三、

 それが人の時間にしてどれくらい前のことになるかは思い出せない。飢饉の時だった。雨もろくに降らず、作物が育たなかった。そういう時に一番人が死ぬのは農村だ。わずかに獲れた作物は、年貢として持っていかれ、ほんの僅かしか残らない。特に、こんな小さな農村は全員餓死してもおかしくなかった。


 村人は山神様に生贄を捧げるべきだと言い出した。私は村で一番大きな屋敷に住んでいた。私は身体が弱く、ただ息をしているだけだった。何もしていないのに、その屋敷に生まれたと言うだけで食にありつける私を、村人は疎んだ。生き残っている子供は私だけだった。両親は私を切り捨てる他なかった。そうして、私は生贄になった。


「神様なんて、いるわけないのに」

「ところが、私は神に会った」


 少年は両手を掲げた。まるでそこに山神が居るように。


「山神は笑って言った。生贄を寄越されても、今は土地を休めなければならぬ時期。お前は厄介払いされただけの無駄死にだ、とね」


 少年の声音に、女のそれが。その声には人ならざる者の響きが伴った。それはただの声真似なのか、それとも……。


「だが、おのこの贄が来るのは珍しい。一人にも飽いてきたところだ、どれ、我が神力でお前を眷属にしてやろう。お前を贄に出した村が滅ぶのを見届けるがいい。……山神はそう言った」


 村が滅ぶことはなかったが、それからも飢饉は続いた。村人は畏れ出した。山神様が生贄を気に入らなかったから、もしくは生贄にした私が村を祟っているのではないかと——そんなこと、思うはずもないのに。


「そうして作られた祠が、それだ」


 少年が導いた先、かつては道であったであろうその場所にひっそりと佇む祠があった。屋根しかない小さな祠の中に苔むした石が納められている。少年は石の表面に手を添えた。


「……ここに、私の名が刻んであった。今はもう読むこともできないが」


 寂しげな表情をして、風化したそれを指でなぞる。


「……山神様はどこにいるの?」

「山神はもう居ない。先代の神主が死んでからしばらくして、やしろに雷が落ちた。御堂の……リコが泣いていた場所に穴が空いていただろう。あそこにあった御神体が焼けて、彼女は消えた。

 神の力は人の信仰に比例する。畏敬の念でもね。だが人々は今や神を信じない。かろうじて保っていた存在も、御神体がなくなれば……」


 少年は寂しそうな笑みを浮かべた。少年の犠牲を無駄だと言い捨てた神。少年に永遠を強いた神。少年は今、何を思うのだろうか。


 少年は振り返り、麓を指差した。


「さあ、帰るといい。君の親が君を探している」


 耳を澄ますと、父の声が聞こえる。……そして、あの女の声も。


「……帰りたくないな」


 ぽつりと呟いた本音。帰っても状況は変わらない。


「神域に入ってしまう者の共通点は、精神が不安定なことだ。そして帰る方法は、呼びかけられること。今帰らないと、二度と戻れない」

「それでも、帰りたく、ない」

「利己的な選択だ」


 少年はクスリと微笑むと、少女に新たな選択肢を提示した。


「ならば、君が山神になるといい」

「山神様に……?」

「山で居なくなった娘は山神になるそうだ。既に山神が居る場合は怒りに触れ、生贄となる。幸い、今この山に山神様はいない」

「……異国の血が混じった私でもなれるかな」

「なれるさ、なれなくとも、私と同じようなものになる。少なくとも、帰らなくともよくなる」


 山神になれば、帰らなくてもいい。山神になれなくても、ここにいることはできる。そしてここに残ることを選べば、一人ではない。それは少女にとって魅力的な案に思えた。


「ここにいたい」

「……そうか。私も、一人には飽いてきたところだ。歓迎するよ」


 少年は少女に手を差し伸べ、少女はその手を取った。


 日が完全に落ちる。少女を呼ぶ声が次第に遠ざかる。神域は、閉ざされた。

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