第3話
「人間って、とても脆いの。簡単にあばら程度砕けるし。鉛玉には誰も勝てない」
軽く銃を傾けて、光の照り返しを楽しみ始める。
「この銃の弾丸は9mmパラベラム弾。世界で最も出回っている、大量生産が可能な弾丸。大体一発70円。恐ろしいでしょう。たった70円に人は勝てなくて、簡単に死んでしまう」
「殺したんですか……」
聞かずにはいられなかった。自分の目的は、あの家の殺害だから。
「いいえ、殺さなかった。最初はね、親も客も店長も構成員も全員殺す気だった。迷いなんてなかった。本当に殺す気で行った筈だったのにね」
まただ。窓に目をやり外を眺めている。
「だけど、私はオーダーになってしまったから。殺す事のメリットデメリットを考えた時、どうしても割に合わないなって考えてしまった。痛めつける時は楽しかった。銃を向けて命乞いをさせる時間も楽しかった———だけど、その先。復讐を果たした時、私に何が残る。何もないの。本当になにも」
「————私は、そうはなりません。必ず復讐を果たします」
胸に復讐の言葉が迸る。爪は治った。内臓も治った。脛も治った。だけど、この身体中に残る傷と火傷。背中の深い傷は決して治らない。いつまでも私が嬲られた烙印として残り続ける。何も罪など犯していないのに。
「……そう。今はその怒りを絶やしてはいけない。私も、ずっと胸に携え続けたから。復讐ってとても強いの。何があっても砕けない、強靭で巨大で鋭くて———覚悟を持ち続けられる。人を恨む力は、あなたを強いオーダーに変えてくれる」
「……なのに。あなたは諦めた?」
「諦めた?まさか。全員、檻に入れた。今も入って、後30年は出て来れない」
「でも30年なんて」
「うんん。皆、30とか40代。中には50代だって、もっと上だっている。そんな人達の30年って恐ろしい年月。わかる?60、70になって犯罪で服役していた人の末路。頼る家族も親戚もいない。もしいても街行く人達に常に後ろ指差され続ける毎日。とても正気ではいられない。別の組に入ろうにも、そんな高齢者、誰も相手にしない。だから、何度もまた檻に入る選択しかない。完全に人生を失う」
「だとしても、私は」
「もし殺したら、あなたが30年入る事になる———馬鹿馬鹿しくない?」
この人が言っている事は正しい。わかってきた、言いたい意味が。本来なら復讐相手が入るべき檻に、自分が囚われる事になる。罰を受けるべきなのは、家族や使用人なのに、たった一度死ぬだけで許されてしまう。そんなの許せない、馬鹿馬鹿しい。
「でも、私は————私は———」
この傷は消えない。この胸の跡は生涯残る。
なのに、彼らはただ歳を取るだけで、外にいようが中にいようが関係なく起こる老化で許されてしまう。あの家は巨大だ、父が逮捕されても兄が家督を継いだだけで、全てがつつがなく日常を楽しんでいた。私を殺し、犯し、貪る時間を楽しんだ。
「ふふ、答え。教えてあげる———人生って、意外と楽しいの」
「……楽しむ必要なんてありません」
「でも、いつか楽しむ時がくる。復讐以外にも楽しい日々が。それを味わったら、もう手放せなくなる。今の日常を失うのが怖くなる」
「私は、日常を奪われた!!」
車内を声が塗りつぶす。エンジン音さえ掻き消す声に、息が上がる。
「そうね。奪われた日常は戻らない。時間は帰って来ない。一度傷つけられた心は治らない———だけど、気付いて。新しい日常は、どうしたってやってくる」
あんな姿を写真に撮られ、出回っている。今も誰かがアレを使って楽しんで、蔑んで、慰めているかもしれない。コレクションし、金で売り払っているかもしれない。なのに、この人は新しい日々を求めている。わからない、私には許せない。
「そろそろ着くよー」
白いメッシュの女子大生の声がする。
「……送って下さり、ありがとうございました。だけど、私は許せない」
立ち上がり、顔も見せずにドアへと近づく。
それからは無言だった。数分で試験会場らしい校舎、中等部に到着し何も言わずに降ろして貰う。そして前を向いた。あまりの恐ろしさに声を失った。
「あ、あぁぁ……」
まるで自害の列だった。目がくぼみ生気を失った顔で校舎に向かう人の波。男子女子関係なかった。皆、恐ろしいぐらい表情がなかった。忘れてなどいない。ここに来る人達は、皆、理由がある。決して言葉に出来ない理由を皆全てが抱えている。
しかも、それが皆小学生だった。親の同伴などない。皆、自分の足でこの道を進まざるを得ない。手が震える。足が軋む。送って貰ったのは自分程度のものだった。
振り返り、今も続々と停車するバスを眺めてしまった。暗い車内の中を何も表情がない子供たちが乗り込んでいる。それが扉を開かれた瞬間、皆、絶望してしまう。最も過酷で、現実的じゃない選択を選ばないといけない。それがこんなにもいる。
「あ、あし……」
片方の足がない小学生すらいた。片腕が片目が。生き残れるはずがない。合格できる筈がない。だって、ここは銃を撃つ、撃たれる学校なのに。
「————ダメ、行かないと」
私は自分の役割を思い出した。どれだけ恐ろしい光景の一部になろうと、私は進まなければならない。校舎へと視線を戻し、歩みを進める。名前や生年月日などを伝えると簡単に教室に入れてくれた。暖房が掛かっている、とても居心地の良い教室。
「…………」
けれど、誰も何も言わなかった。囁き声すらない。あるのは絶望のみ。
「これが、オーダー」
窓側を宛がわれた私は、窓の外を眺めた。外の景色は変わらない筈だ。空は誰に対しても平等の筈だ。心は静かだった。問題集を持ち込めなくても、何も問題はなかった。なのに———。
「もっと調べてくれ!!」
声が響いた。
「頼みます!!俺は、もう行き場がないんだ!!」
声は外からだった。思わず窓から下を覗き込んだ。そこには、自分と同じ年齢であろう男の子が職員に喰いかかっていた。
「試験料未納だ。君を試験場に入れるわけにはいかない」
「そんな!!確かに、親が支払って!!ちょっと待ってくれ!!」
そう言って少年はスマホを取り出し、何処かへと連絡する。通じたらしいが、顔がどんどん青ざめていく。最後には膝を突き、泣き崩れてしまった。恐ろしかった、もう不合格者が出たのだから。握りこぶしを造り、意識を静かにさせる。だが。
「あ、」
あの片足のない小学生だった。
「お、おれ、勉強も運動も———」
「その疾患があっては無理です。申し訳ありませんが、試験を認められません」
それだけではない。続々と校舎から追い出されるように子供達が校舎外に弾かれていく。なかには見た目は何も疾患がない少女も。だけど、声が出ていない。違う。
「読み書き、発声が出来ないと判断します。教室に行けない程の知力では、認められません」
その光景に頭が白くなる。ここはオーダー。銃を使う学校。勉強は最低限でいいかもしれない。だけど、その最低限すら守れない小学生、いや、小学生ですらない子供達があんなにもいる。それらは総じて親に見放され、捨てられた子供達。
「では、そろそろ席に付いて下さい」
意識を取り戻す声がした。分厚いテスト用紙を持った教員らしき男性が教室に入り、そう告げた。優し気ではあった。きっとこの学校でなければ、人気の先生であった筈だ。その先生がテストを一番前の列の受験生に渡し、後ろへ後ろへと渡す。
「あ、回す」
思い出した。まだ小学校に通っていた時、同じ事を繰り返していた筈だ。
手元に届いたテストを一枚掴み、残りを後ろへと移す。これだけで懐かしい気さえした。そして試験が開始される。内容は言われた通り、本当に最低限の読み書き、次いで算数。理科や社会も確かにありはしたが、それも初歩の初歩。
元素記号。進化の先。日本の通貨。三権分立。などどれもこれも取るに足らない難易度だった。何を恐れていたのか。思い出せば誰でも正解できる。
「この程度なら———」
ペンは止まらなかった。鞄の中に用意してあった筆記用具一式を使い、国語、数学、理科、社会、外国語。数年分の学びや記憶の穴こそあるが、私には目的があった————あの家に復讐する。あの使用人達に、あの学友に、あの兄に。人間達に。
全ての学科試験が終わり、昼休憩となった。どうやら学食が解放されているらしく、次は実技試験。体力測定に健康診断。何が待ち受けるやもしれないなか、空腹ではいけないと席を立った。
案内板に指示された通りに足を運び、渡り廊下を通る。
広い学校だった。しかも、ここは中等部。高等部はもっと大規模であるらしく、大学に至ってはそれさえ超えると話された。銃の携帯義務の高等部まで三年と少し。自分は、それまで復讐を絶やさずにいられるだろうか。———考えるまでもない。
「…………いられる。許さないと決めた……」
生え揃えた爪を使い、拳を作り出す。その時だった。
「え?」
音もなかった。
「————ッ!」
自分の真横を追い抜くように、男子生徒が歩いていった。あまりの無音、無呼吸の足並みに完全に気付かなかった。自分も、かなりの早足で歩いていたのに。
「………負けない」
鞄の中には高額紙幣が束になって入っていた。到着した学食は、いまだ人がまばらで席はいくらか余っている。食券売りの機械に紙幣を通し、日替わりとやらを注文。見たところ、これが一番カロリーがありそうだった。
「私は、失敗出来ない……」
日替わり定食にはエビフライや唐揚げが配置され、汁物と白米が付いて来た。適当に二人席に座り、口に放り込む。味など感じている暇はない。今は少しでも早く胃袋を満たしたかった。こんな作法、私がまだ長女であった頃にすれば、教育係に叱責されていた所だ。けれど、彼女も私の手の甲を踏み砕いて、高笑いを上げていた。
「————許さない」
あの時の右手の甲が疼くのがわかる。もう傷は消えていたとしても、あの痛みと絶叫は心に焼き付いている。思えば、久しぶりの白米だった———。
「あの、そこいい?」
自分だとは思わなかった。けれど、その声は私を中央に捉えていた。
目を向ければ、自分の前の席を差し、少女が笑みを浮かべていた。ショート気味で背も高く、いかにも運動神経が良さそうな快活な少女だった。
「どうぞ……」
「あ、同じのだね。やっぱしエビフライに惹かれた口?」
軽い調子で聞いてきた少女も、また日替わり定食だった。
「………」
「ん?どしたの?」
彼女はきっと強い。私よりも骨格のバランスが取れていて、腕も膨れ、足も強靭な筋肉で覆われている。一目見ただけでわかる。彼女は私の敵なり得る。オーダーになるべき私の障害であると。
「やっぱし、皆、怖い顔してるよね。そりゃそうか、こんな所に来ちゃったらさ」
何も答えない私など構わず、少女は軽口を続けた。周りを見渡しながら私に声を掛け続ける。別にこの人間に恨みがある訳ではない。しかし、自分の席を奪うかもしれない。
「お、すっごいがつがつ食べるね。この後、体力測定だしやっぱ食べとかないとね」
「…………あなたは、合格すると思う?」
「私?うーん、まぁ、するんじゃない?」
その簡単な言葉が私の神経を逆撫でした。
「私、聞いたんだよね。なんでも学科試験はそんなに重要じゃないって。いくらでも後で学び直せるからって。それになんだっけ中等部ってみんな教養科、って奴に入るらしいじゃん。そこで嫌でも最低限の学力は叩き込まれるって」
「————では、体力に自信が?」
「あはは。まぁ、ぶっちゃけそれしかないからね。私、喧嘩で負けたことないし」
「でも、男の子には」
「ないよ。一度も————」
思わず定食をぶつける所だった。なぜ、こんなにも自信があるのか。こんな気楽にオーダーに訪れた女の子が、どうしてこうも自信過剰でいられる。
「それほど自信があるなら、他の学校でも可能性があったのでは」
「うん、でもさ。ここしか許されなくて」
「…………許されない?」
「色々あってさ。強制的にここに飛ばされて、私の意見とか完全無視」
オーダーに来る子供達には、多くの理由がある。そんな事はわかっている。先ほども聞いた。私自身望んで来た訳ではない。だけど、許されないとはなんだ?
「あー、やっぱりそっちも訳アリだよね。ああ、言わなくていいから。私自身身の上は説明し難いし。でもさ、折角こうして知り合えたんだし、もっと仲良くしない?」
「…………あなたには、過去はないのですか」
「過去?そりゃ勿論あるよ。楽しかった記憶———は無い事は無いし。だけど、今更戻ってもやる事も無いんだよね。それに、ここの方が都会だし楽しいし」
唇を噛み締める。なぜだ、なぜこうも彼女は未来に希望を持てている。どうして、自分をオーダーに墜とした人間達を恨まない。帰る場所がない?違う。彼女は帰ろうと思えば、帰れる立場だ。だけど、自分で決めている。ここで日常を続けると。
「だれも、」
「誰も?」
「誰も、恨んでいないのですか?」
「恨んでもしょうがないじゃん。もう、ここに来ちゃったんだし」
限界だった。握りしめていた左拳の内側。手袋越しであろうと肉に爪が突き刺さる。だけど、ここで暴力騒ぎなど起こせない。ようやく光明が見ているのだ。私には、あの家に復讐すると心に決めた光が確かにある。死ぬことさえ許されず、ただ凌辱と暴力の日常を返す時が。
「お、早食いだね。でも、消化悪いからあんまし良くないよ。今度はゆっくり話そうね」
自分は無言で立ち去った。定食のボードが砕けそうだった。自分でもわからない。何故、こんなにも私は怒り狂っている。自分は自分。他人は他人。復讐するかどうかなど、個人の勝手だというのに———何故、自分はひとり空回っている。
「私には、目的がある。復讐しないといけない————」
支給された体操着に袖を通す時だった。私は多くの女子生徒から隠れ、ロッカーの影で数秒も経たせずに着替え終える。擦れる火傷に痛みが走った。
健康診断は楽な物だった。最初は全て空欄の用紙を渡され、学校中の教室を回り、身体測定と健康診断の結果を記入して貰う。身長、体重、胸囲、腹囲、肺活量、聴力、視力検査。そして血圧。たったこれだけでも点数があると思うと恐ろしかった。
「ジャージ、脱がないのね。少し体重増えるけど、いいのね?」
白衣を着たあの女医とは違う人。恐らく養護教諭という人だ。
養護教諭の問いに頷いて返し、そのまま測って貰う。平均など知らないが、結果を見た養護教諭は僅かに視線を鋭くさせる。そして小声で伝えた。
「早めに触診に言った方がいい」
傷と火傷だらけの肌を見せたくなく、常にジャージで誰よりも早く触診へと向かった。そこも女性が白衣を纏っている。少し若目に見えるのは茶髪の所為か?
一番目だった自分を見た女医は、補助であろう中等部の生徒に目で指示し教室の外へと移動させる。きっと続々と集まる生徒を食い止める為であろう。
「はい。じゃあ、上着を脱いで」
今更なんだ。昨日はあれだけ見せつけたじゃないか。言い聞かせた私はジャージを脱ぎ捨て、中の体操着をも振り払う。息を呑んだ女医に質問される。
「傷と火傷は痛みますか?」
「少しだけ。だけど、昨日と今日の朝、病院で治療を受けました」
「————分かりました。この事は秘密にします。では、少し触れますね」
言い終えた女性の先生は胸や腹、首にも触れていく。最後には手首にも。
「背中を向けて」
言われるままに見せる。再度、息を呑んだのが聞こえた。女医は優しく、するりと肩口から腰まで伸びる刀傷を、その上から火で炙られた傷を撫で、言葉を形にした。
「ナイフでも包丁でもない。こんな真っ直ぐな傷、刀か槍しかない」
「…………刀。軍刀です」
そう伝える、「こっちを見て」と、振り戻させる。そして、
「これ、外せる?」
分かっていた自分はすぐさま手袋を外し、手首を晒した。
「…………手錠ですね。痛みますか?」
「———はい」
「そう。もういいです、元に戻して」
手袋を戻し、体操着もジャージも戻すと先生は用紙に健康状態を書き込んで渡してくれる。外に出た時、用紙に目を通すが、火傷や手錠など書かれていなかった。
握力、上体起こし、長座体前屈、反復横跳び、50m走、立ち幅跳び、ハンドボール投げ、持久走、高跳び。体力測定と言われる種目はこれが全てだった。握力は握り潰すつもりでやった。上体起こしも、内臓の痛みはなく全力でやれた。反復横跳びも50m走も持久走も吐く気でやった。立ち幅跳びは足を砕くつもり踏み込んだ。ハンドボールは血管を切るつもりで投げた。そして、最後の種目———。
「次、23番サイナ。何メートルにする?」
「1メートルと30センチ」
「————今回はバーではなくゴムだ。しっかりな」
女性の教員が指示すると、恐らく中等部であろう生徒が言われた通りにゴム状のバーをその高さにする。運動など久々だった。しかし、肺と心臓が止まらない激痛と絶叫なら幾度となく体験してきた。私の身体は痛みには絶対的な自信がある。
「大丈夫———やれる」
全力で走る必要はない。自分が最も加速出来る、踏み切るタイミングがわかる速度でいい。軽い足踏みから開始し、上半身をブレさせず、全神経を足の裏に集中させ、遠すぎず近過ぎない距離で踏み切る———振り上げた足と共に両手も高く掲げる。不格好かもしれない、あまりにも無様かもしれない。だけど、自分には目的がある。
「おお、今回受験生の現時点で最高記録だ」
落ち方には品がなかった。振り上げた足から落ちる筈だったが、臀部から落ちてしまい、マットに深く後を残した。けれど、悪くない。いや、かなり良いはずだ。
「…………これで」
自分の全種目が終わり、後は他の受験生を見るだけに成った。
「次、30番イサラ。何メートルだ?」
「あー。1メートル30ぐらい?」
「好きにしろ」
あの彼女だった。やはり、胸を張った姿はバランスのいい身体付きをしている。筋肉質な下半身と、細くもなく特別太くもない上半身。鍛え上げた身体を持ちわせる、恵まれた人だった。その彼女が、こちらに気付いた時、にこやかに手を振ってくる。
それに対して教員が「早く行け」と言い放つ。その姿に僅かに心に波が立った。
「ああ、」
イサラと呼ばれた少女は悠々と空を飛んだ。簡単に自分の全力を飛び越し、1メートル30センチなど軽々と超えた。あと10センチは超えれると目算出来るぐらいに。
「やっほー。どうだった?」
戻ってきたイサラは、なおもにこやかだった。
「簡単に跳びましたね……」
「ん?そうだった?まぁ、散々森中を駆け巡る生活をしてたから。あれぐらいの木の枝とか、毎日だったよ。それより、君すごいじゃん。正直私が一番だと思ったから」
まただ。また唇を噛み締めてしまう。
「ねぇ、サイナだっけ。サイナも運動とか得意な人?」
「…………いいえ」
「え、そうなの?私てっきり運動も勉強も出来る人だと思った」
日に当たる顔が眩しい。彼女が造り出す影に覆われた私は、まるで焦げた肉だった。手に付けている手袋を握りしめ、なおも私に影を落とすイサラを睨みつける。
「もう、これで試験は終わりだから。早く着替えよう」
「次、35番ソソギ。何メートルだ」
「1メートルと50センチ」
思わず目を剥いた。それはイサラも、そしてこの場にいる全員もだった。
高い身長に長い手足。あまりにも美しいS字。女性が思い描く素敵な同性を形にした姿。長い黒髪と鋭い切れ目を持ち合わせながらも、その顔は小さく、鼻立ちも整っている。あまりにも不公平だ。あんな身体と顔を持っているのに、何故オーダーに来た。街を歩けば幾らでもスカウトされ、何もかもが揃う生活が保障されるだろうに。
「————走ります」
そう宣言したソソギと呼ばれた女性は、やはりテンポよく走り、易々とゴムバーを乗り越え、片足から降りる。出来過ぎた姿だった。あんな天才、居ていい筈がない。
「ソソギ、だったな。何故、もっと上を宣言しなかった?」
戻って来たソソギに女性教員が問い質す。ソソギは、あんな姿でも小学生の筈だ。なのに、ソソギは大人の声など気にもせずに、前髪を整えながら返した。
「求められていないから」
「なに?」
それだけ告げてソソギは去ってしまった。教員も、困り顔をしている。
「すっごいねぇー。あんな子いるんだ。あれ、サイナ?」
彼女がいい的になってくれている隙に、私は更衣室へと走った。
「結果は、明日———」
着替え終わり、黒レザーのアウターを身に纏っていた。
全ての学科試験。実技試験を終えた。後は明日の簡単な面接との事。これは朝に言われた精神状態の確認だろう。もう教室には人はあまり残っておらず、それぞれホテルか家に————そんな筈がない。きっとホテルは、まだ恵まれてる子。それ以外の子は近場で夜を過ごすのだ。窓の外を眺め、暗くなった空を見上げる。
「…………戻らないと」
とりあえずはホテルにと思ったが、どうすればいい。昨日の今日だが、私は入院していた。たった一日で退院していいのだろうか。戻って来いとこそ言われていないが、実際は慌てて逃げる様に出て行ってしまった。
「…………ここで夜を過ごしても」
「あの、すみません」
思わず聞き逃す所だった。顔を向けると、セミロングの子がいた。
「………何か」
「あの、もうすぐ教室を閉めるから、外に出て欲しいと……」
「どうして、あなたが?」
「わ、私は……少し前からオーダーにお世話になってて、だから、」
オーダー初等部、という枠の子だ。
「わかりました———」
大人しく引き下がる。流石にを学校で過ごすわけにはいかないとわかっていた。廊下に出た時、ようやく肩の荷が下りたらしく皆々はそれぞれ安堵の顔をしている。中には試験中に知り合ったらしい同士で話している人も。緊張感がなかった。
「私は、必ずオーダーに」
廊下を渡り、玄関へ足を運び、前庭、校門と過ぎた時だった。
「あ、来た来た!!」
声でわかった。あの人だと。
「なかなか来ないから、もう帰ったかと思ったわ。わかってると思うけど、もう一度病院に———」
「必要ありません」
尋問官が近付きながら、そう告げたから、こちらも返す。だけど、あちらも引き下がる訳にはいかなかったらしい。無理に腕を掴まれ引きずられる。そして、再度あの大きな車へと乗せられる。ソファー座った瞬間、車は発進してしまう。
「申し訳ないけど、はいそうですかって逃がす訳にはいかない。あなたは特別扱いを受けている以上、それ相応の責任が生まれる。手首、痛まなかった?」
「………」
「少し見せて」
手袋を外され、傷の皮膚に軽く触れられる。軽い痛みが走り、拳を作ってしまう。
「痛いのね。だけど、もう終わり」
腕を引き戻しながら手袋をはめ直し、他所を向く。尋問官は少し笑いながら立ち上がり、冷蔵庫を漁る。戻ってきた手にはシュークリームの入った袋が用意されていた。
「病院の先生には内緒ね。甘い物って本当は差し入れも禁止だから」
要らない。そう突き返すべきだ。自分の理性は告げたが、本能が伸ばす手を肯定し続けた。他所を向きながら受け取り、袋を開ける。柔らかな生地に降り注いでいる白い砂糖。その美しさが、あまりにも蠱惑的で。近づく口を止められなかった。
「悪いくない味、そうでしょう?最近オープンした有名店のオーダー支店だから」
「……はい」
優しい甘みだった。こんな味すら忘れていた。乾いたパンとは比べ物にならない。
「今日はよく頑張った。実は茶髪の女医、私達の先輩で医学学科なの」
「……触診の先生ですね」
「そう。あのちょっと幼い系の人。確かに白衣こそ着てるけど、まだ先生ではなく治療科医学学科の片手間で身体測定とか健康診断してる人。オーダー本部からの指定で、看護師と医者の手が足りなくなる試験の時に手伝いをしてる訳」
治療科医学学科。それはつまりオーダーの医者を目指す学科、という意味であろう。あの病院の女医は医者と名乗る以上並大抵の学力ではない筈だ。そしてあの茶髪の先生も、それを目指している以上、やはり並の学力ではないに違いない。
「……あなたは」
「私は捜査科査問学科。オーダー大から研修で査問科の尋問官として働いてるの」
「査問学科?査問科?」
「正直、ややこしいね。難しく考えないで。査問科っていう部署の勉強をする為に査問学科がある。捜査科ってオーダー本部に関わる、特殊な職業に就く為の技能も教える、エリートコースなの。まさか私なんかが、って思ったけど。意外と頑張れてしまったわ」
「ちなみにー。私は、調達科ねー。学科は特に決めないで色々受けてるんだー」
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