四、後日譚

 山道を登る男の体には滝のような汗が噴き出していた。その背を見つめる人間が二人。いや、いまや人ならざる者二人。


「毎年健気なことじゃないか。名前を呼んでくれる者が居ることは喜ばしいことだ。君はまだ応えてやらないのかい?」


 少年は少女へ向き直る。少女は徐に首を横に振った。


「今更戻ったって、困らせるだけ」


 少女は男に手を引かれて山を登る、半分だけ血の繋がった弟に視線を注いだ。


 少女がこの山で行方不明になって、もう七年になる。少女の姿は七年前と変わらぬままだ。じきに弟に背も越されることだろう。


 少女は目を閉じた。あの時の選択は間違っていたのだろうか。


 父は毎年、娘がいなくなった季節に一人でこの地を訪れた。傍らにあの女はいない。山頂の神社を訪れる度、父は悔いていた。


 急いた再婚のせいだった。あの時、男の妻の胎には既に息子が宿っていた。母を知らない娘に母親を持たせてやる——その考え自体が傲慢だったのだと、今では理解している。だから娘を返してください——。


 その祈りは社を通じて少女の元へ届いた。祈りが届くということは、山神になったと言うことなのだろうか。少女には未だ、自身の身に起きていることの整理がついていない。


 少女の背はあの日を境に成長を止めた。食事をとることを忘れても飢えることもない。その上、意識を集中させれば、この山、ひいてはこの村のどこにでも行けた。だが村の外へ出ることは叶わなかった。


 父は帰省する度に村の資料館を訪れた。神隠しや山神様について調べていたようだった。でもあまりに達筆すぎて少女にはその内容を読むことができない。一方、傍らの少年は違った。


 所蔵された古い文献によると、この村では度々神隠しが起き少女が消えた。一番新しい記録では、江戸後期の飢饉の時分に少年が一人消息を絶った旨が記されていた。


 なるほど、都合の悪い歴史とは斯様かように 改竄されるものか。少年は冷笑を浮かべた。


 ふと、その文献の中に今や失われた少年の名が記されていた。その筆跡には見覚えがあった。少年を生贄に差し出した父親のものだった。


 村で一番大きい屋敷。つまりは村の権力者。時の趨勢を握る者。後世に残された少年の名。だが呼ぶ声がなければ人の世には帰れぬ。今や最早意味を為さぬ文字列に過ぎない。


 だがリコは違う。未だこの世に呼び戻してくれる者が居ると言うのに、自らこの山に囚われようと言う。


「本当に帰らなくていいのかい?」


 少女が父の祈りを聞くことができるように、少年もまた社へ捧げられた思いを知ることができた。


 何も娘が生きて戻るとは最早思っていない。人が失踪した際、七年が経過すれば死亡が認定されると言う。今回父が社を訪れたのは死亡認定されることを区切りに、毎年参るのをやめるという報告だった。


 弟を連れてきたのは田舎暮らしを経験させるためで、元からさも三人家族だったのだという体で生きてきた。前を向いて生きる、その未来図に少女の居場所は最早ない。


「今更だよ。帰るなら、最初から山に入らなければよかったんだ。謝るなら、最初から人の意見を聞けばよかった。子供だなんて見くびらずに」


 それに、案外ここでの暮らしも悪くない。山ではあるものがあるように生きている。人の営みを見ながらその内に入らず、鳥や虫の名を覚える生活は少女の性に合っていた。


 少女は二人を見下ろした。半分だけ血の繋がった父と弟。どうか、血の轍があなた方を苦しめることがありませんように。せめて弟が健やかに過ごすことを祈っている。


 不意に、弟は振り返り、少女の姿を捉えた。



 少女は、いや、誰もが息を呑んだ。特に父親の動揺はひどかった。何故なら父親は息子に娘の話をしていない。


「まったく、子供は感覚が鋭い。だから呼ばれてしまう」


——君が呼ばれたようにね。そう少年は呟いた。


「……君までこっちに来ちゃダメだよ」


 リコは弟に向かって手を振った。そして父にも。もう二度と会うことはないだろう。


「さて、神域を閉じようか。もう誰も惑わないように。祈りたくなった時は神棚にでも拝めばいいのさ。何処に居ても居なくても、祈りは遍く神に通じるからね」


 そして、神域は再び閉ざされた。


——その神棚にいるのは誰?


—了—

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黄昏の神隠し 荒野羊仔 @meiyoubunko

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