第4話 ヴェネトでの再会




 騒がしい足音と共に「お待ちください」とか、「ただいま殿下は」などと聞こえてきた。

「……んー……」

 ラファエルは目を覚まし、大きく伸びをする。

「邪魔すんで!」

 バターン! と無遠慮に入って来た。

「ら、ラファエル様、も、申し訳ございません、スペイン海軍の……」

「いーよいーよ。昔からの顔なじみだし……まあダメっつってももう入って来ちゃってるしねえ……」

 ふわ~~~~~ともう一度欠伸をしてから、適当に手を振る。

「悪いけど、そこのお客さんに紅茶でも出してあげてくれるー?」

「か、かしこまりました。失礼いたします」

 侍従はすぐに出て行った。

「おまえさー……。来るのは別に今俺も暇な時期だからいいけど、時間帯考えてよ。俺、昼を過ぎないと頭が動き始めないからカッコいい決め台詞とか言えないよ?」


「そんなもんいらんからとっとと起きろや」


 すぐにメイドが紅茶を持って来た。

 彼女にだけは「おおきに。忙しなくしてごめんな」と笑顔と優しい声を見せてから、イアン・エルスバトは着てきた上着を脱いで、ソファに腰を下ろした。

「お前なんぞが偉そうに『殿下』とか言われるようになったとは、もう……世も末やな」

 ラファエルはベッドで横になったままの姿で、笑みを浮かべ目を閉じている。

「お前なんぞ、育ちがいいだけの戦場にビビッて馬車から出て来ぃひんハナタレ小僧だったクセに」

「俺士官学校出てないからさー 軍を率いるために一年は戦場経験しなきゃダメとか言われて送り込まれて……ほんとスペイン戦線って野蛮で嫌いだったわ~ 斧とかで人を撲殺しないでくれますかねえ」

 イアンは鼻を鳴らす。

「たった一年戦場に紛れただけのクソガキが。何を全部わかったみたいな顔で指揮官杖握っとんねん。俺はお前のそういう甘ったれたトコが昔から大っ嫌いやわ」

「こーんな朝早く叩き起こされて罵詈雑言浴びるなんて新鮮だなあ~~~~~」


「いい加減起きろラファー!」


「……んん……、なぁにラファエル……どうしたの……? なんの騒ぎ……?」

 ラファエルの隣で彼の身体に腕を絡めて眠っていた金髪碧眼の令嬢が目を覚まし、身を起こす。彼女の細身だが、女の魅力に満ちた優雅な裸体が露わになり、やれやれ、とラファエルも一緒に身を起こすと、毛布を彼女の肩から掛けて、スペイン将校から裸が見えないようにしてやった。

「ごめんね起こしちゃって。うるさい旧友がいきなり訪ねて来てさ。俺も本当はもっと一緒に寝てたいんだけど」

「あらそうなの……いいわ。今日は帰る。奥の浴室使ってもいい?」

「もちろん。何でも使って。メイドに執事もね。王女に尽くすように君に尽くしてねって言っておいたから。また連絡するよ。会えてうれしかった」

 令嬢は微笑む。

「わたしもよ。じゃあねラファエル」

 ラファエルが手の甲にキスをすると、令嬢は美しい手の平で優しく彼の頬に触れてから、ソファに座ってこっちを見るスペイン将校にも手を振り、優雅に部屋を出て行った。

 彼女には立って、にこやかに会釈をしたイアンだが、彼女が奥の部屋に消えると、ソファにもう一度座り、煙草を取り出して、テーブルの上の蝋燭を使って火をつける。

「いい女やな」

「でしょー♡」

「優雅だから性格お高いんかなと思たけど、笑顔が可愛いな。あんな子、お前には絶対勿体ないわ。もっといい男に大切にされなあかんタイプや」

「でしょー♡」

 足を組み、ソファの背もたれに片腕を掛けて、涼しい表情でイアンが尋ねる。

「あれが例のお前の『一番愛するひと』か? 確かに一撃で吹っ飛んで死ぬしかないならあんな女に側にいてほしいわな。どこの誰やねん」

「いや。あれは単なる大好きなお友達♡」

 ガク、と片方の肩を落として、イアンは舌打ちする。

「お前ヴェネトでもそんな生活か? この迎賓館も俺のとこの五倍くらい広いやんけ。腹立つわあ」

「それは、俺様ヴェネト王妃様に気に入られちゃったから。王太子のお友達にもなって下さいとか言われちゃった俺がそんな普通の邸宅みたいなところには暮らせないでしょ。何にも言ってないのにポン! とこんな場所くれちゃって。いやあ~助かるな~」

「お前の乗った戦艦絶対沈没してほしいわ。撃沈とかじゃなくて特に意味もなく戦艦の底に穴開いて沈んでくれへんかな」

「なによ。お前俺のカノジョの裸わざわざ見に来たわけ?」

「誰がやねん」

 イアンが苦い顔をする。

「そこまで暇ちゃう。忙しすぎて今騎士館に帰る途中や。人が寝不足で働いてる間お前が女とイチャイチャしてんのかと思うとメッチャ腹立つわ」

 ラファエルは吹き出す。

「お前が働き過ぎなんだよ。休めばいいじゃん。お前も美人のセニョリータ家に呼んでさ」


「アホか! お前のフランス艦隊がどっかりと正面の港に居座ってるから、うちの艦隊は南の港に肩縮めて食器棚の皿みたいに収まってんのやぞ! あんなもん緊急時に出る時船めり込んで長い一列になるわ! おかげで着任してから城に挨拶にも行けんでいきなり増設作業や! セニョリータと知り合う暇もないわこっちは! どこやねん美しいセニョリータは!」


「ご苦労様あ~ でもまあそこは早い者勝ちだからさ。遅く来たお前らが悪い。まあ夜会にお前も出れば自然と女の子と知り合うでしょ。それまでせいぜい勤勉に働くんだねえ」

 イアンは舌打ちした。


「呼べばすぐ来やがって。プライドとか無いんかお前らのとこは……」


「じゃー 一番プライドないのは神聖ローマ帝国だな。あいつら一番乗りだもん」

「あいつらは『空路』だから早いんやろ。そら空からなら国からここまで遮るものもなく一直線や。いいなー 楽そうで。俺も乗ってみたいなぁ」

「そうかあ? 俺は竜騎兵団嫌い。空から飛来してあんなバケモンみたいなやつで人間押し潰して殺すなんて野蛮の極みじゃん。竜も嫌いだけど竜騎兵も俺は嫌いだな~。あいつらこそお高く留まってんだもん。わざわざこの俺が面会申し入れてやったのにもう一週間も待たされてる。『忙しいから』とか言ってるらしいけど忙しいわけないじゃんよ。たかが街の守護職なんか」

 イアンは呆れた。

「おまえ……ほんとに何も知らんのやな。街の守護職なんて今とんでもなく忙しいに決まってるやろ?」

「? なんで」

 ラファエルはそこにあった優美な白い薔薇を一本抜いて、花の香りを嗅いだ。

「今城下町で妙な連続殺人事件多発しとるんや。貴族とか、警邏隊とか役人とかがよく死んどって、反乱分子の仕業やないかって話になっとる。おまけに数日後に【夏至祭】があるから、王都守備隊なんぞ今寝る暇もないわ。さすがに同情するわぁ。お前が夜中に女とイチャイチャしてんの想像すると腹立つけど、俺神聖ローマの連中が眠たい目擦ってこれ以上騒ぎ起こしたらあかん思て必死に夜中警備とか見回りの仕事しとるの想像すると俺らもがんばろーって気持ちなるわ。親近感ってやつやなこれ」

「へー。【夏至祭】って何やるの? なんも聞いてないんだけど」

「民衆のお祭りやろ。城下町に花を飾って、三日三晩踊って楽しむ。大体そんな感じやと思うが……お前んとこ無いんか?」

「ナイ」

「うちの国にもあるわ。王宮でも城下町でも夜通し火を焚いて夏の夜を楽しむねん。どっちでも祭りがあるから、こっそり抜け出てよく小さい頃は街の方夜中見に行った。警邏も聖職も貴族も関係なく、みんなで踊って歌って食べて……。俺も好きな祭りの一つやわ。まあここのがどうかは知らんけど」

「ふーん」

 あまり興味が無いようにラファエルは手にした薔薇の花を揺らしている。

「一生懸命街の人間が飾り付けしてんで。お前も腐ってもこの国の守護職なんだから女とばっか遊んでへんでたまには街でも見回ったれよ」

「暢気でいいねえ。おたくらにぶち込まれて消滅した国の人間なんて、もう【夏至祭】どころかこの世のどんな楽しみも謳歌出来ないっていうのにさ」

 イアンがラファエルを見る。

「へえ。お前はとっくにヴェネト王国に帰順して、そんな吹っ飛ばされた人間達の痛みとか忘れたんかと思ったわ。……そういや一番愛する人間がここにいる、とか言うてたけど。お前ヴェネトに来たことあんのか?」

「なんで俺がこんなとこまで船で揺られながら来なきゃいけないのよ……海なんか大嫌いなこの俺様が」

「お前が言うたやんけ」

「好きなやつがここにいるって言っただけ。出会ったのがこことは限らないでしょー」

「限らねーけど……つーかお前いい加減服着ろや。なに優雅に全裸でビーナスみたいに横たわってんねん腹立つな」

「えーもう起きんの?」

「誰に聞いてんねん」

 叱られて、ラファエルは欠伸をしながらやれやれ……と身を起こす。衝立の向こうでようやく着替え始めた。

「どこで知り合ったんや」

「なに? イアン君が俺の恋愛にそんな興味示すの初めてだね」


「お前の恋愛には興味ねえ。それよりフランス艦隊の敵情視察や」


 ラファエルが繰り出して来た投げキスを忌々しそうに殴り返す仕草で叩き潰し、イアンは立ち上がって窓辺に寄った。窓を開き、少し煙に曇った部屋に風を入れる。


 夏は水上に風が吹き込んで涼しいものだが、冬は相当、凍てつくだろうなと彼は思った。

 港が凍るようなら、大型艦は冬の前に移動させなければならない。艦隊を指揮する指揮官として、変わりゆく季節の先を見越して、そういったことを考えることも、幼い頃から軍人として育てられてきたイアンには容易いことだったが、時々冷静にそういうことを考えている自分に、軍人の自分ではなく、素の自分が唖然とすることがある。


 ……凍てついた雪の時期も、この国で過ごさなければならないのだろうか。


 時々、本当に立ち尽くす。


「その女、フランス王宮で会ったんか?」

「んー、まあそうだねえ」

「お前にそんな女がいるの知らんかったわ。いや。お前の女とかはどうでもいいけど、国としてはお前は有望株だから、結婚相手重要やろ。ヴェネトにいるってことはフランス貴族ちゃうんやないか?」

 ラファエル・イーシャが王弟の息子で、聖十二護国の一つ【フォンテーヌブロー】公爵家を継ぐ公爵だということは知っている。イアン個人としてはラファエルは単なる「昔から知ってるバカ」だったが、フランスにおいて彼は王族に連なる貴族の中では最も格が高い大貴族だ。当然、公爵として、結婚相手にもまた格が求められる。格の高いフランスの大貴族がこの時期にヴェネト王国にいるとは思えなかった。

 ある意味、この時期は緊張状態にあるのだから。ここは戦場なのだ。

「まーね」

「へぇ……」

 こいつは昔から女と見ればどんな年齢の女でも口説いていたが、みんな貴族だった。それ以外に手を出すと、相手に害が及ぶ場合がある。ラファエルは、その一線は守っていた。

 イアンもそこは、こいつは何も考えてないわけじゃないんだなと思う部分だ。


 彼自身小さい頃、城に出入りする下働きの少女が素直で優しくて可愛くて、彼女に恋をしたことがある。彼女は城を訪れる貴族令嬢や姫君を見て、きれい、他の世界のひとみたい、と目を輝かせていたが、イアンにはそんな風に憧れる彼女の方が、着飾った令嬢などより百倍も可愛く見えた。

 本当に少年時代の、他愛ない初恋だった。

 仕事の手が空いた時に会って、話したり、キスをするくらいの、罪のないものだ。しかしどこかからかそれが密告され、末の王子が最近召使の娘に懸想をしているなどと伝わり、躾けに厳しい太后が激怒し、その少女を捕まえて、手を鞭で血が出るほど叩いて、二度と王家の人間に気安く触るんじゃないと激しく叱責し、母親共々解雇し、城から叩き出したことがあった。

 父も母親も彼女を庇ってくれなくて、イアンも罰を与えられてしばらく塔に幽閉されていたから、彼女に謝ることも、別れを言ってやることも出来なかった。当然それから彼女と会うことは二度となくなった。


 それからは、イアンは身分違いの恋はしなくなった。


 彼は城より城下町の雰囲気が好きだったのでよくお忍びで遊びに行った。その時々で彼に憧れたような視線を向けて来る娘たちがいて、その中に彼も惹かれるような人も確かにいたが、決して手は出さないようにしている。

 その点では、自分の軽率さで罪もない一人の少女をあんなにも痛めつけて不幸にしたイアンはラファエルには負けていた。


 ……腹の立つ、思い出だ。


 何年経っても。

 あんな辛い想いはもう二度と、自分のせいで、誰にもさせてはいけない。


「貴族やないなら妾にするのか? まぁ……そんくらいなら許されるのかもな……。正妻次第やけど」

「妾、ねぇ……」

 ラファエルは袖を通したシャツのボタンを留めながら、大鏡に映った自分の青い瞳を見つめる。いつかその瞳に映っていた、あの黄柱石の輝きを。

 確かに大貴族ともなると、個人の欲求とは別に、家系を絶やさない為にも血を求められるから、愛妾の一人や二人いたとしても、糾弾はされない。常識だろう。ラファエルの父にもそういう女はいたし、国王にもいる。彼自身は貴族の自覚として、そういうことは理解している。

 だが、イアンに言われて、彼の人に想いを巡らせていたからか、その言葉を聞いた途端に思ったことは。


 ――妾なんてとんでもない。

 あれは唯一の愛どころか、命さえ捧げられて慈しまれるべき存在だ。


「ラファ!」

 呼ばれて、振り返る。

「貴族じゃないならどういう身分の女や?」

「やけに聞いて来るねー。いつからお前俺のママになったわけ?」

「アホか。共倒れを避けたいだけや。言っとくけど、王妃に気に入られた~なんて浮かれとったら痛い目見んで。フランスには手を出さへんっていう確証をお前が得たわけやないってこと、よぉ覚えとけ。呼んだ守護職が女関係で不手際起こしたなんて責められて、信用出来ひんとかこっちにまで連帯責任求められたら最悪なんや。だから聞いてんねん。揉め事起こすような相手か? お前まだ婚約もしてへんのやろ」

「それってどういう意味?」

「フランス王がお前をここに送り込んだ意味や。ヴェネト王家には王太子一人しかおらんけど、親類にはお前と見合う年頃の女一人くらいおるやろ。お前、件の王妃が『貴方はとても気に入ったから私の親類の娘と結婚しなさい』って今、言われたらどないするつもりや? 嫌ですなんて言える立場じゃあらへんのくらいは分かるよな?」

 衝立に肘を置き、ラファエルは目を丸くする。

「その発想はなかった。」

 イアンは半眼だ。

「おまえ……自分がホントに戦時の指揮官として送り込まれたとでも思っとったんか?

 相変わらず、ほんまに頭がめでたい言うか……」


「いや。陛下はそこまで考えてないよ。俺がここに来るのもすんごい止められたし。『行ってはならぬ愛しい息子よ!』ってすんごい引き留めてくれた。まあ俺は初めて見るクレメンティーヌ・ラティマのことしかあんま見てなかったけども。聞いてくれよ~~~噂通りの美女だったわ~~~さすがロワールの奇蹟とか言われるだけある! あれで未亡人だよ。色香がたまんなかった。お前にも見せてやりたかったな~~~~~。俺も王様だったら絶対彼女滅多に外に出さずに自分だけで可愛がりたい。気持ち分かるわ~~~。ん? ああ、何の話だったっけ? 忘れてもうた。あ、違う。イアン! お前の喋り方移るからやめろよ!」


「なんやお前引き留められたんか。期待を込めて送り出されたのかと思ってフランス王頭狂ったんかと思てもうた。んじゃお前志願して来たのか?」

「志願してないのに海渡って来るバカがどこにいるって何度言ったらわかるのよ」

「……ホンマに彼女に会う為やないやろな?」

 ラファエルは微笑んでいる。

 イアンは顔色を変えた。

「おまえ……嘘やろ⁉ フランス艦隊お前の私物ちゃうぞ!」

「まー。でも誰も志願者いなかったんだから。俺は感謝されてるし」

「ここに来なくてすんだ貴族にやろ! お前なんぞに実際指揮執られる兵士の身になれ! 無能な指揮官なんか可哀想やろ!」

「あー。その発想はなかった~~~」

「おまえほんまにぶん殴りたいわ‼」

 煙草を窓枠で潰して捨てると、イアンは自分の髪をぐしゃしゃー! と苛立ち紛れに掻き回した。

「んでどうすんねん。私の親類と結婚してくれ言われたら」

「まあそれはするしかないだろうねえ」

「へぇ。その覚悟はあるんか」

「いや。そうするしかないでしょ。俺は自分で手を上げてここに来たんだし。そんなことで王妃の機嫌を損なったらさすがに陛下に申し訳が無い。それとも断わるいい方法があるならお前が俺に教えてよ」

「まあ無いわなあ」

「お前だってそんな無理難題言われる可能性あるんじゃないの? 未婚でしょ」

 イアンはハッとした。

「その発想はなかった……」

 ラファエルが吹き出している。

「なんでよ。お前が言ったんじゃねーか」


「どないしよ……俺愛のない結婚だけはしたない……。兄貴や姉貴みんな言うねん王族なら愛ある結婚は諦めろとか……絶対嫌や。王位なんてどうでもいいから愛ある結婚がしたい」


「まぁ気持ちは分かるけどな……」

 上着の襟元を整えながらラファエルは言った。

 絶望していたスペイン将校はしばらくして、深く溜息をつく。

「……まあけど……ほんまにそんなこと命じられたら、俺だって頷くしかないんやろな」

 窓の外を見遣る。

 ここからはヴェネツィア王宮が目の前に見える。ごく側だ。

「最愛の人間が同じ国にいてくれるなんて羨ましいわ。……一生この国から出れなくて、ここで結婚して、ここで死んで行くなんて可能性、本当にあんのかな……」

 ラファエルが側に来て、古い友人の肩を叩いた。彼の方を見てからイアンが額を押さえる。

「……最悪や……お前が『羨ましい』とか有り得んこと言ったな今……おれ」

「落ち込むな。聞かなかったことにしてやるよ。だから俺の最愛の人間のことも秘密にしてよね」

「どこの誰や?」

「実はこの国にいることは知ってるけど、まだ見つかってない」

「見つかってないって……」

「小さい頃、パリの王宮とかで会ったことがあるんだ。ほんと小さい頃だけど。お互いの素性も、分かんないくらい小さかった。でもある日会えなくなって、ヴェネト王国の出身だったとこまでは突き止めたんだけど。まあ、自由にここに来ることも出来る立場じゃなかったから」

 そんな昔からの知り合いなのか。イアンは少し驚いた。

「そんなもん……お前自身じゃなくても誰か人をやって探せばよかったのに」

「まあそうなんだけど。……なんというか、ちょっと複雑なんだ。その辺」

「お前の話聞いてると、彼女もなんか、普通の令嬢って感じせぇへんな。パリの王宮で会ったなら一般人でもないっぽいけど」


「その辺はノーコメント」


「んでもそんなガキの頃から好きなやつがいたとは知らんかった。つーかだったら何であんな他の女と遊べるねん」

「だって他の女と付き合わないと親とかが五月蝿い。僕には心を決めた人がいるって言っても寝ぼけたことを言うなって叱られて。分かった分かった付き合いますよって方向転換したら今じゃお母様もぐぅの音も出なくなっちゃって。そりゃそうだよねえ。自分たちがたくさんの女と付き合ってその中から最高の相手を選べとか言ったんだから」

「そんで?」

「そんでって?」

「そんでその子のこと探しとるんか?」

「まあまずはここでの自分の立場を確立させて、任務は果たさなきゃ。けど、もうほぼ仕事は終わったね。会った時から王妃様は俺を気に入ったみたいだし。先に会った神聖ローマ帝国の将軍が気に入らなかったみたいだよ。王宮に直接竜で来たみたいで無礼だって怒ってた。お前も王宮に行く時は軍馬で庭とか占領しないように気を付けなね。ヴェネトの方々は平和を愛する民だから、無粋なことすると嫌われちゃうよー?」

 イアンは忌々しそうに鼻を鳴らした。


「なにが平和を愛する民や」


「竜騎兵なんて嫌いって話題で盛り上がっちゃって。貴方ならいつでも気軽に城に訪ねて来て下さいって言われちゃったからほぼ任務完了だよね。少し自分の時間が出来たから。これからは少し探したい」

「……意外やわ。お前がそんな何十年もの恋を引きずるとか。そんなタイプちゃうと思ってた」

「俺はこう見えてすんごい一途な性分よ?」

「どこがやねん」

「一目見て分かんない?」

「まったく」

「喋り過ぎちゃったよ。お前ってミョーにこういうの話をさせるトコがあんだよな」

「なに人のせいにしてんねん。お前が勝手に喋り出したんやろ」

「お前が言え言えって五月蝿いんじゃん」

「あー。お前のアホみたいな恋愛に付き合わされて王妃に睨まれたくないからな」

「そーいうこと言うとあのスペイン将校意地悪いんですって王妃様に言いつけちゃおうかな~」


「いいんやでラファ。お前がその気なら【シビュラの塔】にやられる前にスペインとフランスで決着つけても。国にはこの俺を平気でこき使う豪気な兄貴と姉貴らがそれぞれに軍隊持って牙磨いとる。うちのアラゴン家は長男から末弟まで皆軍系の戦闘民族やぞ」


「まあ素敵な野蛮♡」

「うっさいわ。けどお前そんな長く会ってないなら相手のこともあんま分からんのやろ。

 相手もう結婚してたらどないすんねん」

 ラファエルは数秒待って蟀谷を人差し指で掻いた。

「……その発想はなかった」

 イアンは口許を引きつらせる。

「なんで無いねん……お前ホンマ……暢気なやっちゃな……。相手が子供の頃から十年もお前のこと一途に想てくれてるとでも思ってたんか?」

「思ってた。だって愛情深くて一途で誠実で優しい人だから」

「アホか! そんな魅力的な女、もうとっくにもらわれてるに決まってるやろ!」

「ええええっ⁉ ナニそれ……そんなことになってたら悲しくて俺死んじゃう……」

「お前がどこまで本気なのか全然分からんわ……」

 イアンは溜息をつく。

「もーええわ。お前と話してても実りのある話に全然ならんし……家帰って寝るわ」

 彼は上着を脇に抱えて歩き出す。ラファエルも何故かついて来た。

「折角来たんだしデートしない?」

「せえへん。」

「楽しいと思うよ~~~~。」

「せえへん。眠い。」

「オルレアン公のご子息にしてフランス海軍最強の【オルレアンローズ】の総指揮官にしてフランス聖十二護国の一つ【フォンテーヌブロー】家公爵であるこのラファエル・イーシャ様を一週間も待たせてる奴の顔拝みに行かない?」

「すまん。『オルレアン……』っていう所までしか聞いてなかった」

 欠伸をしながらイアンは歩き続ける。

「五文字⁉ もうちょい聞いてよ。今折角噛まずに綺麗に全部言えたのに」

「お前の肩書きになんぞ今日の夜ご飯より興味ないわ」

「なによぉ~相手は戦歴十分の生粋の軍人フェルディナント将軍だよ? 俺一人で行ったら戦歴鼻で笑われちゃうじゃん。その点野蛮なイアン君の元気いっぱいな戦歴があれば……」


「誰が野蛮人だ腰抜け舞踏会。――つーかフェルディナント? 神聖ローマ帝国軍のフェルディナントってもしかしてフェルディナント・アークか?」


 ラファエルの引き留めに一切興味を示さず、館の外で待ってる馬車のところまで来て、乗り込んだイアンが初めて振り返った。馬車に肘を預け頬杖をつき、頭を支えた姿でラファエルが目を瞬かせる。

「なによ。もしかしておたくら知り合い?」

「なんや。神聖ローマ帝国の使節団、あいつが率いてんのか。相変わらず働き者やなあ~~! あいつ元々スペインの陸軍士官学校出身やねん。一緒に学んだわ。懐かしなあ~~」

 途端に明るい表情になったイアンとは逆に、今度はラファエルが半眼になる。

「ご学友? あー。お前らさては今例の『スペインと神聖ローマ帝国で結託してフランスを窮地に追いやる作戦』が発動してるだろ」

「なんやねんそれは……お前なんぞ結託せえへんでも片手一本で俺は片付けられるわ!」

「そんなことしたら俺ホントに王妃に『あいつら二国、王太子がバカで扱いやすくて助かったとか言ってましたよ』とか悪口言いつけちゃうからねイアン君覚悟しような」

「しっかしフェルディナントが派遣されるとはなあ……」

 イアンは馬車の窓枠に頬杖をつく。

「? 戦功十分なんだろ?」

「戦功はな。けどあいつ【エルスタル】出身やろ。それがよりよって【シビュラの塔】を操るヴェネトに派遣されるとは……。あそこの皇帝も無茶苦茶しよんな」

「なんだ。神聖ローマ帝国出身の奴じゃないんだ?」


「フェルディナントは【エルスタル】出身の王族や。なんや両親が不仲だったらしくてなあ。そんで母方の母国になるスペインで学んで、武人として頭角を顕わして、王である父親に【エルスタル】に呼び戻されて、神聖ローマ帝国に着任したんや。【エルスタル】は小さい国やけど、今の神聖ローマ帝国とは同盟関係にあったから、皇帝の軍の増援として派遣された。【エルスタル】には兄貴とかがいっぱいいて、あいつも俺と同じように王位継承権からは遠い子供やったはずやわ。父親に期待されてへん分、戦場で戦功稼がんと、一切見てもらえないから大変やってよく士官学校時代一緒に愚痴った。俺と違って生真面目で勤勉やけど、頑張り屋でええ奴やったわ。

 ……【エルスタル】が消滅した時、あいつ神聖ローマ帝国で着任中やったから国を離れてて、難を逃れたんや。その後皇帝の計らいで【エルスタル】の王位を継いだって聞いたで。……もうこの世に土地も存在しない国の王位を。そんなもん自分には手に入らんから、欲しいものは自分の力で手に入れないとって早いうちから軍人の道目指しとった。それが、まさか生き残りが自分しかいないから、自分が継ぐしかないなんてことになるとはなあ……。大変やな……あいつ王妃とかに挨拶しよったんやろか?」


「したって聞いたよ。会ったって言ってたもん。印象悪かったらしいけど」

 イアンが舌打ちする。


「当たり前や。家族を皆殺しにしやがった女やぞ。にこやかに握手出来る方が頭どうかしとるわ。けど……大事になってないってことは殴りかかったりせぇへんで挨拶自体は無難にこなしたんやろな。えらいわなあ……。……アカン……三国競合では神聖ローマ帝国もライバルやけど、フェルディナントが来てるとは知らんかったからなんや同情して来てもうたわ……」


「それが神聖ローマ帝国の狙いじゃねーかってうちの血気盛んな補佐官が言ってたよ? なーに敵の策略にカルガモみたいに簡単にはまってんのよイアン」

「アホか。あいつはそういう同情に付け込んでどうこうするとか、そういうタイプの奴や無いねん」

 わしわし、と癖のある黒髪を掻いてから、「よし」とイアンは決めたらしい。

「悪いけど、騎士館に戻る前に神聖ローマ帝国の駐屯地に言ってくれるか」

 御者に命じる。

「お。会う気になった?」

「旧友に挨拶や」

「俺もついて行っていーい?」

「ええけど大人しくしとけよ」

 ラファエルが華麗にウィンクをしてからバサリ、と上着の裾を捌いて馬車に乗り込んだ。



◇   ◇   ◇



 王都ヴェネツィアでは三日後の【夏至祭】に向けての準備が進んでいた。

 ここしばらくは連続殺人事件が起こっている王都の夜警に駆り出されて、教会に来るどころではなかったのだが、ようやく今朝、フェルディナントは駐屯地に引き上げる前に立ち寄ることが出来た。

 警邏隊が続けざまに殺されたので、フェルディナントはまず、城に報告して、一時警邏隊の夜の巡回と活動を停止させた。その代わりに神聖ローマ帝国の竜騎兵団を街の夜警に駆り出したのだ。手は足りなかったが仕方ない。仮面の男は続けざまに警邏隊を襲っていたが、竜騎兵団が街を巡回し始めると、ぴたりと数日襲撃が収まった。今は様子を見ている。


 一日に一回、竜による飛行巡回を行いたいとも要請を出したのだが、これは「民に逆に脅威を与える」として、王妃が許可を出さなかった。民はとっくに連日の襲撃事件で脅威を与えられてるだろ、と舌打ちが出たが、仕方ない。ここではあの忌々しい女が法だ。竜騎兵団は優秀な騎馬部隊でもあるから、巡回に問題はなかった。


 しかし今回は三十騎しか連れてきていないため、連日みんなが寝不足だ。警邏隊、守備隊から、新しく組織する王都守備隊要員を選定はしているが、フェルディナントとトロイが必ず会って選定しているのでなかなか作業が進まない。とにかく、新しい王都守備隊が組織されるまでの辛抱だと竜騎兵団とトロイには話して、頑張ってもらっている。

 警邏隊が街に出なくなってから、仮面の男も現われなくなった。

 まだ数日のことなので何とも言えないが、やはり警邏隊に恨みを持つ者なのかもしれない。フェルディナントはその素性が気になっている。……というのも、フェルディナントが街に駆り出されている時、仮の守備隊本部として王都中央の教会を間借りしているのだが、そこから遠くない距離に例の、仮面の男が放火したという娼館があった。

 全焼したその場所をもう一度見に行った時、一人の女が話しかけて来たのだ。彼女はそこの娼婦で、思いつめた表情をして、話しかけてきた。女は「火をつけたのは仮面の男じゃない。娼婦」と言って来た。


「……娼婦が何故自分の娼館に火をつける?」


 返答に困ったようだが、答えた。

「……彼女は元々、娼婦になるような境遇じゃなかったから。この仕事を嫌ってた。彼女の客に仕事の最中、暴力を振るう警邏の男がいて、彼女は身を守るためにそいつに怪我をさせたの。男は店の主人に苦情を入れて、とんでもない額の金を払わないと営業出来なくさせるって脅して。無理矢理客を取らされてた。火をつけたのはあの子だよ。あの子の部屋から火が出た……」

 女は逃げて、行方は分からないという。

「その警邏の男の人相は分かるか?」

 名前が分かるし特徴がある、と女は言った。

「額に傷がある。あと腕に炎の刺青があった」

 その後起こされた仮面の男の襲撃で殺された警邏隊の中に、その二つの特徴を持つ男の死体があった。


「……何故私に話をした?」


 店の主人も、守衛も、仮面の男が火を放ったと言っていた。

「自分のとこの娼婦が火を放ったって分かると、補償金が出ないから。それであいつら嘘をついたの。それに、闇のルートからも娼婦を仕入れてた。探られたくないのよ。あと……。私はあの日、三階にいて、逃げ遅れた。……助けてくれたの。あの、仮面の男が」

 煙に撒かれて動けなくなっていた所を、どこからともなく入って来た男が抱き上げて、気付いたら外に寝かされていて、助かったのだという。

「知り合いか?」

 慌てて女は首を振る。嘘を言っているようには見えなかった。

「闇のルートと言ったな。そういうところから仕入れられる娼婦は多いのか?」


「あんた、この街のこと何にも知らないんだね」


 女は苦笑するように言った。

「数年前から、急激にそういうのが増えた。前は娼婦にだって逃げ込む場所はあったのに、今じゃ教会にも危なくて近寄れないよ」

「教会?」

 女はそこまで言うと、周囲を気にして足早に去って行った。

 仮面の男はフェルディナントと初めて会った時も、襲われていた娼婦を助けていた。

 警邏隊と、娼婦。

 歓楽街を中心に、その二つに探りは入れていたが、女と話して更に疑惑の方向性が広がってしまった。


(教会……。警邏隊だけじゃなく聖職にも密告者がいるのか?)


 辿り着いた小さな教会を見上げる。

 確かに、平気で他国を虐殺するような国に、信仰だけは清らかにいつまでもあるなどと信じるのは愚かかもしれないけど。

(……考えたくないな)

 人を導き、心の拠り所になるべき聖職者が、人の懺悔や信頼を裏切り、真の敵になるものに密告するなど。

 溜息をつき、教会に入って行くと。


 朝日の差し込む祭壇でネーリが何やら紙を使って、四角や、円柱型や、三角などの形を作っていた。その周りで十人くらいの子供たちが集まって、熱心に真似してたくさん作っている。中には、そのオブジェに絵を描いている子供もいる。

「ネーリ、ネコちゃんが上手く描けないよー」

 少女に呼ばれて、ネーリが立ち上がり、歩いて行く。

「全然じっとしててくれないの」

「大丈夫。上手く描けてるよー。飛び跳ねてる時の足は……こんな感じ!」

「わぁ~っ♡ かわい~っ」

 僕のも見て僕のも見て、と子供たちが口々に自分のオブジェを掲げている。

 ネーリは一人ずつ見て、頭を撫でてやったり、こうすればもっと綺麗になるよと手を加えてやったりしている。


 ……ここはいつ来ても、光が差し込んでいる。


 くす……、と思わず笑ってしまうと、子供たちを見て回っていたネーリが振り返った。


「フレディー」


 自分に気付いたネーリが、光の中で微笑ってくれた。



◇   ◇   ◇



「【夏至祭】で蝋燭を乗せた小さなこういう玩具の船を水路に浮かべるんだよ。それにこういう紙を被せると、色が綺麗でしょ」

「そうなのか」

「神聖ローマ帝国では【夏至祭】ではそういうことしないの?」

「そうだな……特には……。町々や村では色々してるんだろうけど」

「そうなんだ」

 ネーリは糊を使って、器用に子供たちが描いた紙を丸めたり四角にしたりしてやっている。受け取った子供たちがはしゃいでいる。無邪気なその様子に、さすがに表情が緩んだ。

「……ここはいつ来ても子供が無邪気に遊んでていいな」

 確かに、ここはヴェネト王宮を最南に、円形に広がるように構成される街の、北の外れに位置する。歓楽街がある旧市街は西側にに広がっているが、反対側なので、比較的静かなのだ。連日多発した殺人事件もほとんどが西側で起こっている。

「フレディ、ちょっと疲れてるように見える。……大丈夫?」

 深く溜息をついたフェルディナントに気付いて、ネーリが手を止めた。

「いや。平気だ。今日はたまたま……街で夜警の任務についてたから。これから帰って寝る。数時間寝れば大丈夫だ」

「大変だね」

 ネーリが心配そうに自分の方を見て、気遣うような優しい声でそう言ってくれた。

 フェルディナントは小さく笑む。単純かもしれないが、単純でもいい。今ので本当に少し元気が出た。

「……ありがとう。でもここに来て少し安心した。西側の市街で事件が立て続けに起こってて。けど、ここは平穏そうだ」

 ネーリは頷きながら微笑む。


「ここは昔から全然街並みが変わってないんだ。だからご近所さんもみんな顔見知りで、知らない人いたらすぐ分かるんだよ。昼間お父さんやお母さんが働きに出てる家の子は、教会に集まれば、神父様や街の誰かが面倒見てくれる。教会っていうより、この辺りの人の休憩所って感じなんだ。ここは。厳かで立派な教会も好きだけど。ぼくこの教会のこういう空気が好きで」


 神聖ローマ帝国の教会は、特にフェルディナントが出入りしていたような所は、もっと厳格に出入りを規制している。教会は子供の遊び場などではなかったから、教会に子供がいる景色は、彼にとっては実は非常に珍しいと感じるものだった。

「俺も幼い頃から、習慣で教会には出入りしてたけど、もっと厳かな所ばかりだった。子供がはしゃぐと、むしろ大人たちに睨まれるような……」

 ネーリの黄柱石ヘリオドールの瞳が、フェルディナントの話を優しい瞳で聞いてくれている。

「いや、……俺も襟元締めて長時間行う礼拝は苦手だから……こういう空気は落ち着くよ。教会に、……君の絵が飾られてる雰囲気も好きだ」


 一日一日、会うたびに、まるで恋をしてるみたいだ、と思う。


 一番最初の出会い方は、かなり事故だったので、ネーリの方にも若干の戸惑いのようなものがあったが、それが今はない。自分が会いに来ると目を輝かせて迎えてくれる。自分を呼んでくれる彼の声が来るたびに優しくなっているように聞こえて、嬉しかった。

「ありがとう」


 丁度鐘が鳴った。

 朝ごはんだー! と子供たちがはしゃいで出ていく。

 ネーリは「ネーリ、またねーっ!」と出ていく子供たちに、椅子に頬杖をつきながら笑って手を振る。


「ここでは教会の鐘が、朝ごはんの合図」


 そうなのか。フェルディナントも笑った。

「西側の事件のこと、神父様もちょっと言ってたよ。フレディ、新しい守備隊を作ってる途中なんだよね? その待機場所に、グラッシ教会がなってるって。黒い軍服のひと、僕も見かけた。あれって神聖ローマ帝国の竜騎兵団のひとなの?」

「うん。そうなんだ……」

「警邏隊はどうなったの? この数日突然警邏隊の人を見なくなったって街の人が言ってた」

「みんな不安がってるか?」

「う……ん……、不安がってるというか……不思議がってる感じ。ほらみんな今【夏至祭】の準備で忙しいから……」

 彼は軽く笑ってそう言ったが、じっ……、とフェルディナントが天青石セレスタインの瞳で自分の方を見ていることに気付き、笑みが消えた。

「そ……」

「そ?」

 何かを言おうとしているネーリを見極めようとして、真剣な表情で彼を見ていたフェルディナントは突然目の前が真っ暗になった。ネーリがフェルディナントの瞼を軽く両手で押さえたのだ。

「ん……何するんだネーリ」


「そんなに近くで真剣な目で見つめちゃダメだよ」


 軽く首を振るようにして手から逃れると、そんな風に言われてフェルディナントは赤面した。

「べ、別に見つめたわけじゃない……見てただけだ。今真剣な話をしてたんだぞ俺は……」

「分かってる。ごめん、フレディの瞳の色って間近で見るとやっぱりすごい迫力だよ。

 吸い込まれるみたいに感じる」

「……べつに、普通の水色だ。そ、それに……、吸い込まれるみたいだというなら、……その……、お前の瞳の方が……その、」

「普通じゃないよ」

「普通の薄い水色だよ。もっと宝石のような美しい青い目の人間だっているし……」

「そんなことない」

 今、近くで見つめるなと言ったばかりなのに、ネーリは両腕に軽く顎を預けると、鼻先で微笑んで来る。


「いつも調合しながら色んな青色を見てるもの。フレディの瞳の色も描いてみたけど本当に難しい。これって色にならないの。僕ひとの瞳を見るの好きなんだ。じっと瞳の奥まで見てると、本当に同じ瞳を持ってる人なんて一人もいない。それにね、僕がそう感じるだけかもしれないけど、人の瞳と宝石が違うのは、そこに感情が宿ること。感情にも色があるんだよ。怒ったり、喜んだりすると濃い色になったり、安心してると薄い色合いに見えたりするの。フレディの瞳って、最初から薄い色だから、すごく周囲の色を吸い込んで色が変わって見える。だからかな。不思議な瞳の色してる人だな、って一番最初に会った時から思ってた」


 一番最初に会った時……と自然と、深夜の薄暗いランプの明かりの中で、一糸纏わぬ姿をしていたネーリを思い出してしまい、顔面が火を噴くように熱くなった。

「でも……わっ!」

 今度はネーリの目の前が真っ暗になる。

 フェルディナントが今度は手の平で彼の瞼を軽く押さえたのだ。

「真っ暗だよー フレディー」

 ネーリが明るく笑っている。

 まったく、子供みたいな人だ。

 それでも、美しい楽園のような絵を描き、柔らかな、優しい言葉を話す。

(本当に、今まで会ったことのない人間だ)


 ……なんて魅力的なんだろう。


 その、彼が。

 今王都で多発している、事件になど絶対巻き込まれて欲しくなかった。

「……。ネーリ」

 フェルディナントはゆっくりと立ち上がった。

 ネーリは座ったまま彼を見上げる。


(そう、フレディの瞳が一番きれいだなって思う時は)


 神聖ローマ帝国の将校だけど、笑ったり怒ったり、彼は表情豊かだ。そのたびに瞳の色も色々と変わっている。

 でもこの時。

 年齢とか、異国とか関係なく、彼が軍人という立場をただ一つ背負って、使命を果たそうと集中している時に見せる瞳が、一番綺麗だと思う。

 いつもはあまり、自分からは触れたくないような素振りを見せることが多いのに、時々呆気なく触れて来ることがある。守護職としての使命に徹した時は、触れることへの恐れなど、掻き消える。彼は生粋の軍人なのだ。


「俺は他所の人間だ。まだ着任して間もないし、この国の事情は分からないことの方が多い。でも、引き受けたからには使命を果たしたいんだ。俺が守護職に着いた街で、お前やあの子供たちを、悲惨な事件には絶対巻き込みたくない」


 ネーリの手を握り締める。

「もし何か、俺に話してもいいということがあるなら、教えてくれ」

 彼は俯いた。

「うん……。そうだね……、フレディが新しい守備隊を作るんだもんね。ぼく、分かるよ。君は……。……あなたは、力のない民衆を苛めるような人じゃない……。」

 俯いたまま、ネーリは尋ねた。

「この数日、警邏隊の姿見えないけど、彼らをそうさせたのは……フレディ?」

「そうだ。事件の概要を追ってると、どうも警邏隊の連中があの仮面の襲撃者に狙われてる節があるんだ。だから、これ以上事件を起こさないために一度警邏隊の活動は中止させた」

「そう……。」

 彼にはそこまでの権限が与えられているのだ。

 神聖ローマ帝国、フランス、スペイン。

 この三国の軍をネーリは見かけた。彼らは王宮にも出入りしていて、多分王家の人間が呼び寄せたのだろうけど、詳しいことは分からない。


【シビュラの塔】……。


 重く、その姿が頭にチラつく。


「ネーリ」


 俯いて目を閉じていたネーリはゆっくりと瞳を開いた。

 立ち上がって見下ろしていたフェルディナントがもう一度、教会の床に膝をつくようにして、しゃがみ込んで、俯く彼の顔を覗き込んでいる。

「ここでの話は決して口外しないし――何があってもお前のことは俺が守る。」

 天青石セレスタインの瞳が真っ直ぐに自分を見つめて来る。

「……フレディ……」

「約束する。……いいな?」

 数秒押し黙ったが、こくん、と小さく頷いた。


「全ての人がそうって言うわけじゃないけど……少し前から街の警邏隊が変なんだ。前は……警邏隊の人たちも、こういう教会に来て、街の人と一緒に祈ってたんだよ。勤務中でも、祈る時は特別だって一緒に……。でも、数年前から警邏隊の人達がすごく暴力的になって来た。教会に訪れる人は、みんな裕福な人ばかりじゃない。迷って来る人もいる。雨を凌ぎに来る、そんな理由だっていいんだ。教会は誰も拒んだりしない。……なのに、そういう人たちが教会に入ろうとすると、暴力を振るって追い払ったり……歓楽街でも、今、店に警邏隊の制服がいると、街の人は入りたがらなくなってる。あの子たち、親になんて言われてるか知ってる?」


 まだ外で、楽しそうに飛び跳ねている子供たちを見やって、ネーリは言った。

「『警邏隊の制服にだけは絶対に近づくな』って」

「……いつからそういう風になったのか、はっきりと分かるか?」

「はっきりとは……でも三年前くらいからだと思う」

「その頃ヴェネト王国で何かあった?」

「分からないけど、思い当たるのは……今の王様が病気で臥せったのがそのくらいだと思う」

 フェルディナントは息を飲んだ。

 そして、【シビュラの塔】が火を噴いた。

「ネーリ。お前の身を危険に晒したくないから、詳しくは言えないが……俺たちも街のことは探ってる。警邏隊は貴族に雇われてる私兵団のように今は動いてるようなんだ。罪を犯した警邏隊を問い詰めても、この貴族に辿り着かない。俺はヴェネトの貴族のことはまだ分からないから……」


「……【青のスクオーラ】……」


 ネーリが小さく呟いた。

「……ヴェネトの格の高い貴族を知りたいなら、国営造船所アルセナーレを調べて。王宮に頻繁に出入りする、そういう大貴族たちが洋上で【青のスクオーラ】っていう集会を開いてることがある」

「それは……」

「王様が病で倒れてるから、特別な王家の補佐役として、選ばれた六つの大貴族がいるんだ。……今のヴェネトは一つの国じゃない。小さな力の集合体なんだ」

 ネーリがフェルディナントの頬を両手で包んだ。


「――でも!」


 思わず息を飲む。

 いつも大らかに微笑んでいるネーリが、こんな必死な表情をしているのは初めて見る。

「絶対に無理はしないで、フレディ……、警邏隊の人が街からいなくなれば、このまま街は平穏に戻るかもしれない。フレディが……新しい守備隊の人達が着任してくれれば、それで全てが済むかもしれない。それならそうして。何かを暴いて欲しいんじゃない。君が危険な目に遭うなら、何もしてほしくないんだ」

「ネーリ……」


「約束して。【青のスクオーラ】の名前も、安易に口に出しちゃ絶対ダメだよ。あれは陰の組織なんだ。……命を大切にして」


 何故、ヴェネツィアの町はずれにアトリエを持つ画家である彼が、そんな情報を知っているのかは気になった。聞きたかったが、あまりにネーリが不安げな表情でそんな風に言って来るから、フェルディナントは安心させてやりたくて――手を伸ばしていた。

 ネーリ・バルネチアの身体を両腕で抱き寄せる。

「……心配しなくていい。無理に踏み込んだりはしない。ただ街が平和になって欲しいだけだ。警邏隊は絶対に解散させる。街にはフランスとスペインの軍も護衛団を連れてきて着任してる。場合によっては三国で街の守りを強化するよ」

 フェルディナントの腕に抱かれたまま、ネーリは彼の肩に頬を預けた。

「その二つの国の船も港で見かけた。……みんなは誰に呼ばれてここに来たの……?」


「……。……誰だろうな」


 本当に、それは的を射た問いだ。

 誰が、何のために自分たちをこの地に呼んだのか。

 あの忌まわしい【シビュラの塔】なのか。

 王宮に咲く悪の華か。

 それとも別の……何かなのか。

 ネーリを抱く腕に力を込める。


(でも例えどれだとしたって、俺は……)


 この地に来たことを後悔なんてしない。

(お前に会えたから)

 込み上げる思いをどうにかしたくて、フェルディナントは自分の肩に頬を預け、目を閉じているネーリの首筋に唇を押し付けていた。



◇   ◇   ◇


「へ~。ここが神聖ローマ帝国の駐屯地か~」

 執務室で仕事をしていたトロイは、振り返った。

 そこに見慣れない若い将校が二人、入って来る。

「俺んとこに比べると全然狭いね~」

「アホか! 本人目の前にしてそんなこと言うなや!」

「鳩尾に肘打ちしないでよ。最近流行ってんの? 俺最近鳩尾攻撃されすぎてなんかその辺微妙にいつも痛いんだけど、これってもしかして骨とか折れてませんよね?」

「誰に聞いとんねん」

 イアンが舌を巻いて言い返している。

 漫才のようなやり取りをしながら入って来た二人を、怪訝な表情でトロイは見た。

「あの……申し訳ありませんが客人は東館の方で……」

「ああ、ちゃうねんちゃうねん! 客人なんてそんな大層なもんやない。お宅のとこのフェルディナントに旧友が会いに来たって伝えてくれへん? 俺はスペインのイアン・エルスバトいうもんや」

 トロイは立ち上がった。

 すぐに敬礼をする。


「失礼いたしました。スペイン艦隊総司令官イアン・エルスバト将軍ですね。

 私はフェルディナント様の副官トロイ・クエンティンと申します。

 申し訳ありません、将軍は夜警に出ておられ、まだ街から戻られていません。とはいえ、もうすぐこちらには戻ると思うのですが」


「おー。さっすがあいつの副官。優秀やな。いや。俺も徹夜明けやねん。駐屯地戻る前にそや昔の友達に挨拶しとこー思ってな」

「そうでしたか」

「俺もさっきまでフェルディナントがここに来とるってこと知らんかったんや。あいつとはスペイン陸軍の士官学校で学友やったんよ。こいつは……まあ語って聞かせるようなもんやないからええよな?」

「ええくないよ。なに人の紹介面倒臭くなってんのイアン君。君、時折そういうことあるね?」

「やかましいわ。黙っとれ」

 その時、軍靴の音が聞こえてきた。


「――トロイ、遅くなってすまない。休む前に新しい部隊の」


 現われたフェルディナントに、トロイが敬礼し、何かを言う前にイアンが歩み寄る。

「おわー! ホンマや! フェルディナント! ひっさしぶりやな~~~! 俺のこと覚えとるか⁉」

 親し気にバシバシと肩を叩かれ、一瞬怪訝な顔を見せたが、フェルディナントはすぐ気付いた。

「イアンか」

「背ぇ伸びたなあ~ あんのチビがこんな大きくなって。久しぶり!」

 旧友二人は手を握り、軽く肩を抱き合った。

「お前も、元気そうだな。トロイ、俺の部屋で話す。この資料に目を通しておいてくれ」

「了解しました。ただいまお茶をお持ちいたします」

 三人で一度外に出る。

「へぇ~。あれが『竜』ってやつ?」

 ラファエルが興味深そうだ。

「ああ」

「王妃が嫌ってたよ~~~~~」

「まあそうだろうな」

「おっ。意外と冷静なんだね?」

「竜騎兵団の騎竜は愛玩動物じゃない。頭を撫でてもらう必要はない。嫌う人間はいるだろうけど、有事の際にあんなに頼りになる奴らはいない。竜に助けられれば、姿への恐怖なんてどうでも良くなるさ。特にヴェネトの街は入り組んでる。何かあった時に空路を使えるのは必ず強みになる」

「そうやなぁ。なんか城下で事件多発しとるらしいけど、意外なほど混乱は広がってへん。お前らの火消しが上手く行っとるからやろな」

「イアン。丁度いいお前に頼みがあったんだ」

 隣接する騎士館に入り、フェルディナントは客間ではなく自分の執務室の方に二人を連れて行った。抱えてきた資料を机に置く。

「俺に頼みって?」


「スペイン艦隊がいずれ海上演習をするだろ。その時に竜騎兵団も共に飛行演習をさせてほしいんだ。王妃が竜騎兵団を非常に警戒して、集団行動が規制されてる。市街上空以外の単独飛行は許されてるから、巡回は今はそうやってるが、あまり飛ばしてないと騎竜も戦の勘が鈍って来てしまう。お前たちの演習に紛れて行えば、さほど角は立たないかもしれないから。それで王妃に提案して、許可をもらえればそうしたい」


「んー。お前の頼みなら聞いてやりたいし、俺としては一向に構わんけど。ちょっと検討してええか。俺としてもまだ王妃に挨拶も出来てない。噂は色々聞いとるけどな……自分の目でもどんな人間が確かめんと。猜疑心の塊みたいな奴やったら、お互いの領域が確立されるまでは、共同で何か行うとか、むしろ控えた方がええで。スペイン艦隊と神聖ローマ帝国の竜騎兵団が力を合わせてなんぞしてきおったら大変や、なんて思われるだけで得策やないやろ?」


「確かに、それはそうだな」

「お前んところの事情は分かった。俺も二日後に王宮に挨拶行く予定になっとるから、ちょっと待ってくれるか」

「ああ。分かった」

「フランス艦隊は無視なの?」

 ラファエルがにこ、と微笑む。イアンが面倒臭そうに、額を掻いた。

「あー……こいつは……まあフランスのそういうやつや……。俺の友達やないから、お前も気を遣わんでええで……」


「なによそのやる気のない説明~~~~。フランス王弟オルレアン公の息子にしてフランス艦隊【オルレアンローズ】の総司令官にしてフランス聖十二護国の一つフォンテーヌブロー公爵家当主ラファエル・イーシャ様に対してさ~~~。また噛まずに言えた♡」


 フェルディナントが小さく息を飲んだ表情をして、ラファエルは機嫌が直る。

「このアラゴン野郎は俺の肩書に一切敬意を示さないからつまんないんだよね~~~~。

 俺が期待してるのそーいう反応。よろしく~」

「勘違いすんな。お前の肩書には敬意は払ってる。俺はお前個人に敬意を払ってないだけや。」

 きっぱりとイアンが言った。

「……よろしく」

 フェルディナントは一応、ラファエルから差し出された手を取って挨拶を返した。


「神聖ローマ帝国のフェルディナント・アークだ」


「よく知ってますよォ。うちのイル・ド・フランスを随分可愛がってくれたしねえ。まあでもここにいる限りは偉大なるヴェネト王国様にこき使われる苦労人三匹だから。出来る限り仲良くしようね?」

「……ああ、そうだな」

「こんなこと言っとるけどな。こいつ王妃様にそれはそれは気に入られおったそうやから。

このままにしとったらあかんで。フェルディナント。面倒なことは全部こいつに押し付けて、こいつが手痛いミスすんのコツコツ狙って行かな」

「今、絶対『フランスを窮地に入れる作戦』が発動したね⁉」

「この前もソレなんぞ言っとったけどなんやねん……」

「ああ、気のせいだったか……」

 腕を組んで浮かしかけた腰を下ろし、ラファエルが落ち着く。

 騎士が客人にお茶を入れて、下がって行く。

「……ここ女の子いないのね……」

 女官じゃなかったことにラファエルががっかりしている。

「最初いたんだが竜を怖がって辞めてしまった」

「はぁ、そうですか……お馬ちゃんだったら女の子に逃げられなくて済んだのにねえ」

 ラファエルのことは無視して、イアンは明るい表情でフェルディナントを見た。

「お前がここにいるってこと、ここに着いてから知ったよ。ホンマ久しぶりやな」

 フェルディナントも少しだけ表情を崩す。

「俺も今知ったばかりだよ。誰が来るのかとは思っていたんだが」


「元気やったか。フェルディナント。……【エルスタル】の話は聞いた。お前が継いだことも。……酷い話やったな……。けど、だからこそお前がここに来てる思わなかってん。

皇帝からの勅命か?」


 イアンからは、自分を気遣う気配がちゃんと伝わって来たので、フェルディナントはこの話も不愉快には思わなかった。

「勅命だったが、あくまでも俺のことは気遣って下さったよ。ここに来ると決めたのは俺自身だ。来たいと思ったわけではないが、他の誰かがここに送り込まれて、自分が国で、何もせずに何かを待っていたいとは、思わなかった」


「……よく分かるわ。俺もそやねん。こんなとこ、全然来たくなかったけど。誰かが何かをしなければならんのは分かったから。兄貴たちも姉貴たちも、国でそれぞれ重要な役目に着いとるし、結婚して独立して家族とか領民とか抱えてる。婚約しとるのもいるしな……。その点末っ子の俺はまだ重要ってほどの国の役目には着いとらん。そんだったら……――まあ、俺が来てここぞとばかりにいつも俺をこき使って苛めとる上の兄弟たちに恩売っとくのもええな! と思ってな!」


 わざと明るくそう言ったが、フェルディナントは理解した。

 彼がスペイン陸軍の士官学校に入学したのは、異例の若さだったので、随分異質な目で見られた。スペイン出身でもなかったので怪訝な顔もされた。だがイアンだけは、お前チビのクセに優秀な奴やな~~~~頭ええわ! などと初対面で頭をわしわし撫でてきて、いつも友好的に付き合ってくれたのだ。仲が良かった友人の一人だ。

 彼は親が厳しい、上の兄姉が末っ子の俺をこき使ったり苛めて楽しむから嫌だ、などと常に身内を愚痴っていたが、その当時は妹もおらず、兄弟の末であったフェルディナントは、身内に愚痴を言って楽しむような空気の家族でさえなかったので、本当はイアンが憎まれ口を叩きながらも、自分の家族たちを愛しているのが分かった。


 彼は友人や家族を、非常に大切にする。今回、この危険な任務を、他の兄弟に任せてはいけないと思って、自ら出て来たのだろうことは分かった。


「……お前ならそう考えるだろうな」


 少しだけ優しい声でそう言ったフェルディナントに、ニコニコしていたイアンが突然表情を変えて、腕を伸ばしてガシッと抱き寄せて来た。

「フェルディナント~! お前やっぱええ奴やな! あかん! なんか久しぶりにお前の顔見て気持ち緩んだわ!」

 彼は泣いていた。


「国がまだあって、身内も山ほどいる俺には、お前の本当の辛さは分かってやれんけど。

きつさは、察して余りあるつもりや。一瞬で母国が亡くなるなんて、……俺なら絶対耐えられへん。お前は強いな。お前は、守ってやれなかったとか、そういうんを考える奴やけど……。自分を責めたらあかんで。悪いのは、悪さをした奴や。自分を責めて、そうし過ぎて、命とか粗末にしたら絶対あかん。

 お前は絶対生き延びて、【エルスタル】の名前を残していけ。

 それが、お前を孤独にしやがった奴への、一番の復讐やから。

 お前は絶対に幸せにならんとアカンで。フェルディナント。

 国を失ったお前が皇帝陛下の為やってここに来たこと、偉い思ってんで。俺は。

 確かにスペイン艦隊率いてる立場はあるけど、なんかあったら俺に言え。俺は出来る限りお前の力になったるからな!」


 ラファエルはソファの背もたれに肘をつき、二人の様子に苦笑している。


 イアンは、多分自分では違う理想像を目指しているのだろうが、普段クールに見せようとしていても、彼の情の篤さが災いして、こういう時に素が隠し切れない。他人の痛みに同調し、力になってやらなければという感情が押さえきれない、非常に情熱的な性格をしていた。

 フェルディナントがここにいると、ラファエルから聞いた時は、そんな反応は見せなかったのだが、いざ本人を目の前にすると、国を失い、たった一人で神聖ローマ帝国の為にとこの地に来たフェルディナントの姿を見ていると、感情を殺せなかったのだと思う。

「お前のそういうとこ、ほんと鬱陶しい」

 ラファエルは優しい声で言った。

「……でも嫌いになれないんだよねえ。」

「……喧しいわ……黙っとれフランスのアホが……」

「イアン君それ俺の上着だから。鼻とかかまないでお願い。新調したばっかのやつ一応言っとくけど」


 フェルディナントは泣いているイアンの肩を軽く叩いた。ありがとう、という意味だ。


 お互い別の国の命運を背負っているから、どうなるかは分からないけど。気持ちはありがたく受け取っておく。何より、幸せにならないといけないという彼の言葉は、今のフェルディナントの胸には響いた。

 ネーリ・バルネチアに瞬く間に惹かれて行く自分に、戸惑いがあったからだ。

 国を失ってここにいるのに、彼と会ってる時に心が安らぎ過ぎて、罪悪感を時折感じるほどだった。でも、イアンの言葉を聞いて、別にいいのだと。

 失った人間が、何かを得ても、それは失われたものに対する裏切りではないのだと、そう誰かに言ってもらえたような気がして、心が安堵した。


 イアンが泣いていたので、しばらくラファエルと、互いの軍の状況や、ヴェネトについての印象などを話していた。そのうちに感情が昂っていたイアンもようやく落ち着いてきたようで、話に加わる。そのうち昼の鐘が駐屯地に鳴り、そうだ寝なきゃいけなかったんだなと彼らは思い出す。


「俺らが寝てるうちはお前が街を見回っとけよラファ」

「なんでよ」

 ラファエルが笑っている。

「お前は昨日の夜だって普通に寝とったやろが」

「俺も帰ってお昼寝する。イアン君。君、俺が夜どのくらい勤勉に働いてるか知らないね?」

「腹立つわ! この野郎! フェルディナント、絶対こいつにヘマさせたろうな!」

「今『二国が手を携えてフランスを窮地に追いやる作戦』発動したね⁉ っていうかもう恥ずかしげもなく大声ではっきり宣言したね⁉」

 ラファエルを無視して、イアンが部屋を出ていく時に振り返る。

「夜勤明けに、邪魔して悪かったな。また連絡するわ。お前よぉ街に出とるんやろ。美味い店でも今度教えてや。一緒に飲も。あ、勤務外でな!」

 士官学校時代も頑として任務中に羽目を外そうとしなかったフェルディナントを思い出し、イアンがそう付け足すと、彼も笑った。

 イアンはどちらかというと気分で飲んだりしてしまうので、その頃随分飲め、いや飲まないで喧嘩をした。今では笑えるような、可愛いケンカに過ぎなかったが。

 フェルディナントも小さく笑い、「ああ」と頷く。

「そや。近いうち街案内してくれへんか? いつも港から近道して駐屯地戻ろう思て迷子なるねん」

「いいぞ。俺は大体、頭の中には叩き込んだ」

 イアンが口笛を吹く。

「さすがやな。おまえは偉い」

 んじゃな! 手を上げ、廊下を去って行った。

「じゃあ俺も戻るけど。あいつの説明じゃ、俺のすごさがいまいち伝わんなかったと思うけど、俺はスゴイから仲良くしといた方がいいな、って思ってた方が君の為…………」

 だよ、と言葉を結ぼうとして、ラファエルはフェルディナントの肩越しへ視線を向けた。

 相手の視線がずれて、フェルディナントも気づいた。

 窓辺に飾った一枚の絵。

 許可もしていないのに、ラファエル・イーシャは勝手に部屋に入って来た。

 絵を間近で覗き込む。


「――この絵……」


 贈ってもらったネーリの絵だ。

 朝日の中の干潟を描いたものである。

 執務室にはこういったものを置かない傾向のあるフェルディナントなのだが、何かと心労絶えないヴェネトでの勤務になりそうなので、側に置くことにしたのだ。今は執務室に飾っているが、動かしやすい大きさの絵なので、フェルディナントは律儀に仕事が終わり、隣の私室に戻る時は、絵を連れて戻るようにしている。私室ではベッドの側の棚に飾るのだ。色々なことを考えてしまう夜に、この絵が側にあると、不思議と心が落ち着いて眠れるからである。

「……その絵がどうかしたか?」

 まじまじ、とラファエルが見ているのでさすがに声を掛けた。

「いや……。俺は、もっと派手な感じの絵の方が好みなんだけど。……この絵はいいね。素朴だけど、美しい」

 ラファエルの第一印象がなんだか五月蝿い奴だな、という感じであまり良くなかったフェルディナントだが、絵を誉められて少し心が和らいだ。

「ああ……。そうなんだ。俺もそう思って……あまりこういうものを手元に置くことは無いんだが」

 食い入るように見ていたラファエルは、屈めていた長身を元に戻す。手を顎に添えて、少し考えるような仕草を見せた。


「いや。俺はそれなりに絵を見る目はあるって思ってるけど。――すごくいいね。ヴェネツィアが映ってる。外からの絵だ。この朝靄の隙間に見える海の青……。素晴らしい」


 指で辿るようにして、そう言った。

「これを描いた画家の名が知りたいな。他にどんな絵を描いてるのか知りたい。ヴェネトの画家? アトリエを訪ねてみたいな。どこかの貴族お抱えの画家なんだろうか?」

 ああ、と言おうとして一番最初、軍人の自分の素性を、一瞬だけだったがネーリが警戒するような素振りを見せたことを思い出した。


(……言い訳かな)


 あの教会は、自分とネーリ二人だけが知っている場所にしたいなんていうのは。

「いや……そういうのではないと聞いたが。すまない、彼は幾つかアトリエを持っているらしく、はっきりとした拠点は分からないんだ」

 ラファエルは特にフェルディナントの話を変だとは思わなかったようだ。

「そうなのか。へぇ……芸術はフランスが一番だって思ってたけど。ヴェネトにも腕のいい画家がいるね。俺たち、短い赴任にはならなそうだろ? だから使わせてもらってる迎賓館にも好みの絵を飾りたいなって思ってたんだよ。まだ気晴らしを見つけられてなくて。

でもこんな画家がそのへんに転がってるなら、期待出来そうだね。ありがとう。いい絵を見せてもらったよ」

「いや……」

 ラファエルが歩き出す。

「戦するしか能がないのかと思ってたけど。さすがの審美眼だね、フェルディナント将軍」

 部屋を出ていく時に肩越しに振り返って、フッ、と笑みを見せた。


 フェルディナントは扉を閉めると、絵の側に戻った。

 海と空の狭間。

 光が優しく広がる。


 ……ネーリの寝顔もこんな風に優しいのだろうか、とそんな風に考えてフェルディナントは頬に熱を感じた。額を押さえる。

 目を閉じると、数時間前の出来事が鮮やかに脳裏に蘇った。


 首筋に唇を感じて、さすがに両肩を跳ねさせたネーリが驚いた表情で自分を見上げてきて、心の奥を曝け出すほど瞳は無垢な驚きに見開かれていて、どこまでも覗き込めるのに、そこにフェルディナントを否定するようなものが一つもなくて、嬉しさで――もう、唇を奪ってしまいたかったのに、寸前で聖堂の鐘が鳴って、ハッと一瞬、他人の身体に許しもなく触れるという罪と、自分が向き合わされているような気持ちになった。


 自分の理性と、そうでないものの、深い谷底を覗き込んでるみたいだ。


 子供の頃から、骨の髄まで叩き込まれて来た、騎士道精神が、鎖のように自分の四肢を縛る。 

 身動き出来なくなったその時自分の瞳が、繋がったままの自分とネーリの手を捉えて、じゃあこの手を放して、二度と会いに来ない覚悟などが自分に出来るのかと思ったら呆気なく答えは出ていた。

 ネーリの唇を指先で押さえると、自分の指越しに唇を押し付けていた。


 深い谷底も、

 四肢を縛る鎖も、

 そんなものは存在しなかった。

 単なる幻想だ。

 偽りのない思いがあれば、自ずと答えは出る。


 ネーリの頬が染まって、本当に薔薇色に見えた。フェルディナントは唇を放すと、立ち上がり、別れも言わずに足早に教会を後にしていた。あれ以上あそこに留まったら、ついにはあそこが聖堂だとか神の家だとか、そんなこともどうでも良くなりそうな自分を強く自覚したのだ。

 しかも、心底、喜んで堕ちて行きそうな自分が。


「……ネーリ……」


 光の干潟に眠る、水の都ヴェネツィア。

 フェルディナントは彼を少しでも近くに感じたくて、絵に額を触れさせた。



◇   ◇   ◇



「遅いねん。何しとった?」

「いや。別に。お前がペラペラ喋って全然俺あいつと喋れなかったから。俺はすんごい金持ちで、すんごい高貴で、すんごいモテるんだよって改めてあいつに釘を刺しといた。これで夜会で鉢合わせても、可愛い女の子はみんなラファエル様のものだから声をかけちゃいけないと震え上がって理解しただろう」

「お前の存在意義が分からんわ……」

 イアンはラファエルが馬車に乗り込むと、出せ、という合図をつま先で馬車の壁を軽く蹴り、御者に伝える。

 走り出した馬車の窓辺に頬杖をつく。


「フェルディナントの奴、全然変わっとらんかったな……。昔から寡黙だけど、ええやつやねん。あいつ、あんな風に言ってたけど、あいつも神聖ローマ帝国じゃ皇帝陛下の覚えめでたく将来を嘱望された軍人で、爵位持っとる。

 ああ、違う。あいつの父親は【エルスタル】の王や。

 あいつは王族なんや。……だからなんかな、あの誇り高さ。

 自分の国を滅ぼした張本人の王妃にも、膝を折れる。

 国の為や。

 あいつは滅び去った【エルスタル】っちゅう国を、間違いなく背負っとんのや」


 ラファエルに語り掛けるというより、独り言のようだった。

「あいつこそ、ヴェネトで結婚してここで骨埋めろとか命じられたらどうすんのやろな……」

 呟いて、イアンはカラカラと石畳を走る轍の音しか聞こえないことに気付く。隣に座ったラファエルが、同じように頬杖をついて、反対側ヴェネツィアの市街の景色を眺めていた。

「おい」

 イアンが軽く、足首だけ動かしてラファエルに蹴りを加える。

「……ん? あ、ごめん。ボーっとしてた。なに?」

 イアンは深く溜息をついた。

「お前は暢気でええわな……」

 彼の悪態を風のように聞き流して、ラファエルは愛し気にヴェネツィアの街並みを眺めた。


(ジィナイース)


 自分が彼の絵を、見間違えるはずがない。

 ついさっきまで、彼にとって無意味だった世界が、途端に輝き出す。

 彼という存在がそこにあるだけで――。


 やはりこの街に彼はいるのだ。


(待っていて)


 子供の頃、右も左も分からない夜会で、ラファエルが心細くしていると、彼はいつも自分を見つけ出してくれた。凡庸な子供だと、親でさえそう言ったのに、彼は出会ったその時から、君は素敵だよ、と誉めて、優しく手を繋いでくれた。

 ラファエルは、無償の愛情というものを、親ではなく、彼に教えてもらったのだ。


(すぐに俺が見つけ出す)


 十年前、再会を約束して、そのまま海を遠く隔ち、引き裂かれた。

 ジィナイースは自分を、覚えてくれているだろうか?

 子供の頃の別離。

 例え忘れていたって、相手を責められないほど、離れていた。

 だから忘れられていたって、少しも彼を責める気は無い。

 でももし、少しでも覚えてくれていたら。

 そう考えると初恋を覚えた少年のように胸がドキドキした。

 ラファエルは静かに目を閉じる。


(今度は俺が、君を必ず見つけ出してやる。

 この、意味の分からない、君の名を汚す世界から)


 必ず救い出す。





 






【終】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る