■■ノカカワニハハハハイルルカラ
@takahasiryouya
T (35歳)
頬を伝う汗は、顎に着く前に乾ききってしまうような暑さ。俺の脳の性能が大幅に低下する季節になった。つい数日前に新調した3万円を超えるワイシャツには、汗腺の位置を知らせるようにしみがついている。これだから東京は嫌いなんだ。地元に戻って、湧き出る汗を乾かしてくれる風を浴び、少しでもこの季節を楽に過ごしたい。なんて叶わない願いを頭に巡らせ、脳だけでも現状からできるだけ遠ざかるように、気温に抵抗をする。
「T先輩、ずっと黙ってどうしたんですか?具合でも悪いんですか?」
当たり前だ。むしろこの暑さの中、そこまで大きな声を出せるコイツの具合の方がどうかしているんじゃないだろうか。職場から出発してここまで俺はほとんど声を発していないというのに、なぜここまで根気強く話しかけ続けられるのだろうか。
「もしかして怒ってます?」
俺の返答も待たずに次々と軽口を叩く後輩のMに、苛立ちを覚えつつも歩みを進める。ぎらつく太陽の光が向かいのオフィスビルの窓に反射して、眩暈がする。光によるものなのか、Mの声量によるものなのかは分からない。
「俺だって行きたくて行ってるわけじゃないからな。少しでもお前が気負わずに話せるようにって優しさに気付いてないのか。」
赤信号で歩みを止め、俺に合わせて一歩後ろを歩いていたMの目を見てついに口を開く。得意先との間で揉め事を起こしてしまったため、この暑さの中を徒歩で相手のオフィスへ向かっているのだ。相手の役員の娘に対して、失礼な態度をとってしまったのだという。俺は具体的な内容は知らされていないが、直属の上司という肩書を持つが故に、半ば道連れのような形で同行している。
「ありがとうございます。ついてきて頂けるだけで助かります。」
「あぁ、もう少しで相手のオフィスに到着するから。最後に身だしなみに不備が無いかチェックしておけ。」
部下に警告を出した後、これで俺の身だしなみが崩れていたら。と、営業時間外のため、電気のついていない散髪屋の窓ガラスに反射する俺自身を眺める。常に外見には気を使っているため、ヨレの無いネクタイにしわの無いシャツに光る銀のタイピンと肩にジャケット、という普段通りの俺を見て少し口角が上がる。
「先輩、僕大丈夫ですかね?」
Mも隣で俺と同じように散髪屋の窓ガラスを鏡に見立てて自分の服装を確認している。シワが目立ち多少の歪みのあるネクタイだが、ディンプルは潰しているし問題は無いだろう。
その旨を伝えようとした矢先、ふと視界の端に妙な物が映る。花?だろうか。レインコートのような形をしたそれは、基本的にぼやけている窓ガラスに唯一はっきりと反射して映っていた。
「なんだ?これ」
つい脳に浮かんだ疑問をそのまま口に出してしまった。それに気付いたMが隣から顔を覗かせ、俺の目線の先に目をやる。
「なんかありました?」
Mが俺の見ている物を必死に探すが、立ち位置のせいか全く見つけられずにいる。どうにも吸い込まれそうなその花に目を奪われ、30度を平気で超える気温との兼ね合いで、また少し眩暈を起こす。今度はさっきよりも大きく揺れ、平衡感覚を一瞬失ってしまった。倒れそうになった俺をMが支えてくれた。
「おっと、大丈夫ですか?これ飲んでください」
Mが自分の持っていた水筒を俺に差し出す。中身はただの水だが、どうにもそれが綺麗に目に映り、地元を思い出してしまう。
「あぁ、なんかきれれいだな。」
俺自身も気付いていないうちに声に出してしまっていたらしい。それを聞いたMが少し怪訝な表情を浮かべながらも俺に無理やり水を飲ませる。
その瞬間、"プチッ"といったような音が聞こえた気がした。Mが何かを落としたのかと思ったが、物を落としたのだとしたら小さすぎるし、俺のカバンの中には生憎そんな音が鳴るような物は入っていない。その後、数秒してから、小さな子供が歌っているような声が聞こえてきた。いわゆる"わらべ歌"のような、単調でゆったりとしたものだったが、今俺たちがいる場所には似合わない音だった。
「ん?いまなんかかいったたか?」
Mに聞き返すが、当人は口をパクパクさせるだけで俺に返事をしない。目は合っているというのに、声を出してくれないのだ。その後も何度かMに話しかけるが、やはり返事はせずに変わらず口を動かしている。このままではらちが明かない、と周りに助けを求めようと辺りを見回す。
そこでやっと俺は異変に気付いた――――。
周りが先ほどの花で埋め尽くされている。一輪だと美しく見える花でも、こうも大量に生えられると不気味に思える。先ほどから聞こえている歌も、もう少しで歌詞が聞き取れるほどのボリュームになってきた。ハナナ、クビ、チル、カカワ。等の、意味が分からない単語が混ざっている歌詞に聞こえる。
不思議と居心地の良さを感じながら呆けていると、カン、カン。と乾いた音と共に、水のせせらぎのような音が聞こえてきた。止まない歌と謎の音に包まれながら、俺は眠りについた。
「■■ノカカワニハハハハイルルカラ」
最後に聞こえた声は、俺には全く意味が分からなかった。
■■ノカカワニハハハハイルルカラ @takahasiryouya
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