第4話 逃避行 

 新女王たちと護衛兵たちが狭いトンネルを慎重に進むと、周囲の土の感触が次第に変わり始めた。湿った柔らかい土は徐々に硬くなり、やがて木の根が張り巡らされた壁が現れた。無数の根が絡まり合い、まるで地下の洞窟のような幻想的な空間が広がっていた。根が折り重なるごとに、微かな湿り気が空気に漂い、土からは生命の鼓動が感じられた。木々の根が放つ微かな光がトンネル内を優しく照らし、揺れる影を土の壁に映し出している。

 その神秘的な空間を抜けると、アリたちは広がる落ち葉の絨毯の上に出た。外の空気はトンネル内の血なまぐさい臭いとはまるで違い、澄み切っていて新鮮だった。風が吹くたびに落ち葉がカサカサと音を立て、冷たい夜風が彼らの触覚に軽やかに触れた。月の光が落ち葉に反射し、銀色の海を作り出している。木々の枝は夜空に向かって伸び、その間を滑るように雲が静かに流れていく。遠くでフクロウの鳴き声がこだまし、森の生き物たちの気配が周囲の静寂を染めていた。

 タマルは冷たい外気を深く吸い込むと、ほっとして胸を撫でおろす。同時に、ジョンの姿が脳裏をよぎった。彼女を守るために命を捧げたジョンの記憶が、限られたアリの記憶領域に鮮やかに刻みつけられている。彼女の使命が確かに小さな身体のどこかに存在していた。

 一方、新女王アリたちと護衛兵たちは、外の世界に出ると巣での惨劇を完全に忘れ去っていた。彼らを刺激していたフェロモンは、トンネルを抜ける過程で消え、今は本能的に巣作りの使命に専念していた。タマルの存在など、彼らの意識の片隅にも残らず、地面の感触に全神経を集中させている。

 新女王アリと護衛兵たちは、周囲を一瞬探るように動く。月の光がわずかに差し込む森の奥深くを見つめ、風に揺れる葉の音や土の振動を感じ取りながら、彼女たちは新たな巣作りの場所を探し始めた。

 彼女たちは三方向に分かれ、そそくさと森の中へと消えていった。それぞれが使命を抱き、新たな巣作りに相応しい場所を探すために進んでいく。彼女たちの後ろ姿は夜の闇の中にすっと消え、タマルは1匹その場に取り残された。

 空を見上げると、満月が冷たく光り輝いている。月光がタマルの背中を静かに照らし、その大きな体に薄い光のヴェールをかけていた。彼女はその光に導かれるようにゆっくりと脚を動かし始め、自然と月の方向へ進んでいく。

 森の中を進むにつれ、ジョンのことや巣での出来事は、彼女の小さな記憶領域から消えていった。巣で起こった惨劇は確かに重要な記録だったが、今は無駄な情報だった。今や巣作りの本能と、漠然とした使命感だけが彼女を前へと突き動かしている。広がる闇の中で彼女はちっぽけな存在であり、天敵にとっては絶好の獲物であった。

 だが、奇妙なことにタマルは捕食者に襲われることなく進んでいった。まるで、目に見えない存在が彼女を守り、導いているかのようだった。森の暗闇に潜む脅威は多いにもかかわらず、彼女の進む道は驚くほど静かで、危険な気配は一切感じられなかった。

 タマルはその理由には気づかないまま、夜空を見上げた。西から東へと流れる雲が切れ間から月の光を一瞬放ち、その光が森の中に巨大な影を映し出した。影がゆっくりと動き、木々の間を通るたび、タマルの体はその影に溶け込むように揺れた。月明かりが再び彼女を照らし、脚は力強く地面を踏みしめて、未来へと歩み続けた。

 しばらく歩くと、月の光は消え、代わりに巨大な影が彼女を包んだ。タマルが顔を上げると、目の前には巨大な建物がそびえ立っていた。もちろん、タマルにはそれが人間の言う「建物」であるとは理解できなかった。彼女の関心は、月光が消えたことにあった。しかし、その疑問もすぐに消え、再び歩き始める。

 建物の周囲には木々がなく、黄緑色の芝生が広がっていた。タマルはその芝生を進み、建物の前にたどり着いたが、入り口らしきものは見当たらなかった。彼女は、その巨大な構造を巨大な木か何かだと認識していた。障害物を避けられる道を探すために、彼女は壁に沿って歩き続ける。しかし、景色は変わることなく、壁が永遠に続いているように感じられた。彼女は、その壁が自分の何千倍もの大きさであることを知る由もない。

 タマルは次第に単調な風景に飽き飽きし、目の前に広がる芝生とコンクリートの繰り返しにうんざりし始める。時折、触覚で壁を慎重に探り、隙間がないかを調べたが、無機質で滑らかな感触が返ってくるだけだった。

 それでも、彼女は歩き続ける。アリの小さな体が持つ高いエネルギー効率が、彼女を休みなか前進させる。すると、タマルの嗅覚が微かな匂いの変化を察知する。匂いの方向に進んで壁を探っていると、小さな隙間があり、そこからわずかに甘い香りが漂っていた。長い旅路で空腹を感じていたタマルの嗅覚は、いつも以上に敏感だっあ。

 彼女は迷うことなくその隙間に身を滑り込ませ、コンクリートの壁を抜けると、広大な暗闇の中に出た。視界はほとんどなく、タマルは匂いだけを頼りに進んでいく。彼女の脚に冷たい金属の感触が伝わり、慎重に金属の縁に沿って歩みを進めた。

 しばらくすると、目の前には薄暗く広がる未知の空間が現れた。空気には合成物質の強烈な匂いが漂い、その異様な感覚に一瞬戸惑いを覚えるが、タマルは不安を振り払ってさらに奥へと進んだ。甘い匂いが一層強くなるにつれ、彼女の触覚と嗅覚が鋭く働き始めた。

 広大な暗闇の中、小さな足音だけが響いていた。やがて、巨大な物体が彼女の目の前に現れる。それは人間にとってはただの椅子に過ぎなかったが、タマルにはまるで大木のようにそびえ立っている。彼女は椅子の脚を通り過ぎ、さらなる奥の空間へと進んでいく。タマルにはここが人間の住居であるということが理解できるはずもなかった。

 彼女の足元にザラザラとした感触が伝わる。それは落ち葉ではなく、文字が書かれた紙切れだった。タマルはその上に乗り、自分の体ほども大きな文字を見つめたが、それが何であるかを理解することはできない。今の彼女にとって情報は無意味であり、漂う甘い匂いの方が遥かに重要だった。

 再び歩みを進め、やがて金属の壁に突き当たったタマルは、取っ掛かりの少ない壁を懸命に乗り越え、さらにその先へ進んだ。甘い匂いがますます強くなり、彼女の感覚はそれを正確に捉えていた。

 ついに、タマルは匂いの源にたどり着いた。そこには小さな箱があり、その中から甘い匂いが漂っている。タマルは体中に血液が巡るのを感じながら、箱を上り、幸運にも蓋が外れていた箱の中へ飛び込んだ。

 箱の中は甘い匂いに包まれ、無数の四角い粒が詰まっていた。それらの粒がタマルの味覚を強烈に刺激し、彼女は躊躇うことなくそれにかぶりついた。口の中に広がる甘みが、疲れ切った体に新たな力を与える。次々と粒を食べ進めるにつれて、彼女の体はエネルギーで満たされ、意識は次第に女王としての使命へと集中していった。

 タマルの腹部には、産卵の準備が整った卵が待っていた。今、彼女にとって最も重要なことはその卵を安全に産み落とし、守ることだった。

 タマルは静かに腹部を地面に向け、いくつかの卵を産み落とした。それはまだ小さな卵だったが、やがて新たな生命が育まれる源となる。彼女は自らの体で卵を優しく包み込み、その場でじっと静かに休んだ。

 満腹感とともに使命を果たした満足感がタマルを包み込んでいた。しかし、外の世界は依然として厳しく、彼女を脅かす危機が迫りつつあることに気付くことはなかった。タマルはそのすべてを忘れ、ただ今は、疲れた体を休ませることだけを考えていた。

 眠りに落ちた彼女は、かつての巣や、彼女を助けた働きアリのことさえも思い出すことはない。安らかな眠りの中には壮大なアリの王国が広がっている。

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