第8話

「まぁ、でもバイクとかはいるかも」

「バイク、ですか?」

「男の子達は、普通免許と同時に二輪免許も取るのが恒例みたい。実際、先輩とか原付だけど運転して学校来てるから。たまに見かけるじゃん、音だしてスクーターぽいの乗ってる人。普通か二輪か知らないけど教習受けてるみたいだよ」

 自分は混むのが嫌いな為、最近は朝早くにバスに飛び乗って登校していたが、確かに教員達が使っている駐車場にバイクが止まっているのを見かけていた。あれはうちの女性担任が跨っているものと思っていたが、もしや違うのだろうか。

「バイクですか。バイクは、今はいいですかね」

「私もー。なんか慣れれば手放せなくなるとか聞くけど、ひとりで乗るにはちょっと怖いや。まぁ、二人乗りするならもっと大きいサイズになるだろうけど」

「憧れって言うんですかね?でも、同じ額払うなら車です」

「詳しくないからわかんないけど、ああいうのってきっとすっごいエンジンとか積んで、すっごいデザイン料とか計上されてるから高いんだと思うよ。たぶん、目的地に行くのが楽しいんだろうね。なんて言うの?サウンド?が良いとか言ってるけど」

 車の免許の話からだいぶ飛んでしまった。バイクの良し悪しは、きっと自分には永遠、かどうかはわからないがしばらく関係のない話だ。いずれ取り扱うかもしれないが、それもプロに任せる事と成る気がする。大きく伸びをしたシズクが首を鳴らす。

「三年生の話繋がりで話題にするけど、卒業訓練の組む相手とか検討付けてる?」

「おっと、ずっと先の話ですね♪う~ん、イサラさんを誘えればとは考えてます」

「今の女子の二大エースだもんね。片割れのソソギを狙ってる人もいるみたいだけど、やっぱり手強いみたい。一緒に食事を誘ってもなかなか靡かないらしくて」

 ラブコール、とまでは今は行かないが、やはり女子生徒達にもオーダーとしての自覚が芽生え始めたようだ。帰り道のない自分を認められず、我が身を呪っている子が大多数であったが、現実は常に差し迫っている。今後の人脈形成を考えて、有能な人材はハブる事はせず、身内に引き入れようと目下活動しているようだ。

「イサラ、ソソギは誰もが求めるだろうし、皆が友達になるべく頑張ってるね。ふたりが難しいってなると、別の山のエース。男子側になるけど、正直群雄割拠だよね」

「確か、イサラさんと同郷の方がトップだとか」

「それも間違いないみたいだけど、その人以外にも結構沢山いる感じなんだよね」

「沢山?」

「———単純に強い人」

 自身の持ってきていたノートパソコンを机の上に乗せ、こちらへと向ける。

 誰が撮っているのか、組手の様子が映っている。つなぎと道着を合わせた服に身を包み、男子達は素手であったり、短い木刀を手に立ち合いをしていた。同じ体育を受ける事は無かった為、何をしているのか知らなかったが、かなり実践的な事をしている。女子も武器を使う格闘の授業はあるが、組み手式の完全なる戦闘はしていなかった。

「見てて」

 静かになったシズクに従い、事の次第を見届ける。

 丸刈りで背の高い、腕の太い生徒が笑みを浮かべて短刀を逆手持ちで振り落とす。

 あの光景が呼び起こされる一瞬だった。だけど、相手の少年は降ろされる木刀の先端から易々と逃れ、事もなげに躱し、手首を掴み取り向こうの勢いを使って一回転させる。

 天地が戻り、状況がわかっていない暴漢の首元に短刀を突きつける。あっけなかった。あっけなく暴漢である少年は死んでしまった。付きつけている少年は、楽し気だった。

「見ればわかるけど、イサラと同じ地元の人ね」

「では、やっぱり強いんですね」

「もうちょっと見てて」

 と、続きを促すと、どちらも高い体格を持つ少年同士————片方は睨みつけ、もう片方は肩を回す少年が立ち会った。何が合図かわからないが、睨みつけていた少年が短刀を片手に、肩でタックルでもする様子で突進していくが、これも一瞬だった。

「え、浮いた?」

 タックルした勢いのまま空へと飛んで、地面に落ちる。理由は簡単。単純なアッパーを腹へと叩き込まれ、単純な肩の力を使って上へと浮き上がった。完全なるノックアウトだ。意識の有無など関係ない。実力の差があまりにも見えてしまった。

「この人は?」

「さぁ?良く知らないけど、見た通り強い人」

 次いで次いで次いで————しばらく見ていたが、実力差があり過ぎる組手ばかりだった。しかも、あの様子では習った事など全く試していない。オーダーに来る前から培ってきた技術で、持ち前のセンスだけで同年代を屈服させている。 

 負けた方だって望みをかけてここに来て、必死である筈なのに。一方的だった。

「群雄割拠って言った理由わかる?こんなのどれ選んでも、どれを誘わなくても苦戦する訳。三年生になったら、あんな連中を誘わないといけないとか。今からでも目を付けておいた方がいいよ。女子だけで組むのは、戦力的に危険かも」

 理解した。やはり、堕落させるなら異性だ。同性なら、その心を手に取るようにわかった。だが、どうしても魅了での限界が来ると我が事ながらわかっていた。そして、あの腕力や戦闘技術を意のままに操れるようになると考えると————復讐の時が、確実に近づいてくるのが肌で分かる。死ぬ寸前まで痛めつけ、トドメを取れる。

「シズクさんは、どなたを選ぶ気ですか?」

「私は————私は、」

 歯切れが悪かった。

「え、えっと?」

「…………まぁ、目ぼしはいるよ。どっちかって言うとほっとけない相手がね」

 最後にイサラの同郷の少年と、比べると少し背の低いくらいの少年が立ち会った。見るまでもないと目を逸らし、シズクに視線を向ける。だが、シズク自身がノートパソコンの画面を見つめている。首を回し、見づらいだろうに無理な体勢で覗いている。

「シズクさん?」

「これ、見てあげて」

 疑問を持ったまま、画面に視線を戻す。

 やはり短刀を持った少年はにこやかで余裕を持っていた。私でもわかる、こちらが勝利すると。相手の少年はカメラに顔こそ映らないが、空を見上げている。腕には力が込められておらず、今にも短刀を落としそう。足が震えていないのが不思議なくらいだ。だが視線すら合わせられていない状況から察するに、完全なる戦意喪失だと溜息をする。仕方がない。あれだけの完璧な反撃をしたのだ。

 自分から襲い掛かるなど、恐ろしくて出来よう筈がない———。

「シズクさん、この人は、」

「始まる————」

 その声に反応したようだった。

「え?」

 にこやかだった少年が一歩下がる。それも顔付きが変わった。————紛れもない恐怖だ。この顔を知っている。何が起こるのか、何が自分を待ち受けているのか分からない未知に対しての恐怖の顔だ。あれだけ圧倒的な一戦を交えた筈の少年が、なおも下がる。歯を食いしばり、唇に力を込め、睨みつけ、短刀を強く握っている。

「なに、なにが起こっているの?」

「…………」

 シズクは何も言わなかった。知っている筈の一部始終を見守っている。

 空さえ恐れて止まっているようだった。それを見ている男子生徒の囃し立てる声など聞こえない。教員すら息を呑んでいる。その場にいればあまりの空気に肌が切れた事だろう。達人同志の居合いの空気ではない。これは、猛獣を目の当たりにした時に浮かべる恐怖の。

「あ、」

 動いたのは恐れている少年の方だった。その心がわかった。早くやめたいからだ。この時間が終わるのを求め、破れかぶれになって自身の一撃を加えようと疾走する。狙いは正確だった。一突きで心臓を破る必殺の挙動だった。なのに———。

「弾いた……っ!」

 動きもしなかった。避けもしなかった。短刀の切っ先という、ほんの僅かな先端、全神経を集中さえ、腕力と体重を乗せた一撃を空を見上げていた少年は手に持つ短刀で弾き返した。———見えなかった。下から振り払ったのは結果でわかった、だが、その過程であり答えがカメラでは捉え切れていなかった。性能の限界だった。

 そして————。

「え、映像が……?」

 そこで途切れてしまった。黒い画面の中央に回転する輪が見える。

「シズクさん、続きは?」

「ごめん、途中で気付かれたみたいで、そこまでしかないの」

 嘘だと思った。シズクの顔は、酷く苦し気で何か悩んで見える。

 無いと言われて引き下がる訳にはいかなかった。再生を押し、最後の一瞬をもう一度見返すが、その少年の顔は映っていない。ノートパソコンを後にし、シズクを見つめる。理性と品性を使い、可能な限り平静を装いたかった。だが、獣性が許さない。

「この人は、今どこに?どのクラスなのですか?名前は?」

 思わず立ち上がった。きっと血走った目をしている。あの男達と同じ事をしている。自分の目的、快楽の為に人を求め迫っている。だけど、止まれなかった。

「シズクさん!答えて!この人は今どこに!?私、この人に会わないと!」

「…………私帰るね」

「え、そんな急に!?」

 腕を伸ばす暇もなく、シズクは玄関へと走り、その勢いのまま出て行ってしまった。あまりにも叫び過ぎたか、と後悔するが、違う。今の顔はそんな顔じゃない。

「…………教えたくない。奪われたくない」

 ほっとけない人物。そうシズクは言っていた。

「あ、ノートパソコン、置いて行ってしまいました……」

 興奮が止み、静かに脱力した身体を椅子に降ろす。三度、動画を再生するが、やはり顔は映っていない。解析しても限界があるだろう。当然、後ろ姿から顔を解析するなんて無理だ。だが、諦める言い訳にはならない。

「…………この人、探さないと」

 事業、免許、復讐———そしてもう一つの目的が出来た。

「この人を堕落させる。私しか目に入らない、私しか求めない堕落を与える。————こんなに早く見つけるなんて。誰にも渡さない、この人は私の物」

 拳を作り出す。爪が肉に食い込む。だが、この興奮した頭では痛みなんて感じない。全て快楽に変換される。心臓が高鳴る、瞳孔が開く、口角が上がる。誰よりも早く堕落させる。卒業訓練の相手など考えるまでもない、この人以外いない。

 声も身体も心も金も血も何もかも与える。必ず、私の元に堕としてみせる。

 



「でも、手掛かりがないです……」

 技能教習の時だった。セダンタイプのハンドルを握りながら、私は声を出してしまった。それを聞いた隣の教員が訝しむ様に、こちらを伺った。

「手掛かり?ハンドルなら握っていますよ?レバー操作も問題ありませんから」

「あ、ありがとうございます。先生、学校ではお見掛けしませんが、どこから?」

「私はこのサーキット場の職員です。確かに中等部一年の方とは、あまり会う機会はありませんね。まぁ、一度免許を取ってしまうと二度三度と会う機会も少ないのですが」

 優し気な初老の男性だった。オーダー街は比較的若い人しか立ち入らない土地である為、教員と比べても、こういった職員の人は初めて見るかもしれない。

「ただ、時折免停になって停止処分講習を受けに来られる人もいますので、その時は私にも熱が入りますな。しかし、そういった方は何度も免許を停止される為、自分の存在意義が薄れますけど。あっははは」

「あははは……」

 冗談なのか事実なのか。少なくともそうは成るまいと固く誓う。

「では、そこを右に。出来るだけ止まらずにハンドルを操作して下さい」

 サーキット場と呼ばれるオーダー街の巨大な施設のひとつ。オーダー大に隣接されたこの場所には、教習に使うS字カーブやクランク、駐車場や縦列駐車を体験できる施設も共営されており、初めて入った中等部の私にも職員の方が案内してくれた。

「おお、いい加速です。マニュアルタイプを選ぶ方は昨今減り続け、女性では更に減少していましたが、あなたは良い腕を持っている。もしかして、外で無免許運転を?」

「し、してませんしてません!!」

「あははは、いや、冗談です。つまらなくて申し訳ありません」

 車のトランクで横になり、許可も取らずにゲートを通過こそしたが、それ以外に違法な事はしていない筈だ。そもそも家から外に出たのも、ここ最近なのだから。

「あの、女の子ってみんなオートマチックなんですか?」

「私が見て来た中では多いですね。男性は仕事にもよりますが、長距離をトラックなど荷台がある車で運転する場合もありますから。今時はオートマチックのトラックもありますが、急な故障や不測の事態があった場合はマニュアル車も使うでしょう」

 今の今までシフト、レバーなど気にも留めていなかったが、運ばれてくる食品の運搬車やバスなどもマニュアルタイプだと聞き、知らず知らずのうちに世話になっていたと気付いた。

「日本車は今はほとんどがオートマチックですが、一部の外国の高級車などはマニュアルの場合がありますので、乗りたい車がマニュアルタイプだった場合は、あなたの様にこの教習を受ける女性もいますね」

「高級車————」

 あのソファーが付いた車も間違いなく高級車だった。背も高く、電気も付いていた。もう少し運転席を見ればと、今になって思ってしまう。

 今日の教習は滞りなく終わり、学科も問題なく受けられた。暗くなってしまった道を歩き、バスに乗ると一息ついてしまう。夏休みとは言いつつ、休みという休みは送れていなかった。今のうちに事業を継続さえ、免許の講習を受け、あの人を探さなければならない。

「シズクさん、どうしても教えてくれませんでした……」

 ノートパソコンを渡しにシズクの部屋へと訪れ、中に入れて貰ったが、その話は口に出さなかった。無理に聞けば彼女との人脈が破綻してしまう。唯一と言ってもいい手立てが消えてしまいそうで、恐ろしかった。彼女とはまだいい関係でいたい。

「———或いはイサラさん。だけど、仲が悪そうですね」

 夏休みから仕事と補習で忙しそうにしている。だけど、そろそろ補習は終わるのではないか?そうは思うが、だからと言って苦手な同郷の人を紹介して、とはなかなか言えない。分かり易く直接男子生徒に話し掛ければいいのだが、あまり接点がない。

「このもやもやする感じ。不健康です……」

 焦るのは良くない。それにあの人だって言っていたではないか。

「必ず会える。あなたの言う通り、美人で優秀になれば確実に————今はまだその時ではないだけですね。私、何年もあの部屋にいた。たった数か月がなんですか」

 自分と同じ講習に参加していた数人が、バスに乗り込んでいた。

 その中のひとり————丸刈りで背の高い少年が立っていた。

「…………いえ、あまりにも遠いですね」

 自分に勝った相手の、それまた勝ったであろう相手を教えてくれ、なんて、自分に用がありながらお前には興味がない、などと言われれば流石に腹も立つ。そんな事を眺めながら考えていると、つい目が合ってしまった。

「……♪」

 にこり、と微笑むと丸刈りで大柄な少年が笑みを浮かべて近寄ってくる。

 これは最速ではないだろうか。むしろ恐ろしい程の速さで堕落した。

「なぁ、お前」

「はい、どうしましたか?」

「イサラと一緒にいる奴だろう?前々から良いなって思ってたんだぜ」

 自己愛、虚栄心共に満点を授けよう。

 絶対に断らないと陶酔する少年は私の隣に座ると、車内の壁に押し付けるように迫ってくる。この満足そうな顔からして絶望の色は濃くなく薄くもない。これは奪ってきた側から転落して、奪われる側に落ちた様子だ。更に言えば、自分の以上の強者に負けて、現実を知りながらもまだ強者にいると信じて疑わない顔だ。成長の見込みは無い。判定————不合格。

「あの、ちょっと近いです……」

「別に俺は気にしないぜ」

 おおらかなつもりだろうか。この汗の匂いは鼻を衝く。夏だからとは言え、頭から流れた汗が頬を伝っている姿は身の毛がよだつ感覚を覚える————何より、私の趣味じゃない。

「こ、こまります……」

「だから、俺は困らないって」

 これは危険信号かもしれない。自分だってオーダーだ。自分の身は自分で守らざるを得ない。だけど、ここまで密着されると手を上げるに上げれない。拳の最も強い箇所で殴り掛かれない。無論、この場で物をいうのは腕力や握力だった。

 そして、それ以上に鋭い一瞬で耳を切り落とせる武器だった。

 仕方がない————そう思って渡されていた刃とボタンに手を伸ばした。

「ひっ……」

 うめき声がした。少なくとも私ではない。

 なら当然、今も私の足に自身の足を密着させてる彼だ。武器が無ければ、煮るなり焼くなり好きに出来た筈の彼が、座席から転げる様に落ちていく。私には、その反応が理解できなかった。刃物もボタンも見せていないのに————まさか。

「ここにいる……!」

 立ち上がり、数人がこちらを見ているのを確認する。

「どこ……!」

 彼らの視線など気にならない。私は、今あの人を探している。

「どこ!?どこにいるの!!」

 叫び、車内中を見渡す。だけど、あの背格好の少年は見当たらない。埒が明かないと思い、今も足元で転がっている弱者に目を向け、襟を掴み上げて全力で叫んだ。

「どこ!?あの人はどこにいるの!!答えなさい!!」

 何かに怯え、恐慌状態でのたうち回っている丸刈りに叫び続けるが、答えは出てこない。いよいよ無視できなくなったらしく、バスが止まり運転手がこちらへと向かってくる。確実に目標は私ではない、この丸刈りだ。だけど、ここで連れていかれる訳にはいかない。せめて、一言でも吐き出させる。

「言いなさい!!どこにいるの!?何を見たの!!さっさと答えろ!!」

「お、落ち着いて下さい。今、通報しましたから!」

 運転手が私の肩を揺すって来るが、私は今それどころではない。

「その耳切り落とされたい!?誰を見た!!何が怖い!?教えろ!!」

「そ、そと……いま、たってた……」

 その言葉を聞き、私はバスの扉へと走る。だが、扉は開かなかった。

「すぐに開けて!!」

「そ、それは無理です。現場を保護しなければなりませんから」

「そんな奴の逮捕なんてどうでもいい!!ここを開けて!!今すぐに!!」

 だが、運転手は開ける事はしなかった。周りの生徒ももはや無視は出来ないと決めたらしく、女子生徒が私の肩や腕を掴んで座席へと座らせに入る。何を叫んだか覚えていない。必死に外に出してと願った筈だった。だけど、私は動けなかった。

 ものの数分で黒い車が訪れ、今も過呼吸になっている丸刈りを攫い、連れて行ってしまった。そして私も————。




「落ち着きましたか?」

 気が付いたら、そこは病院。処置室の天井が見えた。見覚えのある看護師が私の腕に指を当て、脈を測っているようだった。あれほどの絶叫だった所為だ、今も視界がくらくらし頭が呆然としている。大量の汗をかき、首元がべたついて不快だった。

「…………あの、私、何が」

「軽いパニック状態でした。今は落ち着いている為、投薬の必要はありません。しかし、大事を取って今日は検査入院をして貰います。まだそのまま休んでいて」

 と、看護師が言うと、男性の医者が入室してきた。一目で医者とわかったのは長い白衣を纏っていたからだ。そして横になっている私を眺めた医者は、備え付けの椅子に座り話し掛けてくる。

「今何時頃かわかるかい?」

「え、時間……」

「大体、君が運ばれて来て2時間と言った所だ。その間、君はずっと全身に力が入り続けていた。かなり体力を使っただろう。無論、夏であるのも理由だが、声帯———喉も酷使していたので、水が欲しいかもしれないが、少量ずつ取る事」

 違う。私が聞きたいのは、そんな事じゃない。

「せ、せんせい」

「無理に声を出さないように。先ほども言ったが、」

「違います……あの人は?」

 白衣の医者は分からない、といった感じに看護師に視線を向ける。

「君を窓際に追い詰めていたらしい少年なら、留置所で精神鑑定中だ。君には納得し難いかもしれないが、逮捕時の彼は正気ではなかったらしい。だから、」

「アイツじゃない。私の、私のあの人は……?」

「ふむ。君に関しては、あの女医から言付かっている———」

 椅子に座りながら振り返り、恐らくカルテに目を通している。

「君の傷は家で付けられたものだ。その時に心的外傷後ストレス障害、元を言うと心理的外傷を付けられている。今、君の記憶と現実の不一致が起きているのは、それらによるトラウマ反応と呼べる。その彼が指し示す人が誰かはわからないが、君の見た、いや、脳が見せた偽りの光景かもしれない」

「…………夢?」

「そうだ。追い詰められた脳が見せた夢の可能性がある」

 夢、そんな筈がない。確かに、あの丸刈りは何かを見て怯えていた。その結果に精神鑑定なんて題目で———確かに、あの弱者は、あの映像で———。

「…………夢、だったの」

 あの丸刈りは、彼に敗北した訳じゃない。イサラの同郷の人に負けた。いくら衝撃的な逆転劇を見たからって、あんなに怯える筈がない。直接的な敗北者じゃないのだから。もしかしたら、別の恐ろしい———ここに来る理由となったトラウマが呼び起こされたのかもしれない。

「担架を運ぶように指示してくる。彼女を運んでくれ」

 それだけ伝えると男性の医者は去ってしまった。

「まずは落ち着いて、ゆっくり深呼吸をしましょう。これからあなたは同じ病室に運ばれる。誰も近づけません、法務科であろうと、査問科であろうと何人も」

「………あの人は、ではどこに……」

「今は目を閉じて。あなたが眠るまで、眠った後も、この病院があなたを守ります。さぁ、力を抜いて。考えるのも、思い出すのも、全ては明日でいいから———」


 追いかける夢を見た。

 瞬時に分かった。これは夢だと。

 あの背中を追いかけ、無我夢中で足を動かす。脛が砕けようと、引かれる鎖に手首が傷付こうと関係なかった。眩い光ではない、私よりも暗く深い黒。深宇宙にその身を投げ出すような恐怖心が湧き上がろうと関係ない。あの人にさえ届けばいい。

「ああ、でも届かないのですね……」

 どれほど声を捧げると叫んでも、この身体の全てを好きにしていいと誓っても、あの人は振り向かない。堕落してくれない、私に溺れてくれない————。

「どうして……私は、こんなにも美しいのに……」

 復讐の為に使い潰すと決めているから?復讐のその先なんていらないと宣言したから?それとも———本当の私は酷く穢れ汚れているから?

「でも、私にはあなたしかいないの!!あなたが振り向いてくれないと、何も意味がないの!!私はあなたしかいらない!!振り向いて、顔を見せて名前を教えて!!」

 彼は行ってしまう。私など気にも留めずに消えてしまう。誰かに奪われてしまう。

「行かないで————行かないで!!」




「起きてますか?」

「………ああ、夢でしたね」

 なんともメルヘンチックな夢だった。これはトラウマになってしまう。

 二度と食べまいと決めていた病院食を差し出され、忘れる為に必死に頬張る。

 これはわざとじゃないだろうか。不味い、あまりにも不味い。食材の生産者に対しての畏敬の念がない。なぜ、こうも素材の味を殺すのだろうか。

「もしかして、病院食が気に入りましたか?」

「ふ、ふふふ……私、そこまで味覚破綻者でも酔狂でもないつもりです」

「慣れれば悪い物でもないのですよ。栄養士指導の元、適切な調理方法と足りない栄養を合わせて作り上げた品々です。価格も抑え、大量生産も可能で」

「もう少し払ってもいいので、もっとおいしくすれば不満はでませんよ」

「考えておきましょう。昼頃には退院の許可が出るでしょうから、それまで」

 あの考えておきましょうは、いわゆる前向きに検討という意味だ。要するに相手に等しないと伝えている。もし入院する機会があれば、今度は何か持ち込んでしまおう。

「ちなみに。もし持ち込みなど発覚した場合は、強制的に没収。数日間入院日が増えると思って下さい。病院食しか食べれない生活は、とても健康的ですから」

 言い残した看護師はかつかつとテンポ良く辞して行った。

 病院食を胃袋に片付けた私は、数度目かの倒れ込みをベットの上でする。

「…………まだ、その時ではないのですね。ふふふ、もっと私に魅力的に成れと言うのですか。ええ、お望み通り振る舞うのは私の得意とする分野———私自身は既に身を浸しているのです、そして悪の道は常に華やかなもの。正道に拘る必要はない」

 立ち上がり、窓まで立ち歩く。

「ただの小悪魔なんてつまらないものね。私は真に悪魔になる。待っていて、あなた。今はまだ身を隠して力を高めていて。必ず、あなたは私が見つけ出してあげる」

 復讐の道が見えた。追いかけるべき漆黒の背中が見えた。

 彼は私がいないと何もできない深みに堕とす。身体で彼の性を叶えてあげ、金で彼の装備を全て賄い、彼の感情を慰め、声ひとつで意のままに操る。心臓を破る一撃を弾いたあの力を、攻撃に転用出来ればどれだけ頼もしいか。感情任せに振り下ろした時、どれだけの痛みになるか考えるだけで腹の奥が疼く。思わず上から撫でた。

 いずれ会うその人を確実に仕留める。何処で出会ってもいいように、常に万全を期しておく。まずは先立つもの、金銭だ。金は力、圧倒的な暴力だった。

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