第3話 ミラーコリ教会



 その日はヴェネト王国の周辺域を視察することにしていた。

 ヴェネト王妃が竜を毛嫌いしていたので、フェルディナントは竜の部隊飛行は今のところ控えている。何か有事の時は容赦なく飛んでやろうとは思っているが、敢えて睨まれることはない。それに王妃は竜の飛行能力も強く警戒していた。だから視察は、フェルディナント単独で、人目のつかない夜中に行った。ヴェネト王国の周辺の地形、街、有事の際の拠点に出来そうな場所を確認するのである。

 うっすらと夜が明け始めた朝方、フェルディナントは駐屯地に戻った。これは本国にも送るものだから、一度眠ってから報告書にまとめようと考える。寝よう、と思ったその時、ネーリの顔が過った。彼がいるか分からないが、少し散歩がてら教会を見に行こうと思い立った。


 フェリックスがついて行きたそうな顔をして、宿舎の入り口に待っていたが、もう明るくなったのでお前は連れて行けないんだよ、という風に額を押さえてやると、残念そうだったが首を下げて聞き分けたようだった。


 丁度朝日が差し込んだ頃、ヴェネツィアの街の通りを抜け、すでに馬も道を覚えたような感じの、教会へと向かう。絵が見たいのもあったが、少し気掛かりになったのもあった。

 というのも、あの警邏隊殺しの仮面の男が、最近頻繁に街に出没しているのだ。

 この前は娼館が燃える事件があったのだが、その現場に現われて、娼館の護衛兵数人と斬り合い、これを殺している。店の人間に聴取をすると、仮面の男が火を放った、と言っていた。中にいた客や娼婦は幸い死なず、逃げ出したが、娼館は全焼したのである。

 他にも、貴族、警邏隊が夜の街で殺される連続殺人事件が起こっていた。これは目撃者がいないが、遺体に、以前フェルディナントが受けた特殊な武器が突き刺さっていたので、これも仮面の男の襲撃である可能性が高かった。多発している事件に夜警の強化を命じたが、同時にフェルディナントは被害者の素性もトロイに調べさせている。

 最初の事件で殺された警邏隊は、徒党を組み、私刑で娼婦を躊躇いなく殺そうとしていた連中なので、他の事件も被害者が気になったのである。まだ報告は上がってきていないが、とにかく殺す方も殺される方も、フェルディナントは気になるのだ。

 そういうことが最近立て続けに起こっているので、城下町が少し心配だった。

(……いや。城下町というか……)

 鍵も掛けずに夜じゅう明かりを灯す教会。その奥で、夢中で絵を描く青年。

 ……眠る姿。

 どんな危険にも冒されずに過ごせているといいが……。

 角を曲がると、教会が見えてきた。

 この辺りは、朝は本当に、夜の不穏を感じさせないほどに穏やかだ。

 ――と。



 バシャン……!



 濡れた石畳に朝の光が反射して、弾けた雫がキラキラと輝いた。

 膝上まで捲り上げたズボンから、覗く伸びやかな白い足。

 まるでどこぞの神殿の女神像から盗んで来たような、美しい足をしているのだ。

 惜しげもなく外気に晒し、裸足で水の石畳を踏みしめる。桶に溜まっていた水を捨てると、彼は気持ち良さそうに朝日の中で思い切り伸びをした。

 戻ろうとして、思わずそこで立ち尽くしていたフェルディナントに気付く。

「フレディ」

 ヘリオドールの瞳が輝く。

「おはようー!」

 彼は手を振って微笑ってくれた。


◇   ◇   ◇


 教会に入ろうとすると、わーっ! とはしゃぎながら子供たちが飛び出して来た。

 思わず道を譲り、子供たちの足に引っ掛かりそうだった、自分の腰の剣を押さえて後ろにやった。彼らはネーリと同じように桶をそれぞれに持って、表に水を撒いている。それから、出来た水たまりの中で飛び跳ねて遊んでいた。無邪気なものだ。

 ネーリを見ると、そんな子供たちの様子を楽しそうに笑いながら見ていたので、何か、フェルディナントは心がホッとした。

 中ではまだ子供たちが何人もいて、教会の床や、椅子を水拭きしている。

「今日は……大掃除の日かな?」

「そう。もうすぐ夏至祭だから。その前に綺麗にしてるの」

 ふと見ると、教会の二階の通路にネーリの絵が並べてあった。

 どうやら奥の部屋も掃除しているらしい。

「神父様。フレディが」

 ネーリが軽い足取りで祭壇の方に向かって歩いて行くと、祭壇の女神像を丁寧に磨いていた神父が振り返った。

「これは、フェルディナント殿。おはようございます」

「おはようございます」

「朝のお勤めでしょうか?」

「あ……いえ……私は夜勤で……、駐屯地に戻る前に少し街を歩こうかと思って。最近物騒な事件が多発していますから……」

「ああ、聞きました。本当に恐ろしい事件ですね」

「神父様、ぼく、ステンドグラス拭いてきますね」

「ネーリ、一人で大丈夫ですか?」

「平気です。ステンドグラス拭くの好きだから。フレディ、ごめんね。今手が離せなくて。今日は夕方から礼拝もあるから、お昼までに掃除しなきゃいけないんだ。午後は乾かさないと、礼拝で来る人達がびしょ濡れになっちゃうし」

「あ、いやいいんだ。気にしないでくれ」

 ありがとう。

 ネーリは桶と高い脚立を両腕で抱えると、二階の階段へと上がって行った。

 神父は布を桶に入れ、綺麗な水で手を洗うと、一旦掃除の手を止めた。


「事件のことは街の人にも聞きました。フェルディナント殿。貴方は神聖ローマ帝国から王都の守りの為に着任された方だったのですね。この教区の司教に聞いて驚きました。ネーリが『フレディ』などと友達のように呼んでいるから、てっきりどこかの貴族の若者かなと思っていたのですが。将軍職にある方に、説法などしてしまい、申し訳ありません」


 フェルディナントは首を振った。

「いや……ここに来た以上は、ヴェネト王宮の方々が私が従うべき相手です。皇帝陛下も王都の治安を第一に優先するようにと仰いましたので……何か不安がある場合は、遠慮なく私にも仰ってください。まだ着任して間もないですが、善処します」

「これは、ご丁寧に……。この辺りで殺しなど、昔は無かったのですが。ヴェネツィアの街も平和で長閑だったのですけれど、街とは変わっていくものなのでしょうか」

「時代によって、変化することは否定はしませんが、殺しは容認されるべきではありません。街の平和は、いついかなる場合も守られるべきです。その為に我々のような守護職がいる。街が変化するならば、守護職はそれに対応して行かなければならないと私は考えます」

 神父は祭壇の上の窓から差し込む光の中で、そんな風に言ったフェルディナントを少し眩しそうにみて、微笑んだ。


「……あなたのお噂は、私も聞いたことがあります。フェルディナント将軍。特にフランス戦線にいらっしゃった折りのことです。貴方の竜騎兵団は難攻不落と謳われたブザンソン城塞都市をたった一日で陥落させてしまったとか。ブザンソンがまさか一日で攻略されると思っていなかった周辺諸侯は次々と無血開城を行ったそうですが、城塞戦の激しさとは異なり、貴方が侵攻なさった街では、市民は一切危害を加えられなかったと。戦は悲しむべきものですが、人の世である限り争いも尽きぬのも真理です。

 守るために戦わねばならないこともありますから。しかし、一旦戦が始まってしまえば、人の慈悲でしか残虐は止められません。貴方は武人として、罪のない市民の命は守って下さった。そのことは、聖職として感謝しています」


「……。無駄な殺戮は、我が皇帝陛下の名を悪戯に貶めるだけです。それは私の望むものではありません」


「こうして平服を身に纏っておられると、本当にお若く見えるのに、しっかりとした信仰を持っていらっしゃる。将軍は、何歳におなりですか」

「次の冬に十九歳になります」

 神父はさすがに驚いた顔をした。

「戦の神童とは聞きましたが、驚きました。思っていたよりもずっとお若い」

 フェルディナントは苦笑する。

「将軍が若くて未熟でも何の得にも、兵の慰めにもなりませんよ」

「そうでしょうか……。仕えるべき方が若く才能ある上官だというのは、きっと彼らの誇りになりましょう」

 フェルディナントはそうだ、と思った。

 一度聞いてみたかったのだ。

「神父様。……答えにくい話かもしれませんが……」

「なんでしょうか?」

 フェルディナントは側に床を拭いている子供がいたので、少し、祭壇の奥に移動し、声を小さくした。

「……神父様はヴェネツィア聖教会に属していらっしゃいますね?」

 ヴェネト王国の国教である。

「ええ」

「ヴェネツィア聖教会では【シビュラの塔】をどのように認識していらっしゃいますか?」

 神父の表情がさすがに、少し曇った。


「……ヴェネツィア聖教会の聖典にも、【シビュラの塔】の記述は出て来ます。

 古の王が作った、天魔の塔。かつて地上が精霊の楽園だった頃に作られ、あれは精霊王の玉座だった、とされています。ヴェネトの民の信仰の一つです」


 フェルディナントが聞きたいのは、そういうことではなかった。

 しかし、神父の表情が、明らかにこれ以上のことを聞いてくれるな、と困っているようだったので、それ以上の追及をするのは止めた。

 彼は自分の正しい素性を知っている。

 神聖ローマ帝国の人間がシビュラの塔の仔細を探っているなどと、聖教会の本拠地に報告されては危険だった。

 しかし、各国が【シビュラの塔】の攻撃を受けて、ヴェネトに帰順を示す為に集結しているのは周知の事実である。他国の人間があれは何だろうと思わない方がおかしいので、この程度の質問までは許されるはずだ。

「……そうですか。噂には聞いていたのですが、実際見て巨大さに驚きました。ですが、いつもあの辺りは霧に包まれているのですね」

 これには神父も、ああ、と笑顔を見せた。

「そうなのですよ。ヴェネト本土が晴天の時でもあの塔の付近はいつもあの通り厚い霧に覆われております。地形が関係しているそうですが、何にせよ、不思議なことです」

 鐘が鳴った。

「すみません。忙しい所を。ネーリは二階ですか?」

「二階から上がった屋根裏にいるはずです」

 礼を言って、フェルディナントは一礼すると、二階の方に上がって行った。


◇   ◇   ◇


 螺旋状に階段を上がって行くと、二階の更に上に、続いている。扉を開いて上って行くと、確かに六角形の屋根裏に辿り着いた。脚立があったから上を見ると、屋根を支える柱に立って、ネーリが円形の屋根にはめ込まれたステンドグラスを磨いている。足場はしっかりしていそうだがかなり高い。どうやってあそこまで上がったんだと思うくらい見上げる。

「ネーリ」

「フレディ」

「随分高いな。大丈夫か?」

「平気だよー このステンドグラス磨くの、いつも僕の仕事なんだ」

 それは、さすがに老年の神父にあそこまで上らせるわけには行かないのは分かるが。見てて落ちないか、ハラハラする。

「見て。ピカピカしてる。ここは海を表わしてる部分なんだよ。天地創造のステンドグラスなの。この青。綺麗で大好きなんだー」

 彼は壁に寄り掛かって、ステンドグラスを見ている。

 フェルディナントは見上げていたが、よし、と心を決めて、羽織って来た上着を脱いでそこのテーブルに置き、帯剣した剣も置き、シャツの袖を肘まで捲ると、脚立に手を掛けた。脚立を上って来るフェルディナントに気付いて、ネーリが笑っている。

「大丈夫?」

 平気だこのくらい。俺は竜騎兵だぞ、と思い、脚立を制覇して梁に上ったが、ネーリはまだ三段くらい上の梁だ。どうやって上がるんだ。

「そこの側面に出っ張りが取り付けてあるんだ」

 円形の天井に向かって、確かに金属製の出っ張りが取り付けてある。

「ブーツ脱いだ方がいいかも」

 確かに脚立は登れても出っ張りにはブーツが逆に引っ掛かりそうだ。仕方なく、梁に腰掛けてブーツを脱いだ。下に、控え目に落したのだが、それでもガン! と重い音がした。

ネーリが目を丸くする。

「今そのブーツすごい重そうな音がした」


 竜騎兵のブーツには踵とつま先に鉄板が仕込んである。

 竜騎兵は竜から降りる時、騎乗したまま竜に着地させる方法と、竜を着地させず、出来るだけ地面に近づかせて、自分が飛び降りて、そのまま竜を空に放つ方法がある。

 戦場など、緊急性のある場合や、竜が下りるほどの場所がない所に降下する時、もしくは、竜の巨体を支えられない建物の上などに降下する時にはこの方法が取られる。その為ブーツに鉄板を仕込み、重くすることで、着地の正確性を高めているのだ。

 あとは竜騎兵同士の戦いでは、高度があるので手綱を馬のように手放すことが出来ない。盾も持てないので、敵の槍や剣を、ブーツの踵やつま先で受ける戦法が取られるから、ブーツは非常に頑丈に出来ている。そのことを全く知らないらしいネーリは驚いたようだ。

「神父様がフレディは神聖ローマ帝国の人だって言ってた。神聖ローマ帝国の軍人さんのブーツってみんなそんな重そうなの?」

「竜騎兵はな」

 裸足になったフェルディナントは、慎重に出っ張りを確かめてから、上って来る。

「りゅうきへい……」

 ネーリは上って来たフェルディナントに手を差し出す。

 その手を借りて、最後の梁に辿り着いた。

 慣れもあるだろうが、身体能力の高いフェルディナントでさえ上って来るのには苦労した。画家だというのにここまで命綱もなく上って来たネーリの運動神経はなかなかだ、と彼は思った。


「このステンドグラスだよ」


 ネーリは更に一番上の足場に上って、水でステンドグラスを拭き、その後に空拭きをして綺麗に磨いている。

 神の天地創造の様子が、六枚のステンドグラスで描かれている。

 確かに美しい。

「海の青、綺麗でしょ」

「うん。よく見ると色が違う」

「そうなんだよー。ちゃんと深い所は濃いの」

「こんなところに、こんな場所があったとは」

 面白いよね。

 掃除をしながら、彼は笑った。


「こんなとこ誰も見ないのに。……でも教会ってそういうことあるんだよ。それは、ここが神さまに捧げられた場所だから。神殿なんだよ。これを作った人は誰に見られなくてもいい、神さまが見て下さればいいって思って、見ていて下さると思ってきっとこんな綺麗なものを一生懸命作ったんだと思うんだ」


 フェルディナントはもう一度、ステンドグラスを見上げる。


「僕も絵を描くから、なんとなく分かるよ。創作をしてると、時々何の前触れもなく、独りぼっちだ、って思う瞬間があるんだ。それでも、その孤独を乗り越えて、一生懸命描かないと、作品は作り出せない。でも結局、好きだから乗り越えられる。一人でもいいやって、開き直るんだ。

 僕はそういう時、作る人は……みんな神さまに見守られてるんだと思うよ。

 孤独が、どうでも良くなる……。……一人でも幸せだって思えることが創作してると必ずあるから。孤独が嫌な時も、孤独でもいい時も、両方ある。結局、その両方があるからこそ、独りじゃないんだって僕は思うんだ」


【エルスタル】が消滅してから、フェルディナントは毎日、孤独に苛む。

 戦っても戦っても、もう取り戻せない。


 自分にもこの先独りじゃないと思える日が、いつか来るのだろうか?


「手伝う」

「えっ。いいよ。フレディ偉い軍人さんなんでしょ? 神父様が言ってた。手伝わせたら悪いよ」

「折角上がって来たから。いいんだ。俺だって自分の部屋の掃除くらい自分でしてる」

 フェルディナントはネーリを見上げた。

「何をすればいい?」

「……ええと……じゃあ、そこに予備の梯子があるから、壁の器具にとりつけて……布巾があるから、ここのステンドグラス拭ける? 僕外側拭くから」

「分かった」

 フェルディナントは言われた通りにして、布巾を手に、磨き始めた。ステンドグラスの枠の所から、細かく丁寧に磨いている。彼の性格を表わしているように、しっかりと綺麗にして行っている。これなら自分が注意することはなにもなさそうだ、とネーリは安心した。

「フレディって軍人さんだけど優しいんだね」

 フェルディナントがそっちをもう一度見ると、ネーリは首を振る。

「あ……軍人さんが冷たいって意味じゃなくて。優しい退役軍人のおじさんとかたくさん教会にも手伝いに来てくれるし。ええっと…………でも軍人さんは使命が第一でしょ? フレディ、制服着てない時もいつも街とか見回ってくれてるし……」

 それはお前に会いに来てるからだ、と言えず、掃除をしてるふりをして誤魔化した。

「……それは、俺はこの街に着任したばかりだし、街のこと、知らなきゃダメだと思って……、ほら、ヴェネツィアは入り組んでるだろ……何かあった時に俺が部隊を率いて出て来なきゃならないのに、俺が道に迷ってたら部下に対してとても情けない」

「んー。勿論それはあると思うけど。でもやっぱりフレディは優しいと思うよー。さっき教会の入り口で子供たちがはしゃいで出てきた時」

「ああ」

「フレディ道を開けるだけじゃなくて、こうやって自分の剣後ろにやってた。あれって子供が引っ掛かって転ばないようにそうしてあげたんでしょ?」

 フェルディナントは驚いた。確かにそうだが、無意識だったので、ネーリがそんな所を見ていると思わなかったのだ。

「咄嗟にああいう仕草が出るって、普段周囲の人のことどうでも良かったり、威張ってるだけの軍人さんなら出来ない仕草だと思うんだ」

「……君はいつもそんな人の細かい仕草を気にして見てるのか?」

「え?」

 窓を開き、外側のステンドグラスを磨いていたネーリ・バルネチアがこちらを見下ろす。

 朝の光に照らされて、黄柱石ヘリオドールが美しく輝いていた。

 ああ、と彼は微笑む。

「ぼく好きなんだー。その人の癖とか、些細な仕草とかを見るのが。その人しかしない仕草、とかもあるでしょ。それを見つけると楽しいから」

「画家ってみんなそうなのか?」

「どうだろう? 分かんないけど。外側拭くと更に綺麗に見えるでしょ。ほら、透き通ってる」

 ネーリが外側から青いステンドグラスに手の平で触れる。

 フェルディナントはガラス越しに、そっと同じところに手の平を置いた。

 まるで手が重なっているみたいだ。そんなことだけで、ドキドキして来る。

「うん……そうだな。……きれいだ」

「そういえば、さっき竜騎兵の話してた」

「あ、ああ。」

 手を戻す。

「フレディも竜騎兵……なんだよね?」

「うん」

「じゃあ竜に乗るの?」

「三十騎の竜騎兵が駐屯地に着任してる。普通竜は戦時にしか他国に連れて行けないんだが。今回は皇帝陛下から特別な勅命が降りたため、連れて来れた。でも……あまりヴェネトの人は竜が好きじゃないみたいだな。本当は小隊に日常的にヴェネツィアの空を飛んで、陸の犯罪の抑止力にもしたかったんだが……まあしょうがない」

「禁じられてるの?」

「王妃に、あまり飛ばないでくれと言われたからな。しかし元々竜は神聖ローマ帝国にしか存在しないものだから、他国の人が恐れるのは理解できるよ。巨大だし、姿もフワフワの野ウサギとは違うから」

 ネーリはそう言ったフェルディナントに、くすと笑う。


「そうなんだ。でも僕は竜好きだなぁ。ぼく竜見たことあるよ。触ったことある。小さい頃に」


「え?」

 でも、竜は神聖ローマ帝国にしかいない。竜を見たということは、神聖ローマ帝国に、ネーリが行ったことがあるということだ。

「ネーリは、神聖ローマ帝国に行ったことあるのか……?」

 彼はヴェネトを出たことが無いと言っていた。

「すごく小さい頃にね。おじいちゃんがよく旅行で他の国に連れて行ってくれたんだ。

 でもおじいちゃんが亡くなってからは、ヴェネトを離れたことは一度も無いよ。

 僕が見た竜、まだこのくらいの大きさだった。抱っこ出来たよ。可愛かったー。ずっと、寝てるの」

「幼獣の竜かな……珍しいよ。竜って一年で成獣近い身体に成長する。それにとても長寿だから、小さい姿でいるのはすごく短時間なんだ。それくらいだと生まれてまもなくじゃないかな……。

 竜の卵は、発見されると王家の森で特別に育てられるんだよ。だから幼獣は王家の森でほとんど育つ。例外はないと思うんだが……」

「確かに森の湖畔の館に泊まった時に訪ねて来た人が見せてくれた」

「王家の森には確かに、王家の人間やその友人や親戚を泊める別荘が幾つかあるが……そんな所に招かれるなんて、ネーリの祖父はどういうひとなんだ?」


「僕のおじいちゃん商人だったの。貿易に関わってたから、神聖ローマ帝国の貴族の人とも親交があったのかなあ。でも、僕が六歳くらいの時だったと思う。一度だけそこに行ったことがあって、竜を見たことあるよ」


「そうなのか。でも、王家の森に招かれるなんて相当な身分の貴族だぞ」

「小さい竜って可愛いよねえ。翼も小さいし爪もまだ全然鋭くなくて丸いんだよ」

 ネーリが神聖ローマ帝国に行ったことがあることには驚いたが、そんな風に話している姿にフェルディナントは笑顔を見せた。

「ごはんいっぱい食べるけど、食べた後お腹が重くなって歩けなくなってるのが可愛かった。だから僕が抱っこしてあげたんだ~。でもあの子も一年でそんな大きくなるんだ。長寿ってどのくらい?」

「人の寿命を越えるって言われてるけど、はっきりはよく分からないんだ。すごく開きがあって、個体差もあるみたいだな。長生きのは何百年も生きるのもいる」

「すごい。そうなんだ」

「一度軍役について、人に慣れたものは、王家の森で引退後も飼われてるんだよ。野生のは、……人を襲うかもしれないから処分しないと駄目なんだ。あまり成獣だと、その後人に慣れないのもいるし」

「そうなんだ。知らなかったよ。でもそんな長寿なら、神聖ローマ帝国ってものすごい数の竜がいるんじゃない?」

「いや。あいつら長寿だけど、卵を産むのはとても稀だから、そんなに個体数は増えないんだ。長寿だから減らないけど、数年に一度何個か卵を産むって言われてる。しかも卵の中で二年くらい過ごすから、上手く孵化しないのも多いんだ。親が卵を育てないことも多くて」

「そうなんだ。なんで数年に一度しか卵産まないんだろ?」


「竜は交尾が上手くないんだ。雄も雌も交尾の時は気性が荒くなるから、余程上手く行かないと喧嘩になって、雄が興奮しすぎて雌に重傷負わせることもあるし、雌が交尾の最中気に入らなくてそのまま雄に重傷を負わせることも多い。だから王家の森では交尾の時……」


 話して、ネーリが掃除の手を止め、そうなんだーと初めて聞く話に澄んだ瞳で聞き入ってくれてたが、はた、とフェルディナントは気付いた。

 何を俺はこんな綺麗な朝日の中で竜の交尾の話をしているんだ。しかもここは教会である。これだから俺は、女に「貴方は感動のない人だ」などとよく言われるんだ。

「いや……いいんだ。朝から話すことじゃなかった」

 思わず赤面して謝罪したフェルディナントにネーリは目を丸くしてから、明るく笑いだす。

「別に気にしてないよー。初めて聞くから面白かった。なんか大変そうだけど、でも卵生まれることもあるんだよね?」


「……竜騎兵の竜は、相性のいい雌と本国では側で普段から暮らすようにさせるんだ。それで、交尾のきっかけに関しては本人たちに任せる。品種改良の為に人為的に交尾させようとしたりする時に、よくそういう大変な騒ぎになったりするんだ。自然とそうなった時は、殺し合ったり傷つけあったりする確率も低いんだよ。竜には他の動物みたいに明確な発情期がないんだ」


「発情期が無いってことは、人間みたいに、ある時心が惹かれ合って交尾してるってこと?」


 惹かれ合って……、ネーリが言った時、運悪く丁度目が合ってしまった。

 フェルディナントは赤面する。首を反らした。自分で話し始めておいてなんだが、朝の聖なる教会で竜の交尾の話はこのくらいにしておきたい。

「そ、そうかもしれないな。何にせよ、あいつらの生態はまだ全てが明らかになってるわけじゃないんだ。不思議な能力を持つ個体もいるし……」

「不思議な能力?」

「色んなものがあるけれど、不思議な帰巣本能とかがよく言われる。戦場ではぐれたものが、遠い主の所まで戻ってきたり、傷ついた主を背に乗せたまま、本来辿り着けないほど遠くに短時間で現われたりする話は聞いたことがある」

「へぇ~」

 ネーリは竜に興味津々のようだ。子供みたいに目を輝かせて聞いてくれる。

「フレディも自分の竜を持ってるってことだよね?」

「ああ」

「名前、なんていうの?」

「フェリックスだ」

「フェリックスかあ。いいなぁ見てみたい。フェリックスもフレディと一緒にお仕事でヴェネト王国に来たってことだよね?」

「うん」

「それじゃその子も本国には好きな子がいるの?」


「……フェリックスはまだかなり若い竜なんだ。若い竜は気性も荒くて扱いにくいから、規律を重んじる竜騎兵団の騎竜には向いてないんだけど、フェリックスは俺が子供の頃から育てたから、特別懐いている。だから竜騎兵の騎竜にもなれた。……好きな相手を探すのは、……これからかもな」


「そうなんだ。なんか不思議な生き物だね。会いたい」

「普通竜なんか、人は怖がると思うぞ」

「そうかなあ。神聖ローマ帝国にしかいない貴重な動物だもん。見てみたいよ」

「城に初めて連れて行った時は、王妃が苦虫を噛み潰したような顔をしてたよ。まあでも確かに怖いと思う人もいるだろうな」

「幼獣可愛かったから見たいなぁ」

 ネーリが笑っている。

 掃除が終わったようだ。綺麗にステンドグラスが透き通ってる。

 ネーリがそんなに見たいというのなら、見せるくらい、してやりたいなとフェルディナントは思ってしまった。だがさすがに駐屯地に一般人を招き入れるわけにもいかない。かといって怪物が徘徊する! などと噂が立っているヴェネツィアの街に竜を連れて来たら大変な騒ぎになるだろう。守護職としてフェルディナントは無駄に民の不安を煽るようなことは決して出来なかった。

 しかしネーリはあの美しい絵の数々を見せてくれた。フェルディナントはこの街に来て初めて心が救われたのだ。自分に素晴らしい絵は描けないけれど、竜を見せるくらいのことは出来る。

 ふと、絵のことを思い出した。

「ネーリ。君の住まいはあの干潟にあるって言ってたな?」

 ネーリがきょとんとする。

「うん」

「駐屯地に一般人は入れられないし、ヴェネツィアの街は通報されると厄介だから竜を連れて来れないんだ。だが、周辺域の見回りなら単騎で俺もしているから、あの干潟でなら見せてやれると思うが……」

「ほんとに?」

 ネーリの表情が輝く。

「でも本当に……怖いかもしれないぞ」

 念のために聞いたが、ネーリは首を振った。

「怖くてもいい。珍しい動物だもの。見たら僕にも竜の絵が描けるかなあ」

 人によっては恐怖を覚えるほどの高場に座り、彼は楽しそうに足を揺らしている。

「干潟に戻ることがあったら教えてくれ。フェリックスを連れて行くよ」

「わぁ~ 約束だよ!」


◇   ◇   ◇


 屋根裏から降りて来ると、二階の通路に並んでいるネーリの絵に、フェルディナントが足を止める。

「欲しいものがあったらまた持って帰る?」

「え?」

「フレディならいいよ。好きなの持って帰って」

 今日のお礼だよ。

 思わずネーリの手を取っていた。


「ネーリ」


「ん?」

 屈託なく笑って一階へ降りていこうとした彼は振り返る。

「どうして君の絵を売らないんだ?」

「え?」

 フェルディナントはその時は、真剣な表情でネーリを見下ろして来た。

「君の絵は素晴らしいよ。俺が……、あまり芸術の分からない私でも、君の絵を見てとても感動した。確かに、君が好きで描いてるのだから、売ることが全てじゃないかもしれないが……、その、私も王宮に関わってはいるから、宮廷画家は見たことがある。彼らがどういう暮らしをしているのか。

 君は王宮に招かれて過ごしてもいい人だ。

 君の絵も。王宮に飾られてもいい絵だ。

 どうして売らないんだ? あんな素晴らしい絵……」

 こんな鍵もかからない聖堂の奥の部屋で、朽ちた床に毛布一枚で寝転がって、眠っていい人じゃない。

「描いた君が手放したくなくて所有してるならいい。でも何故こんな簡単に人にあげようとしてしまうんだ? だったら、ちゃんと売って……金にした方がいい。そうしたらそのお金でまた絵が描ける。もっといい場所で、自由に」


「フレディ」


 ネーリは優しい声で呼んだ。

 本当に彼が自分を心配して、善意でそう言ってくれてることは分かったからだ。

「僕にとって、ここはいい所だよ。いつ来ても扉が開いていて、僕を温かく神父様は迎えてくれるし、朝まで寝るのを忘れて描いても、怒られない。信者や子供たちが特別な日に贈ってあげると、とても喜んでくれる。ありがとうネーリ、特別な贈り物だよって。僕は何も持ってないけど、絵を描けばここでは喜んでもらえる。僕にとっては、すごい幸せなことなんだ」

「……君は今の暮らしが嬉しいのか?」

 もっといい所に行けるのに。


「幸せに思ってる」


 嘘だ、とフェルディナントは思った。

 彼ほどの人ならもっと幸せになれるのに。



◇   ◇   ◇



 単眼鏡で街を港見ていた彼は、近づいて来た港にようやく視線を向け、その一角にやたら目立つ青い軍服姿を見つけると単眼鏡を下ろした。


「…………あかん。なんぞ頭痛がしてきたわ……」


「船酔いですか?」

 甲板の縁に片足を掛けていた、真紅の軍服を着た将校は、がく、と芝居がかって片方の肩を落とす。

「俺は生まれた瞬間から一回も船酔いしたことあらへんわ!」

 巨大な軍艦だが、港には滑らかに入って来て、手早く着岸した。

「駐屯地に荷物を運べ。朝までに全て完了させろ」

「ハッ!」

 彼が言うと、三人の副官が素早く方々に散って行った。

「あの派っ手なフランス艦隊、お前が率いてきたとか言うオチちゃうやろな? ラファエル」

 港で待っていたラファエル・イーシャは、ニコッと微笑むと、フランス艦隊総指揮官を示す、金の錫杖を手に持ち、軽く振ってみせた。


「嘘やろ~~~~~ッ⁉ いつからフランス王、お前なんぞに総指揮官任せるような頭パーン! なったんや。なーんでこんな緊張感ある場所でこの世で最も緊張感無いお前と会わなあかんねん! お出迎えとか余計なことせんでええ! 引っ込んどけ‼」


「あ~~~なによいきなりその態度? 久しぶりに会った親友に向かってさ~~~~~」

「お前なんぞと親友なんかなるか。なったら俺はご先祖様に申し訳がたたんわ」

「お前がスペイン艦隊率いてきたって聞いてわざわざこうやって会いに来てやったんだよ? 俺に凭れて眠る可愛いスペイン人のセニョリータ叩き起こして来たってのに感謝が無いなあ」

「お前みたいな貧弱なフランス野郎がなに俺の国の美女に手ェ出しとんねん腹立つわ。金払えや」

「しっかしお前が来るとはねえ。もーちょい下の階級の奴が来ると思ってたわ。お前は正真正銘の王族様だし」

「厭味か。アラゴン家俺の上に男八人女十三人の兄姉がいて俺はその末っ子や。三百年待っても俺に王位継ぐ機会なんぞ回ってけぇへんわ。俺はしがない軍人でええねん」

「ふーん?」

「んじゃさっさと失せろや。お前とこうやって話してると、俺思いっきりお前と友達みたいに思われるやろ。お前と友達や思われたら人格疑われるし見合い話も一撃で飛んでくわ。迷惑だから一生話しかけてくんな」

「あ~~~~そんなつれない態度取っていいと思ってんの?」

「思ってるけど、アカンかったか?」

「アカンこと無いけど、損するよォ~~~イアン君。ここでは俺と仲良くしといた方がいいよ? なんせ俺はすでに件の王妃様と対面してものすんごい爽やかな青年ね♡ ってお墨付きももらっちゃったんだから」

 イアン・エルスバトは片足を掛けたまま、両腕を組んだ。鼻を鳴らす。

「ふーん。この国の王妃。お前の外面に騙される程度の女なんか。これは予想より遥かに事態は最悪やな」

 彼は舌打ちをすると、身軽に甲板から港へと飛び降りて来る。両腕を広げて抱き留めようとする仕草を見せたラファエルを無視し、彼は背を向け歩き出す。

「無視すんなよー」

 唇を尖らせてラファエルは抗議したが、イアンは立ち止まる。


「……お前、本当に暢気なやつやな」


 背を向けたまま、低い声で彼は言った。

「ここがどういうとこか分かってへんのか?」

 怒りが滲み出ていた。

「それとも分かってて、事態が理解出来ひんアホなんか?」

 来たくてこんな地に来る奴なんかいない。


「お前がどんな経緯でフランス艦隊の指揮官に収まったかは知らん。興味もない! けどお前を送り出した人間がどんな気持ちだったかは分かるわ。いつもふざけたお前でも、愛してくれる人間が一人でもおるんならな。

 俺は自分の意志でここに来た。

 来たかったわけやない。けど、他の誰かがここに送り込まれるくらいなら、自分が来ようと思った。俺をここに送り出す時、母親が泣いとったわ。小さい頃から優秀な海軍軍人になれ言うて、五歳の子供を海に投げ込んどったおっそろしい母親が。そんな恐ろしい女もまとめて何人も愛妾にしとる豪気な父親も、俺を抱きしめて行って来い言うて震えとった。どんな戦場に送り出す時も「早よ行け」って人のケツ蹴り上げて送り出しとった奴が、んなことすんの初めてやぞ。ここはそういう場所なんや!」


 イアンは怒りを露わにして振り返り、ラファエルの胸倉を掴む。


「お前は考えたことあるんか! 今この瞬間に自分の国! 愛する人間が訳分からん理由で、一瞬で、殺されよるかもしれん! その逆もあるやろな! そういう人間を残して自分だけがこの世界から無くなる……その可能性も高いこと、お前全然分かってへんやろ‼」


 怒鳴ってラファエルを睨みつけたイアンは、一瞬息を飲んだ。

 ラファエルが静かに微笑んでいる。

「――何で笑ってる……」

「いや。まったく、お前の言う通りだなーと思ってさ。ここは確かにそういう所だよ。でも俺の一番愛してる人間はヴェネトにいるから、俺がここにいるうちにそいつだけ吹っ飛ばされて死ぬってことはねーし。俺がここで死んでも好きなやつと一緒なら、まあそれでもいいかなーって。」

 イアンは手を放した。

「……なに言ってんねんおまえ……」

 気安く応酬をしていた時の表情と、明らかに変わった。

「まあ、そうあまり思いつめるなよ。お前はあれだな。見かけよりもずっと不真面目になれない奴だよな。根は真面目っつーか」

 ラファエルは掴まれて乱れた襟元をゆっくりと整えた。

「俺と組んだ方が身のためだ。イアン。長いよしみってやつで、忠告してあげるよ。俺と組むならお前にも恩恵を与えてやるが、俺に牙を剥くなら容赦なく踏み潰すから、覚悟しとけ」

 ラファエルはニコッと笑うと、軽くイアンの肩を叩いて歩き出した。

「あいつ何言うてんのやろ。昔から言動の妙な奴やったけどしばらく見ィひん間に以前にも増しておかしくなりよったんちゃうか」

 溜息をつき、振り返る。

 小高い場所に立つ、ヴェネト王宮を彼は厳しい表情でにらみつけた。

「……そら、こんなとこにおったらおかしくもなるわな」



◇   ◇   ◇



 報告書をまとめ終わると、すでに日が変わっていた。とはいえ、午後に少し寝ていたのでまだ眠気はない。夜風に少し当たりたくなって騎士館の外に出た。守備隊の団長という立場になるフェルディナントには来客がある可能性があるので、団長館として独立した館が与えられているが、他の竜騎兵達は駐屯地に並び立つ騎士館で共同生活をしている。駐屯地として与えられた区画はまだ余裕があったので、今はもう少し騎士館を増設もしていた。

 軍馬用の厩舎に竜が全く入らないので、近くにある高台に竜用の待機場所を得たいと思っているのだが、今のところは黙っている。まずは与えられた場所を最大限に活用してからだ。

 外に出ると、団長館の側の木の陰で休んでいたフェリックスが首を上げた。

 側に歩いて行って、額に触れてやる。竜の外皮は鋼の剣さえ弾くほど硬質なので、実際のところ、雨に濡れた所で大した影響はない。しかしここは屋根のあるところに待機場所がないので、雨が降ると竜たちが濡れっぱなしになっているのだ。別に問題はないのだが、じっと雨に濡れて大人しく蹲っている騎竜達を見ると、妙に憐れみを感じた。


 神聖ローマ帝国では竜は高い知能を持った、高貴な動物だとされるから、非常に大切にされている。騎竜を世話するための人間が必ず付くほどだが、今回は大所帯になってはいけないので、竜騎兵三十騎、人も竜も三十騎。ぴったりである。だから世話は各々がしてやっている。

 ここにいる竜は、竜騎士の騎竜なので規律を破って空を飛ぶようなものはいなかったが、本来は竜は飛びたがるものなので、ここでは自由に飛ぶことも出来ず、随分我慢させていると思う。


(ヴェネト王国の外周の外なら飛行許可が出るかもしれん。そうか……フランスとスペインは艦隊で来ているから、海軍演習を行うはずだ。それに合わせてうちも飛行演習を行えば角はあまり立たないかもしれないな)


 フェリックスが暗闇の中、金色の瞳でじっと自分を見つめている。見つめ返し、数秒後、フェルディナントは何か、胸にあるモヤモヤとしたものを払拭しようと思い立った。

「よし。フェリックス、来い」

 首を伸ばした。

 フェルディナントは帯剣だけし、革の手袋だけ嵌めると手綱を取った。


◇   ◇   ◇


 馬の場合は市街をぐるりと迂回して回り込まなければならないが、空からなら駐屯地からはすぐに辿り着く。

「しばらく空を飛んでいていいぞ。ただしあまり見られないようにな」

 ポン、とフェリックスの首を軽く叩いてから、手綱に吊られて、近づいた地面に身軽に飛び降りた。フェリックスはそのまま急上昇して夜闇に消えていく。それを見送ってから、フェルディナントは今日も明かりを掲げたまま扉が開いている教会へと入って行った。

 朝には二階の通路に並べられた絵はいつも通り、奥の部屋に運び入れられていた。部屋は綺麗に掃除をされていて、道具なども綺麗になって揃えられている。

 だが、また明日から書き始めるのだろう。

 紙がキャンバスに置かれている。見てみると、教会で遊んでいる子供たちの絵だった。

 ヴェネツィアの街並み。

 礼拝を行う聖職。祈る大人たち。

 今日磨いていた、天地創造のステンドグラス。

 フェルディナントの表情が自然と綻ぶ。


 ……彼は本当に、すごい画家だ。


 今日という一日を過ごした喜びが、こんなにも伝わって来る。

 カタン、と音がした。

 フェルディナントは振り返る。

 丁度、絵を描く道具を脇に軽く抱えて、外から戻ってきた感じのネーリだった。

 彼は最初、誰もいないと思っていたようで、中にフェルディナントがいることに気付くと立ち止まった。

「フレディ?」

「ごめん。いないと思って、勝手に見せてもらってた」

 ああ、とネーリは笑う。彼の笑顔にホッとした。

「いいんだよー。好きな時に見て。その方が絵もきっと嬉しいよ」

 彼は入って来ると、道具を部屋の隅に下ろした。色に汚れた指を、奥の水場に洗いに行く。

「絵を……描きに行ってたのか?」

「うん。王宮の側まで行って来たんだよー」

「その……、少し見てもいいか?」

「ただのスケッチだけどね。それでいいなら」

 許可を得たので、フェルディナントはたった今ネーリが持って帰って来たスケッチを見せてもらった。

 ヴェネツィアの街並み。美しい水路。

 水面を見つめる令嬢。

 パブで歌う人々。

 王宮へ続く、なだらかな坂道。

 ヴェネト王宮も描かれている。

 月明かりの下で、浮かび上がっている。

 色鮮やかないつもの絵とは違う。木炭で描かれた黒と白の世界。

 それでも、鮮やかだ。

 やっぱり光を描いているからだ、とフェルディナントは思った。

 色の鮮やかなどに頼らなくても、ネーリの絵の素晴らしさは変わらなかった。黒と白の世界でもこんなに生き生きと光に満ちている。

(すごい……)

 子供も、大人も。

 水も風も、

 石の壁、繊細な布、木造の屋根も。

 朝も、夜も、

 星も、星のない空も、

 彼はどんなものでも描けるのだ。

「これ……これだけの量、どのくらいで描くんだ……?」

「んー。礼拝が終わってからぷらぷら外に出て行ったから、五時間くらいかなあ」

 たった五時間でこれだけの絵を描いたのか。

 びっくりする。


「……ごめん」


 手に着いたなかなか落ちない色を、濡らした布で拭いていたネーリがこちらを見る。

「え……?」

「昼間、一方的になんで絵を売らないんだとか、しつこく聞いてしまって」

 何を謝られたのかと思ったネーリが軽く笑う。

「なんだそんなこと。気にしてないよ。僕のこと、心配して言ってくれたの分かるし。それに本当によく言われるんだ。折角描いたんだから売りなさい、って」

「いや、確かにそうなんだけど……俺は、お前の絵が本当に好きだ。すごいと思ってるんだ。でも、売れば金になるなんて、分かり切ったことだよな。分かっていてお前が売らずに手元に残しているなら、きっと何か意味があってそうしてるんだろうと、帰ってから思ったんだ。俺は事情も何も知らないくせに、……五月蝿かったなと思って」

「そんなことないよフレディ」

 ネーリが歩いて来る。

「気にしないで。僕も全然気にしてないから」

「いや。俺も元々はスペイン陸軍の士官学校で学んだから。その頃、よく何で違う国で学んでるんだとか言われて、随分鬱陶しかった。人には色々な事情があって、当然なのにな。

『何で普通はこうするのに』なんて、誰にも言う資格はない。自分のことでも分かってたつもりなんだが、昼間は俺も、お前に対して同じ『嫌なこと』をしてた」

「そんなことないよー」

「……俺は金も払わず、いつも素晴らしい絵を見せてもらっていたのに、悪かった」

「謝らないで。本当に気にしてないから。これからも僕の絵、好きな時に見に来てねフレディ。そうしたら僕はすごく嬉しいよ」

 謝りに来たのに、逆に何故か励まされてしまった気がして、フェルディナントは分かった、と頷く。


◇   ◇   ◇


「フレディ、スペインにいたことあるんだ」


 二人で並んで座り、今日一日で描いたスケッチを見ていると、ネーリが聞いて来た。

「うん。父親が母親と不仲でな。幼い頃から二人が別居していたから。俺も早くに家を出て、スペインの陸軍士官学校に入った。母親の母国なんだ」

「そうなんだ。僕も小さい頃スペインも行ったことあるよ。綺麗なとこだよね」

 ネーリが笑いかけてくるので、フェルディナントも頷いて、小さく笑みを返す。

「それも、例の祖父に連れて行ってもらったのか?」

「うん。おじいちゃん貿易商だったから、色んな国に連れて行ってもらったよー」

「お前がこんなにすごい絵を描けるのは、小さい頃から色んな国の、色んな美しい景色を見て来たからなのかな……」

「そうだったらいいな。おじいちゃんもよく僕の絵誉めてくれたんだ。上手だ上手だって小さい頃の、こーんな風に全然描けてなかった時の絵も、すごく誉めてくれた。おじいちゃんが喜んでくれるから、小さい頃からいっぱいいっぱい絵を描いたよ」

「その人は……もう亡くなったのか?」

「うん」

「そうか……ごめん」

「ううん。随分前のことだし、気にしてない。それにおじいちゃんとは、楽しい思い出の方がたくさんだから」

 ネーリは立ち上がり、描き途中の風景画を手に持った。

「本当は、売りたい気持ちもあるんだ」

 え? とフェルディナントは顔を上げて、彼の背を見た。

「絵が売れたら、そのお金でこの教会の壊れてるところとか、直せるだろうし。干潟の家も古いから、本当は建て直してあげたいけど……」

 そうなのか? とフェルディナントは立ち上がる。

「何度か売ろうとしたことあるんだけど。……売れなかったんだ」

 売れなかった、という言葉にフェルディナントは眉を顰めた。

 こんな素晴らしい絵が売れないなんて絶対に嘘だ。

「それは……どういう相手に売ろうとしたんだ? 望む値段が、つかなかった、ってことか……?」

「そういうわけじゃないんだけど……。いいんだ、この話はやめよう。ちょっと色々複雑で、説明難しいんだ」

 ネーリは、ただの街の、美しい絵を描く青年だと思って来たが、何かそうではないのだろうか?

 初めてフェルディナントはそう思った。

 変だと思うことが、そう言えば会ってからも、幾つかある。

 本当は全部聞きたい。もし何か彼が困っているなら力になりたいし、助けてやりたい。

 ……だが、強くは聞き出せなかった。

 大らかなネーリがこんな風に自分から話すのをやめるのだから、きっと何か、簡単なことではないのだ。そう言えば、彼はまだ十六歳だと神父が言っていた。祖父の話は何度か聞いたけど、不思議なくらいその他の家族の話を彼の口から聞いたことが無い。

 そのことと何か繋がっているのだろうか?

 ネーリにとっての、祖父以外の家族は、今、どうなっているのだろう。

 神父の話では、絵を描きながらヴェネツィアの色んな所を移動して生活していると言っていた。特定の家を持ってる感じが、確かにしない。あの干潟の家だけだ。しかしあそこも教会の倉庫を間借りしているだけのような感じだと言っていたから、単にアトリエの一つなのだろうと思う。

 フェルディナントは尚更、口を噤んだ。

 彼も、あまり家族のことは他人に話したくない。過去のこともそうだったが、今はこの世にいなくて、それが何故かも、説明はしたくない。


 ……苦しいのだ。


 もしかしたら、ネーリも何か、家族に特別な事情があるのだろうか?

 分からないけど。

 フェルディナントは美しい海の風景を見た。

 何か、彼が大きな秘密を抱え込んでいるような雰囲気を確かに感じる。

 ――それが例えどんなものであるにせよ、

 痛みにせよ、苦しみにせよ、

 これが、ネーリ・バルネチアの絵だ。

 そういうものを抱えながらも、こんなに美しい絵を描ける彼を、心の底から尊敬した。


「……ネーリ」


 彼が振り返る。

 彼のことを詮索することはやめた。だが、別のことを願うことはいいだろうと思ったのだ。

「その……、……もしまだ、売る気があるなら……お前の絵を俺に売ってくれないか?」

「えっ?」


「いや、その、俺は確かに絵なんか買ったことが無いから、価値というか……正しい相場は分からないけど、王宮に、絵が好きな友人はいる。彼らがどんな値段で、どんな絵を買っているかは聞いて勉強する。俺がすごいと思った画家は……君だけだ。仲間が買うような画家の絵よりは、必ず高値を付けるから。俺に売って欲しいんだ」


「フレディ……でもぼく、」


「売りたいなら、って話だ。無理に奪い取ろうとかは思ってないから……。こんな風にしょっちゅうここへ来てると、暇でふらふら遊び歩いてるやつと思われてるかもしれないが、俺はちゃんと守護職の仕事にもついてるし、神聖ローマ帝国の王都に屋敷もあるよ。爵位も持ってるんだ。……見えないかもしれないけど。今までそんな、はまるような道楽はなかったし、金は溜め込むばかりだったから、きっと満足してもらえる値で買い取るよ。約束する」


 ネーリは首を振って笑った。

「フレディ、神父様からちゃんと君がヴェネトでも、神聖ローマ帝国でも立派な守護職についてるって教えてもらって僕知ってるよ。遊び歩いてるなんて思ってないよ。フレディは立派な人だって知ってる」

 フェルディナントは赤面した。文無しじゃないんだよと一生懸命説明しようとした所、そんな風に言ってもらってしまった。

「そ、そうか……誤解されてないなら、いいんだけど」

「誤解してないよ」

「ならいいんだ。伝えておきたかっただけだから。ネーリがいいなら、俺に買わせてくれ。必ず高値はつける。お前は……君は、宮廷画家になってもおかしくない人だって俺は思ってるから」

「フレディ……」

「いや、今すぐじゃなくていい。ゆっくり考えて、もし譲ってもいいと思うものがあれば……」

 なんか断わられそうだ、と思ってフェルディナントは慌てたが、ネーリはじっと見つめて来た。

「うん……ありがとう。すごくそう言ってもらって嬉しいよ。あのね……、値段とかは、本当に僕もまだあんまりよく分からないから、街の鑑定士さんとかがつける標準的なのでもいいんだ」

 ネーリの絵に平凡な値段なんてつけれるか、とフェルディナントは咄嗟に思ったが、とりあえず今は黙っておく。昼間は感情で、喋り過ぎた。彼は本来、あんなに喋らないのだ。それなのにお喋りな奴だなんて勘違いされてそんなことで嫌われるのは嫌だ。

「でも……あのね、その……、……これは相談なんだけど」

 相談?

「……例えば、……売る時にこういうの、無くてもフレディは買ってくれるかなぁ、って」

 こういうの、とネーリは絵の裏側を見せた。

「?」

 フェルディナントが分かりやすく、首を傾げた。

「……こういうの……っていうのは」

「これ」

 指差したそこに、【ネーリ・バルネチア】という彼の名前が書いてある。

「名前のことか?」

「うん。絵って売る時に、書かなきゃいけないらしいんだけど」

 フェルディナントは天青石セレスタインの瞳を瞬かせた。

「相談って、サインを書かなくてもいいかどうか……ってことか?」

 こくん、とネーリは頷く。

「……いや……。……おれがほしいのはお前の絵だから……後のことは全然別にいいけど」

「いいの?」

 ネーリの目が輝く。思わずその目の輝きに気圧された。

「お前が描いた絵って俺はもう分かってるし。全然……お前が書きたくないならサインとかどうでもいいが……」

「ほんと?」


「ちょっと待て。『売れなかった』ってそれか?」


「鑑定士さんに怒られちゃったよー。どこの誰が描いたか分からない絵なんか、値はつかないって。普通貴族は、どこどこの誰誰の絵ですよ~って客に紹介するから、それが出来ないなんて話にならないんだって」


「別にどこの誰が描いたか分からなくたっていいだろう。絵は、素晴らしいかどうかなんだから。……いや、俺の言ってること、なんか間違ってるか?」


 美術品の取引なんぞまともにしたことが無いので、自分がもしかして常識ないことを言っているのだろうか、と腕を組み、しばし考える。


「いや。どう考えても構わないよな。俺が買うのにお前のサインがあるかどうかなんか……ネーリ。俺はお前の絵が好きなんだ。他人に見せびらかしたくて買いたいんじゃないんだよ。側に置いて、いつも見れるようにしておきたいってだけだ。お前が描いた証とかは、お前が書きたくないなら俺はいい。だって分かってるんだから。お前が描いたってことを、俺は」


 ネーリは頷いた。

「それでいいなら、本当に買ってくれる? 値段なんて安くても、幾らでもいいから。ここの全部売って、ここの教会のちょっと雨漏りしてる所とか、ミシミシする古い椅子とか、直したい。あと階段のところの石畳三つくらい抜けててでこぼこしてていつもご近所のおばあちゃんが躓いて危ないから、直してあげたい。最近ここの教会に来てくれる人増えてるのに、聖書が足りないから破れたり雨で濡れちゃってしわしわになっちゃってる聖書まで使ってもらってるから、あと十冊くらい聖書増やしたい。それが出来るなら、全部君に売るよ」

 フェルディナントは唖然とした。聖書十冊って。

「できるかな」

 赤面したのは多分、怒りと、あと光をやっと見つけたみたいに一生懸命覗き込んで来る黄柱石の瞳があんまり綺麗で、可愛かったからだと思う。


「ネーリ!」


 さすがにフェルディナントは怒った。


「そんなに自分を安く見積もるなよ!」


 何が雨漏りの修繕だ。

 この絵は、王宮の、王の寝室だってきっと飾れる。ここにある絵を全部売ったら、こんな小さい教会修繕どころか、綺麗に建て直してもっと大きく立派な教会にすることだって出来る。

 宮廷画家には、大貴族の支援者だって大勢付く。彼らの絵を、巨大な劇場や城や教会に飾るのだ。それを見に、人が集まる。サロンが賑わえば、富はまた増えて行く。

 ネーリは建物自体を建て直すことだってできると言われて目を丸くしていたが、自分の絵が売れると理解して、絵を抱きしめて喜んでいた。こんな簡単なことでこんなに喜ばせてやれたなら、もっと早くやればよかった。


「初めて絵が売れたよー」


 ネーリは入って来た白猫を抱き上げて嬉しそうに頬を寄せた。



◇   ◇   ◇



「じゃあ、売り手がついたんだから、盗られないよう、あの部屋には鍵を掛けてくれ。夜は特に絶対だ。いいな?」

「分かった!」

 ついでにこんな素晴らしい約束まで取り付けられた。

「……でも……なんでそんなにサインをしたくないんだ?」

「したくないってわけじゃないけど……、その……」

 数秒沈黙が落ちて、フェルディナントは首を振った。

「いい! 分かった! 事情は探らない! そのかわり、何か困っていたら、俺に言うんだぞ。俺はお前の絵の支援者になったわけだし、こ、この王都の守護職でもあるから……、困ったら、積極的に……誰よりもはやく……俺に相談するんだぞ」

「ありがとうフレディ」

 白猫を抱えたまま、ネーリが微笑んだ。嬉しそうだ。まだ頬が色づいている。

 もう戻らなくてはならないけど、離れ難い。このまま家に、連れ帰りたいくらいだ。

 なんとか「俺は神聖ローマ帝国の軍人皇帝陛下の命令遂行中」と心の中で呪文を唱えて、想いを断ち切る。


「フレディ、忙しいと思うけど良かったら【夏至祭】は見に来て。この時期毎年やる、ヴェネトの水神祭なんだよ。街いっぱいにお花を飾ってすごく綺麗だから。君に見せてあげたい。ぼく喜んで案内するよ」


 ネーリの瞳がきらきらしている。嬉しいけど、これ以上見てると多分心臓がどうにかなってしまう。幼い頃から軍隊や貴族やらで色んな人間には会って来たけど、こんなにキラキラした瞳で無防備に自分を見て来る人はいなかった。危いほど、出会ってから瞬く間にネーリに惹かれて行く自分をフェルディナントは自覚していた。

「うん、わかった……」

「? 馬がいないよ?」

「あ……今日は竜で来た。ちょっとだけ寄ろうと思っただけだから」

「そうなの?」

 ネーリはキョロキョロと空を見上げている。

「ごめん。人目があるからここには呼べない。もう少し街の外れに行ってから、呼ぶよ。

 そのかわり干潟には、そのうちフェリックスを絶対に連れて行くから」

「そうだよね。思わず会いたくなっちゃったけど、約束してたんだった」

「今日はここに泊まるのか?」

「うん。もうちょっと絵が描きたいから」

 そうか。

 フェルディナントは小さく笑む。

 時間を忘れてまた、明け方まで描くのだろうか。一度でいい。ネーリが絵を描いてるのを、最初から最後まで、時間を忘れて眺めてみたい。

「お前の絵を見てると……ヴェネツィアの街の夜は美しくて、出歩きたくなる気持ちはすごく分かるけど。最近妙な事件も多いから、あんまり遅くに出歩かないようにしろよ。……事件の方は、早めに俺たちが何とかする」

 腕を伸ばして、ごく自然にこっちを見つめるネーリの頬に触れていた。

 ハッとして、赤面し、慌てて手を引っ込める。いつもはこんなに勝手に他人に触ったりしないのに。……本当に、こいつのこの瞳には吸い寄せられる。

「じゃあ……またな」


「……今度いつここに来れそう?」


 初めて、そんなことを聞かれた。

 嬉しい。

 少しは、ネーリも自分に会いたいとか、思ってくれてるんだろうか?

「……。毎日だって来たいよ」

「えっ?」

 フェルディナントは歩き出しかけて、振り返った。

 ネーリと視線が合い、聞かれまいと思った自分の呟きを拾われたことを察して、顔面が熱くなった。

「じゃあな!」

 駆け出して行ったフェルディナントに釣られるように、白猫が腕の中から飛び出して、彼を追って行った。途中で諦めて、戻って来るだろう。彼の姿が通りの角に消えると、ネーリは教会の中に戻った。祭壇に歩み寄り、膝をつくと、祈りを捧げる。


「……僕の絵が好きだって言ってくれる人がいてくれたよ。おじいちゃん」


 瞳をそっと開き、聖母子像を見上げる。抱えた愛し子を優しく目を伏せて見つめている。

「僕の絵を好きだと思って持ってくれてる人がいる。

 だからもう、僕はひとりじゃないよね?」

 戻ってきた白猫が膝に顎を乗せている。優しく撫でてやった。

「だからもう心配しないで。おじいちゃん。僕は大丈夫だから……これからは、この国を見守ってあげて。これ以上、悪いことになって行かないように」

 ネーリは天窓から降り注ぐ月明かりに微笑んだ。


「……お兄ちゃんを守ってあげて」




【終】


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