黄昏の神隠し

荒野羊仔

一、

 八月も中旬を過ぎ、真夏と言うよりは晩夏に近付いてきた頃のある日。日は既に西に傾き、鬱蒼と茂る木々の隙間から地に落ちる木洩れ日さえも茜色に染まる夕暮れ。小さな山の中を赤いリュックを背負った小柄な少女が地面に汗を滴らせながら歩いている。山とは言っても小さいながら舗装された一本道があり、少女はそのなだらかな坂道を歩いている。その小道の終着点である山頂には田舎特有の小さな神社があり、その社には山神様が祠られていると言う。


 小道を暫く進むと、木々が途切れて開けた場所に出た。段数こそ少ないが急な石段があり、その上に朱い鳥居が聳えたっていた。この鳥居は麓からは見る事が出来るが、森の小道を抜ける間は木々に阻まれて見ることは出来ない。その為、そこまで辿り着いたことは少女に一種の達成感を抱かせた。石段には手すりがついていたが、熱を帯びていることは想像に難くなく、少女は手すりを掴まずに石段を上り続けた。


 石段を上り終えると少女は両手を合わせ頭を下げ、手水をすべく井戸へと向かった。石段の上には幾分か大きな広場があり、社はその正面にあった。境内は数年ほど前に管理する者が居なくなってから荒れ放題になっていた。


 幸いにも井戸はそのまま残っているらしく、少女はポンプ式の井戸で手水を済ませ、冷えた井戸水で喉を潤わせた。なだらかな坂とは言え、体躯の小さな少女には長い道のりだったことだろう。少女は暫く水を飲んでいたが、やがて背負っていたリュックから水筒を取り出し、中身を井戸水で満たした。水筒をリュックに仕舞い終えると、少女は賽銭を投げ入れ、手を合わせてお辞儀をした状態で小さくごめんなさい、と呟いた。そして荒れた境内の戸を開け、中に忍び込んだ。


 少女が足を踏み入れると埃の積もった床は音を立てて軋んだ。中は想像以上に荒れていたらしく、少女の表情はみるみる強張っていく。本来祠られているはずのものはそこになかった。それもそのはず、その場所は壁や床板ごと削りとられ、大きな穴があいていた。その穴からは生い茂った草が飛び出している。少女のリュックには水筒と財布以外にも洋服やタオル、虫除けスプレー、懐中電灯、お菓子等がリュックいっぱいに詰め込まれていた。少女が神社を訪れた目的は、家出だった。


 少女の住まいはこの小さな山村ではない。ここは少女の父方の祖父母が住んでいる田舎で、少女は夏休みに父親と共に帰省していた。少女には兄弟がなく、また母親も居なかった。男手一つで育てられたために苛められる事もあったが、それでも彼女は父親の事が好きだった。


 その父親が突然、再婚相手を連れて来たのだ。更には女の腹には既に少女の弟妹となる赤子がいると言う。父親が母親の事を忘れ、自分だけのものでなくなってしまう。そのことはまだ幼い少女が受け入れるには耐えがたいものだった。例え少女が実母の顔を知らなかったとしても。


 今回の帰省も実家に新しい嫁を紹介するための数年振りの帰省だった。つまり少女は大好きな父親だけでなく、新しく母親となる女とも一緒に泊まらなければならないのだ。


 少女はこの田舎の事が好きではない。年老いた祖父母の嗄れた声は聞き取り辛い。また、顔に深く刻み込まれた皺や窪みが小さな目を浮き上がらせ、暗がりで見ると鬼の目のようにギョロリとして見えるのだ。少女には祖父母が人間ではないかのように思えて仕方がなかった。


 それに、年の近い子供は少女の事を好奇の目で見る。時には余所者は帰れ、等と言う言葉を浴びせられる事も。少年達の発言は少女への淡い恋心に起因するものだが、無論、少女はそのことを知る由もない。


 家出先のあてもない以上、少女には祖父母の家に帰る選択肢しか残っていないはずだった。帰るしかない、という事は少女も十二分に理解はしていたが、理屈でどうにかなる問題でもない。しかも日は既に沈みかけ、門限もとっくに過ぎている。帰っても怒られるだけで、しかも帰ると父親を奪った女と同じ部屋で寝なければならない。


 少女は首を振ってしゃがみ込んだ。このままここに居れば、居ない事に気付いた父親が迎えに来てくれないだろうか。そんな考えが少女の頭を掠める。少女は再び首を振った。あの女を置いて自分の所に来てくれるわけがない。ただでさえ、新しい母親を認めないことで疎まれているというのに。父親にとって最早少女は邪魔者でしかないのだ。


 蝉の声が五月蠅い。しゃがみ込んで耳を塞いでも、耳の奥まで響いてくる。どうしよう、どうしよう、と繰り返し頭を過ぎる声とあいまって、少女は耳を塞いでも鳴りやまない音をかき消すかのように泣き出してしまった。


 荒れ果てた神社で一人きり。夜が近付いてくることが子供にどれだけの恐怖を与えるか、想像を絶するものがある。神社ならば神様の加護があるだろうと思って長い道のりを歩いてきた少女の、無惨に打ち砕かれた期待。少女は今、絶望の淵で泣いているのだ。


——しゃらん。


 その時、少女は蝉の鳴き声や自分の泣き声以外の物音を聞いた。少女はぴたりと泣くのをやめた。否、泣くことすら忘れた。誰も居ないことは恐ろしい。けれど、誰も居る筈のない場所でする物音は、予期せぬ分それよりも恐ろしい。少女は音のした方へ目を凝らす。——気のせいであってほしい。そう願わずにはいられなかった。日は沈みかけ、闇に包まれ出す、黄昏の時間。近くを歩く人の顔すら見えず、あれは誰? と問い掛ける、誰そ彼の時間。居る筈のない誰かが、そこにいた。

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