【海に沈むジグラート】 

七海ポルカ

第1話 水の都ヴェネツィア





 霧雨の中、水上都市の夜景は密かに揺らめいていた。


 水路にはゴンドラが尾を引きながら優雅に行き交い、乗っている美しい令嬢たちは、さながら水辺に輝く花のようである。彼女達はヴェネツィア宮で毎晩のように行われる夜会へと向かっている。

 一年前まではこの水路はヴェネツィアの街の人々が生活の足として使っていたのに、今や市民は立ち入ることを禁じられ、特権階級の人々が贅を凝らしたゴンドラで行き交うだけのものになってしまった。


(――馬鹿馬鹿しい)


 彼は煌びやかな水路から目を背けるようにし、路地を曲がった。

 時折手元の地図を見ながら、入り組んだ通路を進んでいく。

 聞いていた通りの迷路のような路地だ。

 少し大きな通りに出るたびに溜息が出る。

 カツ、と軍靴で石畳を確かめる。

 それにこの目の粗い石畳だ。これは馬が足を取られてとても走行出来そうにない。

 自分のブーツに視線を落した。

(馬の蹄鉄を大きくすれば、石畳に落ちないかもしれないな)

 しゃがみ込んで、手で、石畳の幅を軽く図る。

 そのまま上を見た。

 建物同士を石造りの通路が繋いでいる。

 かなり低い位置だ。

(騎馬兵は槍は持ち込めないか)

 立ち上がり、十字路の四方を確かめる。

 同じような石畳だ。

 自分が迷っているのを認めたくなくて、じっと景色を確かめる。


 その時、鐘の音が聞こえた。


 教会の鐘の音だ。

 本国なら絶対に誘われたりしないその音を目印に、歩き出す。通路を曲がると、右側に教会の尖塔が見えた。街に馴染むような、小さな教会だ。

 だが自分がどこにいるか知る手掛かりには十分なった。

 教会のすぐ側の路地を抜けて、先に向かう。中心街からは徐々に離れているはずだ。

 いつの間にか、石畳を叩く音がしなくなっていることに気付いた。

 舗装されていない剥き出しの土。雨が降ったらさぞやぬかるむだろう。

 段々とあたりの空気が変わって来た。賑わう人の気配。

 明かりのついた建物の入り口に女が立ち、値踏みするような目で彼を見て来た。

 構わず通り過ぎたが、僅かに眉が寄る。


 ――腰の剣は目に入っただろうに、騎士を女が値踏みするとは。


 だが、彼はすぐに怒りを諦めた。漆黒の外套の下に騎士服を着込んだ自分を、好奇な目で見るのは女だけではないことにすぐ気付いたからだ。狭い通路をすれ違う人間はほぼ彼に不快な笑みを向けたり、不審げな視線を向けたり、ある者はギョッと驚いて一瞬立ち竦む者すらいた。

(この街の警備が機能していないとは聞いていたが、まさかこれほどとはな)

 中心街から小一時間随分歩いて来たのに、警邏の制服を一人も見ていない。

 賑やかな笑い声がした。酒場のようだ。

 彼は立ち止まり、低い階段を数歩上がり、扉が開いたままの酒場を入り口から覗いた。

 中を窺うと、カウンターからテーブルから、男たちで埋まっている。彼らの身なりを見れば、一目で分かる。警邏隊、守備隊の軍服だ。


 ……女が、彼を値踏みするわけである。


 彼は中には入らず、階段を下りてまた通路を歩き出した。

 ここが自分の国だったら、あそこにいる連中を全員粛清してやりたいくらいだ。

 だが残念ながら他の者が治める他国だから、そうも行かない。

 振り返ると遠くに、平地に人工的に高台を作ったその影が見えた。

 一瞬厳しい顔でそれを見遣ると、彼は通路を歩き出した。




◇  ◇  ◇




「隊長!」

 水の都の夜景を遠くに見下ろす場所で待機していた将校は、振り返った。

「フェルディナント将軍が戻られました」

 伝令兵の報告と同時に上官が姿を現わした。部隊長は彼に対してびしりと敬礼をする。

「遅くなってすまなかった」

「いえ。ご報告があります。フランス海軍の駆逐艦八隻が昨日トゥーロン基地から出港したそうです。オルレアン公の旗艦を確認したとのこと。このヴェネト王国に向かっています」

「……ようやくお出ましか」

 フェルディナントは腕を組み、何かを考えているようだ。

 平時は彼の補佐官も務める部隊長は、押し黙っている。

 しかし頃合いを見て口を開いた。

「ヴェネツィアの街はいかがでしたか」

「入り組んでいるだけで見るべきものは何もない。あれは虚飾の都だ。

 見物はもう十分だ。ここからは守護職としての話だな」

 彼は王都ヴェネツィアの夜景からは方向を変え、アドリア海の海上の方を見遣った。

 単眼鏡で覗き込むと、海上は厚い霧に覆われているが、時折その霧の中でピカ、と稲光のように忌々しく光る。

「あの地域の霧は本当に晴れることはありませんね。二週間ここに留まって見ていますが、いつ見ても全容は見えない」


「……だが例え目に見えなくても【エルスタル】がもうこの世にないのは事実だ」


 あの日のことは忘れられない。

 夜を愛する人々がいつものように星空を見上げていたら、星が流れた。


 星が落ちた場所は【エルスタル王国】。


 フェルディナントの父親の治める国であり、星が落ちた瞬間にこの世から消え去った。

 国を離れていたフェルディナントと、その母親は無事だったが、その地に暮らしていた者は全員死んだ。

 親類も、兄弟も、領民も。

 父と母が仲が悪かったので、フェルディナントが実際エルスタルで過ごしたのは少年時代だけだ。その頃は大人の事情などまだ分からなかったから、全てが平穏に見えた。

 父親の生誕の祝宴には年ごとに顔は出していたが、それくらいである。

 だからフェルディナントにとってエルスタル王国での記憶とは、幸せだった少年時代の光のような記憶しかない。


 あとは十二歳の時、生まれた妹の祝辞を述べに王宮を訪れた時だけだ。

 その妹とは去年六年ぶりに再会し、生まれてから一度も会ってなかったのに王宮にフェルディナントがやって来ると、目を輝かせて駆け寄って来てくれた。

「頂いた手紙は全て宝物にしてあります」と誕生日の折にフェルディナントが出していた手紙を、三通、本当に大切そうに宝箱にしまってあるのを見せてくれた。妹が三歳になってから、出すようになったのだ。

 兄弟は他にも大勢いたが、みんな母が違う。二つの同じ血を引く兄弟はお兄様だけだから、特別なのですと会えたことを喜んでくれたのだ。

 見返した自分の手紙は自分でも呆れるほど、形式的な、毎年同じような内容で、フェルディナント自身は決して形式的ではなく悩みに悩んだ結果、あれも書くべきではないこれも書くべきではないと、離れて暮らす妹に余計な言葉を掛けないようにと注意しながらそういう文章になっていたので、浮かんだ罪悪感は妹をないがしろにしていたというものではなく、こんなに喜んでくれるならもっと色々なことを書くべきだった、という後悔だったのだが、六年ぶりに色々なことを話せて、自分のことも話してやれ、妹のことも色々聞けた。

 興味のあること、

 好きな色、

 好きな服。

 演奏できる楽器。

 初めて出た夜会で優しく声を掛けてくれた貴公子の名前――それがとても嬉しかったことも。

 来年からは、もう少し色々なことを書く、と約束して別れたが、妹は「お手紙よりまたこうして会いに来てください」と笑顔で言ってくれた。

 その彼女も、一瞬の閃光に飲まれて、消えた。

 その日からフェルディナントの人生は一変した。

 彼は男の中では末弟だったので、王位継承のことなどは考えてもいなかった。

 軍の道を志したのは、それしか自らの価値を、父親に対して証明出来なかったから。


(いや……違うな)


 フェルディナントは少年時代から兄弟の中では父親に何の期待も、興味も抱かれなかった子供だった。優しい言葉など、かけてもらったこともない。だから別に、息子としてこの人の期待に応えなければなどと思うこともなかった。

 フェルディナントは小さい頃から戦うことより学ぶことの方が好きな子供だったから、自分一人が幸せに暮らすなら、軍などには入らなかった。学者にでもなっただろう。


 しかし大人になるうちに気付いたのだ。


 自分が父親に目を掛けられないのは昔からだったが、母親も一族の中で孤立して行ったことに。母親も、フェルディナントに何をしろこれをしろと言わない人だったが、父親とは全く違う意味がそこにあったのは分かっている。

 彼女は正妻なのだ。妻の中でも一番実家の格も高い。

 だが長く子供が出来なかったためフェルディナントは長子ではなく、その間にも、父と不仲になっていった。

 彼が生まれた時にはもう、夫婦としての関係も信頼も、なくなっていたのだろう。

 他の妻の目障りになるからと、離宮に移ることを決めた時、フェルディナントを父親に預けようとしたが、彼は拒否して母親についていった。実家の公爵家には頼れないのは分かっていたし、誰かが側にいなければならないと思ったのだ。


 自分が役立たずだと、父に見放される。

 自分だけならまだしも、母親もそうなるのだと理解した時、フェルディナントは軍人になると母に話した。


 小さい頃から、本を読むことが大好きだった息子を見て来た母親は目を丸くしたが、公爵家から、剣の指南役を呼んでくれた。彼に剣を学び、自分の部屋の本棚に収まっていた、気に入りの本を全て捨てて、軍略や戦術の本だけを運び込んだ。

 フェルディナントは【エルスタル】の軍ではなく、母親の実家の縁を頼り、スペイン陸軍に入った。軍の士官学校で寝泊まりをし、異例の速さで戦功を立てて、出世して行った。


 そうして暮らしていると、ある日父親から手紙が来たのだ。

 国に戻り、エルスタル軍の一部を任せたいという内容だった。

 顔に見せに来い、ならば断わったが、仕事だったのでフェルディナントは国に戻った。

 エルスタルは領土は小さな国だ。

 しかし縁戚を利用し、同盟国である神聖ローマ帝国の中では、強固な地盤を築いていた。

 皇帝の戦に送る軍を任され、地方を転戦した。

 フランス軍相手に特に戦功を上げ、フェルディナントは皇帝直々に軍才を讃えられるまでになった。


 妹が生まれた時、父から「お前の戦功には全て目を通している」と声を掛けられた。


 十二歳違いの妹が生まれたことの意味など、結婚どころか恋愛をしたことすらないフェルディナントには考えも及ばないことだったが、母親の離宮に時々父親が訪れるようになったのは、フェルディナントが神聖ローマ帝国でもっと若い将軍位に着いた頃のことだったという。相変わらず両親は別居していたが、久しぶりに会った母親は以前よりもずっと、穏やかな表情をしていた。

 

 自分の存在意義。


 フェルディナントは拳を握り締める。

 自分が戦で戦功を立て、エルスタルのフェルディナント、と皇帝が呼ぶ。

 エルスタルの父の名が宮廷で意味を持ち、その父が母を尊重するようになった。

 自分の妻ではなく、フェルディナントの母だからだ。

【エルスタル】の名が光り輝けば、いずれ妹にも、彼女が幸せになれるような縁談が用意されて行く。


 ……そうやって、悩みながら、フェルディナントは王の息子としての自分自身の存在意義を問いながら、確かめながら生きて来たのだ。

 それが何の前触れもなく、叩き潰された時、継ぎたくも無かった、継ぐことも考えたことのなかった【エルスタル王国】の王位をフェルディナントは継いだ。


 父に期待されたからではない。

 彼しか継げる者が生き残ってなかったからである。


 しかも継承の意味は、フェルディナントの軍での戦功に対して、皇帝が憐れんだ部分が多く、極めて形式的なものだった。


 名を残すだけの意味である。

 継いだとして、その【エルスタル王国】がもう無いのだから。


 記憶にうっすらと残る美しい街は、抉り取られた大地に飲み込まれて荒野になっていた。

 あまりの光景に声も出なかった。

 フェルディナントは戦を知っている。侵攻され、残虐な目に遭った街や村も見たことがある。軍人であっても眉を顰めるような悲惨。一面が無になったこの光景より、一体どっちが幸福な光景なのか、何も分からなくなった。


【エルスタル】【アルメリア】【ファレーズ】という三つの国は破壊された。


(今あるのはその三つの国が失われた世界)

 あとは以前と何も変わらない。

 そこまで考えて、彼は視線を落した。


 ……何も変わらないなんて嘘だ。


「将軍?」

 本降りになって来た雨空を睨み上げてから、フェルディナントは二角帽を深く被り直した。


「王宮に向かう!」




◇   ◇   ◇




 その塔の名は【シビュラ】と言った。

 古の時代、七海を制した王が建造したものとされている。

 しかしいつ頃からいつ頃にかけて建造されたかは分かっておらず、まるで世界の一番最初から、そこにあるかのように立っていた。

 古代の王が自らの偉業を讃えるために立てた遺産。

 その程度の認識しかなかった。

 その塔の麓に街を形成して行ったヴェネト王国も、海洋国としてはイタリアに遥かに劣り、王都であるヴェネツィアも一見穏やかな水上都市、その程度である。

 古の時代から単なるモニュメントでしかなかった【シビュラの塔】が火を噴き、三つの国を滅ぼしたことに関して、ヴェネト王国は完全に沈黙をした。

 普通ならば各国から糾弾が行われるはずだったが、この不気味な沈黙に対して、各国は追及を行えなかった。

 彼らも滅ぼされた大地を見たのである。

 神の怒りのような、凄まじい殺され方を。

 今や、ただ穏やかなアドリア海の貴婦人だと思われて来たたこの国の一挙一動に、各国の視線が注がれている。

 真相を追求する意味もある。

 友好関係を結び、あのシビュラという名の古の怪物をけしかけられないようにする、外交的な意味も。

 ヴェネト王国は今や、欧州各国の社交場となった。

 血腥い未来を隠蔽し、曖昧にする、虚飾の社交場に――。



◇   ◇   ◇



「ジィナイース様」


 扉が叩かれる。

 入って来た女官は、寝間着姿のまま窓辺に腰掛けている主を見て、驚いた。

「まあ。まだそんなお姿で。母君がお呼びでございますよ」

「……行きたくねえ」

「またそんな……」

「別にいいだろ。客は母上に会いに来てんだから。俺なんかいなくたって」

「そんなことはありませんわ。ジィナイース様も来月十六歳におなりになります。

 今やヴェネト王国は欧州一の強豪国。各国の王家がジィナイース様の許に美しい姫を嫁がせたいと躍起になっておられますのよ」

「嫌だよ。躍起になって嫁いでくる姫なんか……」

 外で花火が上がった。

「まあ。美しい花火。こんなに空も晴れて」

「嘘つけ。さっき雨降り始めてたぞ」


「ジィナイース様。王妃様がお呼びです」


 別の女官がやって来た。

 彼女は女官同士鉢合わせて顔を見合わせ「まあ」という顔を見せた。

「ご気分が優れないようなのです」

「まあ……それは大変ですわ。王妃様にお伝えしましょうか?」

 そしたら飛んで来るじゃねーか。

 彼は溜息をついて、身を起こす。

「……いいよ。行く」

 どうせ断ることなど出来ないのだ。



◇   ◇   ◇



「まあジィナイース。よく来てくれたわね」

「母上。遅れて申し訳ありません」

「いいのよ。さぁこちらへ。御覧なさい、今宵も美しい姫たちが各国から貴方に会いに来ているのですよ。母も少し吟味しましたが、貴方は押し付けられるのが嫌いですから言うのはやめましょう」

 押し黙る息子を王妃は振り返った。

「ジィナイース」

 びく、と両肩が跳ねる。

「貴方の心配は分かるわ。王都ヴェネツィアはともかく、辺境はならず者が人の流れに乗せられてやって来て溢れていると聞きます。沖には海賊船が多発しているとか。けれど母がフランス・スペインの王と話したら、ご親切に護衛の海軍を派遣して下さることになったのです」

 外交に親切など無い。利益があるから国は動くのだ。

「こうなってみると、自分で海軍など育てるのが、愚かに思えること。今や我がヴェネト王国はアドリア海で最も美しい宝石。各国が守ろうとしてくださるわ。ジィナイース。貴方は来年には病床のお父様から王位を継ぐのですから。今から各国の軍籍にいる方たちにはよくご挨拶しておくように。貴方がこの美しい宝石のような国を継ぐのよ。運命に愛されし子……」

 王妃はやって来ると、優しく手を伸ばし息子の頬に触れた。

「……はい」

 その時、優雅に流れていた階下の音楽が途切れた。

「なあに? 何事が起こったの?」

 王妃は振り返る。

「神聖ローマ帝国の使者の方がご到着になったようにございます、王妃様。皇帝陛下の命令で、王都ヴェネツィアの守護に就かれる方々です」

 ざわめいている。

 王妃はそこから、中庭を見て、すぐに「まぁ……」と眉をひそめた。

「母上?」


「竜騎兵だわ」


 中庭を見て、息を飲んだ。

 次々と空から飛来して来る巨獣の姿。

 竜は神聖ローマ帝国国内にしか生息しない。全て王家又は軍が所有し、野生に迷ったものは飼育を許されず、射殺が義務付けられている。この戦時に置いて、ある意味軍艦よりも有能な地上最強の動物を、他国に流出させない為である。


「何と恐ろしいものを。美しい王宮の中庭に直接飛来するとは、無礼な」


 王妃は忌々しそうに彼らを見下ろした。

「あんなもの、王都の空を飛ぶことは許さないわ。私達はヴェネトの民。古の時代、最も偉大だった王の末裔なのよ。私達を空から見下ろすことが出来る者など、神だけ」

「妃殿下、神聖ローマ帝国よりフェルディナント将軍がお越しです」

 兵が呼びに来る。

「気分が優れないから、会わないわ」

 王妃は首を反らす。

「……そういうわけにもいかないでしょう。妃殿下。後日フランスやスペインからも使者が到着します。彼らに会い、神聖ローマ帝国の使者だけに会わなければ外交問題になります。皇帝の心境は悪くなりましょう」

 参謀がそう言った。

「私に皇帝に気を遣え、と言っているの?」

 美しい王妃が気色ばむと、参謀は静かに首を振る。

「外交を行うべき、と進言させていただいたのです。無論、全てを決めるのは妃殿下にございます。私は病床の陛下から、妃殿下をよく補佐するよう願われております。務めを果たしただけのこと。他意はございません」


「……ロシェル、小賢しいことを」


 参謀が首を垂れる。

 忌々しそうに彼を見遣ったが、少し考え、王妃は扇を畳んだ。

「いいわ。今日は貴方の助言に従ってあげましょう。けれど私は竜騎兵は嫌いです。駐留部隊にはくれぐれも貴方から忠告しておくことね。竜の翼は切り落とすか、釘で胴体に打ちつけておくようにと!」



◇   ◇   ◇



「ヴェネト王国王妃、セルピナ殿下。神聖ローマ帝国皇帝より、親書を預かりお持ちしました。神聖ローマ帝国のフェルディナント・アークと申します」


「まあ。よく来て下さったわ。あのようにおどろおどろしい魔物でお越しですから、どんなに恐ろしい方が来られたのかと思ったけれど、まさかこんな若い方だったとは。王宮の威光にも関わらず、我が美しきヴェネトの治安は急激に他国の者の手により、荒れ果てています。信頼させていただいてもよろしいのかしら」


 皮肉と嘲笑を込めた王妃の言葉にも、フェルディナントは静かな表情のままだ。

「ご期待に沿えるよう、努力いたします」

「努力していただけるのでしたら、あれをどうにかしていただける? 私、竜は嫌いなのです。恐ろしい姿だし、火を噴くというわ。うっかり美しい庭が燃やされたら、悲しいのです」

「申し訳ありません。皇帝陛下より、戦略的に有意義な道具として、妃殿下にお使いいただくよう派遣されましたので。どうしてもお目障りになりますようならば、王宮には立ち入らせません。また、我が国の竜は品種改良をされていますので、あちらに揃えた竜は火は吹かない品種になっております。あれは軍馬と同じです。違いは飛ぶか飛ばないかだけ。

有事の際は必ずお役に立つでしょう」

「まあ。有事だなんて何て恐ろしいことを。この美しいヴェネト王国を誰が侵すというのです?」


「申し訳ありません。言葉に語弊がありました。

 要するに、万が一街に何かあれば、遠慮なく妃殿下に使っていただけばいいのです。

 あれは神聖ローマ帝国のものではございません。

 三十騎の竜騎士、全て我が皇帝からヴェネト王と妃殿下への贈り物にございます。

 我が国では竜は、神聖な生き物であると同時に、高い知能を所有し、幸運と勝利をもたらす至高の生物とされます。神聖ローマ帝国で最も高貴な動物をお贈りしたつもりでしたが、あまりにご不興であれば、本国に報せ、引き取らせましょう。

 我が国の歴史において竜が他国に例え贈物としても流出したことは一度もございません。皇帝は喜んでいただけると確信してのことであったでしょうが、許よりこれは親睦の証。拒否なさっても何一つこちらの方が案ずる必要はないかと」


 美しい王妃は眉を吊り上げた。

 側で母の様子を窺っていた息子は、この場を外したくなるような空気を感じたが、彼女の激しい感情が吹き出すことはなかった。


「……。よく分かりました。親睦の証と思って下されたものを叩き返すのも申し訳ないわ。

ただし、悪戯にヴェネツィアの上空を飛ばしたりしないでください。ヴェネトの民は美しく優しいものを愛するのです。恐ろしいものが空を行き交ってたら彼らは安心して暮らせませんわ。王宮の立ち入りは遠慮してください。この王宮は病床の陛下もいらっしゃいます。あんな恐ろし気な声を聞いていては安らげませんもの」


「御意のままに」


 フェルディナントが完全なる恭順を示したので、王妃はまあいいかと怒りの留飲を下げた。

「貴方には王都ヴェネツィアの守護を担っていただくのですから、紹介しておきますわ。

こちらが王太子のジィナイース・テラ。来月には十六歳になり、慣例により王位を継げる歳になりますから、来年には王は、譲位を考えておられます」

「そうですか。おめでとうございます」

 フェルディナントは王太子の手を取り、臣下の礼をして、形式的に手の甲に唇を触れさせる真似をした。顔を上げると、王子とは目を合わせず、すぐに王妃へ目を向ける。

「騒々しく参りましたこと、お詫びいたします。ここにいると城の方々のお目障りになると存じますので、これで駐屯地に引き上げます。妃殿下、殿下。失礼いたします」

 フェルディナントは二人に一礼すると、退出して行った。


「面白みのない男」


 王妃はつまらなそうに言った。

「ジィナイース。来週いらっしゃるフランス、オルレアン公のご子息は、社交界の華と謳われる方よ。貴方は軍人などと関わらないでいいのです。なんと仰ったかしら?」


「ラファエル・イーシャ殿下にございます」


 女官が応えると、王妃は上機嫌になる。

「そうだわ。稀に見る貴公子でいらっしゃるとか。オルレアン公は王弟に当たられる、高貴な方よ。そのご子息をこちらに寄せていただけるなんて、フランス王はなんて寛容な方でしょう。ヴェネト王国をどんなに重視していただけてるか、伝わってきますわ」

 王妃が女官を引き連れて、出ていく。

 翼の音と、嘶きが聞こえた。

 中庭にいた竜が羽ばたき、雨空に去って行く。

「殿下。母上がお呼びです」

 空を見上げていた王子は頷いて、歩き出した。



◇   ◇   ◇



 ――何が美しいものと優しいものを愛する民だ。



 フェルディナントは雨に濡れて竜の手綱を握りながら、内心で唾棄した。一瞬で一つの国を吹き飛ばしておいて、貴様らなんぞが優しさや美しさを語るな、と思う。

 腹の奥で怒りが業火のように渦巻く。

 相まみえた王妃は、先に城下を視察したフェルディナントが予期した通り、自らの特権が守られるならば他を顧みない、傲慢な性格の女だった。

 遠くに、王家により立ち入り禁止の特区に指定されたその地に、白亜の塔の影が見える。


『……何が出来るか分からぬが』


 神聖ローマ帝国皇帝はフェルディナントを送り出す時に言った。

『エルスタルのそなたをあの地に送り出すのは、まことに心苦しい。しかしあれは、天の災い。この私を以てしても、どのように攻略すればいいのか分からぬ。かの地に集うフランス、スペインも恭順は示しながらも【シビュラの塔】を停止させる方向や機会を窺うはず。もしあの怪物を黙らせることが出来る方法があるとしたら、天を駆る我が竜騎兵団の力は有意義なものとなろう。そなたの率いる竜騎兵ならば有事の際にも真価を発揮するはず』

 頼む、と託された。

 手綱を握り締める。俯いた時、ふと、眼下のヴェネツィアの街並みを、こんな雨の中走る火の影が目に入ったのだった。



◇   ◇   ◇



 悲鳴が上がった。

 兵士に追われていた二人の娘が行き止まりの通路に追い込まれている。

「奴隷の分際で錠破りとは……どれだけの罰が科せられるのか、分かってるんだろうな?」

「お前らのどっちかが首謀者なのは分かってるんだよ。どっちだ。密告すれば一人の命は助けてやるぞ。命はな」

 五人の警邏隊は嘲笑った。

 娘二人は身を寄せ合って、首を振っている。

「チッ、何を庇い合ってんだ! 娼婦の分際で!」

 近づいて行った兵が、蹲っていた二人のうち、一人の髪を掴み上げ、顔を殴りつける。

「今、俺たちは城にいらっしゃる他国の客人を護衛するのに忙しいんだよ! てめえらみたいなゴミの為になんでこんな嵐の夜に走り回らなきゃなんねえんだ!」

 倒れた娘を軍靴で容赦なく数度蹴りつければ「やめて!」ともう一人の娘が覆い被さるようにして庇った。男たちは忌々しそうに彼女の身体も蹴りつけたが、懸命に耐えている。

 これ以上は時間が掛かると思ったのか、警邏は腰の剣を抜いた。

「どのみち娼婦が娼婦を逃がせば死罪だ。裁くのは法じゃなく、大損食らった店の主人だがな。だったらここで俺が殺したって同じことだろ?」

 後ろの仲間を振り返り聞くと、仲間も冷たい笑みを浮かべて止めずに見ている。

「庇ったお前からだ」

 乱暴に髪を掴み上げ、首元に剣を押し付ける。

 首を切ろうとした瞬間だった。

 鮮血が飛び、後ろで見ていた兵が汚ねぇな、と笑い立てていたが、次の瞬間倒れ込んだのは剣を持っていた男だった。仰向けに倒れて、目を剥き死んでいる。口から血が溢れていた。

「⁉」

「てめえ! 何しやがった⁉」

 殺されようとしていた女はまだ生きていて、恐怖に呆然とした顔だ。

 近づこうとした二人の兵が、続けざまに倒れ込む。

「な、なんだ⁉」

 残った二人が、ようやくキョロキョロとあたりを見回した。

 しかし降り始めた強い雨と、夜闇。

 何も見えない。

 ――と。

 暗闇にすぅ……と浮かび上がった。白い顔。

 仮面だ。

「な、なんだ……仮面か……てめえ下りて来い!」

 見上げる屋根の上に人影が立っている。

 ヴェネト王宮で流行っている、仮面舞踏会で貴族が付けている、そういう人型の仮面だ。

 警邏隊の笛が鳴る。

「ふざけやがって……弓で撃ち落としてやる!」



「――それには及ばないよ」



 押し黙っていた闇に、やけに静かにその声は響いた。

 竜の背から通りの壁の上に飛び降りたフェルディナントも、その声を聞いた。

 次の瞬間、屋根の上から影が消えた。

「!」

 飛び降りたのだ。

 剣撃の音が鳴り響く。

 急いで壁の上を駆って、下を覗き込むと、多層階の下の通路で増えた警邏隊四人相手に立ち回る姿が見えた。

 踊るような身のこなしだ。

 狭い通路に警邏隊が剣を引っかけて苦労しているのに、鮮やかに剣が閃く。

 二人の喉を切り裂き、たじろいだ一人の顔面に振り向きざまの蹴りを叩きつける。壁に叩きつけられた兵の背を力強く蹴り上げて跳躍した彼は、騎馬のまま駆けて来た警邏を強襲する。一撃を受けた警邏は馬と一緒にバランスを崩して水路に落ちた。

 降り立ったフェルディナントは抱き合ったまま呆然としている二人の娘を一瞬見遣ったが、すぐに前方から悲鳴が上がり、駆け出す。

 すれ違いざまに水路に落ちた警邏を見ると、落馬しただけではなく、血の赤が水面に広がるのが見えた。人間の脈を断つ、容赦ない斬り方だ。

 路地を抜け、少し大きな通りに出る。すると丁度、五人いた最後の一人が、もう倒れる瞬間が目に入って来た。


 まさに電光石火と言うべきだ。


 仮面の男はぬかるんだ土の上に立ち、その周囲に五人の警邏の死体が倒れている。

 一瞬のこと。

 手に二本の刃が見えた。剣というより短剣に近い手の中に収まるほどの獲物だが、華奢な短剣ではない。軍人のフェルディナントでも、見たことのない珍しい武器だ。巨獣の歯のように鋭利な三角刃が凶暴な光を反射する。

 背を向けて立ったその人影が、一瞬上空で光が瞬くと、肩が僅かに揺れた。

 警邏の笛が遠くで鳴る。騒ぎを聞きつけたのだろう。

 普通なら増援が来ると思って狼狽えるだろうが、仮面の男は笛の音にも反応せず、静かに後ろを振り返った。肩越しに振り返った顔に、フェルディナントは息を飲む。

 返り血を浴びた白い仮面。冷たい微笑が浮かんでいる。

 通路を吹き抜けた風に着ていた外套のフードが背に落ちる。

 短い、栗色の髪が露わになった。素性は分からないが、随分若く見えた。

 あの立ち回り。老練な剣術士に見えたが――違う。

 その風は、フェルディナントが着ていた外套も大きく翻し、下に着た軍服が露わになった。

 仮面の下の瞳が細まり、それを確認したのが分かった。

 ハッ、と息を飲んだ瞬間、上空で光が瞬き、間を置かず爆音のように雷が鳴る。

 それを合図のように地を打ち、襲い掛かって来る。


 ――――――――ィィン……ッ、


 甲高い、金属が擦れる音が耳を揺らしたと思ったら、目前に影が迫っていた。

 巧みな身のこなしだけじゃない。

 この速さだ。

 走力。

 咄嗟に抜いていた剣に、二本の三角刃が凶暴に食らいつく。

 本当に猛獣が牙で食らいついてくるようだ。

 疾く、鋭く――どこに致命傷を与えればいいかを、知っている。


「! くっ!」


 一瞬遅れていたらあれが喉に来た。

 フェルディナントは剣を弾く。

 彼は剣術の天才と呼ばれる剣を使い、軍では歴戦の剣術士とも渡り合うが、今は押された。何故なら、相手が剣術を使うならば彼は対処出来るが――『猛獣』と戦ったことはさすがに無かったからだ。剣を合わせた感じからも、足元の動きを見ても、剣の動きが読めない。こんな相手と戦ったのは初めてだった。

「っ、!」

 顔のすぐそばを刃の風圧が掠った。身を避けると同時に相手の胴のあたりに蹴りを叩き込んで弾き飛ばす。間合いを稼ぐしかない。剣が読めないなら、

(いま、覚えるまでだ)

 目を見開き、この瞬間に、敵の剣に『慣れる』のだ。

 そして、見切って反撃を叩き込む機会を待つ。

 彼はあまりしたことがないが、そういう対処方法がないわけではない。

 戦うつもりはなかったが、そうするしかなかった。とにかく、相手を封じ込めねば話も出来ないのだ。

 ガッ、と蹴りは綺麗に入ったはずだが、後方に吹っ飛ばしたと思った相手はその流れに逆らうことなく吹っ飛んだ空中で身を捻り、その動作で、自分の望む体勢にもう整えてきた。空中でのことだ。

 驚異的な身体能力である。

 と、ん……と大した音も立てず、本当に四つ足動物のような低い体勢で着地をしたかと思うと、身体を伸ばすその反動でばねを作り、すぐに襲い掛かって来る。

 打ち合いになった。

 激しい剣音が響く。


「待て!」


 必死に叫ぶ。

 もっと何かを言いたかったが、襲い掛かって来る連撃が早すぎて、その太刀筋を凌ぐことに集中しなければならず、言葉が出て来ない。

 ようやく、もう警邏の男たちの脅威は去ったと思ったのか、路地から出て来た女たちが、まだ斬り合ってる二人を見て、悲鳴を上げ、通路の先に逃げていく。それを確認したかのように、仮面の男はフェルディナントの足元を厳しく斬り払って来た。思わず身を躱したそのフェルディナントの生み出した間合いを使って、狭い通路へと走り込み、壁伝いに左右に蹴り上げ、上空に跳躍した。

 本当にまるで身軽な肉食獣のような身のこなしだ。

 背を折り曲げ、屋根の上でこちらを見下ろす。

 その時仮面の奥に、まさに猛禽のように輝く黄金色の瞳が見えた。

 側の家の掲げるランプの光がそれを揺らめかせたのだ。

 数秒後、ランプは剣を叩きつけられ、砕かれた。

 蝋燭の火を消すようにあたりが暗闇になった。

 ガラス片が降り注いでくる。

「!」

 思わず外套で顔を覆うようにし、破片から身を守る。

 一瞬のことだが、すぐに外套を払うと、人影は消えていた。

 フェルディナントは走り出す。

 別に女二人は無事に逃げたのだから追う必要はなかったのかもしれないが、守護職としての本能が、追わせていた。


「フェリックス!」


 上空を旋回しながら舞い降りて来る。

「フェリックス! 来い‼」

 垂れ下がった手綱を掴み、鐙に片足だけ入れば、それを確認し竜は急上昇していく。

 上空から、目を凝らすと、連なる王都ヴェネツィアの街並みの屋根や壁の上を、まるでウサギのように身軽に駆け抜けていくその影が見えた。城壁に囲まれている王都の外周方面へと向かっているようだ。

(なんて身のこなしだ)

 さすがに舌を巻く。

 この雨。暗闇。細い足場も物ともしない。一体あれは、どういう人間なんだ。

 竜が、言わずとも主の意図を察したように、地上を逃げていくその背に近づいて翼を広げたまま低い滑降に入った。

 ぬかるんだ地面が見える。そのそばの通路。

 フェルディナントは手綱を手放し、落下しながら仮面の男の外套を掴むと、外側の通路へと体重を投げ出し、攫うように共に身を投げた。


 上空からの襲撃は竜騎兵の戦術の一つである。


 彼はこういう状況には慣れていたが、相手が宙に浮かんだ瞬間でも投げ技を放って来たため、水路に落ちるつもりだった目測がずれ、ぬかるんだ地面に這うように着地した。

 地面に叩きつけられることだけは避けられたが、両手と両脚を付いた瞬間、相手が空中で身を翻し、すでに体勢を整える気配が分かった。

 まずい、と思った時には、顎を蹴り上げられていて、身体が浮いた胴体に、強烈な蹴りを叩き込まれ、フェルディナントは後方に吹っ飛んだ。武器だけじゃない。蹴りの威力も相当なものだった。

 それに戦うことに躊躇いがない。すぐに襲い掛かって来る。

 その気配は分かったが、一瞬動けなくなる。

 ザッ、と。

 大きな影が飛来する。

 地に倒れたフェルディナントと、敵の間に、上空から竜が突っ込んで来た。

 巨体が着地する衝撃に、ドン! と地面が揺れる。

 突撃の体勢だった仮面の男は刃を地面に突き立てて、急停止した。まるで獣が地面に爪を立て、咄嗟の回避行動をするかのような仕草だった。

 竜が長い首を払いのけ、威嚇する。


 長い首を振り回すようにして敵に叩きつけ攻撃するのは、竜がよく見せる攻撃方法の一つで、刃も弓矢も弾く固いその皮膚に、遠心力を加えてぶつけるそれは、当たり所が悪ければ人間の骨など軽く粉砕する威力がある。長い尾も同じだ。


 竜は神聖ローマ帝国しか所有しない生き物だ。そしてほとんどが軍用に扱われている。

 だからその習性を、詳しく目の前の襲撃犯が知っているはずは無かったが、彼はそれが分かっているかのように、竜の間合いを避けるように後方に飛んだ。


「待て! 俺は警邏隊じゃない!」


 起き上がったフェルディナントが叫ぶ。

 身体中、泥だらけだ。

 泥と水を吸い、重くなった外套を脱ぎ捨てる。

「お前を捕える気は無い! 奴らの所業は俺も確認した!」

 咆哮を上げて翼を広げ、威嚇の体勢を見せている竜の前へ出ていく。

「ただ、お前が何者かを……」

 聞きたいだけなんだ、という言葉は紡げなかった。

 仮面の男の手が、不自然な動きをした。

 まるで、フェルディナントの方に手を差し出すような仕草で、彼が怪訝な表情を浮かべた時、


 カチッ、

 というその音が聞こえた。


 先ほど見た死体の姿が脳裏に浮かぶ。

 喉から溢れていた血。何かが喉から突き立っていたのだ。

 それを思い出すと同時に、危機感を察知し、反射的に横に飛んでいたが、間に合わなかった。

 本当ならば正確無比にフェルディナントの喉を貫くはずだった三連の矢が、続けざまに右肩に突き立ったのが分かった。

「ぐ、っ、!」

 よろめいた身体が水路に落ちる。

 水柱が上がった。

 追撃が来たら確実に死んでいる。


 死……。


 水の中に落ちた時、

 思ったことは、


 何故か過ったのは――こちらに笑いかける、妹の明るい笑顔だった。



◇   ◇   ◇



 目を覚ますと見慣れた自分の補佐官が心配そうに覗き込んでいた。

「トロイ……」

 声を掛けると、すぐ見ていなかった反対側から、こつん、と頬に固いものが当たる。竜が、まるで自分の方がずっと目覚めるのを待っていたのだ、とでも言うようにグイグイ、と額を押し付けて来る。

「全く、竜なのに犬みたいな奴ですね……。フェリックス。お前の皮膚は固いんだからそんなに無遠慮に主に押し付けるんじゃない。こことかトゲトゲしてるところ強く押し付けたら主の皮膚に穴開くぞ。自分がフワフワの生き物だって勘違いしてるんじゃないかな」

 グルグルと喉の奥を鳴らしている。

 これは不満な声である。

「ここは……うっ!」

 動こうとして右肩に激痛が走った。

「動かないでください。範囲は広くはないですが、傷は深いんです。肝が冷えました。貴方のことだからすぐに戻るだろうと思ったらいつまで経っても戻って来られないし、 探しに行ったら高台の木陰にフェリックスがいて貴方は重傷。一体何事かと思いました。あれから二日経っています。何があったのか、情報は集めましたが、大したものはありません。なんせ嵐の夜で目撃者がいないんです」

「警邏隊の連中は……」

「十一人死にました。一人は運び込まれた当初生きてたそうですが、頭部に重傷を負っていて助からなかったそうです。貴方が生きているのが奇跡なんですか? ヴェネトには、【シビュラ】以外にも忌まわしい怪物が?」

 白い仮面が脳裏に過る。

「……仮面が……」

「え?」

「……。いや、何でもない。死んだ警邏隊の詳細は」

「調べてあります」

 有能な補佐官は言った。主が目覚めたら、必ずそのことを知りたがると思ったからだ。

「そうか。すまなかった。あとで目を通す……」

 ふと、側のテーブルの上に置かれている。

 手を伸ばそうとしたのを察して、部下が取ってくれた。

 矢のように長くはなく、針のように細くはない。

「変わった武器ですね。私も見たことがありません。ただ、かなり深く突き刺さっていたので投げつけただけではないように思います」

「器具の音がした。恐らく小型化した自動弓のようなものを手に仕込んでるんだと思う。遠くから射るというより、至近距離から放つ。敵に一撃で致命傷を与えるのが目的だな。目とか喉元に打ち込む。バネのようなものを使って殺傷能力を高めているんだろう。『放つ』音を聞いた」

「一体何者でしょうか? 警邏隊を襲ったということは反乱分子でしょうか?」

「女二人をあの警邏隊の連中が暴行していたんだよ。奴は止めに入ったんだ」

「女二人?」

「多分、歓楽街の人間だとは思うが……だが単なる商売女のようにも見えなかった」

「どのような所がです?」

「……暴行を受けた時、庇い合っていた。普通単なる同業ならあそこまではしない。まあ逃げ道が無かったから逃げようも無かったのかもしれないが」

「いえ……それにしても確かに庇うのは妙ですね」

 フェルディナントは打ち込まれた武器を部下に渡した。


「トロイ。歓楽街を少し探ってくれ。特に、店にいる人間たちの素性が知りたい。斡旋している者達も。あの二人、表現は難しいが、一般の家の姉妹のようにも見えた。警邏隊のあの傲慢で粗暴な態度も気になる。嵐の夜とはいえ、警邏隊が徒党を組んで通りで女を暴行していた。人目も憚ることもなくな。ああいうことが常時化しているのならば、私は守護職としてそこから粛清を始めなければ」


「その襲撃犯は人助けですか?」

「……単純な人助けなら、もっと人の忠告を聞くだろうよ」

 フェルディナントは片目を細めるようにし、僅かに表情を曇らせて、肩の痛みを押さえるように手を当てた。それを見た補佐官が立ち上がる。主の毛布の上にぽふ、と顎を乗せている竜の鼻先を軽く触り、合図を送る。

 フェルディナントは若いが、将軍職にあるという矜持は凄まじく高い。部下の前では気を抜いたり、気を休めたり、隙を見せるようなことが決してない人なのだ。つまり自分がいる限り、彼は休めないわけである。

「……とにかく、もう一度お休みください。軍医もあと少しずれていたら致命傷だったと言っていました。こんなところで貴方を失えば、私は自刃しなければなりません」

 分かってる……、元々痛み止めの為に睡眠薬を投与されていたフェルディナントは目を閉じた。

「……傷が癒えたら、俺自身でも探ってみる……」

 歓楽街をですか?

 驚いたような声が聞こえたが、意識が遠のいて、応えられなかった。



◇  ◇  ◇


 扉が鳴ったことに気付いて、無心に描きつけていた筆を止めた。


「徹夜ですか?」

「神父様」

「一晩中明かりがついていましたね」

 青年は慌てて立ち上がった。

「すみません、鐘……」

「ああ、いいのですよ。今日は私がやりましょう。顔を洗ってきなさい。絵の具がたくさんついているから」

 笑いながら指摘されて、手を頬にやると、黄色がついた。

 夢中で絵を描いていると、つい顔を色のついた手で触ってしまう。だから顔にいつも絵の具がつくのだ。

 本当だ、と彼も笑ってしまった。

「すみません。朝食の支度を手伝います」

「いつもながら美しい絵ですね。――ネーリ」

 絵の前で、じっとしている神父に優しい表情を向けてから、ネーリは部屋を出た。

 ここは小さな教会の裏手にある物置き小屋である。アトリエ兼居住場所として、借りているのだ。教会もすでに朽ちてそこにあるだけで、人は訪れない。しかし今までの歴史では誰かが信仰していたものだから、捨て置くのは忍びなく、この教区担当の神父だけが、時々建物を確認しに来るという場所だった。今はその時期ではないが、冬など、隙間風で刷毛の毛も凍る。

 それでも――。

 扉を開くと、朝陽が射し込んだ。

 眩しすぎて、思わず、目を細める。

 風と波の音と共に、黄金色の干潟が目の前に広がった。

 海鳥が飛び、波の音がする。

 遠くに、美しい水上都市の姿がある。


 ザザ……ン……。


 朝の白い光の中、安堵したように静かに佇んでいた。

 毎朝見ているはずの景色なのに、毎朝美しさに感動する。裸足のままネーリは歩いて行った。干潟の柔らかい砂を踏んでいくとすぐ波間に辿り着いた。

 大きく伸びをした時、腕が痛む。何かなと思って見てみると、青く痣になっている。


 ……あれだけ打ち合って、仕留められなかった相手は初めてだった。


 別に仕留めることが最大の目的ではないけれど、ああいう徒党を組む悪は、全員始末をしないと生き残りが逃げた女二人を追い、彼女達に更なる被害を与えることがあるのだ。

 この世に悪があるのは別にいい。

 夜や、闇だってこの世に存在するのだ。

 悪だって存在するだろう。

 だがあの連中は警邏隊の制服を着ていた。つまり街の守護職なのだ。その制服を纏いながら、どんな素性にしろ何故、街に住まう者を傷つけ、殺そうとするのだろう。


『待て! 俺は警邏隊じゃない!』


 そういえば、一瞬あの男の軍服も見た。

 胸に紋章があった気がする。刹那のことだったが、ネーリは一瞬見たものでも、恐るべき記憶力で脳に刻み、描き出すことが出来た。

「確か……こんな感じだったかな……」

 柔らかい砂の上に指先で脳に浮かんだものを描いてみる。


 双頭の鷲の紋章だ。

 あれは――確か神聖ローマ帝国の紋章ではなかっただろうか?


 それに、竜を見た。あれは神聖ローマ帝国にしかいない生き物だから、彼が神聖ローマ帝国の将校だということは、多分間違いはない。

 しかし何故王都ヴェネツィアに神聖ローマ帝国の将校がいて、あんなならず者のような警邏隊と一緒にいたかは分からない。

「……最近、ヴェネツィアの街にも色んな国の人が増えたな……」

 別にそれ自体が悪いわけではない。

 色んな国の人が同じ国で仲良く暮らせたら、きっと素晴らしいことだ。

 でも、最近確かに王都の治安が悪化しているのだ。

 気になるのが、取り締まるべき守護部隊が機能してないことである。

 守備部隊が機能してないということは――彼らを諫めるべき人間もまた、機能していないということなのではないだろうか?

 ふと見ると、手首の裏に赤い色がついていて、絵具かと思うと、違った。

 しゃがみ込んで、浅い海に手を浸し、軽く指で擦ると、赤色は滲んで水に溶けて消えた。

 少し、ホッとする。

 もう一度前方を見た。

 美しい世界。

 こんなに、美しい景色。


 悪はきっとある。

 悲しみも。


 だがネーリは美しいものをどこまでも信じたいと願う青年だった。


『美しいだろう? 

 この街は。いずれお前が継ぐ国なのだよ。

 だからこの街で善良に暮らす民は、みんなお前の子供だ。

 お前がみんなを守ってやるんだ。

【水の王】の強い守りがあると、彼らが信じることが出来れば、きっとこれからも素晴らしい街になって行く』 

 

「……おじいちゃん」


 きっと、悲しみの真実も……この世にはある。

 聞かなければよかったことも、

 聞きたくなかったことも。

 ……でも……。


(ただ、この国が好きだ)


 美しい景色に包まれたこの国が。

 幸せに、例え千年先でも変わらずにここにあってほしい。

 海鳥が鳴く。


 ザザ……ン……。


「……綺麗だなぁ……」


 ネーリは濡れるのも構わず、ゆっくりとその場に腰を下ろした。

 腰あたりまで、浅く海の中に包み込まれる。

 彼は両腕を伸ばして、後ろ手に手をつくと、ぼんやりと美しい朝の干潟の景色を見つめ続けた。



◇   ◇   ◇



 フェルディナントは一週間後、駐屯地の騎士館を出てヴェネツィアの街に出た。

 何か思うことがあるのか、フェリックスが入り口を塞ぐようにお座りをして、出掛けるのを妨害して来た。

 本当に犬みたいなことをする竜である。


 基本的には主であるフェルディナントの命令には絶対的に従うのだが、その時はそこをどきなさいと命じても首を地面に這わせて「今寝てますから」みたいな雰囲気を醸し出してどこうとしなかったので、仕方なく無理に隙間を通って出てきた。

 明確に逆らうのではなくはぐらかそうとしたのが興味深い。


 竜とは、本当に知能の高い生き物なのである。


 古代種である彼らが、神聖ローマ帝国内だけだとしても、現在までほとんど姿を変えずそのままの姿で残っていることからも、どれだけ最初から完成された姿で生み出された生物なのかが分かる。

 フェルディナントが街へ行くと補佐官のトロイ・クエンティンに告げている時、ゆっくりと後ろに歩いて来て、彼の外套の端をかぷ、と咥えた。

 連れて行って欲しそうにしばらくついて来たが、「お前は明るい時間は街に連れて行けないんだよ」と言いながらフェルディナントが馬に跨ると、否定される空気を感じ取ったのか、ようやく諦めたようだった。フェリックスはいつもはこういうことをしない。恐らく、この前の敵を彼も目撃したので、主であるフェルディナントを護衛する意味でも連れて行って欲しいという主張を見せたのだと思う。

 それは気遣いであって、命令違反や反抗的な態度とは異なることなので、竜の規律違反は厳格に問題視するフェルディナントも今回はそれを理解し、許した。

 剣はまだ振ることを軍医に止められていた。

 心配されなくてもまだ肩を上げることも痛くて出来ない。


 負傷した右肩は動かさないようにしながら、馬を操り、朝の王都ヴェネツィアを歩いてみた。あの夜通った場所にも行った。血の海のようになっていた通路は、雨が流したのか、人が洗い清めたのか、綺麗になっていた。

 ただ所々に剣で削ったりぶつかって破壊したあとが残っている。

 壊れたままのランプを見上げた。

 その側を、幼い子供が笑いながら駆けて行った。

 朝の光の中では、ああいう景色もあるのだ。


 ここは王都の中では普通の通りだ。特別治安の悪い歓楽街というわけではない。

 尚更警邏隊の暴力的な態度は気になった。


 フェルディナントは傷が癒えたら王都守備隊を率いることになる。

 当然、警邏隊も彼の指揮下に入る。あんな、女をいたぶって遊んでいるような人間のクズが部下にいるなんて考えただけで反吐が出そうだ。


(俺が着任したら、一度警邏隊も解体し、編成し直した方が良さそうだな)


 信用ならない人間は切らねばならない。

 不穏分子を飼い続けると、そこから腐敗は更に広がっていくことを、軍に属するフェルディナントはよく理解していた。

 前から酔っ払った二人組が歌いながら歩いて来る。また軍服だ。

 フェルディナントは今日は軍服を着て来なかった。平服である。だから二人は近々上官になる男がこの場にいるなどと思いもよらない様子で、大声で笑いながら、よろけながら去って行った。


(軍の規律も厳しくしなければ)


 真昼間どころか、朝から酒を煽るなど以ての外である。

 溜息をつき、ふと側の壁を見ると、一週間前の出来事が描かれた張り紙があった。

 ヴェネツィアの夜闇に現われる血に飢えた怪物! と大仰に書いてある。獣のような恐ろしい咆哮! とも書いてあるが、これは確実に竜の咆哮が尾ひれを付けてしまったものだろう。これは、しばらくは竜は街には近づけさせない方が賢明だ。恐ろしい魔物がいる、などと市民が王宮に言い立てただけで、ちょっと来いとフェルディナントは王宮に呼び出されて叱責されそうである。そんなことは避けねばならない。



 ゴォン、鐘の音がした。



 前方の教会から子供たちが駆け出してきて、「神父様早く早くー!」と向かいの食堂に神父を連れて行ったのが分かった。なんとなく、見上げてみる。

 以前は聖堂など、どちらかというとフェルディナントは好きではなかった。

 彼はあまり、信仰心はない。

 信じるものは自分の中にあると思っているが、神に祈る気は、そんなになかった。

 別に神を猛烈に毛嫌いしているわけではないが、日々救っていただいていると信頼しているわけでもない。

 彼は幼い頃から、あまり幸運な目に遭ったことが無かった。そして困難は自らの努力でどうにか打破する生き方をしてきたから、どうも祈ったからなんだという気持ちが否定しきれないのだ。

 祈ることも努力ならば理解できるが、祈ってばかりで自らの努力を怠るような人間は、彼は最も憎んだ。だから全てがそうだとは言わないが、そういう人間も存在する聖堂は、あまり好きではない。

 それでもその時、何故か小さな聖堂に入って行く気になって、祭壇の方へ歩んで行った。


 聖母子像だ。


 穏やかに眠っている赤子の表情を見て、何故か、死んだ妹の顔を思い出した。

【シビュラの塔】の一撃を受けた時、妹は何をしていただろうか……そんなことを考える。

 彼女は何一つ罪など犯してないのに、命を奪われた。

 そのことを思うと、

 ヴェネト王妃の人を見下した態度も、警邏隊の傲慢な素行も、母妃に言われるがままという感じの王子も、何もかもに怒りを覚えた。多くの命を奪っておきながら、まだ、情けも学び取らないなど、生まれながらの悪人なのではないかとすら思う。


(ああ……ここがもし戦場で、神聖ローマ帝国とヴェネトの戦いなら、俺は例え刺し違えてもいい、あの女の首を取りに行ったのに)


 しかし今はそうではない。

 主君である皇帝が、今はネヴェト王国と事を構えず、時機を窺うのだと命じるのだから、それに従うのみだ。だが、フェルディナント個人としての感情は、もっと怒り渦巻いている。軍人としての自我は逆に、冷え切った氷のように冷静だ。

 元々必要に迫られて選んだ道ではあったが、皮肉にも国を失った今、自分が軍人であったことを一番良かったと思っている。

 軍人は自分のどうにも押さえられない感情を、任務遂行への情熱に転じさせる手段を身に着けていく。

 待つ、ということを覚えられるのだ。

【シビュラの塔】を破壊すること、もしくは永久的に止めることが出来たら、彼らの行いを正すことが出来る。


 もう誰も、奪わせない。それは間違いなく願いだ。


 目を閉じ、手を握り締めた時、かたん……と音がした。

 ふと、祭壇の脇に、開いたままの扉があった。

 物音のように聞こえたため、なんとなく、歩いて行って少し覗いて、フェルディナントは天青石セレスタインの瞳を広げ、息を飲んだ。

 思わず、数段だけ下がるその部屋に許可も無く入って行ってしまっていた。

 他意はない。

 条件反射だった。



 ―――― 一面の、光。



 光のように見えたのは、朝日の中で色鮮やかなその花の色が輝いて見えたからだろう。

 瑞々しい木々の緑。

 光の中の海。

 夜から朝に向かう、奇跡のように美しい干潟の景色も。

 何枚も何枚も、一面に、絵画が広がっている。


(なんて美しいんだ)


 驚いた。

 フェルディナントは芸術を見る目がない。

 自分で絵も描けないし、鑑賞も出来ない。楽器も演奏が出来ない。本を読むのは好きだから戯曲や聖典などの内容は知っていても、彼は絵にも彫刻にも無頓着だった。表現する才が、ないのである。しかし両親は芸術を見る目があり、エルスタル城は美意識の高い、美しい場所だった。

 決して芸術を冷遇する家系に生まれたわけではなく、他の兄弟たちもそこそこに芸術を小さい頃から体現していたが、フェルディナントだけは昔からダメなのだ。そういえば父親に幼い頃目を掛けられなかったのも、そういう面があるかもしれない。

 かといって芸術の才を欲するほど、物事に対して貪欲にもなれなかったのだが。

 そういえば妹も芸術が好きなようだったので、最近お父様と見に行った舞台の絵をイメージして描くの、と恥ずかしそうに自分の描いた絵を見せてくれた。

 勿論、芸術家などと大層なことが言えるような作品ではないが、感受性豊かな性格がよく出ていて、よく描けている、と兄の贔屓目かもしれないが、フェルディナントは思った。


 何が好きか、いいと思ったのか、その気持ちがしっかり分かるのだ。


 その気持ちを熱心に描き込んでいて、何かを好きでたまらない妹の気持ちが伝わって来たからだ。

 フェルディナントはとてもではないが、そんな絵は描くことが出来なかった。

 だから「よく描けてる」と誉めてやると、嬉しそうに彼女は笑っていた。

 そんな兄妹のやり取りを思い出した時――、


 突然、溢れてきて、自分でも驚いた。

 頬を押さえたが、押さえた手の平から零れて溢れていく。

 絵を見て泣いたことなど、生まれて一度も無かったのに。

 絵は見る目がなくとも好きか嫌いか、くらいは感情を持つ。

 ここにある絵はどれも素晴らしかった。嫌だと思う絵が一つも無い。

 多分それは、ここにある数多の絵の、数多の題材――多種多様なはずのそれでも、一つのものを結局、描き出しているからだ。

 風景画。

 心を惹かれる美しい景色、

 優しい、光の描き方。


 光とは――何色と表現するんだろうか?


 全ての色に柔和に溶けて、その色も、その色でない部分も、光のように浮かび上がらせる。

(この庭園の緑も、水辺の花の色も)

 この、空と海の狭間の色。

 輝くようだ。

 圧倒される。


 カタン、と音がした。

 無我夢中で見ていたので、一瞬遅れた。

 振り返ると、さっき子供と出て行った神父が入って来るところだった。

 彼はフェルディナントがそこにいたことに驚いたようだが、さすが聖職、目を瞬かせただけで、それ以上狼狽えるようなことはなかった。

「これは……失礼しました。部屋に鍵を掛けるのをつい忘れてしまって」

 フェルディナントは慌てて顔を拭った。

「いや……こちらこそ勝手に申し訳ない、その、祭壇を見に入ったら物音がして、覗いてみたら……、驚いてしまって、」

 神父は「ああ」と温和そうに微笑んだ。

「そうでしたか。子供たちに朝食に誘われたので。

 構いませんよ。どうぞゆっくりご覧になって下さい」


「……あの、……」


 その時フェルディナントは気付いた。

 この教会は決して大きなものではない。敬虔な信者が決まった日に礼拝に訪れるというよりは、近所の人々の憩いの場というような教会だ。

 丁寧に掃除をされてはいるが、建物は長い時に晒されて、壊れている所もある。

 それを直す修繕費すら、無いような様子が少し見回しただけでも分かる。

 ここにある絵画の価値など、鑑定できる目はフェルディナントには無かったが、それでも素晴らしい絵だと思った。きっと芸術にこんなに疎い自分がこれほど感動するのだから、多くの人が高値でも買いたいと思うに違いないと、彼は何の迷いもなく思い込んだ。


 そんな素晴らしい絵が、何故、こんな小さな教会の片隅に集まっているのか?


 嘆かわしいと思うべきだが、一瞬フェルディナントは犯罪すら疑った。

 それくらい、この絵の素晴らしさに驚いたからである。

 よもや盗品の倉庫ではあるまいかと思い掛けて、青年の顔に何とも言えない戸惑いの色を見つけた神父は、「ああ、違います」と笑って手を振った。


「盗品ではありません。アトリエとして、場所を貸し出しているのです。元々私の休憩室だったのですが、聖堂の方にほとんどいますから」


「これは、大変失礼いたしました。聖職の方に疑いをかけるなど、自分を恥じます」

 フェルディナントは深く頭を下げ、謝罪した。

 神父は驚いたように目を丸くして、笑った。

「これはご丁寧に。しかし構いませんよ。確かにこんな素晴らしい絵がよもや、こんな小さな教会にあるとは盗人様でも思わないでしょうし」

「いや……、その……」

 何と言えばいいのか、という表情の青年を、神父は温かな眼差しで見遣ると、側にやって来た。

「この絵がお気に召しましたか? どれも素晴らしいでしょう」

「はい。」

 この時は少しの偽りも無く、フェルディナントは頷けた。

「彼はまだ若いですが、いずれ彼の絵をヴェネツィアの貴族たちだけではなく、欧州の国々の人々が欲しがるようになるでしょう」

 若い青年がこれを描いたのか、と聞いて更に驚いた。

 ここにある絵には見た瞬間に思わず心を開かせるような明るい力が満ち溢れている、と思ったのだ。それこそまるで、老練の聖職者の紡ぐ言葉のように、安定し、豊かで、落ち着いた空気を感じた。さぞや名のある、自分の世界観を持った何千何万枚も描き重ねてきた画家なのだろうと思い込んでいた。

 一体どんな青年なのだろうと、興味が湧いてしまう。


「……不思議です」


 神父は青年を見た。


「私は芸術を見る目など無いはずなのに、今までも絵画などは、宮廷に飾られるような立派なものまで、見て来たこともあるのに、それがいいものか悪いかも分からなかった。好きか嫌いかなどと考えることもなかった。

 絵を見て、どんな人間がこれを描いたのだろうなんて、考えたことも無かった……。

 でもそうか。

 絵には、全ての絵には…………描いた人間というものが存在するのか……」


 変わったことを言う青年だな、と神父は思ったが、あまりにも想いを込めてそんな風に彼が言ったので、鍵を差し出す。

「私はこれから向かいの食堂で街の皆さんや子供たちと食事をするので……よろしければゆっくり見ていって下さい。そのあとも教区の見回りがありますし……もしお帰りになられるようならば施錠をして、鍵は聖堂の入り口の取っ手に引っかけておいてください」

 神父は明るく笑った。

「元よりこの教会には盗まれる価値のあるような立派な装飾や貴金属類などはありませんし。この部屋に施錠するのは、貴方を驚かせたこの子が入って、絵で爪とぎをしないようになのです」

 ニャーと白い猫が絵の間から現われて、聖堂の方に逃げていった。

「鍵が掛かっていないと、あの子は扉を開けられるんですよ」

「そうでしたか、でも……」

「これを描いてる彼は、例え誰かに黙って持って行かれたとしても、自分の絵を見てもらえることが嬉しくてたまらないと思う子なのですよ」

 神父はそう言って、鍵をフェルディナントに預けると、本当にのんびりとした足取りで出て行ってしまった。

 彼は鍵をイーゼルに置くと、奥にも歩いて行った。

 部屋自体はそんなに広くはないが、教会に併設されてるために、天井だけは高い。だからその天井に向かって、絵が飾られている。明らかに最初は下から飾っていたが、置き場所がなくどんどん上に向かって掛けていかなくてはならなくなったという、必要に迫られた様子が伝わってくる。色んなキャンバスの大きさがある。小さいものも、大きなものも。

 そこに描かれている全てが美しい景色だ。同じモチーフで何度も描いてるものもあるが、それぞれが違う魅力に溢れているように見えた。


 短い梯子を注意深く繋いで、高く立てかけてある。

 ギシ、と揺れたのでダメかなと思ったが、恐る恐る登ってみると、大丈夫だった。


 窓を覆う、カーテンのように大きな絵が一つあった。

 宮廷のホールに飾るような、巨大なものだ。

「すごい……」

 美しい、庭園の絵だ。

 モチーフとしては珍しくもないが、巨大な絵を間近で見ると、いかに精巧に描き詰められているか分かる。まるで六枚の大きな絵画の集合体だ。これを一枚絵として描くなんて一体、頭の中はどうなっているのか。


(どのくらいでこんな絵を、完成させるんだ?)


 模写でいいし時間は問わないから貴方も同じものを描いてみなさいと言われたって、自分では一生かかってもこんな絵は描けないだろうと思った。


「美しい場所だな……」


 思わず口にしていた。

 宝石のような緑に、彩りの花々。

 水面を揺らす魚、

 空で遊ぶ鳥、

 昼寝をする馬、葉先で羽を休める蝶、猫、栗鼠、犬、蛇、

 色んな動物が安心したように寛いでいるのが分かる。

 これは彼の頭の中にある景色なのだ。

 実在する場所なのか、幻想か、それは分からない。

 だが、確かに彼の頭の中にはこの場所がある。



◇   ◇   ◇



 夕べの礼拝の時刻になり、戻って来た神父は奥の間に入って、驚いた。

 黄金色に染まる光の中で、昼間の青年がまだ、絵を見ていたのだ。

 一体何時間見ていたのだろうか。

 神父が入って来た時彼は高い所にいて、エデンの園の絵を見ていた。

 神父に気付き、青年は下りて来る。

「驚きました。まだいらっしゃったとは」

「すみません……、時間を忘れました」

「ああ、あのエデンの園の絵は……大作でしょう」

 フェルディナントが頷く。

「ここの部屋は光が入るから、少しずつ時間帯で見える色が変わるんです。

 あと十分でやめようと思って見るのに、その頃にはまた違う雰囲気に見えてきて」

「あの子もよく、そう言っていますよ」

 干潟の小さな絵を手に取った。

「この干潟は彼の住まいから見える景色なのです。見るべきものが見たら、いつもと同じ、退屈な景色でしょう。でも時折あの子は水辺に座って、時間も忘れて何時間もこの景色を眺めているんです」

 神父の手が、絵全体を示した。

「そしてまた干潟の絵を描く。同じ場所なのに、あの子の絵はどれも、新しくこんな美しい景色を見つけられたというような瑞々しい感動が溢れてる。喜びが満ちているのです。驚きます。何というのか……光の見つけ出し方がすごい」

 フェルディナントには、神父のように的確な批評は出来なかったが、光の描き方が印象的だと思ったことは同じだったので、それには深く頷いた。

「貴方の言葉を聞いていると、青年といってもまだ幼いように聞こえます。……彼は一体何歳なのですか?」


「確か十五歳だったはず」


 フェルディナントは衝撃を受けた。

 彼は十八歳だ。ほぼ同じ年齢の青年がまさかこんな絵を描くとは。

 猛烈に、その若者に会ってみたくなった。

 どんな人だろうか?

 どんな表情で人と話し、

 どんな表情でこれらの絵を描くのだろう?

 危うく、このヴェネツィアに来た任務を忘れ、本国に引き返し、皇帝陛下素晴らしい画家を見つけました王宮に招くべきですなどと、報告しそうになった。敬うべき皇帝陛下はフェルディナントが軍才以外の才能には見放されていることを知っているから、画家など勧めたら目を丸くするだろう。


(でも……知れて良かった)


 望む望まないに関わらず、フェルディナントはこの地に着任したのだ。

 あの虚飾の王宮の者たちがこの地での上司となり、あのならず者のような警邏が徘徊するこの街を、守る任を負わなくてはならない。

 彼は軍人だから、皇帝に命じられればどんなやりたくない任務でも遂行する覚悟は出来ている。

 ただ、そんな中でこの街に、こんな美しい絵があり、それを描く画家がいると分かっただけで、心持ちが全く変わった。

 まるで心の支えのように、その人がいるならば、と情熱を傾けられる。


「彼は色んな場所で絵を描いています。ここには毎日通い詰めることもあれば、何か月も現われないこともある。でも、今はいずれ、近いうちにやって来るでしょう」


 フェルディナントの心を見透かすように、優しい声で彼は言った。

 一枚のイーゼルを指し示す。

 下絵が描かれていた。


「途中の絵がありますからね」



◇   ◇   ◇



 フェルディナントはそれから、時間が許すならば、たとえ十五分の為にでもその教会に通い詰めた。しかし、件の画家はなかなか現われなかった。

 多分どこかで集中して絵を仕上げているのでしょうと、あまりに彼が通い詰めるので、神父は気にしたようにそう声を掛けたが、フェルディナントは「別に会えなくても構わない」と白状した。

 勿論会ってみたい。どんな人があの絵を描くのだと興味は尽きない。

 それでも会えないことが不思議と失望にならないのだ。

 彼の絵を一日の終わり、夕刻に見に来ると、心が休まる。


「礼拝のようですね」


 神父が笑うと、フェルディナントはそうだここは教会だったと、一度も祈りを捧げないままになっていた自分を恥じて赤面した。

 なんとなく、聞かないままになってしまっていたのだが、同時になんとなく、青年が身分を名乗らないことを望んでここに来ているような気がして、神父は名も素性も聞かないままにした。何故なら、そんなに作者に会いたいのならば自分の名を名乗り、住所を述べれば、彼が来た時に連絡をすることが出来るのだから。それをしないということは、今はそうしたくないのだろう、とそう思って自分からは尋ねなかった。

 しかし、それ以来きちんとやって来ると、祭壇の前で数分間祈りを捧げてから奥の間に入るようになった青年の生真面目を優しい表情で眺め、ここは夜でも扉は開けている場所だから、貴方ならばいつ来ても構いませんよ、と声を掛けてやった。



◇   ◇   ◇



 フェルディナントはようやく負傷した右の肩でも剣が振るえるようになった。

 補佐官に、毎日の礼拝のお陰ですねと言われた時は若干閉口したが、言いふらす性格をしてはいなかったので「ああ……」とだけ頷いておいた。それはあれだけ毎日通い詰めてれば、フェルディナントが街で何をしているかなど、この補佐官の耳には入る。好奇心ではなく、優秀な補佐官であるが故だ。

 しばらくは駐屯地を見回り兵の様子や調練に集中し、少しの間剣を振れなかったため、自分の剣の狂いなどを修正することに時間を使った。

 二週間ほどして、明日、フランス海軍が港に到着するという報せが来て、朝方、入港の様子を確認しに行く、と夜通し起きて待っていると、不意に絵が見たくなった。

 街を見ながら軍港に向かうとトロイに告げ、フェリックスを呼ぶ。

 まだ十一人殺しの【怪物】は捕まってないのですから、どうかお気をつけて、と心配そうにトロイは言った。


「【怪物】?」


「街で噂になっているのです。警邏隊十一人を短時間で八つ裂きにした化け物が、夜の街を徘徊してると」

 そうだった。

 信じられないくらい、忘れていた。

「無論、将軍が二度会いまみえた相手を無傷で逃がすとは思っておりませんが。しかし敵は奇妙な武器も扱いますので、どうかお気をつけて」

 妙な罪悪感が胸に滲んだ。

 例の警邏隊のことは、事あるごとに思い出していたのだが、すっかり襲撃犯の方を忘れていた。というのも、女二人を助けるために介入したのが発端だったからだ。だが、よく考えてみれば、あれだけの短時間であの人数を殺すことができ、制止の声にも耳を貸さない人物というのは十分危険人物だ。素性も詳細も分からない以上、彼が再び誰かを襲わないと言い切れない。

 何故これほど忘れていたのだろうかと思ったが、きっと、刃を交わし合ったからだと思う。

 フェルディナントは感じたのだ。

 あの襲撃者が使っていた、身のこなし、戦闘術。任務を遂行し、撤退する時機を読む力。

 目的は分からなかったが、無分別な殺人者ではないと、直感が言っている。無分別な殺人者は、あんな整然とした戦い方は出来ないはずだった。

 だが尚更、何者かは気になる。

 躊躇いなく十一人も殺したのは事実だ。


(フランス海軍が駐屯地に入ったら必ずヤツは見つけ出す)


 そう強く誓ってから、フェルディナントは夜空に向かって竜を飛ばした。

 一度、高く飛翔した。

 王宮の周辺の煌びやかさが、外周に向かって密かになって行く。

 王都ヴェネツィアの夜景。


 このどこかに、あの不思議な襲撃犯も潜んでいるのだろうか?


 軍港の明かりがいつもより明るい。

 単眼鏡を取り出して、夜にも霧を纏う【シビュラの塔】の方を見遣った。

 霧の向こうに時折、チカ、と明かりが見える。やはりまだ起動しているのだ。

 また何の前触れもなく、殺戮を行うことがあるのだろうか?

 フェルディナントは厳しい表情を浮かべた。そんなことがあれば、フェルディナントは竜騎兵団に招集をかけ、【シビュラの塔】に強襲を掛けてみたい、という願望があった。

だがあくまでも願望だ。実際の軍の作戦となると、もっと色々な情報が必要になる。自分たちが仕掛けることで、もし今度は神聖ローマ帝国が攻撃を受けるようなことがあってはいけない。


 あれはまだ、未知なる怪物だ。


 星を降らすようなあの砲撃を、どれだけの正確さで行えるものなのかも分からない。そもそも、ヴェネト王国はあの砲撃が自らの行ったことだということを公に認めていない。しかし、その威光を笠に着て、欧州の覇者のように振る舞い始めている。卑怯な暗黙の意志が、そこにあった。

 煌びやかな王宮、

 怪物の膝元で、甘やかされた――あれも悪しき魂の巣窟だ。


(ジィナイース・テラとか言ったか)


 あの母親を諫めようともしない王太子が王位を引き継いだところで、実権はあの傲慢な母妃が握り、政をするはずだ。

 だが、世界をあの怪物がもたらす恐怖から救う道はきっとある。

 鐙の僅かな動きを察知して、竜は迂回するような動きで街へと降りていく。


 あの教会はもう覚えてしまった。元々街のはずれにあるから分かりやすくもあったが。

 いつものように、今宵も聖堂の入り口は開いたまま、人々の拠り所となっているのが遠目に分かった。

 妹にもあの絵を、見せてやりたかったなと思った。美しいものが大好きだった彼女は、どんなに目を輝かせただろうか?

 怪物が徘徊しているなどと噂が流れてる街で竜を待たせていると騒動になりそうなので、飛来すると、一度フェリックスは飛ばした。こういう時、彼はフェルディナントの意図することが分かるようで、人の目につかない高さまで移動し、空に身を隠す。そして呼べば、すぐ滑降して来るのだ。竜の音を感じ取る力は凄まじい。怒号が飛び交う戦場の先にいても、主の呼び声を聞き分けることが出来る。

 飛び去った竜を見送り、フェルディナントは教会の中に入って行く。

 さすがにこの夜中に神父の姿は無かったが、自分の中のけじめとして、まず祭壇に歩み寄り、膝をついて祈りを捧げた。

 しばらく目を閉じ祈っていると。


 にゃーん……。


 微かに声がして、彼は瞳を開いた。

 ふと見ると、奥の間への扉が半分開き、中から光が零れていた。

 ゆっくりと立ち上がり、天啓を受けた人のように、そっと光に導かれて扉に歩いて行く。

 覗き込んで、もしや彼が絵を描いているのだろうかなどと、柄にもなくドキドキしてしまう。

 キャンバスの前には誰もいなかった。いや、正確には猫がいた。

 キャンバスの前に置かれた簡易的な椅子の上に、どっかりと主のようにとぐろを巻いて寝ている。

 その奥に、人の足が見えた。

 ぎょっとする。

 寝そべっている。

 寝ているのだ。

 あまりに美しい女の足に、そうだ何故この絵を描く人に、そんな可能性があると考えもしなかったのだろうと自分に愕然とする。

 同じ男として、当たり前のことなのにフェルディナントはあんなに美しい絵を描く人が、描くことより性欲に没頭するなどあるはずないと子供のように思い込んでいた。

 たかが女の足くらいで、赤面してしまった自分が愚か者に思えた。

 帰ろう。

 自分は無粋な闖入者だ。

 せめて彼とは、女がいない時に落ち着いて話したいのだ。

 そう思って振り返った時、いつの間にか足元にいた猫に躓いてしまった。

 そんなつもりはなかったのに、半分蹴りかけて、驚いたらしい白い猫がフニャー! と部屋を駆け回り、バタン、バタンと幾つもの絵が倒れた。

 思わずフェルディナントは両肩を竦めた。



「……ん……」



 ギョッとする。

「す、すまない。そういうつもりじゃないんだ。これはその、……、邪魔をした! すぐに出ていくから!」

 若干十代で神聖ローマ帝国の将軍職に着いた自分がなんという狼狽ぶりか、というほどで、辛うじてまた椅子に戻った白い猫を、お前も来い! とばかりに乱暴に連れ出そうとしたら、猫はじたばたと嫌がりフェルディナントの腕を引っ掻いて、ぽーんと飛び出すと部屋から逃げ出して行った。

「っ、!」

 一瞬走った痛みに腕を押さえた時、ぱたん……とまた絵が倒れる音がした。


「……誰かいるの……?」


 柔らかな声がして、ゆっくりと身を起こす気配がした。

 あの美しい楽園を描く青年に、強盗だなどと思われるのは嫌だったから、ちゃんとここに来た事情を説明しようと振り返って、フェルディナントは息を飲んだ。

 水辺に浮かぶ花の絵の側に、乳白色の肢体が見えた。

 女の足だと思っていた、美しい伸びやかな足は彼の足で、眠そうに手の甲で目を擦る姿はあどけない。

 何より、こちらを見上げた瞳。

 黄金色……、いやそれよりももっと透明感があり、透き通っている。

 ヘリオドールのような色の双眸だ。

 それが、中性的な、線の細い美しい造作に埋め込まれている。


 楽園の作者というより、その楽園の住人のようだ。


 フェルディナントはその時、そう思った。

 確かに、もう寝苦しい夏のような夜になって来ているのは認める。

 認めるが……。

「その、……あの、……決して怪しいもの、というわけではないのだが、……」

 こんなにしどろもどろになったことは多分人生で一度もない。

 きっとこれからだってないだろう。

 彼が身を起こそうとした時、辛うじて肩に掛かっていた毛布が柔らかい曲線を無情にも滑り落ちた。

 しかも立てかけてあった閉じたイーゼルの足に引っ掛かっていた毛布が引っ張られ、イーゼルが彼の後頭部に襲い掛かったため、あっ! と咄嗟に飛び出し、倒れかけたイーゼルを寸前のところで押さえ込む。

 間に合って、ホッとした。

 深く溜息をついて目を開くと、何も身に纏っていない美しい青年が驚いた顔でこっちを見上げてきている。

「あ、の……、その、これは、」

 顔が燃えるように赤くなった。

「すまない、安眠を妨げるつもりはなかったんだ、貴方の、絵を見たくて、いつもここに来ていたから、」

 青年がフェルディナントの顔を何故かじっと見ていて、彼は堪らなくなった。皇帝の直視ですら平然と受け止める彼が、何か神かそれ以上の何かの存在に、自分が正しいものか悪しきものか、審判を受けているのではないか……そんな気持ちにすらなった。


「…………会ってみたくて」


 フェルディナントはそれどころではなかったが、青年は息を飲んだ。

「あんな絵を描く人がどんな人なのか、会ってみたくて、」

 青年が身じろいだ。すっと、毛布で体を隠すような仕草に見え、庇うためとはいえ、まるで彼に覆い被さるようにしていた自分に気付き、フェルディナントは慌ててイーゼルを倒れて来ないように向こうに立てかけて、背を向け彼から離れた。

 衣擦れの音が聞こえる。

「いつも、こんな時間にここに来ているわけじゃないんだ。今日はたまたま……、通りかかって、……こんな時間に来たのは初めてだから。貴方が嫌ならこんな遅くにはもう来ないよ」


「あなたが神父様が昨日言ってた、絵のとても好きな人なんだね」


 フェルディナントは聖職が着る白い薄布の夜着を一枚身にまとった彼を振り返った。

 その薄布を羽織るだけでも、印象が全く変わった。

 一糸まとわぬ彼の裸体は危うさすら感じさせたが、あの長い両脚が覆われるだけでも、なまめかしい雰囲気が薄れ、聖職の質素な纏いはむしろ、彼の美しい造作を際立たせていた。

 危ないじゃないかいくら教会だって入り口が開いてる聖堂の奥で寝泊まりなんかして。

 彼の絵も、彼も、こんな美しいのに、

 自分が言うことではないかもしれないが、こんな誰も気安く、気軽に手に触れられる所にあるなんて自分は反対だ、とそのことだけは思う。

 今日からでいいから、是非ともきちんと部屋には鍵をかけて欲しい。

「……好きじゃない……」

「え?」

「……絵が、好きなわけじゃない。………あなたの絵が、特別好きなんだ」

 沈黙が落ち、

 くす……。

 心惹かれるような優しい音が零れ、驚いて振り返ると、キャンバスに寄り掛かって、青年が柔らかい表情で微笑んでいた。


「そんな風に言ってもらったのは初めて」


 にゃーん、と戻って来た猫が青年の足に甘えてすり寄る。

「嬉しいね」

 足元の猫に、笑いかけている。ランプの明かりの側に浮かんだ美しい微笑みから、フェルディナントは目を離せなくなった。

「……あなたの、……名前を教えてくれないか。会えたら、聞こうと思ってたんだ」

 神父に聞けばいいのにと思ったのだろう、またくす、と青年は笑った。

 それはフェルディナントも分かっている。

 だが、聞きたかったのだ。

 知りたかったのではなく、彼の口から教えてほしかった。


「ネーリ・バルネチア」


 フェルディナントは、彼の方を見た。

 彼の優しい声で言うと、尚更その名が美しく響く。

「あなたは?」

「私は、……」

 思わず身を正していた。

「フェルディナント・アーク」

「……フェルディナント」

 ネーリは一瞬、目を伏せた。

「もしかして、あなた軍のひと?」

 フェルディナントは瞬きをした。

「どうしてわかったか? 今、名乗る時に一瞬背を正したから。軍人さんがよくする仕草だなあと思って」

 さすがの観察眼だ。

「実は、そうなんだ……」

「言葉も少しヴェネト王国の人と発音が違う気がする。他の国のひと?」

「うん……。貴方は、ここで生まれ育ったのか?」

「うん」

そうか、本当にこの国の住人なんだなと理解する。

「……こんな夜遅く来たりしないから、……また……君の絵を見に来てもいいか?」

「うん……」

 フェルディナントは目を瞬かせる。

「創作の、邪魔かな?」

 何か自分が警戒させたようだ、と感じた。しかし彼はフェルディナントがそんな風に言うと、小さく笑った。


「ああ、違うんだ。ここ、非合法で手に入れた画材とかもあるから、軍人さんはマズいかなあ……と思っちゃって。勿論そんな悪いルートから手に入れてるわけじゃないけど。僕筆が早いからかなり大量に絵具とか砕いて使う宝石とか必要なんだー。だから特別に、昔から親しくしてる商人さんにお願いしたりしてるから」


 フェルディナントは慌てて首を振った。

「俺は仕事で来てるわけじゃない。絵を見に来てるんだ。

 悪い取引じゃないなら口出しはしない。値段のことなら商人の話だ。俺は関わらないよ」

「それなら平気だね」

 よかった、と微笑んでいる。

「前に警邏隊の人がここへきて、なんでこんなに宝石があるんだとか僕、疑い掛けられちゃったことあるんだよ」

 警邏隊⁉ と思わずフェルディナントは険しい顔をしていた。

 あんな粗暴な連中がここに立ち入ったと思うだけで、腹が立つ。まるで聖域に対して、賊に入り込まれたような強い不快感だ。

「何か乱暴な真似はされなかっただろうな」

 ネーリが何か訴えたら、このまま駐屯地に戻って即警邏隊を解散させてやろうかと本気で考えかけたが、彼はううん、と首を振り笑った。

「あのひとたち、宝石を砕いて顔料にすることあるって本当に知らなかったみたいなんだよ。だから実際に砕くとこ見せてあげて、どんな色が出るのか教えてあげたら、すごく驚いて、感心してくれたんだ。悪い人たちじゃなかったよ」

 彼がそう言ったので、フェルディナントはとりあえず即日解散はやめておくことにした。

「……そう……か。穏便に済んだのならそれでいいんだが……」

「フレディ、今一瞬怖い表情したね。今の顔は軍人さんらしかったなあ」

「フレ……、怖いって……、……別に、元々俺はこういう顔なんだ」

 頬を軽くほぐすように摩る。

「……なんだ?」

「え?」

「じっと見てるから」

「あ……ううん。フレディの瞳って不思議な色してるなぁと思って」

 ネーリは側の箱を手に取った。色とりどりの宝石の欠片が入っている中から、幾つか手に取って、フェルディナントの瞳越しに合わせている。

天青石セレスタインが一番近いのかな? どんな色を使えば貴方の瞳を表現できるのかなあと思って」

 そんなことを言われたのは初めてだ。

 くす、と笑ってしまう。

「画家ならではの考え方だな」

「あ、やっと微笑ってくれた」

 キャンバスに凭れて、ネーリは優しい表情を浮かべる。

 自分の瞳の色なんて、大したこと無い。ただの薄い水色だ。

 ネーリ・バルネチアの瞳の方がずっと印象的だ。宝石のようじゃないか、と思った。

「そういうわけじゃ……そうだ、このあと用事があったんだ」

 本当にすっかり忘れそうになっていて、フェルディナントは額を押さえて苦い顔をした。

 別にフランス海軍の到着を見届けるだけなのだが、彼は長くフランス軍の戦線と戦って来たため、上官の顔を見れば、軍のどこの師団が派遣されているのか分かると思ったのだ。

 いずれ宮廷で相まみえるし、すぐ分かることなんだが……と、まだこのままネーリと話していたい、などと何とか思おうとしている自分を自覚した時、フェルディナントは亡き【エルスタル】の後継者としての矜持と克己心を思い出した。


「すまない! もっと話したいが今日は帰る! 邪魔をした!」


 決意したように勢いよく言って、足早に出て行ったフェルディナントに、ネーリは目を瞬かせた。

 にゃーん……、

 かまってーとすりすりしている足元の猫を撫でようとしたら、フェルディナントが戻って来た。

「……夜くらい、聖堂も鍵を閉めたらどうだ? ……その、誰でも入れるようにするのはいいことだと思うが……聞いてないか? 街で事件もあったから、少し心配で。いや……別に口うるさく言うつもりはないんだ」

 青年は猫を抱き上げたまま、きょとんとしている。

「でも……ここの聖堂いつも開いてるから、聖堂閉めると逆に中で悪い人が立てこもってるんじゃないかって思われちゃうんじゃないかな? 逆に平気ですかーって街のみんながドンドン扉叩くと思う……」

 フェルディナントは苦い顔をした。

 説得失敗である。

「そうか、いや……昔からそうなら……いいか……」

 彼はまた出ていこうとして、すぐまた戻って来た。


「ネーリ。聖堂の扉はともかく、寝泊まりしてるこの部屋にはちゃんと鍵を掛けなさい!」


 軍人の顔をして、これはビシッと言うと、フェルディナントは今度こそ、聖堂を出て行った。

 大きく目を瞬かせてからネーリはくすくす、と笑ってしまった。

「面白い人だな」

 楽しそうに数秒笑ってから、ふ、と唇に笑みの余韻を残す。

 ネーリは目元に掛かる髪をゆっくり指先で掻き上げた。

「……困ったなぁ……」

 小さく息をつく。

「彼は、あの時の軍人さんだったのか……」

 奥に立てかけて乾かしてあった絵を取り上げる。

 夜空を駆る竜の絵。もう随分出来てしまった。あの人がまた見に来るなら捨てた方がいいのかなと思ったが、別に竜をモチーフに描くなど古代から使い古された題材だ。構わないだろう、とネーリはキャンバスを棚の上に立てかけた。

 初めて見た竜が印象深くて、ついあの後描きたくなって描き始めてしまった絵なのだ。


「神聖ローマ帝国に、竜に乗る騎士がいるっておじいちゃんが言ってたけど、本当だったんだな」



◇   ◇   ◇



 ふわぁ。

 子供みたいな大欠伸をして、彼はその地に降り立った。

 すぐ鳩尾に肘が入る。

「うっ!」

「公衆の面前で大欠伸をしない! ここはもうフランスではないんですよ!」

「ルゴー……お前今このラファエル・イーシャ様の鳩尾に一撃入れたか?」

「入れましたですよ!」

「そんな元気のいい返事欲しかったんじゃない。いいじゃないの……こんな深夜の到着誰も見に来てないって……おや」

「きゃ~~っ、ラファエル様よ~~~♡」

 素敵~! と随分立ち入りを禁じられた軍港の外からこちらを覗き込む人々の姿があった。

「こんな所まで俺の追っかけがいるとは。可愛らしいねえ。投げキッスしとこうよいしょ」

 キャーッ♡ と黄色い声が聞こえて来る。

「かわい~」

「無駄に観衆を煽らない! 貴方はもう社交界デビューもなさっているんですから、顔が割れているのは当たり前です。いいですか殿下。私はお母上さまよりくれぐれも貴方がこちらで粗相がないようにと」

 馬車に乗り込む。

「大丈夫だって。ヴェネト王国王妃のセルピナ・ビューレイは美人って有名だ。俺は美人には好かれるし相性もいい。見事神聖ローマ帝国・スペイン王国の二国を出し抜いて、我がフランスを一番の御贔屓にしていただくようにしてみせるよ」


「理解していただいてるならばよろしいですが……はぁ……こんなところでとりあえず一年なんて先が思いやられる。今から頭が痛くなってきました」


 単眼鏡で軍港に出待ちしていた令嬢たちの顔を見て、「おっ、あの子可愛い」「もうちょっと胸が欲しいかな」「ドレスの色が髪の色にあってない」などと戦場でみせないような的確な指摘をして遊んでいる若き公爵に、副官は口許を引きつらせながら頭を押さえるようなポーズを取っている。

 彼が立派なのは身分と、そこから来る地位、そして人好かれする華やかな容姿、それくらいだ。剣術や馬術は昔から不得手で、戦自体、本人も「野蛮だ」と嫌っている。

 そんな公爵が父である王弟の命令でヴェネト王国に行って参れと命じられた時、ルゴーは間違いなくあの最凶の兵器、【シビュラの塔】を保有するヴェネトなんて野蛮で恐ろしい! 嫌だい嫌だい! と駄々をこねるかと思っていたのだ。

 それが戦に対しての常の彼の反応だった。

 しかし今回に限って、何故か命じられた彼は「かしこまりました。行ってまいりましょう」の二つ返事でこれを受けた。

 ようやく公爵家の一人としての自覚が息子に身について来たか……! などと目頭を熱くしている父親と、「まるで愛人宅に行くみたいに軽く返事するんじゃありません」などと冷静に分析している母親に送り出されてやって来たわけである。


(でも確かにこの方がこうやって妙に素直に振る舞っておられる時は……逆に何かとんでもないことを腹の中で企んでたりするから侮れないんだ……)


 長い付き合いの彼はそう思ったが、いずれにせよもうヴェネトにはついてしまった。

 この天真爛漫な殿下がうっかり高貴な方々の不興を買い、「怒ったわ。フランスに一撃見舞って」などという最悪の事態にだけは絶対にならないようにしなければならない。

 副官のルゴーが胃を痛がってる間に、ラファエルは単眼鏡の先を遠くへと移した。

 霧の中、時折雷鳴のように光が走る。


「ふぅん……。あれが噂の【シビュラの塔】か。聞いた通り、野蛮な兵器だね」


 鼻を鳴らし、そのまま山の上にある王宮へとレンズを向ける。

 王宮は夜会でもしているのか、華やいだ明かりが煌々と照っていた。

 くすっ……。

 金髪碧眼の貴公子は悪戯っぽく笑った。


「俺のこと、覚えてくれてるかな? 

 ジィナイース。

 きっと君のことだから美しく育ってるんだろうな」




【終】



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