白の塔
父さんと母さんが亡くなったと聞いた時、私はひどく衝撃を受けた。あの時に感じた、目の前が真っ暗になる絶望。私まで死んでしまうかもしれないと思った。
けれど、私はついに死ななかった。二人の代わりに神殿に迎えに来た馬車が、私に新しい生活をくれたから。
その御者は白の塔の使者だと名乗った。彼の主である白の塔の司書は、私のおばあ様なのだと。
白の塔! とても信じられなかった。
白の塔といえば、トールディルグの書物の結集。
図書館とだって比べものにならない、大陸中の書物を集めた本好きの聖地! 巨大な街の図書館にだって一回も行ったことのなかった私には、神殿の一室を埋めて造られた書斎だって天国に等しかったけれど、白の塔と比べたらそんなもの麦の一粒だ。
現金にも、君はこれからおじさんと一緒に白の塔へ行くんだよ、と言われた私は大層興奮してしまった。父さんと母さんには一度も理解されたことのない、書物への愛が体現されたかのような場所へ行けるなんて、夢のまた夢だろうと幼心に思っていたから。
けれど、すぐにその手を取るのをためらった。両親の葬式にも出ていないのに、国境にほど近い白の塔へ向かうだなんて、ここからどれだけかかるか、と心配になったのだ。もし行ってしまったら、二度とリシェルタの街には戻れないのではないかと。
御者は、ヒルという名で、小太りのお腹をした中年の、人の好さげな笑顔を浮かべた男性だった。優しげな声と人を疑うことを知らなそうな笑顔に、私は彼を信用しかかっていた。なのに彼は、躊躇する私にこう言ってのけたのだ。
「巫女様が言うには、君は本が好きなんだろう? 巫女様は何度も君を引き取りたいと打診していたのに、君の両親は君に伝えもしなかったそうじゃないか。巫女様に逆らうような人たちなのに、君は大事なの?」
まあ、本当に何もわかっていない。私はそれから、何度も同じような偏見や誤った感想に出会ったけれど、この時は心底憤慨した。
母さんがなぜ白の塔を出て、巫女の跡継ぎにはならず父さんに嫁いだか、そう言われてほんの少しわかってしまった。この御者は全くわかっていないが、二人は私のことを愛していたし、私も父さんと母さんを愛していた。だから二人は、私のことを理解できなくとも手もとに大事に置いておきたくて引き取りを拒否したし、私もそれに文句などなかったのだ。
今だからこうして言語化できるが、当時の私には感情の奔流が大人しい態度を決壊するのに任せるままに、馬車に乗るのを嫌がって暴れるしかできなかった。いつも本ばかり読んで、友達と遊んだらどうだと心配されるほど静かな子どもだった私が、父さんと母さんに会えないならこの人にはついていかない、と泣き叫ぶのを見て、とうとう神官が止めに入った。
大人同士の話し合いがあって——当事者の私を除け者にして——最終的に私は、両親の遺体が入れられた棺が神殿の隣の共同墓地に埋められるまでを見届けて、出発することができた。聞いていたことから何となく判断すると、ヒルによれば、『巫女様』は一度勘当した娘を一族の墓地に入れるのは望まないということで、しかも孫娘を数日以内に白の塔に連れてきてほしいと言っていたそう。神官が言うには、うちには個人の墓地を二つも数日以内に買えるほどの貯えはないし、両親の貯えは彼らの墓より残された私のために使われるべきだという。これらが協議された結果、父さんと母さんの遺骸はさびれた街の名もない共同墓地に埋められることになったのだった。
目を閉じぴくりとも動かない、温もりもなく酒の臭いも料理の匂いもしない二人が簡素な細長い木箱に入れられ、私の摘んできた花と共に土を被せられるのを見て、私はやっと二人は死んでしまったのだと実感した。もう二度と会って話せることなどないのだと。泣きじゃくる私を、神殿の人々はなでたり抱きしめたりしてなぐさめてくれた。葬式が終わり、私はヒルと同じくらい太っちょな馬の引く車に乗って、白の塔へと向かった。
馬車の中で、私はずっとすすり上げていた。あの家が私の教育にふさわしくなかったのには、私も同意する。けれど、例え誰に何と言われようと、幼い私はあの家が大好きだった。
泣きつかれて眠ってしまった私を、ヒルが抱き上げて宿の寝台に寝かせてくれた。翌朝目覚め、小さな宿の主のふっくらした女性の、温かい料理に母さんを思い出してまた泣き出した私を、ヒルは必死になだめ、馬車に乗せて次の宿まで連れていった。あの時はずいぶんな迷惑をかけたと思う。ヒルはおばあ様の命令を果たそうと一生懸命にやってくれたのだから。
けれどその時の私は、ヒルを両親の愛を理解してくれない悪人だと思い込んでいて、おばあ様だと聞かされた巫女のことも冷たい人なのではないかと邪推していた。三日目、とうとう白の塔だと聞いて、怯えて縮こまっていた私の目の前に、それは姿を現した。
白の塔。
何てぴったりな名だったろう。全身が白い石で造られた、森の中で青い空へ向かってそびえ立つ丸い塔だった。五階建てくらいに見えて、上の方は首を痛くしないと見上げきれなかった。てっぺんには丸い屋根の上に、平らな円で輝く飾りがついている。一階の入り口は、装飾の彫り込まれた白い支柱が円形に並ぶ回廊の内側にあって、これも白い扉には銀の取っ手と鍵がついていた。
びくびくしていた私は、ヒルの柔らかい手に背を押されて中に一歩踏み入った途端、それまでの憂いを一挙に忘れ去ってしまった。
夢にまで見たどの図書館の想像していた内装よりも、ずっとずっと素晴らしい場所だった。円形の部屋の真ん中にだけ穴のように空間が空いており、それを取り囲むように背の高い本棚がずらりと等間隔に並んでいた。どこを見ても本だらけで、すっきりと整っているのに、どこか温かい。紙とインクの匂いが満ちていた。何て幸福な香りだろう。
これは今でも思っている。あの頃のおばあ様が管理していた塔を、私は今もきちんと引き継げているだろうか。
あまりにもすてきで、全容が見たくて私は駆け出した。中央に開いた穴の白い螺旋階段を勝手に駆け上る私に、ヒルは太った体を揺らして慌てて追いかけてきた。ふと私は途中で立ち止まった。穴から覗けば、一階同様の美しい光景が、五階までずっと続いているのが楽に見て取れたので。上から光が漏れていた。光に導かれるように、子どもの体力にものを言わせて、私は五階まで駆け上がった——ちょっとずつ二階から四階の様子を覗き見ながら。
最上階は、他とは少し違っていた。見上げれば、丸天井にも穴が空いていて、そこから光が降っているのがわかった。天井窓があって、これは後から知ったのだが、てっぺんの飾りは水晶のようなものだった。日の光を窓を通して塔に呼び込むためのもの。温かさの正体はこれだったのか、と思った。
特別だったのはそれだけではない。むしろ、天井窓なんて無視してもいい特別なものを、五階に踏み入ってすぐ、本棚の向こうに私は見つけた。外に開けたベランダがあって、そこに日を浴びてきらきら輝く、何よりも美しい生き物がいたのだ。
王猫という聖獣について、白の塔に来るまで私が知っていたことは、特殊な猫らしいということくらいだった。とんでもない、猫と言っても巨大な猫だ。小さな私には、街の銅像を見上げるようにしないと、その金色の目を見つめることもできなかった。日の光に照らされたその毛並みは白金色で、私の髪よりは色が濃く、まるで光で造られた猫を見ているようだった。あの他の何ものにも代えがたい美しい光景は、きっと死ぬまで私の目に焼きついている。
呆然とする私に、王猫は大きな口を開き、猫の鳴き声で語りかけてきた。
「小さな人の子か。ここへ何用だ」
と。正確には、そんなふうな意図をもって鳴いたのだ。私の血の力は猫の気分がわかるというだけのもので、人の言葉に翻訳する力ではない。けれど、ここまで明確に意思を読み取れる話しかけ方をされたのは初めてだった。記念すべき王猫との初会話は、そうして始まった。私がおばあさんになってかつてを忘れてしまっても思い出せるように、きちんと記しておこう。
「あなたが王猫?」
とか何とか、私は尋ねたと思う。私の返答になっていない答えにどうしてか機嫌をよくした王猫が喉を鳴らし、そこへおばあ様が入ってきた。
「お前がヘマね」
落ち着いて優しい、それなのにぴんと背筋が伸びるような声だった。振り返ると、老婦人が立っていた。白を基調にしたドレスに灰色の薄手の上着、腰も背も曲がって杖をついていて、小ぶりな丸眼鏡をかけていた。物語の中にいそうなすてきなおばあさんで、しわのたくさんある顔に穏やかな微笑みを浮かべて私を見ていた。ヒルのことがあって警戒していたというのに、あまりにも私の理想通りのおばあさんだったので、私はころりと警戒を忘れた。
細かい会話は忘れてしまったけれど、おばあ様は私に、彼女が私の祖母だと教え、おばあ様と呼ぶように言いつけた。そして王猫に、これが私の孫娘、次の巫女よ、といったことを告げた。王猫はわかりきったことを聞いた王様のように鷹揚にうなずいた。
そしておばあ様は、私を館へ連れていった。
館は白の塔から馬車を四半刻ほど走らせたところにある。赤っぽい屋根瓦をした、二階建てで小さな庭のついた、きちんと塀に囲まれた白い壁の建物。それは巫女のためにかなり昔の王が作らせた館なのだ。
巫女とその家族は、普段はここで寝起きし、巫女は毎日白の塔へ行って王猫の世話をする。家族は他所へ仕事に行くこともあるし、私のような小さい子だと、巫女について塔へ行き巫女の仕事を習ったり、勉強をしたりする。私は次の巫女になるのだから、明日から毎日、おばあ様と共に塔へ行くのだと彼女は告げた。
私が次の巫女だと決まっているのが不思議で尋ねると、おばあ様はこう教えてくれた。
王猫の巫女の始まりは、ある一人の少女だったのだという。四百だか五百年だか昔、ティエビエンの王のもとに聖獣が訪れた。その美しい知恵ある獣は、この大陸の端から端まで一族で仕事を請け負う王を見込んで頼みがある、この地にある全ての知恵がほしい、と望んだ。聖獣に選ばれいたく感激した王が、一族の者に大陸中の書物を運んで来てもらい、図書館を作ろうと約束すると、王猫は喜んだ。そしてその図書館に留まりたいゆえ、自分の世話をする人間を一人寄越してほしいと望んだのだ。
その
「ヘマ、お前は私の娘の産んだ娘で、私たちの血の力を受け継ぐ娘だから、お前が次の巫女になるのよ」
私は脈々と続く己が血族の由来に感動し、己を正当な次代の巫女だと信じて、おばあ様から修行を受け始めた。
初めのうちは、もちろん、慣れないことも多くてつらかった。
生活の変化は特にそうで、知らないベッド、母さんの料理の匂いのしない広いお館は、わくわくもしたけど長く緊張が抜けなかった。
少し前まで、三人きりでどこにいても家族の気配がする家に暮らしていたのに、館には家族以外のいわゆる、召使いというような人もいて、建物の端にいればもう一方の端のことはとてもわからない。
初日に、おばあ様がヒルに庭のことと馬の世話を頼んでいたので、ヒルは館の馬番兼庭師だと発覚した。館には他に、無口な四十代の男性の料理人と、おばあ様の公式な場での護衛と普段の侍従代わりをしている三十代くらいの女性がいた。
年の近い子どもがいないから、遊び相手がいないのは少し寂しかった。一人でいるのは全く嫌いじゃなかったから、嫌ではなかったけれど。
巫女の修行自体は、たくさんの知らないことを教われて楽しかったが、将来の仕事につながることだからと、おばあ様は全然手加減してくれなかった。私はリシェルタの街の同年代の子らの中では一番本をよく読む子だったはずなのに、おばあ様の教える読み書きは私の知っていた神殿での手習いの何倍も厳しかった。
「知らないことは悪いことではないわ」
というのがおばあ様の口癖だったけれど、知らないことに気づいたなら知らないままでいることは許されず、己で学びなさいといくつもの本を手渡された。
最も不思議だったのは、やはり王猫のことだ。聖獣の世話だというからどんな特殊なことをさせられるのかと思っていたが、何ということはない、王族の侍従とすることは変わらない。塔に届けられる食糧を料理して差し出したり、毛並みを整えたり、王猫の望む書物を塔から探してきて手渡したり、塔になければ知っている人や新しい書物を探したり。
そうしたことを少しづつ習い、身に着けていくうちに、日々も重なり、最初は距離感のあった館の者たちとも、館の次なる主としての私と、その家を守る仕え人たちという温かい関係が築かれることになった。
ヒルは確かに人の気持ちを慮ることに長けているとは言えないが、おばあ様を誰より大切に思っていて、おばあ様のためなら何でもできる人だとわかった。毎朝毎晩、うちの厩から太った馬に車を引かせて、おばあ様と私を館から塔へ送り迎えし、日中は館の塀の中の庭を整えたり、毎日通る道の整備をしたりしていた。穏やかで鈍感で、私の鋭い着眼点や激しい気持ちを理解してくれることこそないけれど、毎日を守ってくれる人。家の中に季節の花を持ち込んで、新しい時季の訪れを知らせてくれる人。土仕事をして手を汚した彼に渡す差し入れは、いつもセルヒオの心遣いのために匙を使って食べられるものが入ったポットだった。小さな
料理人のセルヒオは、厳めしい表情であまり喋らないから、どんなことを考えているのかわかりにくい。それなのに、否そのせいでと言うべきか、行動での愛情表現はとてもとてもわかりやすかった。庭仕事をするヒルへの差し入れにスープを出すように、彼の料理はどこまでも出す相手のことを考えてある。おばあ様は、私が館に来た時点でもう子どもの好むような肉だの油だのが多い料理は受け付けなくて、越してくるまで母さんの様々な料理の並ぶ食卓に慣れていたから、おばあ様と同じ食事を毎日はできそうにない、とある日私は零したのだ。すると、その後から、セルヒオは同じ食材を使った味付けの違う料理を出してくれたり、私の特別な日には、私の好きだと言った料理ばかりこしらえるようにしてくれた。さらには、母さんの作っていた苺のジャムが食べたいと言った私のためだけに、街まで馬車を出して苺を買ってきて煮詰めてくれたことまである。可愛がられているのが大層わかりやすくて、私もことさら彼を慕うようになった。第二の父親ができたような気分だった。
おばあ様の従者兼護衛のダイラは、化粧っけのない顔で真っ直ぐな黒髪を一つにくくった、戦士の見本のような人だった。昔ながらのティエビダ式の生活、いわゆる傭兵家業で育ったらしく、もう三十も過ぎたし一ところに落ち着きたいと思って、おばあ様の護衛の話を受けたのだそうだ。いつもはおばあ様のそばに侍り、ご用を聞いたりお茶を用意したり、細々したことを何でもしてくれる。彼女はおしゃれや本の話にはあまり乗ってくれないけれど、女として生きていくうえで大切な体の話や、旅をする時に必要なことは全部彼女から教わった。おばあ様が仕事の先生だとしたら、ダイラは暮らしの先生だった。彼女がいなかったら、きっと今の私はこんなにあちこち気軽に出かけられるようにはなっていなかっただろう。
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