第2話 彷徨うラピスラズリ
子供の泣き声がする。
周囲に自分は泣いているんだと訴えるようなものではなく、
泣いていることを知られたくない、と必死に堪えて、けれどひっく、と泣きじゃくる音が隠しきれていない、そんな泣き声だ。
『どうしたの?』
薔薇の樹の裏を覗き込むと、しゃがみ込んでる姿を見つけたから、声を掛けた。
びく、と身体が震えて、振り返ると、大粒の涙が零れていた。
「だいじょうぶ?」
少年は俯いた。
「どこか痛いの? お医者さん呼んで来てあげるよ」
首を振る。
痛くはない。
「……こんな夜会、嫌いだ」
華やかな王宮。
煌びやかな宝石、美しい衣装、夜通し、旋律は歌う。
声を掛けた少年は、夜会は好きだった。
この日は遅くまで起きていても怒られない。朝方まで大人たちが踊ったり、笑ったり。
わくわくする。
「ぼくは好きだよ。
綺麗なものや、美味しいものがたくさんあるもの」
そんなもの、どうでもいい。
「こういう夜会だと、僕のこと、みんな無視するんだ。
お母様も、お父様も、兄弟も。
僕は勉強も楽器も馬にも乗れないから、……役立たずだから、要らないんだって。
他の兄弟のことは、お母様は他の人たちにいっぱい誉めてくれるのに、僕のことは無視するんだ。
『この子はのろまで、要領が悪いから、一番見込みがない』って言ってた」
「そんなことないよ」
「いいよ。わかってる。本当のことだもん。
ぼくはバカだし、勉強も剣も下手だし、何の取り柄も無いよ。
自分でも分かってるけど、他の人の前で悪く言うなんてひどいよ」
少年は近づいて来て、泣いてる少年の背を撫でた。
「そんなことないよ。これから頑張れば大丈夫だよ」
「頑張ろうとしたけど、駄目だったんだ。結局、お兄様やお姉様の方がすごいから、やってもお母様やお父様をがっかりさせるんだ。こんなに何やっても出来ない子は初めてだって。見たこと無いって言われた……。僕は役立たずだから、誰にも好きになってもらえないんだ……」
大粒の涙が零れている。
「そんなことないよ」
「いいんだよ! ほっといて! こんな所で泣いてたらまた兄弟に馬鹿にされる!
泣き虫だって! 女みたいだってバカにされるんだ。だからあっち、行ってよ!」
少年が癇癪を起こすと、掛ける言葉も無くなったのか、遠ざかる気配がした。
折角慰めてくれた人にも悪態を付いて。
こうやってどんどん、人に嫌われて一人になっていくんだ。
少年が泣きじゃくっていると、十分ほどして。
「ねえ」
また声がした。
振り返ると、さっきの少年がまた立っていて、何かを差し出して来た。
一枚の紙だ。
青色に塗られている。
青一色じゃない。
絵に描いてあるのに、宝石みたいだ。
海のように暗い青でもない、
晴れた空のように白くもなく、
澄み切った湖のようだけど、でももっと、輝いている。
何色なんだろう。
青だけど、青じゃない。
もっと光り輝くもの。
美しいと思ったけど、差し出された意味が分からなくて、彼は差し出した少年の顔を見る。
月明かりの下で、彼は微笑んでいた。
「あの……これ……」
「ぼくが描いたの。きみにあげるよ」
「えっ」
僕が描いた?
驚く。
目の前の少年は自分と同じくらいだ。背はなんだったら、彼の方が少し小さいくらいだ。
「きみの瞳の色だよ」
「え……」
優しく、瞳を覗き込んで来た。
「こんなに綺麗な青い瞳、見たことないよ。
きみはこんなに素敵な瞳を持ってるんだもの。
役立たずなんかじゃないよ。
きっと多くの人が君のことを大好きになるよ」
手元の紙を、もう一度見下ろした。
「……これ、僕の瞳の色?」
「うん。光を吸い込んだ時の君の瞳の色だよ。
さっき振り返った時そこのランプに照らされて、こんな色に見えた」
こっちだよ。
少年が手を取って、数歩、動いた。
頭上に掲げられた、庭園を照らすランプ。
少年が目を輝かせて微笑む。
「ほら。この色だ。
こんなに綺麗な青色見たこと無いよ。
すごいよ」
自分の瞳の色なんて、自分で見たことが無かった。
それに誰も、自分の顔をそこまで見てくれる人はいないから。
たくさんいる兄弟の、末っ子。
多忙な両親は下の子供にあまり興味は持ってくれない。
世話係はたくさんいたけれど、他の兄弟ばかり誉める。
自分がこんな綺麗な瞳を持ってるなんて、信じられないけど。
でも、きっと落ち込んでた自分を励ましてくれたんだろうなと思う。
「ありがとう……」
少年は首を振って、服から美麗なレースのハンカチを取り出すと、優しく濡れた頬を拭いてくれた。
「これで大丈夫だよ。
でも君の瞳なら、泣いてもキラキラして綺麗だね」
そんな風に言われて赤面する。
自分が泣くと、いつも周囲は迷惑そうな顔をするのに。
「ねえ、一緒に夜会を見て回らない?」
「見て回る?」
「ぼく、ここの王宮はちょっと詳しいんだ。
綺麗な部屋とか庭を案内してあげるよ。
ダンスホールで踊ってる人の服装を見るんだ。ここは王宮だから、招かれた人も身分の高い人が多いでしょ。つけてる装飾品もほんと素敵なんだよ」
夜会なんて、両親は知り合いに挨拶して回るし、兄弟たちはいつも誰かに声を掛けられて踊りに行ったりする。踊りも下手な自分とは、誰も踊ってくれないし、踊ってもつまんなそうな顔するから、嫌だった。壁に背を預けて、何時間も、自分を無視する世界の中で、ジッとしてなければいけなくて。
夜会なんか、大嫌いだった。
「美味しいケーキもいっぱいあったよ。お菓子も。甘いもの嫌い?」
首を振る。
よかった、と彼は明るい表情になる。
「行こ!」
彼は自分の手を握って、歩き出してくれた。
「……あの…………きみは……」
彼は振り返った。
「ぼくはジィナイース。
ジィナイース・テラだよ。きみの名前は?」
手を握って、
微笑みかけて、
優しく、自分にそんなことを聞いてくれた人は初めてだった。
「ら、ラファエル」
ヘリオドールの瞳が明るく輝く。
「ラファエル・イーシャ……」
◇ ◇ ◇
「ラファエル」
額を撫でられ、目が覚めた。
「目、覚めた?」
「んー……うん……、」
「相変わらず寝起きが悪いわね」
くすくす、と笑っている。
「ちがうよ……一晩中波の音が気になって……眠れなかった……」
「あら。やることやったら自分だけ気持ち良さそうに寝ちゃったくせに」
女が紅茶を淹れている。かぐわしい花の香りがして来た。
一瞬、波の音を忘れるような気分になり、安心した。
身じろいで、うつ伏せになり、目を閉じる。
幼い頃の夢を見ていた。
とても幸せな夢だ。
もう少し、見ていたかった。
うつ伏せになり、また柔らかな枕に埋もれて微笑んだまま目を閉じている金髪の貴公子に、女はくすくすと微笑う。
「ラファエルってば、貴方はホントにヴェネトに来ても全然変わらないのね」
「んー?」
「私なんて、ヴェネト王太子が来月十六歳になって、花嫁探しをするらしいからって今からお父様の言いつけでここに来たのよ。こんな野蛮な国」
「野蛮?」
「【シビュラの塔】」
「ああ……」
「お母様なんて泣いて喧嘩してたわ。貴方は可愛い娘を、あんな化け物を他国にけしかけるような悪魔の所に嫁がせる気か! って。そんなに強くお父様に言う人じゃないのに、大げんか。でも結局、そういうことを言われてここに来てる女の子たちは多いのよ。いくらなんでも王太子の実家は消滅させないでしょ? だから、何としてでもヴェネト王国の世継ぎの王子の心を射止めなきゃいけないんだって」
「女の子は大変だねぇ……というかそんな大層な使命を背負ってここに来た君が、俺とこんな風に遊んだりしてていいの?」
いじわる! と花瓶の花を一本抜き放ち、彼女は投げつけて来た。
「ラファエルってば本当に暢気なんだから。貴方のお父様もよりによってなんで貴方を使節団に選んだのかしら。どう考えても戦向きの人じゃないのに……」
「逆さまじゃないかな? 今、本国にいたってイングランド戦線のことを考えなきゃいけない。僕がいたって全く役に立たないと思うよ。その点、ヴェネト王国での任務は夜会に出て、件の冷酷非情な王妃様に気に入られることが最優先。
夜会ならフランス王家の中で僕が実力随一さ。
王妃の愛人の実家だってきっと消滅させられないと思うんだけどどうかな?」
ぶふ! と令嬢らしからぬ吹き出し方をしてしまって、彼女は「紅茶を飲んでる時に笑わせないで」と注意した。それから立ち上がり、折角すでに支度を整えたのに、まだベッドで寝ているラファエルの裸の背に、もたれかかって来る。
「……でも、貴方のそういう大らかな所って、わたし好きよ。
なんか安心するのよね。毒気も抜かれるっていうか。その瞳のせいかしら。……ねえラファエル、貴方は怖くないの? あの王宮にいる人たちは…………恐ろしいことをする人たちよ」
「全然」
「ホントに?」
令嬢は驚いて、ラファエルの顔を覗き込む。
「ぜーんぜん。まあ他国を三つ一瞬で消滅させといて説明もないとかは、いい度胸してるねえとは思うけどね」
「私は怖いわ。あんな恐ろしい力を持ってるんですもの」
「大丈夫だよ。なんとかなるさ」
「貴方って昔から全然その性格変わってないのねえ。特別秀才ってわけでもないし、特別武術に秀でてるわけでもないのに。それでも貴方って、現われるとその場の空気を独占しちゃうのよね。本当に不思議な才能だわ」
「僕は芸術の女神様に愛されているから」
本当に、こっちの心を蕩けさせるような笑顔で、彼は微笑った。
◇ ◇ ◇
『ラファエル』
また夜会があった。
嫌だと思ったが、もしかしたらまたあの子に会えるかもしれないと思って、いつものようにひとりぼっちにされると、庭の方に出て彼の姿を探した。見つからなかったので、急に孤独が悲しくなる。涙が零れそうだった目を擦っていると、頭上から声が掛かった。
ジィナイースが二階のテラスからこちらを覗き込んでいる。
「ジィナイース」
「また会えたね。君が今日もいるかなあって探してたんだ」
そっちに行くよ。
自分を探してくれる人がいるなんて、ラファエルは思いもしなかった。
嬉しくて、うんと頷くと、身を乗り出したジィナイースがいきなり飛んだ。
確かに、ここは庭園の外周通路だから、普通の二階よりは下が近い。
それでも二階だ。
「わあああああああ!」
人が宙に舞って、ラファエルは声を上げた。
しかし、くるんっ! と上空で一回りして、少年は見事に地面に着地した。
「じじじじジィナイースっ!」
顔を真っ赤にしてラファエルが慌てていると、ジィナイースは何事もなかったかのように歩いて来た。
「どうしたのラファエル?」
「……きみ、可愛い顔してるけど随分無茶をするんだね……」
「? おじいちゃんのお家ではもっと高い所から飛び降りてるよー。下が綺麗な池だから、飛び込むととても気持ちいいの」
そうだ、とジィナイースが手に持っていた筒から、紙を取り出す。
「君に見せたかったんだ」
なんだろう、と思って丸まっていた紙を開いてみると、ラファエルは驚いた。
そこに、自分がいた。
「これ……ぼく?」
ジィナイースが微笑った。
「この前、君とお別れした後どうしても描きたくなって描いたんだ。君の瞳の色がなかなか上手く出せなくて、何枚も描き直したけど、これは気に入ったから君に見せたかったの」
ラファエルはもう一度、描かれた自分を見る。
自分だと、分かる。
それくらい、上手だった。ジィナイースはどう見たってまだ子供だけれど、これは子供の描く絵じゃない。ラファエルは芸術にはそんなに詳しくないけれど、家が裕福だから、日々価値のある芸術は、嫌でも目に触れる環境で生きてきた。
だから、分かる。
これは芸術家の絵だ。
絵の中の少年は、本当に不思議な明るい青い瞳をしていて、整った造作をしていて、魅力的な子供だった。ラファエルは自分をそんな風に思ったことはないし、他人からそんな風に誉められたこともない。
でも、絵の中に描かれた少年が誰を描いたかは分かる。
それくらい自分に酷似していたからだ。
「気に入ってくれた?」
はっ、とする。
言葉が出なくて、こくこく、と大きく頷いた。
「よかった。じゃあ、それは君にプレゼントする。受け取って」
「えっ、い、いいの?」
「だって君を描いたんだもの」
ジィナイースは歩き出す。
美しい薔薇の花の香りに、顔を近づける。
「ぼく、綺麗なものを見ると、すごく感動するの。感動すると、その気持ちを表現したくて、絵に描きたくなる。自分一人で、部屋の中でじっとしてても、絵は描きたくなれないんだ。だからぼくに綺麗だと思わせてくれる物にも、人にも、他の色んなものにも感謝するんだよ。だからラファエルにも感謝してるんだ」
感謝だって。
彼の為に、べつに何にもしてあげてないのに。
ジィナイースが薔薇の花に手を伸ばした。
「だめだよ! 棘で怪我する!」
慌てて駆け寄ると、ジィナイースはすでに、白い薔薇を摘んでしまった。
「大丈夫だよラファエル。この薔薇は花の周りには棘がない種類だから」
ほんとうだ。
大慌てした自分を恥じて、ラファエルは真っ赤になる。
「ご、ごめん。こんなに素敵な絵を描く君の手が傷ついたら、大変だと思って……」
そんな風に言った少年に、ジィナイースは目をぱちぱちとさせたあと、柔らかい表情で微笑んだ。
「ありがとう。優しいんだね」
一瞬、頬にジィナイースの唇が触れた。
彼は摘んだ白い薔薇をラファエルにくれた。夜会で花をもらったことなんて、人生で初めてだった。
「ねえ、君はこの前も庭にいたよね? 庭が好きなら、今度僕のおじいちゃんの家に来て。
とても綺麗な庭があるんだよ。きっと君も気に入ってくれるはずだから……」
ラファエルの手を握って、ジィナイースは歩き出した。
――その日から。
自分の人生は一変したのだ。
少年時代の、ごく短い間のことだったけど。
(あの時が、人生で一番幸せだった)
◇ ◇ ◇
ふわぁ。
「……まだ扉は開いてませんからね、ギリギリセーフですよラファエル。でも外で欠伸したら本当にまた鳩尾を攻撃しますからね私は……。いいですか、この夜会の間は、一瞬たりとも気を抜かないでください。ここはフランス本国ではないのです。いつどこでなにものが見たり聞いたりしているか分かりません。ヴェネト側も、フランス・スペイン・神聖ローマ帝国の三国を招いたということは、恐らく、この三国の中から自分たちの軍事的なパートナーを選ぶつもりなのですから。いつどこで何者が貴方を見ていても、感じのいい青年だわ~と思われるようにしてください!」
ふわぁ。二連発だ。
「ん~~~でも俺が別に感じのいい青年だわ~~~って思われなくても、父上ご自慢のフランス海軍の駆逐艦八隻がビシッ! としてくれてれば、素敵な海軍だわ~~~って思ってくれるんじゃないかなあ」
「ダメです! 確かに我が海軍は本来イングランド戦線に投入したかった最新鋭の駆逐艦八隻をこんなところ……あっ! ヴェネト王国に派遣したわけですが、オルレアンローズはどこに出しても恥ずかしくない自慢の部隊とはいえ、総指揮官たる貴方が王妃の前で欠伸三昧では心象は地獄に転げ落ちるように瞬く間に落ちていきますよ! 普段はどうであれ、今は貴方は海軍の顔なのです! 例え海の上苦手で最新鋭の駆逐艦で船酔いするような総指揮官ですが顔です! 我がフランス艦隊の顔に泥を塗らぬよう、夜会には一球入魂の気持ちで臨んで下さい‼」
「うるさいな~ 海の上嫌いなんだよ……波の音四六時中五月蝿いし、地面は四六時中揺れてるし、四六時中しょっぱいし……おまえ今さりげなく『こんなところ』とか言っただろ」
副官のアルシャンドレ・ルゴーは半眼になる。
「ならなんでお父上が誰ぞヴェネトへ行く者はおらぬか! と仰ったときにあんな元気よく『はーい』って手を上げるんですか」
「いや……てっきりいつもみたいに兄上たちも我よ我よと手を上げるかと思って……。いっつもそうじゃん。だから俺もつい付き合いで上げておかなきゃダメかなーと思っちゃって。協調性を乱す奴とか思われたら嫌じゃん? でも上げた時ほんとに俺だけだったな。面白かったわアハハ」
「暢気はやめてください、ラファエル様。遊びではありませんよ。【エルスタル】【アルメリア】【ファレーズ】の三つの国は、冗談ではなく一瞬でこの地上から消滅してしまったのです」
「でもさぁー根本的なこと指摘するけど、三つの国が消滅したのが現実なのは分かったけど、ホントに【シビュラの塔】が消滅させたの?」
「……どういうことです?」
「だからー 戦場だと、バーン! あっ! 隊長あいつが撃ちました! って言えるけど、シビュラの塔が実際ドーン! って火を噴いて消滅させるとこ誰か見たわけ?」
「隣国の者が、真っ赤に燃える空や、星のような影が落ちていくのを見たそうですよ」
「んでも火を噴いた瞬間を見たやつはいないわけでしょ?」
「いませんが、三つの国を一晩で消滅させられる化け物など、あの古代兵器の他にないでしょう。シビュラの塔が滅ぼしたんです。いいですかラファエル様。そうだと思ってヴェネト王国の者と対談しなければ、足元を掬われますよ!」
「わかったわかった」
「ほんとに分かってるのかなこの人は……。ホントなんだってよりによってこんな重要な案件にやる気になっちゃったんだろ……」
「それは悪魔のような非情の心を持ちながら美女と名高い海洋国ヴェネトの王妃様を一目見てみたいと思ったから……あ。」
口笛を吹いてそんな風に言ったラファエルは、すぐに目の前の副官が食らいついて来る三秒前の犬みたいな険しい顔で、ぶるぶる震えていることに気付いた。
「あんたまさか本当にそんな下らない理由でこれに志願したわけじゃ……」
常日頃からこのオルレアン公ご自慢の若き公爵殿は『世界中の美女を全制覇したい』などと本気で言っているから油断出来ないのである。男のアホみたいなことを言っているラファエル・イーシャだが、女に相手にされてなければ何の問題もない。
問題は、この見かけだけは比類なき貴公子に本気で「今宵の恋人は貴方にする」などと見つめられ言い寄られると、令嬢たちは嘘みたいに蕩けた顔になり絆されてしまうことだった。本国では彼と寝た女を全員招集して艦隊に乗せたら大型艦が重量オーバーで沈没するとまで言われているのである。
昔からその手の噂はあった殿下なのだが、公爵位を得て独立すると、あっという間に古今東西のフランス令嬢、貴婦人、未亡人とお近づきになってしまった。
一応一年の派遣と定められた今回の出兵に、まさかラファエルが総指揮官になるとは思ってなかった貴婦人たちは、一年も彼に会えないと泣き暮らすことになるだろう。
(でも確かに、この人が本国を離れたがるとは思わなかったな)
彼はオルレアン公の寵愛する末息子だが、実は現フランス王もラファエルを気に入っており、自分の息子が王位についた時に補佐として王宮に迎えたいと公言しているほどだった。
ラファエルは戦の才能は全く無いが、芸術の才に優れていた。彼自身が表現者というより、芸術を見る目があるのである。多彩な方面に知識があり、話術も巧みなので、同じように芸術を愛する現フランス王は、まるで自分の息子のようにラファエルを可愛がっている。
王からの寵愛。
父親からの期待。
数多の美しい女性たちとの情事。
彼の現在も未来も、光り輝いている。
確かに、手のかかる殿下だが、こんなところにいるべき人ではないのは、ルゴーも納得する。ここはある意味、得体の知れない敵地だ。命を失う可能性もある危険な場所である。
「ラファエル様」
「ん?」
「貴方に妙な疑惑を持ちたくないので、お聞きしますが、本当に、ご自分の意志でネヴェト行きを志願されたのですか?」
「?」
「なにか……王から密命など……」
ラファエルが吹き出す。
「期待させて悪いけど、本当に陛下から要請などはなかったよ。それは、お世話になってる陛下のお役には立ちたいと思うけれど、興味が無いならさすがにこんなところ来ないさ」
公言していないだけで、ヴェネト王国が世界に対して、【シビュラ】の砲口を向けているのは確かなのだ。今の時期、この地に来ることは、外交的な意味合いは勿論あったが、ある意味でいつ命を失ってもおかしくない状況である。
不気味な拮抗の中にヴェネト王国、この王都ヴェネツィアはあり、
例えば、件の王妃の要請でこの地に集ったフランス・スペイン・神聖ローマ帝国の三国は、母国を事実の人質に取られた状態とも言える。
だから、そこまで醜悪な性格ではないだろうとは思ってはいるが、件の王妃は、極論で言えば自らは玉座に座ったまま、三国の使者に対して「殺し合え」と命令することも可能なのである。
お前たちの母国は射程内に入っているのだから、それは分かっているだろうな、という意味合いがこの地にはある。だから各国も、使者を誰にするかは頭を悩ませたはずだ。
そんな戦場の最前線のようなこの地に、例えば王太子のような存在を使者として派遣するわけにもいかず、だからといって外交的に凡庸な人間や、価値のない人間を派遣しても、ヴェネト王国を尊重していない、と王妃は見るだろう。外交的、戦術的、そして身分的にもヴェネト王宮に対して格で劣らない人材を、絶妙な塩梅で選ばなければならない。
例えばラファエルのことにしても、実は使節団の総指揮官については、王から、実弟である王弟オルレアン公に、絶妙な人材を選定してほしいと依頼があったのだが、ラファエル・イーシャが選ばれると、王は反対した。彼にもしものことがあってはならぬ、とわざわざオルレアン城にまでやって来て説得しようとしていたほどだ。
結局、本人が陛下の為、国のために今こそ役に立ちたいと言っておりますからと、オルレアン公が兄を説得し、ラファエルが選定された。
フランス王の愛妾の中でも、最も美しく、性格も柔和で、その美しさを惜しみフランス王が彼女の為だけに与えたアンボワーズの城から滅多に出したがらない為、【ロワールの奇蹟】と謳われるアンボワーズ伯爵夫人クレメンティーヌ・ラティマを連れてまで、説得にやって来たのだから、王がいかにヴェネト王国訪問を危険視しているかは伝わって来る。
実際、その時も今も、ヴェネト王国に喜んでやって来ようとする者など、いない風潮なのだ。ラファエルが手を上げなかったら、使節団総指揮官の選定はもっと難航していただろう。
「……そうですよね……。……はっ! そうですよね、じゃないですね⁉」
ラファエルは白い手袋を嵌めながら笑った。
「俺も気を付けるが、お前も頑張って失言はするなよルゴー。ここはフランスじゃないんだからな。さすがの俺も『あら、あの青年感じいいけど、副官はなんだか感じ悪いわね。ヴェネトを舐めてるわ』などと思われたら庇ってやれないからな」
「わ、分かっています。それは……なるべく外では寡黙にしようと心掛けるつもりです」
「まあ、あまり気を張るな。それじゃ一年持たない。そんなことより他に注意事項はないのか? 王宮に入ったら俺はヴェネト王宮にいる美女の顔を覚えることだけに集中するからな。お前の小言は聞いてやれん」
ラファエル・イーシャは「あいつが女に掛ける集中力と勤勉さを全て剣術に捧げて修練すれば、天才的な剣術士になるだろう」と言われている人物だった。
「ヴェネト国王 エスカリーゴ・ザイツ。
王妃セルピナ・ビューレイ。
王太子ジィナイース・テラ。
この三人だけきちんと頭に入れていただければ結構です。美女の顔を覚えるのは構いませんから、くれぐれも初日から声掛け百人切りとかしないでくださいね。王宮では常に王妃の目が光っていると思って下さい。素行の悪さは厳禁です」
「お前は俺のお母様かなんかか?」
「あっと……そうだ……。一応、これだけはお話しておきます。他の二国の使節団ですが、神聖ローマ帝国から派遣されたのはフェルディナント・アーク将軍です」
「なんか俺でも聞いたことある」
戦場の話はからっきしダメなラファエルが、馬車の中の鏡で襟元を整えながら、言った。
「当たり前ですよ……神聖ローマ帝国北方方面軍を率いていたフェルディナント将軍です。ブザンソン城壁を陥落させ、ランス、ディジョンを侵攻し、ヴェルサイユ宮攻防戦にまで持ち込み、イル・ド・フランスを三年に渡って震撼させた人物です。貴方のご友人も何人も一時虜囚の身になっていたでしょう。彼の率いる竜騎兵団は神聖ローマ帝国軍、皇帝直属の五軍団において最強と名高い。ブザンソン城壁が陥落したのは我が国の歴史始まって以来のことです。要するに、貴方と違い、生粋の戦場の指揮官を神聖ローマ帝国は使節団の総指揮官として送り込んで来たということになりますね」
「ふーん。んでもちょっとヴェネト王宮で外交するには、実戦の指揮官過ぎない?」
「そう! そうなんです! ラファエル様、剣技では貴方は天地が引っ繰り返ってもフェルディナント将軍には勝てませんが! ヴェネト王宮では外交を行うのが目的です! 確かにフェルディナント将軍は戦場での戦功は随一ですが、王宮となると彼のその輝かしい戦功が、逆に王妃側を警戒させるかもしれません。その点貴方は最初は『わたしラファエル・イーシャなんて興味ないわよ。ぷん!』みたいなご令嬢とも夜会が終わる頃にはイチャイチャしてるほどの信じられない外交力を持つ方ですから、ぜひその類い稀な不思議な能力を発揮してください。それさえ成功すれば、神聖ローマ帝国など我がフランスの敵ではありません!」
「んー。一応確認するけど、今俺誉められてるんだよね?」
「何言ってるんですか。誉めたでしょうちゃんと。スペイン海軍の使節団の詳細はまだ明らかになってません。……が、一つ懸念されることが」
「ヴェネトの食事美味しくないの?」
「美味しいです。そういう懸念じゃありません。フェルディナント将軍は元々、母方の所縁あるスペイン陸軍で士官候補生をしておられたそうです。ですから、スペイン方面に顔が利く方なのです。もしかしたら今回の抜擢の真の狙いはそこにあるかもしれません。スペインと神聖ローマ帝国が結託したら……」
「俺ひとりぼっちじゃん」
「そういうことになりますね」
「なによ~。一緒に苦労する三匹じゃなかったわけ?」
「二国が結託し、我がフランスを窮地に追いやる作戦が行われるかもしれませんので、スペイン使節団が到着後は一層警戒を怠らぬようご注意ください」
「悪いけど、俺そういうのほんと駄目なんだよね? レディの熱い視線は絶対気づく自信があるけど、野郎の悪巧みとかされてても絶対気付けない。もし『我がフランスを窮地に追いやる作戦』が発動してたらお前が気付いて、俺に合図送ってくれる? ものすごく分かりやすくしてね。絶対気付けるように」
「……分かりました……その時は大きなバッテンでも頭の上に出して教えて差し上げます……」
ルゴーは脱力して、頭を押さえた。
それを確認してから、ラファエルは光り輝くように微笑んだ。
華やかな帽子を被る。
「――さぁ、行こうか」
馬車の扉が開き、ラファエルが王宮のガーデンに降り立つと、華やかな容姿をした貴公子の登場に、拍手が降り注いだ。
◇ ◇ ◇
夕暮れの中、教会を訪れると、ネーリが絵を描いていた。
今まですれ違うことが多すぎて、ここに来た時に彼はいないと思うことが、当たり前のようになっていた。いつものように祈りを捧げ、絵を見ようと奥の部屋に行くと、キャンバスの前に座って、描いていたのだ。
(あ……)
思わず、開いた扉のところで、立ち止まっていた。
聖職の質素な作業着。
服も、暑さを凌ぐために剥き出しになった彼の四肢も、色に汚れている。
絵の前では、絵に全ての意識を集中させる。
美しい体勢など構っていられない。
大きなキャンバスの下に色を塗っているので、左足を大きく開いて、右足は折りたたんで椅子の上で組み、背中を丸め、低い体勢でずっと描き込んでいる。
何も身にまとわないで絵の海の中、毛布一枚に包まって眠っていたあどけない姿とは、今は全く違う。
そういえば、フェルディナントもよく、王宮にいる時と戦場にいる時では雰囲気が一変すると言われることがある。それは命をやり取りする戦場と、優雅に踊っていれば面目を保てる王宮の夜会では、どっちが必死に集中するかなど、分かり切った話だ。
(そうか。画家にとってはあの場所が、戦場なんだな)
ネーリが集中しているのが伝わって来たので、フェルディナントは声は掛けなかった。
十分ほど彼が描いているのを眺めて帰ろうと思ったのだが、何本もの筆を、左の手の指の間に挟んで、筆を洗う時は側に置かれた、螺旋状の筒型オブジェに、まるで芸術作品のように階段のように並べられた段差に張られた水に順に筆を浸していく仕草や、鞄に並べられた色とりどりの小瓶から色を取り出して、調合している真剣な横顔なども、絵を描かないフェルディナントにとっては全てが新鮮で、興味深くて、あと十分だけ……を繰り返しているうちに瞬く間に時間が過ぎてしまった。
今日は午前中のうちに修練を終え、兵たちにも午後から明日一日休みを与える日だったので、身体は空いていたのだが、少し街を見て帰る、と補佐官には言って出て来たので、生真面目な副官と自分の愛竜は遅いなー……と思っているだろうな、などと絵が思い浮かんでしまった。
にゃーん……。
フェルディナントは遠慮していたというのに、するりと部屋に入って行った白猫が、絵の具の小瓶に興味を持って近づいたのにネーリが気付き、慌てて抱き上げた。
「あぶないあぶない。折角真っ白で可愛いのに絵の具が付いちゃうからね」
ネーリは筆を水の中に入れると、猫を片手で抱えたまま、他の自由な四肢を伸ばして伸びをした。思い切り背を反らして伸びたものだから、簡易的な椅子がぐら、とバランスを崩し、彼は座った体勢のまま仰向けに大転倒しそうになった。
ギョッとしたフェルディナントが慌てて部屋に飛び込んで、床まで後頭部がニ十センチくらいになりかけたネーリの背に、寸前で手を滑り込ませて窮地を救った。
「フレディ?」
仰向けのまま、驚きに目を丸くしたネーリがフェルディナントを見上げて来る。
「……大丈夫か?」
彼が何とか無事だったので、とりあえず深い溜息をついた。
「ありがとう」
数秒後、自分の状況が理解出来たネーリがくすくす笑って、そう言った。
「わ、笑うなよ。本当に慌てたんだから」
「違うよ。フレディを笑ったんじゃない。自分を笑ったの。今の完全に後頭部強打してたなーって。この椅子ガタガタしてるからよくやるんだー」
「笑い事じゃない。危なかったぞ今」
「だね」
椅子は立て直せなくて、カタン……と結局倒れたが、フェルディナントはそのままネーリの身体は助け起こしてやった。
「ありがとう、フレディ」
ネーリは微笑んだ。
「あ、ああ。」
フェルディナントは彼に出会うまで、こんな素晴らしい絵を描く人物はどんな人なのだろうかと、随分長い間一人で人物像を想像していた。その結果、きっと知的で落ち着いた、若さを弱点に思わせない、大人びた人なんだろうと勝手にイメージしたわけだが、実際会ったネーリ・バルネチアは、フェルディナントの想像したどの人物像とも違った。
イメージと違ったが、失望などは一つも無く、
彼の真実の姿をイメージ出来なかったことが、要するに自分が、芸術を理解する素質に見放された証なのだろうと思ってしまう。いざこうしてネーリを前にすると、一撃で理解出来たからだ。
彼にはまさに、あの絵を描いた人だと思う、魅力があった。
瞳の輝きも、
よく人に笑いかける時の笑顔も、
時間を忘れて描くことに集中する姿。
こういう人間に、フェルディナントは会ったことがない。
芸術をとことん排除して生きてきた報いなのだろうか、芸術家というものがみんなこんなに魅力的なのか、彼だけが特別にそうなのか、判断が出来ない。それでも王宮に出入りはしていたし、彼は貴族だ。知り合いにも貴族が多く、芸術家を庇護したり、自ら絵を描かせてるような人々もいた。夜会などでお抱えの音楽家や芸術家を紹介されたことは絶対あるのに、顔も名前も覚えていない。ただ、どんなことを話していたか、とそれを思い出そうとしたのに、全然内容に興味が持てず、面白くも無かったことだけ何となく覚えているから、きっとこれは――ネーリだけの特徴なのだと彼は思うことにした。
「また会えたね」
立ち上がって、ネーリは笑った。
邪魔ではなかったようだと思い、フェルディナントは少し安心した。
「今来たの?」
色で汚れている両の手の平を見せてから、部屋の奥に洗いに行った。
「……少し前だけど、集中してるみたいだったから」
「なんだ。気にしないで声掛けてくれて構わないのに」
本当は少し前どころか随分前だったけれど、ずっと見てるなんて変な奴と思われたくなかったので黙っておく。
ネーリが戻って来た。
「フレディはどの絵が気に入ってるの?」
「え?」
「神父様がいつも見に来てるって言ってたから。なんか好きな絵があるのかなって」
「おれは……、いや、特別何が目的で来てるわけじゃないんだ。あ、いや……その、どれでもいいってわけじゃなくて。……ここにある絵はどれも好きだ。こんな風に言われると……気が多い奴のように思われたくないんだが……、」
上手く言えない。
全部いいなんて子供みたいな感想だ。
芸術が分かる男なら、もっと気の利いた誉め方が出来るのだろうか。
くそ。剣技とか戦術ならいいとか悪いとか、もっと的確に見極めれるのに。
全然上手く感動を伝えられない。
フェルディナントはもどかしかったが、芸術家は気難しいとも言うから、場合によってはつまらなそうな顔をされてもおかしくないのに、ネーリはそんなフェルディナントを優しい眼差しで見てくれていた。
別にそう言われたわけじゃないのに、まるで「分かってるから大丈夫だよ」と言われてるみたいだ。ちゃんと伝わってるよ、と。
「……どの景色もとても綺麗だ。庭園の緑と、海の青と。あと……この干潟の景色……神父が、ネーリの住まいから見える景色だと言ってたが」
「うん。そうなの。ぼくの家の前がこの景色だよ」
ネーリが一枚の絵を取った。
干潟の絵はこれだけじゃない。たくさんある。
「大好きなんだ」
干潟の景色の奥に、水上都市がうっすらと映り込んでいる。
「この水上都市は……ヴェネツィア、だよな……?」
「うん。そうだよ」
これが家の前の景色なら、王都ヴェネツィアの対面側にあるということだ。
ヴェネトは南北に干潟が伸びていて、三日月のような陸地がある。
神聖ローマ帝国の駐屯地も北の外れだ。
そういえば確かにこういう風に市街が前方に見える。とすると、駐屯地からそんなに離れていない場所だ。
ネーリがどこで暮らしているのか全く分からなかったので、思ったより近いところに住んでるのかもしれないと思って、フェルディナントは嬉しかった。
色んな景色。
こんな美しい世界。
彼は他の街でまた描きたくなるモチーフを見つけて夢中で描き始めたら、きっとここで一瞬会った自分のことなんかすぐ忘れてしまうのだろう。
「君は……他の街にもよく行くのか?」
「ぼく? ううん。僕はずっとヴェネト暮らしだよ」
「えっ」
「他の国には行ったことない。行ってみたい気はするけど、旅に出ようかなって準備すると、この国離れるのが急に寂しくなってやめちゃうんだ。昔から、ずっとその繰り返し」
フェルディナントは部屋中の絵を思わず見回した。
「でも……、これ全部ヴェネトではないだろ?」
「うん。ヴェネトの景色も多いけどね。それ以外は僕がイメージして描いた場所だよ」
「じゃあ、実在しない場所なのか?」
驚いた。まるで写実したような、絵なのに。
「じゃ、……あの、大きい庭園の絵も?」
フェルディナントが指差すと、ネーリが頷く。
「エデンの園だね。そうだよ。あれは空想の場所。頭に思い描くんだよ。この世界で一番綺麗で、安心出来て、行ってみたいところを」
確かに、あれはそういう絵だ。
美しい場所。
でも、何か居心地が良さそうで、心惹かれる。
行ってみたいとフェルディナントも思った。
何の目印もなく、見本もなく、あんな絵を描けるのか。
「……あの、フレディ……どうかした?」
思わず「どういう頭の中をしてるんだろうこの人は」の顔でネーリの顔を間近でまじまじと眺めてしまった。
「あっ! ご、ごめん!」
ネーリは吹き出した。
「ううん。いいんだよー。突然鼻先で見つめて来るからどうしたのかと思ったよ。フレディの目ってやっぱりすごい色してる。ドキドキしちゃった」
彼は笑いながら、もう一度干潟の絵を見た。
「別にそんなことないんだろうけど、ヴェネトを離れようとすると、いつも思うんだ。なんとなく……『今離れたら、二度ともうヴェネトには来れなくなる気がする』って。もう二度とこの景色を見れなくなるかもしれない、そう思ったら寂しくて、怖くなるんだ」
フェルディナントは自分の意志で【エルスタル王国】から離れた。父が母を見捨てるなら、自分が母と共に行って守ってやらなければと思った。だから後悔はないけれど。
……もし、いずれ消滅することが分かっていたら、あの土地から自分は離れなかっただろうか?
エルスタルの名を継いで、あの国の記憶と共に生きていけるかと思ったが、亡国の名を継いだ途端感じたのは猛烈な孤独だった。
自分だけがその名に生きている。
もう誰も共には生きてくれない。
感じたことがあるフェルディナントは、そう言ったネーリの気持ちが少しだけ分かる気がした。
「そんなことはない」
ネーリは振り返る。
「別にここを離れても、君が戻りたいと願えばいつだって戻って来れる。ヴェネトはここにあるんだから」
ヘリオドールの瞳を瞬かせてから、彼は微笑んだ。
ありがとう。
「ここにある絵はどれも好きだって言ってくれたよね」
「え? うん……」
「なら、これ、フレディにあげる」
美しい朝の干潟の絵を差し出して来る。
「えっ。で、でもこんな大事なものを」
「いいんだよー。僕がここにいない時もいっぱい絵を見に来てくれたって神父様に聞いたんだ。嬉しかったから。君にあげるよ。贈りたいんだ。受け取って」
フェルディナントは、ここの絵は価値のあるものだと思った。
貴族が買えば立派な値が付くはずだ。
そんなに道端で摘んだ花のようにプレゼントなどしてはダメなものだと思ったが、あまりにネーリが澄んだ瞳で笑いかけて来るから、差し出された絵を受け取る。
そうだ。もし本国に帰ることがあったら、この絵を皇帝に見せればいい。皇帝は芸術を見る目を持つ人だから、きっとこの絵を見れば「これを描いた画家に会ってみたい」と言ってくれるはずだ。そうすれば神聖ローマ帝国の宮廷にネーリを招くことも出来る。
絶対にそうしよう、とフェルディナントは決めた。
「……本当にいいのか?」
念のため、もう一度聞いた。
キャンバスの前に座る画家が戦場の騎士なら、彼らにとって生み出した絵は、きっと騎士の剣や、命を預ける武具や愛馬ほどの価値があるものだろう。簡単に手放せるものではないはずだ。だがネーリは嬉しそうに微笑んだ。
「勿論だよー。フレディが僕の絵を持ってくれてると思ったら嬉しいもの」
◇ ◇ ◇
「よくお越しになられました。オルレアン家のラファエル・イーシャ殿。貴方の噂は我が宮廷まで届いておりますよ」
「ありがとうございます。港に降り立った時にも温かく迎えていただき、驚きました。ヴェネトの皆様のお心遣いに感謝いたします。陛下のお具合はいかがでしょうか」
「冬の寒さが陛下のお体には随分堪えるようで……でも暖かくなったら大分お元気になりました。夏はまた暑さが苦しいものですけれど……今年の夏はフランス社交界の華である貴方が逗留して下さるのですから。本当に噂通りの美しい貴公子ですこと。貴方の瞳はサファイアのようと令嬢達が話していましたわ」
「こちらはフランス王の親書にございます。陛下。それにしても本当に美しい水上都市ですねヴェネトは……」
「気に入っていただけたかしら」
「勿論。最近この美しい海の宝石を狙い、蛮族共が近海をうろついているようですが……。
フランス王より派遣された我がオルレアン艦隊が、陛下、妃殿下を煩わせる輩には、この美しい都には指一本触れさせません。どうぞご信頼下さい」
「まあ。なんと頼もしい言葉かしら。陛下も回復なされたら、一番に貴方と対面を望まれるでしょう」
美しき王妃は華やかに微笑んだ。
(なんだ)
ラファエルも貴公子の微笑を振りまきながら。
(確かに美人は美人だけど。思ってたより全然なんかフツーだな)
ラファエルはまだ若いが、ことに女性に関してはこの歳にして百戦錬磨である。彼は剣士レベルは4くらいだが、女性博士としてのレベルは40000000くらいある。女性ならありとあらゆる年代の、様々な身分の女性たちを「僕の可愛い恋人」と呼んで口説いて来たのである。例え言葉の通じない国の女性だって、ラファエルの敵ではなかった。想いを込めて見つめれば、絶対に好きになってもらえるのである。
だからそんな彼は今や、単なる美人などでは歯ごたえがない。勿論美しい女性は大好きだが、ラファエルは今回、期待してこのヴェネト王宮にやって来たのだ。
欧州各国ではヴェネト王妃は悪名名高い。夫の国王が病床なのをいいことに実権を握っていて、【シビュラの塔】を発動させたのもこの女ではないかなどとさえ言われていた。
ラファエルは思うのだ。
女の分際で三つの国を消滅させ、世界を敵に回して、大国相手に顔を見せに来いなどと、大した度胸だと思う。しかも美しいなどと言われればぜひ見てみたくなるではないか。
美しい器に、子供のように無邪気な残酷と悪心が宿る。しかも生半可な邪悪ではない。人を殺す類いのものだ。
古代の神話には、残酷性を否定しない美しい女神も存在する。
美しき悪の女神。
さすがにまだそれは相まみえたことはなかった。
是非ともお目にかかってみたい。そう思って今宵やって来たのだ。
(ぜんぜんフツーだな)
期待し過ぎてたか。
話す言葉も、一挙一動も、もっと特別な女性かと思ってた。
もっと気高く、覇気を纏い、声も、瞳も、笑い方も魅力的なのかと思っていた。
それこそ、ああそんなこの人が、邪悪な心にひとかけらの慈悲でも持っていてくれたらばと祈らずにはいられないくらい、こっちを夢中にさせてくれる特別な人なのかと思っていたのに。この程度なら単なる悪い女じゃないか。
(がっかりしちゃったよ)
ラファエルの耳にはもうあまり上機嫌で話す王妃の言葉は聞こえていなかった。
だが。
「そうだわ。私ばかりが楽しく話してしまって。
貴方にぜひ紹介しておきたいのです。
我が国の王太子。ジィナイース・テラです」
美貌の王妃がどこかを手招いた。
着飾った一人の青年が歩いて来る。
濃い茶色の髪に――
振り返ったラファエルは微かに息を飲んだ。
「初めまして」
王子が手を差し出して来る。数秒、その手を見つめてラファエルは「ああ」と微笑み、優しく彼の手を取ると、手の甲に唇を寄せる仕草を見せた。
「お会い出来て光栄です。殿下」
「ようこそ我が国へいらっしゃいました」
「殿下は来月、十六歳になられます。我が国では十六になれば、王位継承の儀を受けられるようになります。陛下は自らのお具合が悪いので、王位は早々に殿下に譲り、私と共に摂政として、殿下に助言し国を治めていきたいと考えておられます。此度は貴方がたにこの国の護りをお願いしたけれど、我がヴェネトの民は戦う力をあまり持ちません。ですから、皆様にしばらく逗留していただく中で、この方はと思う人に、そのまま国にお留まり頂き、我が王子の名のもとに創立させる聖騎士団の、団長位を預けようと思っていますの。
まだスペインの方はいらっしゃっていないので、無論これから皆さまの働きぶりを踏まえて、と思ってはおりますが……けれど私としては、貴方のように明るく溌溂とした騎士様に殿下の側にいていただきたく思いますわ。殿下は文武両道であらせますけれど、お父上似で気性はお優しい方。夜会などでも数多のご令嬢が殿下と踊りたいという顔で待っていらっしゃるのに、控え目でいらっしゃるので困るのです」
ラファエルは笑った。
「それはいけない。踊りは楽しいですよ、殿下。一曲踊ればそれだけで相手の令嬢がどんな方なのかが大体わかります。自分を好きでいてくれるのか、踊る時に周囲をよく見る方なのか、踊る時だけは天真爛漫な表情を見せて下さる方や、最初は心を開いていなくても、こちらが優しくリードすれば、終わる頃には打ち解けて信頼して下さる方もいらっしゃる。
いずれ殿下は王となられるならば、当然、花嫁探しは陛下も真剣にお悩みでしょう」
「……わたしは、踊りは少し苦手で」
「そうなのですか?」
「踊れないことはないのですが、上手くないと思います」
「なんだそんなこと。よろしければ、上手くなれるよう踊りくらいいくらでも私が教えて差し上げます。遠慮なくお申し付けください」
「そうなのです。ラファエル様。仰る通りなのですよ。我が王宮で連日このような夜会を開いているのは、これぞという方を我が国にお呼びして、殿下に会っていただく為なのですが。貴方はフランス社交界随一の大輪と聞いておりますわ。護衛として来られたのは重々承知ですけれど、社交界のことなど、少し殿下にお教え願えたらと……」
ラファエルは華やかに微笑む。
「とんでもない。こちらこそ、そのようなことでお力になれるならば喜んで。私はどうせ勇猛果敢な神聖ローマ帝国の方やスペインの方には、戦功において遠く及ばないでしょう。
せめてそんなことくらいでは頼りにしていただきたい」
王妃は笑った。やはり、笑っても美しい人だが、それだけだな、と思わせる笑顔だった。
「そんなことはありませんわ。分かっておりますのよ。王弟オルレアン公の最も愛する末の息子にして、フランス王のお気に入り。ラファエル・イーシャ様。貴方の戦功が劣るのは、高貴な方々が貴方を気に入って戦場に出したがらないような方だからにございましょう? 貴方のように生まれながらに高貴な方々に愛されて育ってきた方は、何もかも優秀になさること、私は知っておりますのよ」
「そう期待していただければ、光栄です。妃殿下」
「殿下。少し王宮など、ラファエル様に案内して差し上げたらいかが? 貴方たちは歳も近しいのですから、きっとすぐに打ち解けますわ」
「お願いしてもよろしいでしょうか?」
ラファエルは優雅に、芝居がかった仕草で王太子に一礼する。
「もちろん。ではこちらに。行ってまいります、母上」
「王宮随一の貴公子二人が席を外すとは。今宵の令嬢たちは可哀想ですこと。待ちぼうけね」
王妃は二人の様子を微笑ましそうに見送り、そんな風に笑った。
◇ ◇ ◇
駐屯地の騎士館にある自室で、フェルディナントはヴェネツィアの街の地図を深夜まで眺めていた。彼は着任してから街のことを調べている。ヴェネツィアの街は入り組んでいるため、最初は苦労したが、今では細い路地まですべて頭の中に叩き込んだ。
悪化している治安を、安定させなければならない。昼夜酒を飲んで遊んでいる警邏隊は一度解散させ、志願する者は王都守備隊に再編するつもりだ。しかしその時に守護職に相応しい者かどうかは十分吟味する。
王都ヴェネトは街のゴロツキのような人間にも気安く制服を与えていることが判明した。貴族が推薦すれば、素性など関係なく即採用されているらしい。フェルディナントが注目したのは貴族がそんな輩を推薦する利点についてだ。
トロイに命じて、歓楽街の内情を探らせた。すると、貴族が名を隠し、金だけ出して自らの気に入った娘などを住まわせている娼館があることが判明した。そんなに必死に探ったわけではなく、娼婦が簡単に自分たちに金を払っているのは誰か、喋ったのである。
ヴェネト貴族の間ではそういう「遊び」が流行っているらしい。つまり、自分の欲望のままに遊べる娼館、そこに物品を運ぶ密輸や、それを守るための私兵団が雇われる。警邏隊はそれを見逃したり、情報が漏れるのを隠すために、賄賂で雇われてるわけだ。
警邏隊が娼婦を我が物顔で追い回し暴行していた姿が思い浮かぶ。
――あの粗暴さは、立場を保証された特権階級の振る舞いだったのだ。
この図式が明らかになったことにより、警邏隊を解散すれば、表立ってではなくとも貴族たちからの反発があることは必至だった。もっと調べ上げるのだ。名前が明らかになった者たちの中には、まだヴェネトにおいて中流貴族という感じの者が多い。王城に出入りするような、上流貴族の名が、フェルディナントは欲しかった。他の貴族がやっていることを、上流貴族がやっていないはずがない、というのが彼の見立てである。
貴族というものは横の繋がりも強いが、上下の繋がりも強いのである。
彼らは金の規模だけが違って、同じ習性を持っていることを、自らも貴族の一人である彼はよく理解していた。何人かの上流貴族の名が上がれば、その人間を脅して他の下位貴族を黙らせることも出来るかもしれない。
彼らは娼館には、娼婦だけではなく、贔屓の商人や役者や画家なども出入りさせていると聞いた。
画家……。
フェルディナントは机の引き出しを開いた。
ネーリ・バルネチアの絵を取り出す。
深夜の薄暗い明かりの中でも、朝日の中の干潟は光り輝いていた。
こんな美しい絵を描く画家が、万が一にもそんな醜悪な人間の習性が結託したような場所に出入りするようなことがあってはいけない、と思った。
人間の醜い所ばかり見たら、ネーリは美しい絵を描けなくなるかもしれない。
彼は想像力でも絵を描いているのだから。
(美しい楽園を描ける……あの魂は守られなくては)
そっと描かれた光に指先を触れさせる。
足音の気配がして、フェルディナントは絵をしまった。
「将軍」
扉が鳴る。トロイの声だ。
「入れ」
副官が現われる。
「どうした?」
「街から情報が……また殺しです」
「警邏隊か?」
フェルディナントは反射的に聞いていた。トロイは頷く。
「分かった。すぐに街へ向かう。フェリックスの用意を」
「はっ!」
開いていた窓を閉じて、街の方を見る。
ここは一応ヴェネツィアの街の外周壁内ではあるが、街の外れだ。少し高台になっていて、街の夜景を外から見たかのように眺められる。ネーリの描いた絵の中では、街はもっと遠い。
今日、彼は街にいるのだろうか。それともあの景色の中に帰って、穏やかな顔で眠っているだろうか。後者であってほしいとフェルディナントは願った。
◇ ◇ ◇
ばさり、と外套を翻らせてラファエルが王宮から出てきた。
ルゴーはホッとする。よかった。とりあえず胴と頭はくっついてる。
「お帰りなさいませ。いかがでしたか?」
「うん。思っていたよりかわいい子多かった」
嬉しそうにラファエルは答えると、待っていた馬車の中に乗り込む。
「そういうことではなく……」
「分かってるって。王妃だろ。思ってたよりいい人そうだったよ」
「いい人?」
噂ではあのシビュラを世界に対して解き放った悪女である。
「うん。なんか知らないけど最初から俺にはいい印象持ってくれてるみたいだよ? 王子が社交界デビューして間もないから、良かったら色々教えてやってくれとか言われちゃった」
「それは確かに貴方は社交界に関しては天才的な才能がありますけども。……調子に乗って変な女遊びとか教えないでくださいよ? 相手は王太子なんですから」
「分かってるって」
「では、万事順調ですか?」
「うん。三日後に王宮でお茶会催すから来てくださいって誘われちゃた」
「それはまた。初日から十分すぎるほどの収穫じゃないですか」
「そうなんだよなー。この五百倍くらい、件の王妃様の心を奪うには苦労するだろうって覚悟して来たからなんか初日にして目的達成して、気ィ抜けちゃったよ~」
ルゴーは目を瞬かせてから、ハッ! と眉を吊り上げた。
「抜けません抜けません! 全然抜けません!
いいですかラファエル様! 初日を上手く乗り切っただけですから! いいですか! 女性の心なんて餌をやらなくなると三秒で消え失せますよ‼ ヴェネト王国にいる限りは油断してはいけません‼ 王妃セルピナ・ビューレイとお会いになるときはとにかく気を引き締めて! 全身フル装備で戦場最前線に向かうかのような面持ちで……わっ!」
王宮を出て市街の大通りを走行中だったのだが、突然馬車が大きく揺れた。
「なんですか⁉ ヴェネトの大通りには落とし穴でもあるんですか⁉」
「も、もうしわけありません!」
御者の慌てた声がしたが、ラファエルは優雅に足を組んだ姿で、馬車の内部に置かれた二人掛けソファにどっしり腰掛けた姿で、大きくぐらついた目の前の美麗なデカンタを手で押さえて、気にしないでいい、というようにもう片方の手を優雅に動かした。
「どうしましたか?」
ルゴーが聞くと同時に、笛の音が聞こえた。そこの馬車止まれ! などと怒声が聞こえて来る。
「警邏隊のようですね」
「ふーん」
この世で一番興味のない単語を聞いたみたいにラファエルは頬杖をついて、王都ヴェネツィアの夜景を眺めている。
「王宮から出てきた馬車を警邏隊如きが乱暴な口調で止めるとは無礼な。どうしましょうか。叱り飛ばしてやります?」
「まあまあ、向こうにも言い分はあるかもしれないじゃないか。まずはそれを聞いてやろうよ」
「貴方もしかしてどこぞの令嬢に変な真似してないでしょうね」
「しなかったと思うけどなー。でも変な真似が何を示すのか言ってくれないとちょっと分かんない」
「なんで分かんないんですか! バカじゃないの! ご令嬢が引いて嫌な顔するようなことですよ! いきなり胸に顔を埋めるとか! ドレスの中に手を突っ込むとか!」
「しなかったと思うなあ」
「なんでしませんでした! ってはっきり言ってくれないんですか!」
「しなかったと思うな~~~~~~~~あんまり覚えてない」
「まったくもうほんとにこの人は……ピーピーピーピー笛が五月蝿いですよ! 誰が乗ってると思ってるんです!」
ルゴーが我慢しきれなくなったように扉を開けて外に出て行った。
ラファエルは笑っている。
彼はあまり、何事にも腹は立たない。というより、怒るのが面倒なので、大概のことを「ま、いっか」で済ませてしまうのである。愛されて育った末っ子ならではの大らかな気性で、そんな穏やかさもラファエルが女性に人気がある理由でもあった。
そしてその為にアルシャンドレ・ルゴーがラファエルの副官として選ばれたといっても過言ではない。彼は逆に、頭の回転が速く、若干神経質なほど厳格な性格をしている。要するに、二人でバランスを取っているのだ。
馬車の中で、優雅にグラスに赤ワインを注ぎながら、聞いた所によると、警邏隊はなんでも殺人事件の犯人を追ってるらしい。先ほど起こったばかりの事件で犯人が逃亡中のため、警邏隊が通りを走るから馬車は走らせるななどと言っていたが、そこへルゴーの「こっちは王城の夜会から帰るところだ! 馬車は走らせるなじゃない! 歩いて帰れなどと言うつもりか‼」と威勢のいい怒声が火を噴いている。
ラファエルは慣れたものだが、心優しき民であるというヴェネト王国の警邏隊の皆さんは、フランス産の火炎砲の迫力に、ギョッとしたらしい。
あーあ。可哀想に。馬車に書いておいてあげれば良かったなあ。
【この馬車をつまらない理由で止めると酷い目に遭いますよ】と。
(長くなりそう)
ルゴーも何だかんだ、相当な重圧と緊張の中でラファエルの副官としての仕事をこなしている。あれは自分と違って真面目な人間だから、気を抜くということがなかなか出来ないのだ。久しぶりに思いっきり怒鳴り散らせると思って、元気いっぱいだ。
気が済むまで放っておいてやろう。ラファエルは寝ることにした。
長身の彼はとてもじゃないが足を伸ばして横にはなれないが、足を折り曲げて、クッションを枕代わりにして、ソファに横になると、なかなかいい感じのベッドになった。外套を毛布のように自分に掛けておやすみなさーい、と仰向けになった時だった。
――バサッ、と何か大きな影が、過った気がしたのだ。
窓の外。
丁度見上げた屋根の上だ。人影がある。
警邏隊とルゴーはまだ遣り合っている。
(……?)
目を擦って見たが、やはり人影だ。
倒したばかりの上半身を起こし、目を凝らすと、身にまとった闇色の外套の中で、猛禽のように二つの双眸だけが黄金色に輝いている。
直後、いきなり悲鳴が上がった。なんだ⁉ と警邏達が慌て始める。
「ルゴー」
ラファエルは呼んだ。
「呼びましたか?」
「呼んだ。馬車に戻れ。奴らといるとお前まで狙撃されるぞ」
「狙撃って……犯人を見たんですか?」
「屋根の上に立ってたよ」
「じゃあ……捕まえないと」
追え! とか、大丈夫か! とか、外は酷い騒ぎだ。
「ヤダヤダ。俺剣とか弓とか全然使えないもん。怪我したくない。怖いからヤダ。寝てる」
「そ、それはこっちも貴方に怪我されたら敵わないので戦ってくれとは言いませんけど……どうしましょうか王城に戻って報告します?」
「警邏隊がやってくれるでしょ。ほらもう向こうの方に追って行ったし。御者に伝えてよ。静かになったら屋敷に戻ってくれって」
「……分かりました。ではそうしましょう。初日から盛りだくさんですね」
ルゴーはやれやれ、という感じで御者に安全そうなら馬車を出してくれ、と言った。
犯人を追って警邏も去ったようだ。
あたりは数分で静かになり、ほどなく馬車が動き出す。
「こんな王城の側で騒動があるとは。ヴェネト王国は治安が悪化しているというのは、本当だったんですね。我々を呼び寄せる口実かと思っていたけど。警邏隊もあんまり頭が良さそうじゃなかったです。確か街の守りには神聖ローマ帝国の部隊が着任するはずですが」
「さすがにまだ編入はされてないだろ」
「あの者たちをまとめなければならないとは。少しフェルディナント将軍には同情しますね。彼は一流の軍を率いた指揮官ですよ。それが街の守備が任務とは」
「つまらなくても、価値のある仕事なんでしょ? お互い様だよ。俺たちがここで頑張れば、国を守れる。どんな下らない仕事でも」
ルゴーはすでに目を閉じて寝に入ってるようなラファエルがそんな風に言うと、数秒考えたようだ。
「……。……そうですね……確かにラファエル様の言う通りです。申し訳ありません。私は本当に、余計な口が多いようです。もう少し、発言には気を付けます」
ラファエルは目を閉じたまま笑った。
「落ち込むなよルゴー。お前を責めるために言ったんじゃない」
「はい……」
「スペイン艦隊はいつ到着予定なんだ?」
「一週間後くらいになると聞いていますが、まだはっきりとは分かりません」
「そ。分かったら教えてよ」
「はい」
「スペインが到着する前に、神聖ローマ帝国の方に挨拶済ませておこうかな」
「フェルディナント将軍にお会いになりますか?」
「うん。まあ、顔ぐらい知っておいた方がいいでしょ。そのうち夜会でも会うことにはなると思うけどさ。今日の襲撃が口実に使えるだろ」
「分かりました。犯人を追う警邏隊と遭遇したことを理由に、対談を申し入れてみます」
「うん。よろしくね」
「お疲れですか? ラファエル様……」
彼はフランスの王都、その華やかな社交界にいたのだ。異国の、軍事的背景にやむを得ず招かれた夜会など、本来ラファエルを落胆させるものだろう。しかし、ルゴーの予想とは異なり、目を閉じたラファエルは「思ったよりも、ずっと面白かったよ」と答えた。
おや。
ルゴーは意外に思った。
「王太子ジィナイース・テラは……どのような方でした?」
「まあ噂通りかな。ヴェネト王国は何と言ってもあの王妃様の手の内って感じだから。でもまあ、大人しそうないい子そうだったよ。多分仲良くなれると思う」
多分ね。
ラファエルは小さく、笑みを浮かべる。
「そうですか。フランスの命運は貴方に託されてるとはいえ、あまりご無理はなさらないでください」
◇ ◇ ◇
踊りが上手く踊れない。
頑張ったけど、何回も相手のご令嬢の足を踏んでしまい、最後まで笑顔では踊ってくれたけど、踊り終わるととても怖い顔で睨まれたんだ、と泣いている。しかも名門のご令嬢はしっかり友人たちに「あいつはダンス下手くそよ」と言いつけたらしく、夜会では誰もラファエルを誘ってくれなくなってしまったし、踊っていると、くすくすと嘲笑う声がする。
「……きみって色んな悩みを抱えてるんだねえ……。」
ジィナイースは久しぶりに会った夜会でラファエルがまた一人で泣いていたので、話を聞くと、大きなヘリオドールの瞳を瞬かせて、そんな風に言った。
「分かってるよ! 呆れてるんだろジィナイース。ぼくだって、もっと、いろんなことちゃんとやりたいけど、出来ないんだもの……!」
泣き出したラファエルの頬にハンカチで触れて、ジィナイースは涙を拭いてやる。それからよしよし、というように輝く金髪を優しく撫でて、抱きしめてくれた。
ジィナイース・テラは、時折夜会に来なくなることがあった。なんでも貿易商の祖父が彼をとても可愛がっていて、旅に出る時は必ず連れて行くらしい。ラファエルは夜会にジィナイースがいないと寂しくてたまらなかった。途端に心細くなるのだ。
「呆れたりしないよー。ラファエル。ぼく、踊りはおじいちゃんに教えてもらって、いっぱい踊れるから、君に教えてあげるよ」
踊ろ、とジィナイースはラファエルの手を取って庭の広い所に連れて行った。
「でももう……きっと誰も僕とは踊ってくれないよ……嫌われちゃったもん……」
そんなことないよ。ジィナイースは笑っている。
「上手くなったら、きっとラファエルと踊りたいってみんな思ってくれるよ。君はこんなに素敵なんだもの」
ジィナイースはラファエルの両手を優しく掴むと、最初の踊り出しの体勢を教えてくれた。
「女の子をちゃんとリード出来るように、君が男性用パートをやってね。僕が女性用パートをしてあげるから」
「う、うん」
「緊張しちゃダメだよラファエル。踊りはこうやって手を相手と合わせるから、君が緊張すると、相手にもそれが伝わっちゃう。不安になると、ダンスは楽しめないからね」
ジィナイースはラファエルの瞳を覗き込んで微笑んだ。
「優しく手を持って、優しく目を見つめてあげることが一番大切だよ」
「う、うん。わかった。がんばる」
「僕の足だから、何度踏んでも大丈夫だからね。ゆっくり踊って行くから、ついてきてね」
「うん」
ジィナイースは本当に、ラファエルが無理なく踊れるくらいのゆっくりとしたテンポで踊ってくれた。
「君は踊るのが好き?」
「好きだよ。踊ると、相手のことが分かるんだ。どんな人か。優しい人は、踊り方も優しいんだよ。こっちに合わせようとしてくれたり、周囲とぶつからないようにとか、色々考えて踊ってくれるのが伝わって来るし、踊りが好きな人は、こっちまで楽しい気持ちにさせてくれるんだ。
最初は、あんまり上手く合わせられなくても、相手と気持ち良く踊りたいなって思って、こっちが一生懸命、合わせようとすると、曲が終わる頃にはいつの間にか、相手もちょっと心を開いてくれたりすることもある。すごく嬉しくなる」
踊りながら、ジィナイースが本当に嬉しそうにそう言ったから、ラファエルも笑顔になった。
いいなあ。ぼくもそんな風に踊れるようになりたい。
「ぼくも君みたいに上手く踊れるようになるかなあ……。一緒に踊ってるひとを、こうやって明るい気持ちにさせてあげられるように」
ジィナイースは微笑った。
「なれるよ」
「ほんとに?」
「もう明るい気持ちにさせてあげれてるもの」
ラファエルは青い瞳を驚いたように丸くしたが、頬を染め、ありがとうと小さく呟いて、それから顔を上げた。
ジィナイースは、いつもラファエルの心が温かくなるような言葉をくれる。
「僕が上手くなったらジィナイースも僕と踊ってくれる?」
「もちろんだよ」
ヘリオドールの瞳が水辺の光に輝いている。
……ふっ。
ラファエル・イーシャは夢から醒めると同時に笑っていた。
見慣れない豪奢な天蓋付きベッドの天井を見上げる。
美しい宗教画。
信仰。
慈愛。
優美。
ラファエルは宗教画に描かれた天使を見ると、全部同じに見える。
光り輝く、優しきもの。
そのすべての叡智と愛情深さが宿る瞳の色は、ただひとつ。
それが彼の、唯一抱えた絶対的な信仰だ。
シビュラの塔が三つの国に対して行った殺戮のことは、聞いた。
確か夜会の最中だったと思う。報せが来たのだ。
ヴェネト王国が、シビュラの塔を起動させ、世界に災いをもたらそうとしている。何としても真相を探り、出来ればこの塔を封じ込め、或いは破壊しなければならない。危険な任務になるが、誰ぞあの地に赴く者はおらぬか、と父であるオルレアン公が言った時、ラファエルは迷いもなく手を上げていた。
幸せだった短い少年時代が終わると、彼とは引き離された。
違う国に生きる者だったから。
彼がヴェネト王国の王統で、ただ幼少期、イタリアに居住している祖父のもとに預けられて育っただけだったことを知った時、ラファエルは涙が出た。ずっと、彼は自分の側にいてくれて、生涯仲良くしていけると信じ込んでいたからだ。
海が遠く隔つ、海洋国ヴェネトにジィナイースが去ってしまうと、孤独に苛んだ。
心の支えは、彼にもらったたくさんの美しい絵と、輝くような言葉と、踊ることの楽しさ。
その人がそこにいるだけで、幸せな気持ちにさせてくれるような、自分もそんな人間になりたいと思って、周囲の人に優しくするようになった。すると、人が自分のことも、愛してくれるようになった。
本当の孤独は癒されなくても、彼女達といると、寂しさが紛れたから。だからラファエルは、『彼女達』を大切にするのだ。心から、自分を支えてくれる存在だと感じるから。
――信じられなかった。
この地に来ても彼は一切、信じていなかった。
きっとその、実権を握っている王妃か、病床の王とやらが、全てを主導して世界に対して殺戮を行ったと思ったのだ。
(平和や美しいことを愛するジィナイースの魂は、必ず傷ついてる)
だから自分が、側に行ってやらねばと思った。
紛れもなく使命感で、ラファエルはこの地にやって来たのだ。
『初めまして』
会った瞬間に全てが分かった。
『……踊りは少し苦手で』
頭上に描かれた神託をもたらす天使の絵。
ラファエル・イーシャはゆっくりと身を起こすと、目元に掛かって来た輝く金髪を掻き上げた。
ザザ……と鬱陶しいほどの水の音が聞こえて来る外の景色へと、青い瞳を向ける。
「……本当に面白いことになりそうだよねぇ。」
城で会った、似ても似つかない
見てないと思っていたって。
神様ってのはどこかで見ているものなんだよ。
ジィナイース・テラ君。
悪いことってのは出来ないもんだねえ。
貴公子は唇に蕩けるような微笑を浮かべた。
瞳の奥に、普段は飼い慣らし眠らせている、獰猛な光を揺らめかせて。
【終】
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