第一楽章2

 みんなが飽きてくる前に、ぼくの十二回目の夏休みのはじめに戻ろう。

 正確には終業式終わりの午後、駄菓子屋「ひよっこ」の店先からはじまった。

 ぼくのメロン・ソーダ味のアイスは、三分の一くらい食べたところでぼとりと足元に落ちた。それはさっきから足元をせわしなく動き回っていたアリの行列の上に、吸い込まれるように覆いかぶさった。

「あーツイてねーな」

 と、モンちゃんはいう。短く刈り込んだ金髪と同じ色のパイン味のアイスが、これも三分の一くらいで食べかけのまま、いまにも溶けて落っこちそうだった。それくらい暑かった。

「そういうモンちゃんこそ、落っこちそうだよ」

 うおっ、と驚いた声を上げて、モンちゃんはあわててアイスを頬ばった。頭を刺す痛みと必死に戦いながら。

 モンちゃんがアイスに集中したのをきっかけに、ぼくはまた、溶け落ちたメロン・ソーダ味のアイスの中でもがくアリを、何をするでもなく、ぼんやりと観察した。

 アリの行列は大混乱に陥っていた。このアリたちにとっては、溶け落ちた三分の二のメロン・ソーダ味のアイスでも、自分たちの世界の終末なのだ。とけた緑色の液体のなかで暴れまわり、あっちへ行ったりこっちへ行ったり……今度は狂ったように走り回っていると言ったほうがよくて、ぼくはなんだか気持ちが悪くなった。それで、なにか別のことを考えようとモンちゃんに話しかけた。

「……そういえばカヲピー、遅いね」

「手間取ってんだろ。見てろよ、どうせあのクソゴテゴスロリで来るぞ」

 確かにそうだった。しばらくすると、かげろうのゆらゆらとするゆるやかな坂の奥のほうから、黒のゴシックロリータがにょっと頭を出したのだ。

「あ~っ。アイスぅう! いいなぁ……」

 カヲピーがうらやましそうな声をあげる。

「買って来いよ」

 と、モンちゃんはつれなく言う。

「なによ、おごってくれたっていいじゃない。あたしの今日もカワイイの頑張りに免じて」

「おまえのその今日もカワイイの頑張りに免じる理由がない」

 もうっ、とカヲピーは頬を膨らませた。

「カワイイ、は大変なんだよ。それでも今日も鬼盛デス!」

「シンジ。鬼盛あれって使い方合ってんのか?」

「さあ?」

「もうっ!」

「はいはい、わざわざ猛暑のなか、クソゴテゴスロリ、ご苦労さんです」

 それがもう暑苦しいとでもいうように、モンちゃんは憎たらしそうに返した。アイスの棒に「あたり! もう一……」の文字が見えた。

「おい、『パンツもっこり』だぞ!」

 カヲピーはきゃっと叫んで、自転車をこいでめくれあがってしまったスカートを慌てて直した。

 ぼくのふたりの友達を紹介しよう。

 ひとり目がモンちゃん。本名は匂坂 トウジ。

 手のつけられない怪物モンスター

 だから「モンちゃん」。モンちゃん自身はこのあだ名を気に入っているらしい。

 だれもモンちゃんを止めることはできない。

「ベートーヴェンに会いに行くんだ」

 それがモンちゃんの口癖だった。

 もちろん、ブサイクでもへっとしたセントバーナード犬のことじゃない。

 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは死んだ。そんなことはモンちゃんだって知っている。ベートーヴェンの生まれたドイツのボンと、彼が多くの作品を生み出したオーストリアのウィーンに行くのが、モンちゃんの夢らしい。

 ベートーヴェンを聴くと、モンちゃんは「なんかさ、こう体中に電気が走るみてーなんだ」そうだ。ぼくにはよくわからないけど。

 そのなかでもとくにモンちゃんの体中に電気が走るのが、みんな大好き『交響曲第九番』だ。

 ある日ぼくのうちに遊びに来たモンちゃんは、いまはぼくの部屋になっているじいちゃんの書斎で、面白がってあるレコードに針を落とした。ブルーノ・ワルター指揮の『交響曲第九番 二短調作品125』だった。遊ぶというより暴れまわるというほうが似合うモンちゃんが、その時雷に打たれたようにビクンと体を棒のようにして止まった。ちょうど針を落とした先が、交響曲第九番第四楽章、よく言われる「歓喜の歌」の部分だった。


 O Freunde, nicht diese Töne!

 Sondern laßt uns angenehmere

 anstimmen und freudenvollere.……


 それ以来、ベートーヴェンはぼくやカヲピーに次ぐモンちゃんのマブダチになっている。いったいこれが同じベートーヴェン作曲の『ピアノソナタ月光』や、あの「運命はこのように扉をたたく。ダダダダーン!」の『運命』だったなら、モンちゃんの体中に電気は走ったのだろうか?

 ふたり目がカヲピー——有栖川 カヲル。「パンツもっこり」な、ぼくのもうひとりの男友達だ。

 カヲピーがゴスロリ女装街道を爆走する原因は、多くモンちゃんにある。子供のころからそのケがないではなかったけど、小さい頃のカヲピーの姿はと言うと、イガグリ頭に春夏秋冬関係なく鼻水をたらして、モンちゃんとぼく、そしてレイの後にかなり遅れて付いてくる印象だった。そのためとくに気味悪がられたり、いじめの標的になるのがカヲピーだった。

 そんなカヲピーを、いじめられていれば口より先の鉄拳制裁で助けるのがモンちゃんだった。「俺のトモダチにしのごのいうやつはボッコボコにしてぶっ飛ばす」のである。じっさいに小学生の時、カヲピーをいじめていた中学生を文字通り「ボッコボコにしてぶっ飛ば」した。

 ある日、モンちゃんは言ったそうである。

「おまえの好きなようにやればいいんだよ」

 モンちゃんにとっては何気ない一言のつもりでも、その一言が、カヲピーの中で長いことくすぶっていた乙女なハートに火をつけてしまった。つまりはモンちゃんに恋してしまったのだ。カヲピーはモンちゃんに振り向いてもらうため、今や女装街道を爆走中である。どうしてそれがゴスロリファッションなのかは「ナイショ」だそうだ。

「ほんっとにデリカシーないんだから!」

 チョコナッツ味のうまか棒を買ってくると、カヲピーはぷりぷりしてぼくとモンちゃんのあいだに割って入る。

 モンちゃんはカヲピー越しに、ぼくの顔を見てにやにやしている。

「なに、モンちゃん?」

「カヲピーが話あるんだってよ」

 早く話せとばかり、モンちゃんはカヲピーを肩で小突く。

「どうしたの、カヲピー?」

 カヲピーはもじもじして、言いかけては止めて、を繰り返していた。

 しばらくしてやっと口を開いた。

「レイちゃんを、あたし見たの」

 心臓と肺をまとめて締め上げられたようだった。

「涼波を?」

 平静を装ったつもりで、実際ぼくの声は上ずっていた。

 カヲピーは困ったような表情で、こくりとうなずく。

「あんまり自信ないんだけど」

「おーい、いまさらなんだよ。ぜってーレイだって言ったのおまえじゃんか?」

「アタシ言ってない! レイちゃんに似た人だなーって思っただけだもん!」

「それで涼波をどこでみたの、カヲピー」

「……それが」

 カヲピーはまたもやもじもじしながら、助けを求めるように、モンちゃんに目配せした。

「しょーがねーな」とモンちゃんは大きなため息を吐いた。だけど、モンちゃんは自分の口から言いたくてたまらなかったに違いない。

 モンちゃんはぼくにぐっと顔を寄せ、まるで悪事を暴露するかのように、声を潜めてこう言った。

「〝まごころ〟さ」

〝まごころ〟はちょうど一年前に、この肥吉にやってきた新興宗教だ。

 比較的大きな新興宗教だったらしい。

 それも昔の話だ、とモンちゃんは言う。

 カヲピーが目撃したレイらしき女の子を見に行こうと、三人で〝まごころ〟の信者たちの集まるプレハブ小屋——信者たちは伝道所と呼んでいる——に行く道すがら、モンちゃんは自分の集めた情報をぼくに披露してくれた。

〝まごころ〟の教祖。信者たちからは「御心さま」とか「御心導師」と呼ばれているらしいその男は、のび太がかけているような丸メガネ、野暮ったい白髪に口ひげにあごひげをたくわえて、紫色の道着のようなものを着ている。まるでマンガやゲームに出てくる長老か仙人みたいだという。

「お、ちょうどあそこにポスター貼ってあんぜ」

 日に焼けて色が抜けかかったポスターが、塀に貼りつけられている。たしかにモンちゃんの言う通り、マンガやゲームに出てくる長老か仙人みたいな姿で、こちらに向かって微笑んでいる。


 有言断行

 地球の平和と〝まごころ〟を君に


 というキャッチコピーの下に、赤字のせいでほとんど消えかかっているが、「石井四郎」と、きっと教祖の名前だろうものが書かれている。どこかで聞いたことのあるような、ありきたりな名前だと思った。

 なぜ〝まごころ〟は、こんな肥吉の田舎町なんかにやってきたのだろう。

 その疑問の解決の糸口が、この色の抜けかかったポスターなんだ。と、モンちゃんはポスターのなかで微笑む教祖を、こぶしでかるく小突いた。

 今度は三年ほど前にさかのぼる。政界に進出しようとしていた〝まごころ〟は、そのときの衆院選で立候補した二十五人全員が落選してしまったらしい。その反省として「教祖の教えを始まりの地からもう一度やりなおす!」と、この町に来たのだそうだ。どうやらこの肥吉の町は〝まごころ〟の教祖の故郷らしい。

「レイのカァチャンが〝まごころ〟の信者だったのはおまえも覚えてるだろシンジ。だからレイが〝まごころ〟にいたっておかしくねぇんだ」

 レイの母親が宗教にハマっていたのは、よく覚えている。

 ぼくたちと遊びに行くときには、必ずレイの母親はぼくたちを引き留め一列に並ばせると、手を合わせて念仏のようなものを唱えていたからだ。それに「映画のチケットをあげる」と封筒をくれて、ぼくたちが喜んで中を確認すると〝まごころ〟の作ったアニメ映画のチケットだった、ということもあった。

 けれども、レイが〝まごころ〟の信者になっている姿はどうにも想像がつかなかった。どちらかというと、〝まごころ〟も〝まごころ〟の信者としての母親も、レイは好きではなかったような気がする。

 だから、ぼくはレイをこの世界から連れだすべきだった。モンちゃんやカヲピーだって、ぼくが頼めば協力してくれたに違いない。

 モンちゃんの情報に耳を傾け、それにぼくがああでもないこうでもないと考えているうちに、ぼくたちは伝道所の裏手にまわりこんだ。

 モンちゃんが窓ごしにまっさきに中をのぞきこむ。

 ぼくもそれにならって中をのぞきこむと、伝道所という名の小さなプレハブ小屋の中はすし詰め状態だった。どうやら〝まごころ〟の信者たちが集会でもしているらしい。肥吉にもレイの母親以外に〝まごころ〟の信者たちがいたのかとぼくは驚いた。そのなかに二三人、顔見知りがいたからだった。

「ほらあそこだ」

 モンちゃんがぼくを小突いて、一方を指さした。

 ほんとうにレイだったらどうしよう。と、ぼくは息をのんで、モンちゃんの指さす方向に、おそるおそる目を向けた。

 そこには、黒い道着を着た若い男が、人がすっぽり入りそうな大きな箱を背にして立っていた。ビートルズかとツッコミを入れたくなるようなマッシュルーム・ヘアー、逆三角形の顔、眼は糸のように細い。

「は? えっ? だれ?」

 脳の処理が追いつかずに、ぼくは、モンちゃんと伝道所のなかでしゃべっているマッシュルーム・ヘアーの〝まごころ〟の信者とを交互に見た。

「あいつがここを仕切ってるらしい。ったくよ、気色悪いチンコ頭しやがって」

「ちがう。探すのはレイちゃんでしょ」

 カヲピーはモンちゃんを小突く。「どいて」と言わんばかりに、カヲピーはモンちゃんを脇に押しやって、伝道所のなかをのぞきこむ。

 しばらくして、カヲピーは「あっ」とちいさく声をあげると、ぼくの肩を叩いて一方を指さした。

「いたわよ。ほら、あの右奥にいる」

 ぼくは、今度はカヲピーの指さす方向に目をこらした。

 息ができなかった。

 包帯のように真っ白な肌。ちょっと触れるだけでバラバラになってしまいそうなその細い身体。ショートウルフの髪は、一年前とは違って水色に染められてつやつやと光っている。そしていたいけな、と言うしかないその瞳が、

「涼波!」。

 ぼくは思わず叫んでしまった。

 信者たちがいっせいに振り向こうとする寸前に、モンちゃんとカヲピーがぼくの口をふさいで引き倒した。

 腰の抜けたぼくは、モンちゃんとカヲピーに引きずられるようにしてその場を後にした。

 間違いなく、あれは涼波レイ――彼女だった。

「な、わかったろ? あれがいまのレイなんだ」

 モンちゃんはそう言ってぼくの肩を叩いた。

「あいつはもう友達なんかじゃない。俺たちの、敵だ」

「敵」という言葉にぼくはどきりとした。

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ピンク★トカレフ 神崎由紀都 @patchw0rks

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