第2話

 誕生日が嫌いになったのはいつからだろうか。大して仲良くした覚えのない子から手紙をもらった小学生のころからだろうか、登校したら机の上にプレゼントが置いてあった中学生のころからだろうか、友達を呼んでパーティーをしてもらった高校生のころからだろうか。


 純次の家にあるこたつは小さいから、家に帰って点けたばかりでもすぐに温かくなる。彼の部屋に入ってすぐ、手も洗わずにこたつに入ってじっと晩御飯が出てくるのを待つ。その間、私は好きなことを好きなだけ考えていていい。今日は誕生日について考える。


「有果、手洗って」


 キッチンから純次が声をかけてくる。彼は私とは違って、部屋に入るとすぐに手を洗って、おでんシチューを作り始めていた。


「やだ。別に汚くない」


「だめだ、インフルエンザ流行ってるから。大事な時期に風邪ひいたら大変」


「大事な時期とかないし、私風邪ひいたっていい。どうにでもなればいい」


「そんなこと言わない。ほら立って」


 純次は私のわがままに慣れているから、キッチンタオルで手を拭くと私の脇の下に両腕を通して立ち上がらせた。やせっぽっちで小柄な私は抵抗もせずにおとなしく立ち上がらせられてしまう。


「はい、洗面所行って。あったかいお湯でちゃんと洗って」


 純次は私が洗面所のドアを開けるのを見届けると、またおでんシチューを作り始めた。もともと料理は得意でなかったはずなのに、私と一緒に暮らし始めてから純次の料理の手さばきも、その腕も確実に上がっていった。


 洗面所の青白い光に照らされた私は、まだ二十歳だというのにひどく疲れて見える。レバーをあげるとしばらくして、温かいお湯がちょろちょろと出てきた。お風呂に入ったとき、お湯で手を洗うとき、なぜか私は初めて私を抱きしめたときの純次の温もりを思い出す。


 手を洗いながら、私が純次の子どもだったらよかったのに、と思う。もし私が純次の子どもなら、純次の愛を無条件に独り占めできただろう。純次のように優しさと思いやりをもった子になれただろう。何よりも、生まれた意味のある特別な子どもになれただろう。純次の子どもとして、生まれていれば―。


「有果、大丈夫?お湯が出っぱなしだ」


 洗面所に入ってきた純次と鏡越しに目が合った。いつだって暗い私とは対照的に、純次はこんな瞬間でも私に微笑みかけてくれる。


「ぼーっとしてた、ごめん…」


ただ立っているだけの私の手を、純次がタオルでくるんで拭いてくれる。


「おでんシチュー、割合わからなかったから別々に作った。有果が好きなように混ぜて食べていい。行こう」


 リビングに戻ると、整頓されたキッチンからはすでに出来上がったおでんとシチューのいいにおいが漂っていた。私はどれくらいの間、洗面所に立っていたんだろう。純次が来るまでそんなことにも気が付けない自分に腹が立つ。でも、純次といるときの私は、どうしようもないくらい空っぽになってしまうのだ。


「どのくらい食べられる?」


 動こうとしない私を見かねて純次が尋ねる。


「…いつもと同じくらい」


「わかった」


 純次は手際よく私と自分の分の食事をお椀によそうと、おそろいの箸と箸置きと一緒にお盆の上に載せた。


「今日もこたつ?」


「うん」


 純次と私は、私の気分によって食事の場所を変える。良いことがあった日、天気が良かった日はキッチンで立ったまま食べる。モヤモヤすることがあった日、心が疲れてしまった日はこたつで食べる。でもここ一週間はこたつで食べている。


「ご一緒に、いただきます」


 純次は必ず「ご一緒に」と言うが、私が実際にいただきますと言うことはない。その代わりに、私は指先までぴったりと両手を合わせて目を閉じる。そして想う。食材にも純次にも、言葉では表せない感謝の気持ちを込める。


 初めて二人で食事をした日、私はいただきますと言わなかった。言えなかった。でも、純次はその分俺が言うから大丈夫と言ってくれた。だから今日も私は言わない。そんな私の姿を純次以外の人に見せたらなんと思われるだろうと思う反面、これが本当の私なのだと、純次にはありのままの自分を見せられるのだと、そんな人に出会えた自分が誇らしくなる。


「…どうだ?」


「悪く、ない」


「おお、嬉しい」


 純次が顔をほころばせる。嬉しいときに嬉しいと言い、悲しいときに悲しいということ。私にとってそれは、相手を選ぶ行為だ。だから、純次が私にそうやって言うことが嬉しい。私はそれを、口にはしないけれど。


 2人の咀嚼音だけが静かな部屋に響く。箸とお椀がぶつかる音、お椀を机に置く音、汁物が喉を通る音。確かにそこにあるのに聞こえていなかった音があるということに気づかせてくれたのは純次だ。


「ごちそうさまでした。ゆっくり食べてていいから」


 食事を終えると純次は、すぐに立ち上がってキッチンへ行ってしまう。私と純次の時間の、終わりの合図。これから彼は朝までコンビニのアルバイトに行ってしまうから、次に会えるのは明日の夕方だ。


 純次が食器を洗う水の音は、今の私の心の中の音に似ている。純次のいない夜がすぐそこまで来ている。大きな不安感と絶望が、私の小さな小さな心のコップを満たしていく。


 「今日は行かないで」と言えたら、「朝まで一緒にいて」と言えたら。何度そう思っても、そうすることで失ってしまうものがあまりにも多すぎる気がして私はそうは言えない。水の流れる音が止まった。


「面倒だったら食器は洗わなくていい。あと、風呂はもうすぐ沸く。じゃあ、あったかくしてて、行ってきます」


 毎日毎日同じ言葉なのに、純次は必ず私の目を見てそう言ってから家を出て行く。純次だって本当はわかっているはずだ、彼がいなくなった後私がどうなってしまうか。それでいて、私を置いてけぼりにしてしまうのだ。


 バタン、とドアの閉まる音。ガチャ、と鍵がかけられる音。


 純次がいなくなった純次の部屋にいると、この部屋だけが世界からすっぽり切り離されて宇宙でただ1つぽつんと浮かんでいるような感覚に襲われる。純次が唯一この世界で私が私として生きて、社会とつながるためのハブを担ってくれているから。それがなくなってしまった今、私は完全に全てから切り離されてしまっているような、そんな、感覚。


 でも、もしそんな風に感じられていたらどんなにいいだろう、と現実の私は思う。ここまでは、純次を前にしてやりたい放題の私。今の私はひとりキッチンに立ち、空になった食器を洗っている。食器を洗い終わったら拭いて片付けて、それからお風呂に入ろう、明日1次面接がある企業の下調べを少しして、日付が変わる前には寝てしまおう。そんなことを考えてしまっている。純次がいなくなってしまうと、私はどこにでもいる、つまらない、ありふれた普通の人間になってしまう。


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