛れもない血肉を持った何か。
「訓練、見学してどうだった?」
「訓練?」
「そう、今ヒジリが所属してるオーダーの女子の訓練、見てどう思った?」
「訓練———ああ、あれは訓練だったのか」
シズクの殺意などまだ優しかった。そこにいるのは、本当に人なのかどうかすらわからない。あまりの無感情さ、あまりの人間性の希薄さは正気の人間では正視する事すら耐え難い狂気そのものだった。彼は、今自分がここにいる事さえわかっていない。
「今日はクリスマスだね。覚えてる?私が3年前に送った絵本」
「ああ、覚えてる」
ようやく、ようやく人間らしさを感じられた。今までは堕落の糸口すら掴めない深淵であったが、クリスマス、そしてプレゼントという言葉を覚えているなら、
「去年だったな、覚えてる」
逃げ出したかった。もう、耐えられない。私が、私が望んだ人が、彼?あの秀才の一撃を軽々いなし、あまりの実力の違いに諦めさせたのが彼?違う。あれは実力の違いを痛感したのではない、心臓を刺しても無駄だと気付いたからだ。
人間なら心臓を刺せば死ぬ。だが、彼は死なない。人間ではないから。
「ねぇ、同じクラスの人はわかる?」
「クラス————」
「そう。一緒に授業、体育もしてるでしょう」
「そうか、あれは同じクラス、同じクラスってなに?」
何故、シズクは正気でいられる。何故、今も優し気に話し掛けていられる。ただ聞き耳を立てているだけの私が、こんなにも恐ろしいのに。なぜ、そんな化け物を見続けられる。世話などしていられる。当事者意識どころの話じゃない。
「世界が見えていない、現実を拒否している———」
恐ろしい。真冬の廊下などもはや気にもならない。極寒の最中、放り出されるのと、あの化け物との交信を選ぶのなら、私は迷わず前者を取る。あんな化け物、とうに心が砕けているじゃないか。あれで落ち着いた?ふざけるな。もう、戻る筈がない。
「手、怪我してるね。誰かにされたの?」
「……いや、自分でした」
もうやめて!!————叫びたかった。こんな筈じゃない。こんな人間いる訳がない。どれだけ苦しそうでも、どれだけ救われない人がいても————自分から話すのを待ってあげて————違う、この言葉はあの化け物には該当しない。
私は、確かにオーダーであれば誰だろうと堕落させられる。どんな屈強で、どんな聡明な人間であろうと、オーダーに来たのなら絶望がある。誰かに奪われ、捨てられ、選ぶしかなくなった、最も過酷で最も現実的じゃない道を選ぶ。
違う、あれは違う。選んですらいない。理解すらしていない。ただ、身体だけここに置き去りにした、ただの肉塊だ。私どころじゃない、誰とも同じじゃない。
「待ってて。治してあげる、こっちに来て————」
シズクの最後の譲歩だと思った。傷をしているのは彼なのだ、ならばシズクが歩み寄るのが正しい。だけど、そんな事さえわからない彼だから、作れる隙だった。
「————み、みないと————」
口だけで目的を確認する。だけど、脳が拒絶している、あれを見てはいけない。見てしまったら、どれだけ待ち望んだ相手であろうと、一生消えない傷を残してしまう。心が叫ぶ、絶対に見てはいけない。見てしまえば、ここに来た事を真に絶望してしまう。堕落の技術が無駄であったと、自分で自分を否定してしまう。
「だ、だめ。みないと、みないと————」
凍り付きそうな教室のドア、息さえ凍てつく真冬の廊下。それらは私を阻む事はなく、むしろ手招きでもするように————シズクがあれだけ念押ししたのだ、きっと私の望むダメな人で、多くの女子生徒を惹きつける魅惑的な容貌を湛えている————そう、祈り。私は目を開く。月の光の中、彼は立っていた。片手を預けて。
「あ、ああぁぁぁ………」
美しかった。クリスマスに降り注ぐ月光すら彼を際立たせる舞台装置に過ぎない。言葉では言い表せられない、別次元のなにか。それが本当に人間なのかすら私にはわからない。桁が違う、今まで見たどんな美しい光景すら匹敵しない、神憑り的な美しさ。
何故、あれを今まで誰も噂しなかったのか。何故、誰も彼を自分の物にしようと画策しない。あんな姿を見て、どうして独占せずにいられる————。
「化け物—————」
「誰だ」
その声に魂すら凍り付く。
「誰もいないよ。私達だけ」
「いや、いる————そこに」
走った。全力で廊下を疾走し、足音も隠さず逃げる。
目が合ってしまった。目を合わせてしまった。指を差し、確かに視界に入ってしまった。何故、走る。彼に自分を売り込めばいい、彼に自分の有能さ、美しさ、愛らしさを売り、自分の物にしてしまえばいい———違う。そんな事は出来ない。
「怖い、怖い怖い怖い怖い————!!」
違う、違う違う違う違う違う。あんな化け物、到底世話など出来ない。自分の物になど出来やしない。わかってしまった、気付いてしまった、理解してしまった。あれは、誰かの手に納まる存在じゃない。人間が御せる力の持ち主じゃない。
「にげ、にげないと、逃げないと————」
慣れない別棟をひとり走る。何処までも続く暗闇が私を掴んで離してくれない。違う、暗闇など、もはや恐ろしくもない。むしろ隠れられるならそれを選びたい。
だけど、違う。あの目だ。あの目に見つかってしまう、それが最も恐ろしい。
「そ、そう、学食、まだクリスマスパーティーを、」
渡り廊下の位置など思い出せない。学食がどこにあるのかすらわからない。
その機能を脳が忘れている。あの眼に全てを汚染されている、脳の許容範囲を全て奪われている。
「にげないと、にげないと、にげないと、つかまって———」
「見つ、けた———」
それは立っていた。ずっと前から立っていた。私が、私の眼がそれを拒絶していた。足が動かない、あれだけ異常を知らせていた心臓が、ソソギとの対峙でさえ高鳴っていた心臓が————完全に動きを止める。
足音すらわからない。影すら見えない。形さえ理解できない。
だが、確かにそれはそこにいる。ずっと前から私を見ている。
「俺を、見たな————」
底冷えする声だった。暗い深淵の中、声だけが響く。目を離せなかった、足音も立てずに迫りくる、その何かが、窓ガラスから灯る月明かりに照らされる。
「—————ば、化け物」
叫んだのか、思ったのか、私には分からなかった。
「サイナさん、聞こえますか?」
目の前にはミトリ、イサラ、そして見知った顔が多くいた。
「……ここ、」
「保健室です。わかりますか?サイナさん、先ほどまで倒れていたんですよ」
「た、たおれた………」
「はい。脳震盪が原因かと、大丈夫ですか。寒くはないですか?」
そう言ってミトリが脈を取ってくれる。次いでイサラが袂に来る。
「ごめん、そんな体調悪かったなんて知らなかった。でも、無理なら無理って言わないと。来たかったかもしれないけど、倒れるぐらい悪いなら病院いかないと」
「悪い………?」
「待って下さい。意識に混濁があるようです。意識障害、記憶障害かと———サイナさん、私の手、これ、見えますか?見えたら腕を上げて、握って下さい」
ミトリが手を、私の顔の前にかざし握り開きをする。言われた通りに手に手を伸ばし、掴み取る。暖かい柔らかな手だった。なるほど、銃が怖いのは銃を持ち慣れていないかららしい。
「はい、ありがとうございます。視覚からの距離感、脳の認識は出来ていますね。サイナさん、今日は何の日かわかりますか?」
「————クリスマスの日。訓練の感想戦の日、です」
「記憶もありますね。少し待って下さい、今、先生に連絡しますから」
そう言ってミトリは椅子から離れ、スマホで何処かへと通話する。
「あれかな?正確にはわからないけど、ソソギからの攻撃で一時的な失神があったからかな。サイナ大丈夫?私の顔見えてる?」
先ほどまでミトリが座っていた椅子にイサラが腰掛け、心配そうに見つめてくる。
「はい、ちゃんと見えてますよ」
「なら、いいけど。でも、どうして廊下にいたの?しかも別の棟の」
「別の棟………」
「そうだよ。最初はお手洗いだろうとか思ってたけど、シズクがひとりで戻って来て、サイナがいなくなったって言うから皆で探した訳。で、見つけて運んできたの」
別の棟、それはシズクの背中を追って————。
「えっと、シズクさん、」
「私はここだよ」
シズクの顔が見えた。シズクも心配そうに眉を下げている。
「覚えてる?訓練の話をする為に連れ出したの」
「訓練?なら学食ですればよかったじゃん」
「言えない話があって」
「なら、ずっと一緒にいたんでしょう。なんでサイナ一人が倒れてる訳?」
言い争いに発展すると認識する。イサラは特段人を口で責めるのを良しとする性格ではない。だが、シズクはそう問われても無言を貫いてしまう。それは不味い反応だ。何か隠し事、しかも状況から見て倒れた私に気付かずに一人戻って来たと見えてしまう。しかし、イサラもやはりオーダーだ、興奮気味な自分に気付き、ひと呼吸。
「シズク、責めてる訳じゃない。でも、サイナの身体の事だから、はっきり言って欲しい。何があったの?」
「………サイナと訓練の時のマシンガン、あれは私の技術の流用でしょう。使うなら私の許可を取ってって、ちょっと喧嘩しちゃって。私ひとりで飛び出したの」
「そうなの、サイナ?」
「えっと、確か………」
「あ、無理に思い出させちゃダメです!」
話し終えたらしいミトリが、私とベッドの前に立ちはだかる。
「意識が覚醒したばかりなんです、これ以上の会話は脳に負荷をかける事になります。先生と話し合いました、これから脳のCTスキャンを病院でして貰います———すみませんが、喧嘩するなら出て下さい。私は、診察した者として役目があります」
「………ごめん、ちょっと興奮してた」
「あ、いや、私こそ、サイナを連れ出しちゃって」
別人かと思わせるミトリの迫力に、実力者たる二人が大人しく引き下がっていく。頼もしい事この上ないが、それがこちらに向いた時が恐ろしい。
「あ、クリスマスパーティー、もう終わっちゃいました?」
「はい、少し前に撤収作業に入りました。参加費無料って、後片付けを手伝えって意味だったんですね。あ、笑ってくれましたね、脳の認識が出来ている証拠です」
決めた。これからミトリの世話に成る時は決して逆らうまい。
「すみません。誰か外に出て、向かってくる救急車と救急隊員の誘導をお願いできますか?サイナさん、少しの間カーテンを閉めますから、休んで下さいね」
もはやこの場でミトリに敵う者などいない。慣れていない筈の命令を近場の数人に有無も言わさないと飛ばし、カーテンを閉める。呆然としているイサラ達に「はい!!開始!!」と、教員が良く使う宣言をし、無理やり動かす。
「ミトリさん、あなたも決めたのですね————怖いです」
天井を眺め、腕を頭に乗せる。
「あれは夢だったのでしょうか」
追い詰められた脳が見せる夢———過去に医者から言われた言葉だった。
「シズクさんも、ああ言ってますし、喧嘩のショックで疲れてしまったのですね」
そう自分に言い聞かせて、息を吸う。確かにシズクには悪い事をしたかもしれない。著作権者にはしっかりと敬意を払い、今後の関係修復に尽力しなければならない。シズクとは、今後も良い関係でいたい。だって、シズクは———友人で。
「————確か」
シズクと話し合った内容。シズクからの条件と約束———それは、なんの為。
「頭が重いです………」
頭から腕を降ろした。その時だった。
「あれ?」
指の先に違和感を覚えた。思わず、もう一度見ると、そこには包帯が巻いてあった。
「包帯、傷でもしたのでしょうか」
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