涼（すず）しくなる時間。

　傾（かたむ）いた陽の光が本殿に直接差し込む。

　周囲を包み始めた影が強い。

　風は弱いが、それでも急激に下がった空気を祭壇（さいだん）前へと運んでいた。

　御陵院（ごりょういん）神社に呼ばれたのは楢見崎（ならみざき）由紀恵（ゆきえ）だったが、訪（おとず）れていたのは娘の沙智子（さちこ）。

　それでもそこに何らかの意味を見出し、咲（さき）はすぐに受け入れた。

「娘の西沙（せいさ）の所に依頼（いらい）をされたのは……貴女（あなた）様と伺（うかが）っておりますが…………」

　本祭壇（ほんさいだん）に背を向け、咲（さき）はそう切り出す。その横で綾芽（あやめ）と涼沙（りょうさ）がそれぞれ正座をしている光景が少なからず威圧感（いあつかん）を醸（かも）し出すのか、沙智子（さちこ）の表情はずっと固く、僅かに下を向いたまま。三人との距離もある。薄暗（うすぐら）いせいもあってかその表情も汲（く）み取りにくい。

　もちろん咲（さき）もその緊張感（きんちょうかん）を感じていないわけではない。同時に決して責（せ）め立てようとするつもりはなかったが、咲（さき）の中で西沙（せいさ）の存在が燻（くすぶ）っているためか、その口調にはどこか気持ちの乱（みだ）れもあったのだろう。

「事（こと）は単純ではありませんが、しかしながら、やはり楢見崎（ならみざき）様にも〝真実（しんじつ）〟を知っておいて頂く必要はあるでしょう。本日お越（こ）し頂いたのはそのためです」

　咲（さき）の続けたその言葉に、沙智子（さちこ）もやっと口を開き始めた。

　視線（しせん）は僅かに落としたまま。

「……いかにも…………西沙（せいさ）様に依頼（いらい）をさせて頂いたのは私です」

「改（あらた）めて……その訳（わけ）をお聞きしても？」

　やはり咲（さき）は自分の声色（こわいろ）に焦（あせ）りを滲（にじ）ませていた。

　気持ちが騒（ざわ）つく。

　──……まただ…………また、私は西沙（せいさ）を恐（おそ）れている…………

　その気持ちの不安定さが、つい咲（さき）に言葉を急がせていた。

「確かに楢見崎（ならみざき）家の方々の預（あず）かり知らぬところで、我々御陵院（ごりょういん）家は皆様を守り続けて参りました…………それは今に始まったことではありません…………数百年の長い年月────」

「────ええ…………」

　意外にも、沙智子（さちこ）の小さな声が咲（さき）の言葉を遮（さえぎ）る。

「存（ぞん）じておりました」

　その言葉に、咲（さき）の横の綾芽（あやめ）と涼沙（りょうさ）が顔を上げていた。

　──……馬鹿（ばか）な…………

　反射的にそんな言葉が咲（さき）の頭に浮かぶ。

　誰も知っているはずがない。知っているのは御陵院（ごりょういん）家を継承（けいしょう）する人間だけ。

　──…………しかし…………なぜだ…………

　突然、咲（さき）の中で疑問（ぎもん）が湧（わ）いた。

　──……そもそも……どうして楢見崎（ならみざき）家は知らない？

　沙智子（さちこ）の言葉が続く。

「これは母も知らぬことでした。私が〝御簾世（みすよ）様〟から…………夢で────」

「夢？　しかも……どうしてその名を…………」

　思わず遮（さえぎ）っていた咲（さき）の顳顬（こめかみ）を、汗が一筋（ひとすじ）流れ落ちた。

　そしてやっと咲（さき）は気が付く。

　──…………赤い目…………

　沙智子（さちこ）の〝赤い目〟が怪（あや）しくその瞼（まぶた）の下に浮かんでいた。

　そして思い出す。

　御陵院（ごりょういん）家で言い伝（つた）えられてきた歴史。その大きな起点（きてん）となった事柄（ことがら）の中心人物。

　──…………御簾世（みすよ）は…………赤い目だった…………

　──……この〝圧力（あつりょく）〟は…………

　咲（さき）と沙智子（さちこ）の間を、生（なま）ぬるい空気がゆっくりと流れていく。

「御簾世（みすよ）様が……西沙（せいさ）様を頼（たよ）れと…………西沙（せいさ）様でなければ…………〝呪（のろ）い〟は終わらせられないと…………」

　その沙智子（さちこ）の言葉から、静寂（せいじゃく）が生まれた。

　祭壇（さいだん）の松明（たいまつ）が音を立てて小さく崩（くず）れる。火の粉（こ）が天井（てんじょう）に舞い上がると影に包まれそうな本殿を明るく照らした。

　その中で、沙智子（さちこ）の赤い目が光る。

　綾芽（あやめ）と涼沙（りょうさ）からは、それは妖艶（ようえん）さを宿（やど）しているようにしか見えなかった。

　二人にとって、西沙（せいさ）は一番下の妹でありながら、同時に〝恐（おそ）れる〟べき存在。お互いに、認めながらも認めたくなどない現実。例え神社から追い出したとしても、西沙（せいさ）が神社を継承（けいしょう）することがないとしても、今現在で一番の脅威（きょうい）であることには変わらない。

　だからこそ、御陵院（ごりょういん）家の問題でありながら、御陵院（ごりょういん）家ではなく〝西沙（せいさ）でなければ〟というのは納得（なっとく）するわけにはいかなかった。二人にとって到底（とうてい）許（ゆる）すことの出来る言葉ではない。

　涼沙（りょうさ）が隣（となり）で唇（くちびる）を噛（か）み締（し）めているのを、綾芽（あやめ）は感じていた。

　──……ここに……なぜ西沙（せいさ）はいない…………？

　しばしの間を空けて言葉を繋（つな）いだのは、再び沙智子（さちこ）。

「〝呪（のろ）い〟の根源（こんげん）は知りません……誰の呪（のろ）いなのか……何の呪（のろ）いなのか…………どうして楢見崎（ならみざき）家がこんな〝業（ごう）〟を背負（せお）わされているのか…………そんなことは私にはどうでもいい…………息子を守りたいだけです…………皆様は我々を守ってきたと仰（おっしゃ）いますが…………この神社が守ってきたのは楢見崎（ならみざき）ですか？　それとも〝呪（のろ）い〟ですか⁉︎」

　咲（さき）でさえ、何も応えられなかった。もはや、この状況（じょうきょう）を整理することすら難（むずか）しく感じる自分に苛立（いらだ）つだけ。

　しかし、沙智子（さちこ）の言葉は続く。

「……だとしたら……私はこの神社を恨（うら）みます…………」

　そして、再びの静寂（せいじゃく）が空気に広がる。

　それは誰にも止められるものではない。

　その数時間前。

　楢見崎（ならみざき）家にいたのは、西沙（せいさ）だった。

　　　　　　☆

　綾芽（あやめ）が楢見崎（ならみざき）家を訪（おとず）れた翌日（よくじつ）。

　由紀恵（ゆきえ）は沙智子（さちこ）に頼んで西沙（せいさ）に連絡を取っていた。

　来客（らいきゃく）用の座敷（ざしき）には西沙（せいさ）と由紀恵（ゆきえ）だけ。意外にも西沙（せいさ）はしばらく待たされた。来てすぐに出されたお茶がほとんど無くなるほど。

　由紀恵（ゆきえ）の中にも、呼び出しておきながら気持ちが安定していないような乱（みだ）れがあった。もはや誰を信じたらいいのかも分からない。昨日突然やってきた巫女（みこ）から聞かされた話は、ただ混乱（こんらん）を増（ま）しただけ。

　実際（じっさい）に西沙（せいさ）の前に腰（こし）を降ろしてからも落ち着かない。どう話を切り出せばいいのかも定（さだ）まっていなかった。

　しかし西沙（せいさ）の中では少しずつバラバラだったものが繋（つな）がり始めていた。ここへ来た時から感じる綾芽（あやめ）の〝痕跡（こんせき）〟。それがさらに西沙（せいさ）の中の確信（かくしん）を強めていく。

「私の姉（あね）は〝楢見崎（ならみざき）家を守ってきた〟と言ってたんですよね」

　綾芽（あやめ）が現場に残していた感情を読み取りながらの西沙（せいさ）の言葉はもはや自信に満（み）ちていた。

「私の知る限り、それは嘘（うそ）ではないようです」

　西沙（せいさ）はそう続けながら、不安に包まれながら畳（たたみ）に落ちる由紀恵（ゆきえ）の目を見続ける。

　事実として、咲（さき）がそのためにホスピスに関わっていたことに確信（かくしん）を持っていた。御陵院（ごりょういん）家自（みずか）らが〝守ってきた〟と言っている以上、咲（さき）があの事件の中の楢見崎（ならみざき）家の〝血〟の存在に気が付いていなかったわけがない。

　しかし、守りきれなかった。

　西沙（せいさ）は小さく震（ふる）える由紀恵（ゆきえ）の唇（くちびる）に気が付きながらも、敢（あ）えて言葉を続ける。

　しかも、その言葉は柔（やわ）らかい。

「……由紀恵（ゆきえ）さん……霊能力者なんて言うと怪（あや）しい職業だと思われるかもしれませんけど、私は小さい頃から勘（かん）だけは鋭（するど）い子供でした。普通の人が思うような幽霊（ゆうれい）が見えるとかそういうことじゃなくて、他人の感情（かんじょう）が分かってしまうんです。今、何を考えているか……手に取るように……それと同時に、その人の過去（かこ）も…………」

　由紀恵（ゆきえ）が目を見開いた。

　瞼（まぶた）と共に瞳孔（どうこう）が震（ふる）えているのでさえ西沙（せいさ）には感じられた。

　続く西沙（せいさ）の言葉は、由紀恵（ゆきえ）の感情（かんじょう）も揺（ゆ）らしていく。

「おかしな体質でしょ。普通の人生なんか歩けなかった…………だから……この間お邪魔（じゃま）した時に……分かりましたよ…………例え過（す）ぎたことでも、過去（かこ）は消えない……変えられるものじゃない…………この家の女性は……長女を出産した時に総てを先代（せんだい）から〝継承（けいしょう）〟するはずです。自分のしたことと、これから自分がしなければいけないこと…………」

　由紀恵（ゆきえ）の肩が震（ふる）え始めていた。

　──……美由紀（みゆき）のお陰（かげ）で……やっと辿（たど）り着けたよ…………

　そう思う西沙（せいさ）の中で、それでも決して気持ちのよくない〝真実（しんじつ）〟が纏（まと）まる。

　微（かす）かに漏（も）れかける声にならない由紀恵（ゆきえ）の声を、西沙（せいさ）は容赦無（ようしゃな）く遮（さえぎ）った。

「……由紀恵（ゆきえ）さんも無意識の内に…………まるで何かに取り憑（つ）かれたように…………自分の息子さんを、殺（ころ）した」

　──…………やめて…………

「そしてその遺体（いたい）は先代（せんだい）が処理（しょり）する。広い敷地（しきち）ですものね。大きな焼却炉（しょうきゃくろ）と専用の埋葬（まいそう）場所があるはず。やがては沙智子（さちこ）さんの息子さんも、何かに取り憑（つ）かれたような沙智子（さちこ）さん自身が無意識に殺（ころ）して、それを由紀恵（ゆきえ）さんが────」

「────やめてっ‼︎」

　由紀恵（ゆきえ）の甲高（かんだか）い声が、座敷（ざしき）に流れる空気を切り裂（さ）いた。

　記憶に無い殺人。長女を産んだ直後にそれを聞かされた過去（かこ）。ずっと信じたくなかった過去（かこ）。自分には自覚（じかく）など無いまま。それでも、自分の娘が殺人を犯（おか）すところを見ることで、それを母として実感（じっかん）せざるを得なくなると教えられた。

　そして、その孫（まご）を自（みずか）らが〝処理（しょり）〟することになる。やがてやってくるその現実。それもまた変えられるものではないと聞かされた。

　気持ちのどこかで〝嘘（うそ）だ〟と思っていた楢見崎（ならみざき）家の〝秘（ひ）め事（ごと）〟を赤の他人から改（あらた）めて突（つ）きつけられ、由紀恵（ゆきえ）の感情（かんじょう）は完全に理性（りせい）を失（うしな）う。

　それでも西沙（せいさ）は動（どう）じない。

　──……美由紀（みゆき）には……こんな気持ちを味わわせたくない…………

　そして、言葉を紡（つむ）いだ。

「長男は最初から出生（しゅっしょう）届けを出していない……だから死亡届けも出す必要がない……名前も先代（せんだい）が決める仕来（しき）たりだから、いつも同じ……愛着（あいちゃく）を感じないように……せいぜいが時代とともに何度か変えてきた程度（ていど）。戸籍上（こせきじょう）は存在しない子供だから……死んでも警察から疑（うたが）われることはない。その役目も母親ではなく先代（せんだい）の母……由紀恵（ゆきえ）さんも出生（しゅっしょう）届けを提出してきたことにしただけですよね。幸（さいわ）いにも楢見崎（ならみざき）家の女性は過剰（かじょう）に守られてきた。お陰（かげ）で学生の頃の友達なんか一人もいない。社会を知らない内に結婚。長男がいたことすら知っているのは婿養子（むこようし）の実家（じっか）だけ。でも一年もせずに亡（な）くなれば愛着（あいちゃく）も少ない。後は形だけの葬儀（そうぎ）をすれば誤魔化（ごまか）せる。お寺にお金を払って、理由は何とでも作れるはず……流産（りゅうざん）した子供のものとでも言えばいい。しかも婿養子（むこようし）の実家（じっか）は離（はな）れた土地の地主（じぬし）レベルの家柄（いえがら）だけ。三男（さんなん）以降の外孫（そとまご）になんか興味（きょうみ）の薄（うす）そうな家ばかり…………だから婿養子（むこようし）に長男や次男は避（さ）けられてきた」

　由紀恵（ゆきえ）が畳（たたみ）に両手を付く。その振動（しんどう）が西沙（せいさ）の座布団（ざぶとん）にまで伝わる。

　丸まった背中を大きく震（ふる）わせ、由紀恵（ゆきえ）は微（かす）かに溢（あふ）れる小さな声を押し殺した。

　紡（つむ）がれる西沙（せいさ）の声を待つだけ。

「そしてもう一つ…………それは、三人目以降の子供が産まれた場合…………」

　由紀恵（ゆきえ）が僅かに頭を上げかけ、西沙（せいさ）の言葉が続く。

「すぐに養子（ようし）に出されてきた…………そうしなければもっと恐（おそ）ろしい〝呪（のろ）い〟が降（ふ）り掛（か）かると継承（けいしょう）されてきたはず…………その人たちを守ってきたのが御陵院（ごりょういん）家です。これは私も知りませんでした。そして何の因果（いんが）か……私は去年…………その数名と関わりを持ちました。他にもいるのかもしれませんけど…………そしてまだ分からないこと……由紀恵（ゆきえ）さんの頭の中を覗（のぞ）いても見えないのは、なぜ御陵院（ごりょういん）家が楢見崎（ならみざき）家の〝血〟を守ってきたのか────そもそもの〝呪（のろ）い〟の根源（こんげん）は何か…………」

　由紀恵（ゆきえ）が、頭を少しだけ上げた。

　西沙（せいさ）の言葉を待つ。

「……御陵院（ごりょういん）神社に……何か秘密（ひみつ）があるはずです」

　そして、やっと、由紀恵（ゆきえ）が小さく言葉を漏（も）らした。

　視線（しせん）はまだ畳（たたみ）へ落ちたまま。

「…………どうすれば…………」

　西沙（せいさ）はすぐに返していた。

「私も御陵院（ごりょういん）の人間です……追い出されていなければ、昨日の姉（あね）のように継承（けいしょう）していたことでしょうね。そして、私もいつの間にか関わっていたわけです。しかし私はその〝枷（かせ）〟から外（はず）された。それなのになぜかここにいる。そこに意味がないと考えるほうが不自然です。しかも、沙智子（さちこ）さんのほうから私の所にやってきた…………夢に現れた巫女（みこ）の言葉に従（したが）ってね。その巫女（みこ）が誰なのか、昨日やっと分かりましたよ…………私だけじゃ分からなかった…………」

　由紀恵（ゆきえ）が腫（は）れた瞼（まぶた）を持ち上げるように顔を上げ、その目を西沙（せいさ）に向ける。

　震（ふる）える唇（くちびる）が動いた。

「……本当に…………呪（のろ）いを…………」

　幼（おさな）い頃（ころ）から続いていた、張（は）り詰（つ）めた緊張感（きんちょうかん）の中での人生。それが楢見崎（ならみざき）家の人間の人生だった。そして長女を産んだ直後に聞かされる〝仕来（しき）たり〟。その鎖（くさり）のようなものに縛（しば）り付けられ、どこにも逃げ道がなくなる。

　目の前に座る小さな霊能力者が、唯一（ゆいいつ）の希望。

「…………終わらせられるのですか…………」

「私から質問させて由紀恵（ゆきえ）さん…………私は強制（きょうせい）はしない。いつでも決めるのは本人…………沙智子（さちこ）さんに秘密（ひみつ）にしたまま〝呪（のろ）い〟を〝継承（けいしょう）〟するか…………総てを話して〝呪（のろ）い〟を終わらせるか…………私なら……沙智子（さちこ）さんの記憶（きおく）を消すことも出来る…………」

　そしてその西沙（せいさ）に対して、由紀恵（ゆきえ）はその力強い〝目〟で応えているかのようだった。

　間違いなく、覚悟（かくご）を持った〝目〟。

　それから数十分。

　沙智子（さちこ）が座敷（ざしき）に呼ばれる。

　そしてその数時間後、沙智子（さちこ）は御陵院（ごりょういん）神社に赴（おもむ）いていた。

　　　　　　☆

「我々御陵院（ごりょういん）家は……楢見崎（ならみざき）家の〝血〟を守って参りました…………」

　咲（さき）が沙智子（さちこ）に言葉を返し始めた。

「それは沙智子（さちこ）様でも預（あず）かり知らぬ〝血〟です。長女の後に……産まれた子供たちの存在をご存知ですか？」

　その咲（さき）の言葉に、沙智子（さちこ）は震（ふる）える唇（くちびる）を噛（か）み締（し）める。

　数時間前に母の由紀恵（ゆきえ）から聞かされた真実（しんじつ）。

　それを改（あらた）めて確認することがこれほど辛（つら）いとは自分でも思ってはいなかった。しかし沙智子（さちこ）は自（みずか）ら御陵院（ごりょういん）神社にやってきた。それは西沙（せいさ）の希望でもあったが、沙智子（さちこ）は自分が御簾世（みすよ）に選（えら）ばれた身であることを自覚（じかく）したからこそ、だからこそ自分で選択した。

　──…………これ以上、母を苦（くる）しめるわけにはいかない…………

　──……私が終わらせる…………

　──……………………絶対（ぜったい）に…………

　何かに遮（さえぎ）られているのか、その沙智子（さちこ）の気持ちを読めないまま、咲（さき）が言葉を繋（つな）ぐ。

「皆（みな）……養子（ようし）に出されています…………そうしなければもっと恐（おそ）ろしい〝呪（のろ）い〟が降（ふ）り掛（か）かると言われてきました…………だから我々は────」

　突然（とつぜん）の、音（おと）。

　その音（おと）に、咲（さき）の言葉は遮（さえぎ）られた。

　祭壇（さいだん）横の板戸（いたど）が開け放（はな）たれた音（おと）。

　綾芽（あやめ）も、涼沙（りょうさ）も、咲（さき）でさえ予想することすら出来てはいなかった。

　三人がゆっくりと首を回した視線（しせん）の先（さき）。

　そこには、いるはずのない、西沙（せいさ）の姿。

「見せてもらったよ。〝裏（うら）〟で」

　その西沙（せいさ）の言葉に、涼沙（りょうさ）が立ち上がって叫（さけ）んでいた。

「西沙（せいさ）！　いつの間に────！」

「気が付かない姉（ねえ）さんが甘（あま）いんでしょ？　私の〝幻惑（げんわく）〟にまた騙（だま）されて。沙智子（さちこ）さんと一緒に来てたけど、存在を消すなんて簡単（かんたん）なこと」

　西沙（せいさ）の強い〝目〟が涼沙（りょうさ）の怯（おび）える〝目〟を捉（とら）える。

　その目に対する〝畏（おそ）れ〟は、涼沙（りょうさ）だけではなく綾芽（あやめ）も、もちろん咲（さき）も知っていること。

　涼沙（りょうさ）も、怖（こわ）かった。咲（さき）とは違い、自分と綾芽（あやめ）は操（あやつ）られる立場。何度も経験し、西沙（せいさ）と目を合わせることを避（さ）けてきた。幼い頃から。改（あらた）めて西沙（せいさ）と目を合わせることの意味を感じる。

　──……〝物（もの）の怪（け）〟…………

　背中に冷たいものが走った。

　その涼沙（りょうさ）が目線を外（はず）したことを確認するかのように、口を開いたのは咲（さき）だった。

「……西沙（せいさ）…………」

　咲（さき）は小さく息を吐き、正面に顔を戻して続ける。

「いつからいたのかは問（と）いません。何を見ました？　準祭壇（じゅんさいだん）で…………」

「準祭壇（じゅんさいだん）？」

　西沙（せいさ）の口元に、小さく笑（え）みが浮かぶ。

　横目でそれを見ていたのは綾芽（あやめ）。

　──……辿（たど）り着いたのか…………

　西沙（せいさ）が〝真実（しんじつ）〟に行き着いたことを感じた。

　それは、咲（さき）でも知らないこと。もちろん綾芽（あやめ）も涼沙（りょうさ）も知らない。

　誰も辿（たど）り着けなかった。

　〝呪（のろ）い〟の〝真実（しんじつ）〟。

　御陵院（ごりょういん）家も理由を知らずに仕来（しき）たりに従（したが）ってきた。

　なぜ楢見崎（ならみざき）の血を守らなければならないのか。

　歴史の中に隠（かく）されてきたものが何か。

　そして、どうして〝呪（のろ）い〟が続いているのか。

「あれは〝準祭壇（じゅんさいだん）〟なんかじゃない」

　その西沙（せいさ）の声が一段（いちだん）と強くなった。

「あれこそ、御陵院（ごりょういん）神社の〝本祭壇（ほんさいだん）〟だ」

　綾芽（あやめ）の細い目が開く。

　涼沙（りょうさ）は動けないまま。

　咲（さき）は冷静（れいせい）を保（たも）とうとしてか、沙智子（さちこ）の〝赤い目〟を見続ける。

　その空気の中で西沙（せいさ）だけが言葉を繋（つな）いだ。

「密儀（みつぎ）のための祭壇（さいだん）？　その側面（そくめん）の裏の意味は……お母さんでも知らないはず…………ここを建て替えた時から準祭壇（じゅんさいだん）の〝松明（たいまつ）の火〟は絶（た）やしてはならないと言われてきた。それは御陵院（ごりょういん）神社の真（しん）の祭壇（さいだん）である準祭壇（じゅんさいだん）が楢見崎（ならみざき）家に掛けられた〝呪（のろ）い〟を押さえつけているから。材料を掻（か）き集めてやっと見えた…………準祭壇（じゅんさいだん）と言われながらも本祭壇（ほんさいだん）よりも大事（だいじ）に扱（あつか）われてきた場所の本当の姿…………御陵院（ごりょういん）神社を清国会（しんこくかい）に参加（さんか）させた伝説（でんせつ）の人…………長女の麻紀世（まきよ）と、それに対立して追い出された三女の御簾世（みすよ）。その御簾世（みすよ）が嫁（よめ）に入ったのが楢見崎（ならみざき）家。そのくらいはお母さんでも知ってるんでしょ？」

「総て、見えたと？」

　意外にも咲（さき）の返答は早い。

「見えたよ」

　西沙（せいさ）は臆（おく）さずに応えると、板間（いたま）に歩（ほ）を進め、沙智子（さちこ）の隣（となり）へ。

　板間（いたま）にそのまま胡座（あぐら）をかいて腰（こし）を降ろすが、その膝（ひざ）はゴスロリのスカートですぐに隠（かく）れた。いつもなら涼沙（りょうさ）がその態度（たいど）を咎（とが）めるところだが、もはや誰も何も言えないまま、次の西沙（せいさ）の言葉を待った。

　外は薄闇（うすやみ）を越え、もはや漆黒（しっこく）。

　厚（あつ）い雲に遮（さえぎ）られてか月灯りも無い。

　本殿の中を照らすのは祭壇（さいだん）の松明（たいまつ）の揺れる灯火（ともしび）だけ。

　時折（ときおり）、火の粉（こ）が風に舞う。小さな光の粒（つぶ）が塊（かたまり）となって照らし出したのは口を開く西沙（せいさ）の表情だけ。

「つまり両家は親戚（しんせき）同士。楢見崎（ならみざき）家には御陵院（ごりょういん）の〝血〟が入ってる。そして、麻紀世（まきよ）と御簾世（みすよ）の間（あいだ）に挟（はさ）まれてた次女が母親を殺して自害（じがい）したことは？　清国会（しんこくかい）に入りたい麻紀世（まきよ）とそれに反対した御簾世（みすよ）の間（あいだ）で相当（そうとう）なドロドロした鬩（せめ）ぎ合（あ）いがあったみたいだよ…………そしてそのきっかけとなった〝清国会（しんこくかい）〟を御簾世（みすよ）は恨（うら）んだ。自分を追い出してまで御陵院（ごりょういん）神社を継承（けいしょう）した麻紀世（まきよ）を恨（うら）んだ。やがて二人は……〝呪（のろ）い〟を掛け合った…………お互いの血筋（ちすじ）を絶（た）やすため…………」

「〝風鈴（ふうりん）の館（やかた）〟とは…………」

　咲（さき）自身、無意識の内に口を開いていた。

　咲（さき）も真実（しんじつ）を知りたかった。

　それに、まるで待っていたかのように西沙（せいさ）が返していく。

「そうだよね……とりあえず楢見崎（ならみざき）家と一緒に守るべき対象だったんでしょ？　誰も住まなくなった大きな屋敷（やしき）の管理をしてまで……仕来（しき）たりは文献（ぶんけん）みたいな形で残されてるわけじゃない。伝聞（でんぶん）だけ。そして理由までは伝えられていない。あそこの大量の風鈴（ふうりん）…………同じ物が楢見崎（ならみざき）家に何個も下がってた…………」

　沙智子（さちこ）が首を振って西沙（せいさ）の横顔を見るが、西沙（せいさ）は構わずに続けた。

「魔除（まよ）けのためって昔から言われてたみたいだけど、どうやらそれは嘘（うそ）じゃないね。風鈴（ふうりん）に付いてる丸いマーク…………あれはここの準祭壇（じゅんさいだん）の燭台（しょくだい）に付いてるマークと同じ。あまりにさりげなくて私もどこで見たものかすぐには思い出せなかったよ。おそらくは魔除（まよ）けの〝念（ねん）〟みたいなものを込めたものなんだろうね。そんな風鈴（ふうりん）が、あの屋敷（やしき）には無数（むすう）に下げられてる…………よほど……怖（こわ）かったのか…………あの屋敷（やしき）が〝風鈴（ふうりん）の館（やかた）〟になる顛末（てんまつ）を聞いてもらう前に、もう一つ大事（だいじ）なことがある」

　西沙（せいさ）は咲（さき）の顔が少しだけ上がるのを確認し、さらに繋（つな）ぐ。

「それまで誰も存在を見付けられなかったあの屋敷（やしき）が、現在は世間（せけん）の目に晒（さら）されてる。もちろん簡単に見付けられなくなってるのはここの準祭壇（じゅんさいだん）の力。でも誰かが変化を作り出した。そして屋敷（やしき）が最初に見付かったのがおよそ一年前。沙智子（さちこ）さんの〝目〟の色が変わった頃と同じ…………そして、それは御簾世（みすよ）と同じ赤と茶色のオッドアイ…………その御簾世（みすよ）が沙智子（さちこ）さんを経由（けいゆ）して私に助けを求めた…………恐（おそ）ろしい話だよ…………今まで見えなかったものが、ここの準祭壇（じゅんさいだん）の前に座っただけで総て見えた…………そして、見せてくれたのは…………麻紀世（まきよ）…………」

「過去（かこ）が……関与（かんよ）したとでも…………？」

　咲（さき）の言葉はあくまで確認作業のようなものだった。咲（さき）の能力的に、過去と繋（つな）がることの出来る西沙（せいさ）の感覚（かんかく）は理解出来る。西沙（せいさ）が過去の人間や〝時（とき）〟と接触（せっしょく）したからとて驚（おどろ）くには値（あたい）しない。

　しかし事（こと）の問題は、西沙（せいさ）が何を求めているか。それを咲（さき）は引き出したかった。

「もしも過去（かこ）を変えることが出来るとしたら…………」

　そんな西沙（せいさ）の言葉が続く。

「…………お母さんは……変える？」

「西沙（せいさ）……その考えは…………」

「あくまで一般論（いっぱんろん）だよ。もしも……もしも変えることが出来たら…………〝今（いま）〟はどうなっちゃうのかな…………」

　西沙（せいさ）の中に、自（みずか）らの人生が渦巻（うずま）いた。

　──……御陵院（ごりょういん）の歴史を変えたら…………私の人生は…………

　どうしたいのか、どうなって欲しいのか、それを口にすることは西沙（せいさ）自身怖（こわ）かった。

　ただ、今とは間違いなく違うものになる。

　そして、まるで呟（つぶや）くような西沙（せいさ）の言葉が続く。

「……それを実現（じつげん）出来る人がいる…………」

　　　　　　☆

　亥蘇世（いそよ）を感じる。

　最近になって、やけに亥蘇世（いそよ）の存在を感じることが増えた。

　麻紀世（まきよ）は布団（ふとん）に横になる度にそう感じていた。

　全身に広がる火傷（やけど）を起点（きてん）としてなのか、それから体調を崩（くず）し、横になることが増えた麻紀世（まきよ）とて、その感覚まではまだ衰（おとろ）えてはいない。しかしながら、麻紀世（まきよ）もすでに六十近く。養子（ようし）の憂紀世（うきよ）に当主の座（ざ）を譲（ゆず）って十年ほどが経（た）っていた。その憂紀世（うきよ）も婿養子（むこようし）を迎（むか）え入れて、今ではすでにその子供たちも長男が一人。長女と次女。神社そのものは継承（けいしょう）していくことが出来ている。

　しかし、もちろん真（しん）の御陵院（ごりょういん）の血筋（ちすじ）は御簾世（みすよ）に断（た）ち切られたまま。

　今もそれは楢見崎（ならみざき）家にある。

　──……おかしなものだな…………

　楢見崎（ならみざき）家の血筋（ちすじ）を断（た）ち切るということは、今や御陵院（ごりょういん）家の血を断（た）つということ。

　しかもそれは御簾世（みすよ）に阻（はば）まれたまま。

　麻紀世（まきよ）の作り出した〝呪（のろ）い〟という〝想（おも）い〟は完成されることのないままだった。

　年齢を重（かさ）ね、当主の座（ざ）を譲（ゆず）り、自（みずか）らの人生を振り返った時に、やはり浮かぶのは亥蘇世（いそよ）の面影（おもかげ）。

　──……やはり…………私は亥蘇世（いそよ）を利用したのか…………

　まだ陽は高い時。

　とはいえ、強いはずの陽差しは厚（あつ）い雲に遮（さえぎ）られている。

　しかも黒い雲。

　それでも雨の匂いはまだ感じられなかった。

　その為もあり、板戸（いたど）も障子（しょうじ）も開け放（はな）たれたまま。季節柄（きせつがら）ということもあって、涼（すず）しくなり始めた緩（ゆる）やかな風が広い畳（たたみ）の座敷（ざしき）を流れていく。

　この日は、まだ体調もいいほうだった。

　胸（むね）もそれほど苦（くる）しくはない。

　いつ終わるともしれない命（いのち）への恐怖（きょうふ）は、とうに過ぎた。

　今は、総てを受け入れる覚悟（かくご）が出来ている。

　しかし、何かが胸（むね）の奥（おく）に居座（いすわ）る。決してはっきりとは姿を見せない何かが、手の届きそうな所でこちらを覗（のぞ）き見ている感覚（かんかく）。

　その存在に、時折（ときおり）麻紀世（まきよ）は気持ちを乱（みだ）されていた。

　その度（たび）に、亥蘇世（いそよ）を感じる。

　あの頃のように、すぐ側（そば）に感じる。

　──……どうして……今になって…………

　そして、いつも感情が昂（たかぶ）った。

　　　　　〝　……終わらせましょう…………　〟

　そんな声が麻紀世（まきよ）の頭に浮かぶ。

　それは亥蘇世（いそよ）の声に間違いはない。

　そして、確かに、その声は聞こえていた。

　　　　　〝　……二人なら……終わらせられるはず…………　〟

　──……今更（いまさら）…………

　　　　　〝　……御陵院（ごりょういん）の血は……楢見崎（ならみざき）に…………　〟

　──…………どうしろと…………

　亥蘇世（いそよ）に触（ふ）れたかった。

　亥蘇世（いそよ）の吐息（といき）を感じたかった。

　──……どうして…………私は亥蘇世（いそよ）を死なせた…………

　　　　　〝　……私は…………恨（うら）んではおりませぬ…………　〟

「────嘘（うそ）だっ‼︎」

　その感情（かんじょう）の起伏（きふく）は、麻紀世（まきよ）の本来の力を鈍（にぶ）らせる。

　事実、鳥居（とりい）に向かって階段を登る人影の存在に気が付かなかった。

　しばらくこの辺りでは雨が降（ふ）っていないことが伺（うかが）えた。

　鳥居（とりい）への石の階段までの地面は、すでに乾（かわ）き切っている。大きくひび割れ、雑草（ざっそう）すらも死に絶（た）えることを受け入れた土の道。

　その為か、その先にある石の階段すらも水を欲（ほっ）しているように感じられた。

　横に広い乾（かわ）いた石のその階段に、御簾世（みすよ）は低い下駄（げた）の音を響（ひび）かせていく。一段毎（ごと）に、体が痺（しび）れるような、そんな不思議な感覚（かんかく）が気持ちの中心を通り抜ける。

　もう何十年も登（のぼ）っていなかった石段（いしだん）。目の前の鳥居（とりい）も以前と変わらずその佇（たたず）まいを見せるだけ。

　ただ、この場所で見続けてきた。これまでの御陵院（ごりょういん）の歴史の傍観者（ぼうかんしゃ）でしかない。

　この鳥居（とりい）を潜（くぐ）り、この神社を逃げ出した夜のことを、御簾世（みすよ）は今でも肌（はだ）に感じることが出来た。この鳥居（とりい）は覚（おぼ）えているだろうか、と、ふとそんなおかしなことを考える。

　同時に頭に浮かんだのは、母ではなく亥蘇世（いそよ）の面影（おもかげ）。

　──……母上（ははうえ）のことは……もう顔も忘れかけているというのに…………

　そして、今の自分があの時の母の年齢に近いことを感じた。

　どうするべきか、総ての気持ちが固（かた）まった状態で来たわけではない。それでも御簾世（みすよ）は麻紀世（まきよ）に会うべきだと感じていた。

　そして、鳥居（とりい）の真下（ました）。

　特別何かを感じるわけではない。

　麻紀世（まきよ）からの妨害（ぼうがい）も無い。

　ふと真上（まうえ）を見えげ、すぐに視線（しせん）を正面へと降（お）ろした。

　足元から続く石畳（いしだたみ）の参道（さんどう）。

　その先には本殿が控（ひか）える。

　新しく建て替えられた建物は、あの頃よりも大きい。

　本殿までの参道（さんどう）も長くなった。

　その参道（さんどう）の途中（とちゅう）に、人影（ひとかげ）。

　巫女（みこ）の姿。

　強い風が通っていく。乾（かわ）いた土煙（つちけむり）が周囲（しゅうい）に舞（ま）った。まるでどこかに隠（かく）れていたかのような空気の流れ。周囲（しゅうい）の木々の騒（ざわ）めきが辺（あた）りを包み込む。

　その為か、御簾世（みすよ）の気持ちも震（ふる）えた。

　──……なぜに…………こうなった…………

　後悔（こうかい）が無駄（むだ）なことの代名詞（だいめいし）であることは御簾世（みすよ）も知っている。振り返っても過去（かこ）は変わらない。同時に、その後悔（こうかい）が無ければ未来（みらい）が無いことも知っていた。

　だからこそ、御簾世（みすよ）はそこにいる。

　遥（はる）か先の正面に立つ巫女（みこ）は微動（びどう）だにしなかった。風に巫女（みこ）服を揺らすだけ。

　だいぶ距離（きょり）があるというのに、それでも御簾世（みすよ）にはその表情と感情が見える。

　怯（おび）え、恐（おそ）れと畏敬（いけい）が入り混じる。

　──……御陵院（ごりょういん）の血ではない…………

　御簾世（みすよ）がゆっくりと歩（ほ）を進めた。

　石畳（いしだたみ）の上で下駄（げた）が甲高（かんだか）い音を立て始め、それが風の音を切り裂（さ）いていく。

　──……操（あやつ）るまでもない…………

　御簾世（みすよ）がそう感じた時、巫女（みこ）が軽く声を上げた。

「そこにて、しばらく」

　御簾世（みすよ）はその静止（せいし）に従（したが）い、足を止め、前方の巫女（みこ）に赤い目を向けるだけ。

　その巫女（みこ）の言葉が続いた。

「楢見崎（ならみざき）家の御血筋（おちすじ）の方（かた）と御見受（おみう）け致（いた）します」

　すると御簾世（みすよ）は軽く視線（しせん）を落とし、やがて参道（さんどう）の石畳（いしだたみ）から巫女（みこ）へ顔を戻し、小さく応える。

「いかにも……そして…………御陵院（ごりょういん）家の血筋（ちすじ）の継承者（けいしょうしゃ）でもあります」

「御簾世（みすよ）様ですね」

　意外にも巫女（みこ）の返しは早い。

　しかもすぐに続いた。

「母から伝（つた）え聞いておりました…………」

　その言葉にも、御簾世（みすよ）は顔色を変えない。

　母というのが麻紀世（まきよ）のことであろうことはすぐに感じた。

　強い風が二人の間を渡っていく。足元に燻（くすぶ）る土埃（つちぼこり）が落ち着く気配（けはい）も無い。まるで霧（きり）が立ち込めるような参道（さんどう）から、巫女（みこ）の足元は隠（かく）れたまま。足先（あしさき）の動きから次の体の動きを読むことも出来なかった。

　簡単に入り込めるような隙（すき）はない。

　──……姉様（あねさま）……よくぞここまで育てた…………

　例え御陵院（ごりょういん）の血が入っていなくとも、その立ち振る舞いは決して弱くなかった。

　その巫女（みこ）────憂紀世（うきよ）が体を軽く回し、横を見せ、そして本殿に顔を向けて口を開く。

「こちらへ」

　そして歩き始めた。

　距離（きょり）を同じくしたまま、御簾世（みすよ）はその背中に続いた。とても隙（すき）があるようには思えない。

　言わずとも通じるものがあった。同じ世界の住人だからか、それとも因縁（いんねん）の間柄（あいだがら）ということか。お互いに〝恐（おそ）れ〟はある。しかしその中には、少なからず〝畏（おそ）れ〟もある。決して穏（おだ）やかであるはずがない。

　そんな相手に背中を向けることの意味は憂紀世（うきよ）でも分かること。しかしそれだけの相手を他に知らなかった。自分が養子（ようし）であることは義理（ぎり）とはいえ母の麻紀世（まきよ）から聞いていた。自分に御陵院（ごりょういん）の血は一滴（いってき）も無い。逆にその事実が自分の気持ちをこれまで押し上げてきた。そして現在の御陵院（ごりょういん）神社の当主まで登（のぼ）り詰（つ）めた。しかし跡取（あとと）りに御陵院（ごりょういん）の血を継承（けいしょう）させることは出来ない。その現実も理解したまま。

　自分が求（もと）めているものが何か。何か自分でも理解のし難（がた）い感情がある。

　どこか、この流れを待っていた自分がいたのかもしれない。

　そう思いながら、憂紀世（うきよ）が本殿の階段を登った。足袋（たび）を擦（す）らせながら、広い本殿の中央。一つだけ置かれた厚（あつ）い座布団（ざぶとん）に御簾世（みすよ）を促（うなが）す。

「少々、御待ち頂きます……」

　憂紀世（うきよ）はそれだけ言うと、祭壇（さいだん）横の廊下に姿を消した。

　広大な本殿に相応しい巨大な本祭壇（ほんさいだん）が、今、御簾世（みすよ）の目の前。中央、そして左右の燭台（しょくだい）には未（いま）だ微（かす）かに燻（くすぶ）る松明（たいまつ）。埋（うず）み火（び）の赤い光が微（かす）かに見えた。その日も行われたであろう朝の神事（しんじ）が昔と同じかどうかは、もちろん御簾世（みすよ）は知らない。

　それでも本祭壇（ほんさいだん）の横の小さな板戸（いたど）は建て替えられたとはいえ昔と同じ。

　裏には、間違いなく〝準祭壇（じゅんさいだん）〟がある。

　その光景が見えた。

　本祭壇（ほんさいだん）とは違い、閉鎖的（へいさてき）な空間に鎮座（ちんざ）する祭壇（さいだん）。

　昔から簡単に踏（ふ）み入っていい場所ではなかった。そこに惑（まど）うものの恐（おそ）ろしさは御陵院（ごりょういん）の人間であれば誰しもが知ること。

　特別な〝密儀（みつぎ）〟にのみ使われてきた場所。御陵院（ごりょういん）家の人間以外は決して入ることの許（ゆる）されない場所。

　そして、御簾世（みすよ）は気持ちを決めてここにいる。

　それは覚悟（かくご）と共にあった。

　少なからずの不安と共に、自（みずか）らの〝間違（まちが）った望（のぞ）み〟────〝間違（まちが）って望（のぞ）んだ未来（みらい）〟を終わらせに来た。

　亥蘇世（いそよ）に突（つ）き動かされるままに。

　　　　　〜　あずさみこの慟哭（どうこく）　第一章「聖者の漆黒（しっこく）」

　　　　　　　　　　　　　　　　第四部「回帰（かいき）」第２話へつづく　〜