二、

——しゃらん。


 鈴の音が、辺りに鳴り響く。その音は居る筈のない誰かの、誰とも知れない人影から聞こえて来る。人影は少女のほうへ歩み寄る。少女は驚きのあまり言葉を発する事すら出来ないでいるようだ。それだけではなく耳を塞いでいた手も、その役目を忘れて所在なく浮いている。ただその目だけが、迫り来る人影を凝視していた。


——しゃらん。


 一歩、また一歩と近付いてくる度に鈴の音は鳴り渡る。少女まであと数歩というところ、本来なら社の外側のところで人影は立ち止まった。顔は見えないが、人影の輪郭がはっきりとしだした。


 その人影は少女が予想していたよりも小柄だった。その身長は少女より少し大きいくらいで、髪も黒く老人と言うわけでもなかった。端的に言うと、その人影の正体は子供だった。服装は着物のような服装で、髪は肩口で切り揃えられており、少しだけ束ねられた髪が後ろで揺れている。そのため、性別は判別し辛かった。少年のような少女のような子供が口を開く。


「この山へは入ってはいけないと言われなかったのかい? ……まぁいい。ほら、もう黄昏鳥も鳴いている。子供は帰りなさい」


 外見からは判断がつかなかった性別も、声を聞くことで少年だと判断する事ができた。その声は鈴のようで、口振りは年端に合わず大人のようであった。少女が何も言えずに居ると、少年は踵を返して戻ろうとする。


——待って。


 そう言おうとしたものの、声は出ない。呻き声のようなものが喉を掠めるだけで、言葉にならない。少女は声を出そうとする。が、そうしている間にも少年は遠ざかっていく。少女はしゃがみこんだ体勢から立ち上がり、そして走り出す。前につんのめりながら。何度も待って、と声に出そうとしながら。少年に追いつきそうになった時、少女は何かに躓いた。その拍子にようやく声が出た。


「——待って!」


 少年が驚いた表情で振り返る。少女が来たるべき衝撃に身構え目を瞑る、その時、世界がぐにゃりと揺れた。え、と少女が小さく声を上げたが、すぐに少年に抱き留められて見えなくなった。少年の腕の中からキョロキョロと辺りを見渡したが、辺りは今までと何ら変わらなかった。


「……帰れと言ったのに。仕方のない娘だね」


 苦笑しながら少年は言う。穏やかな笑みを浮かべたまま少女から手を放し、少女に向き直る。少女は混乱しながらも口を開く。


「い、今、ぐにゃって……、それに、あなた誰?」


 微笑みを崩さぬまま、間髪入れずに少年が言う。


「人の名前を聞く前に自分の名を名乗ったらどうだい?」


 あ……、と小さく呟き、少し落ち着きを取り戻した少女が名前を名乗る。


「さっきはありがとうございました。私の名前はリコです」


 少年は首を傾げる。リコという名前は外国では男の子に付ける名前らしい。それに疑問を抱いたのだろうか、とリコは考えた。


 リコの母は日本人ではない。リコの髪も母と、同じく茶髪だ。そのこともいじめを加速させる原因になったのだろう。しかしリコは、この髪の色を気に入っていた。肌の色は日本人と変わらない。どちらかと言うと顔立ちは父に似ている。唯一母を感じられるもの、それが髪だった。


「リコ? どういう漢字を書くんだい?」

「理科の理に、子供の子です」

「理科? 理科とは何だい?」


 予想外の質問に、リコは戸惑う。理科は理科でしかない。同じ年頃の子供なら知っているはずだし、やっぱり、幽霊なんじゃ……。


 えーと、と呟きながら小さな手のひらを指でなぞりながら説明する。


「えっと……。理由の理、王偏に里って書きます」


 ふむ、と少し考え込んでから言葉を発する。


ことわりだね。理に従い一から了まで生きるように……。いい名だね」


 そう言いながら少年はリコの頭を撫で、満面の笑みを浮かべる。リコはさほど外見年齢の変わらない少年に子供扱いされたように感じてムッとしたようだが、少年の笑顔を見ているうちに怒る気も失せたのか俯きながらその手を受け入れた。


「……でも」


と、リコは口を開く。俯いたまま絞り出すように、小さく。


「私はこの名前、あんまり好きじゃありません」

「それはまた、どうして……。子の生を願ういい名じゃないか」

「この名前をつけたお母さんは、私を生んですぐ死んじゃったから……。最後まで、生きれなかったから……」


 人生の最後。寿命の終わり。私を産まなければ、もっと長く生きられたはずなのに。クラスメイトの誰かが言っていた、名前に子が入っていると、いつまでも子ども扱いされているようで嫌、という言葉に、何となく納得していた。厳密に言えば、漠然とではあるが、子という文字が子であることを強調して、親殺しを象徴するようだと感じていた。


「名があるだけいいものだ。私には最早呼ばれるべき名もないからね」

「名前が、ない?」

「生きていた頃にはあったが、遠い昔の話ことだ。忘却の彼方、と言うことさ」

「もしかして、や、山神様……?」


 山神様——。この地域では山神様と呼ばれる神様を信仰している。ただ、山神様は女の神様だと聞いていた。


「まさか。山神は女子おなごしかなれない。が、山の神に類するものではある」

「じゃあ、あなたは何……?」

「……少し、歩きながら話そうか。黄昏鳥のいない所に」

「黄昏鳥?」

時鳥ほととぎすとも言うね。夕方に鳴くから黄昏鳥と呼ばれている」


 そう言われて耳を澄ませると、蝉の声だと思っていた中に別種の声が混ざっていることに気付く。川のせせらぎのような声。だが重なれば音の洪水のように耳を侵食した。


 少年は踵を返し、山道を登っていく。リコは僅かに躊躇った。先ほどの空間が揺らぐような感覚。微かな違和感が、少女にこれ以上進むなと警告していた。


「で、その、ぐにゃって……」

「ああ、そうだ、説明しないと。君は神域しんいきに入ってしまったんだ」

「しんいき……?」


 少年はそんなことも知らないのか、とでも言いたげな表情だったが、すぐに笑みを取り戻した。


「神の領域、つまり人間の立ち入ってはならない場所」

「あなたも居るじゃない」

「私は人間じゃあないからね」


 事も無げに、少年は言い放った。


「人と話すのは久方ぶりだ。私が如何にして神に類するものになったかを教えてやろう。時間ならたっぷりあることだし、ね」

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