第3話 戦争 

 ジョンとタマルは、彼らを育んだ巣を捨て、新たな土地で自分たちの王国を築くことを決意した。住み慣れた世界を離れ、危険な未知の道を進むことには不安もあったが、それ以上に未来への希望が彼らを突き動かしていた。

 その日も、巣の内部は変わらず規則正しく動いていた。働きアリたちは、足並みを揃え、トンネルをせわしなく行き交い、まるで時計を構成する数え切れない歯車が狂いなく回転するように、巨大なシステムを支えている。彼らは本能に従い、未来を思い描くこともなく、ただ今を生きていた。

 しかし、巣の外では異変が静かに進行していた。ジョンとタマルは気づかなかったが、最近、巣に運び込まれる食料が徐々に減少していたのである。それは、数ヶ月前に森で起こった閃光が引き起こした変化の兆しだった。森全体が、ゆっくりとだが確実に姿を変え始めていた。

 一匹の歩哨アリが、遠くから漂ってくる異様な臭いに気付く。警戒心を強めながら巣の周囲を巡回し、臭いの正体を探ろうとし、土でできた小高い丘に登ると、風が吹き付け、臭いがさらに強くなった。歩哨は臭いの源を目視で確認しようとしたが、アリの未熟な視力では何も捉えることができなかい。彼は立ち尽くし、不安を抱きながら風に身を任せていた。

 時間が経つにつれ、彼はついにその臭いの正体を悟る。遠くの大地から不気味な黒い大群が近づいてくる。それらは、ジョンやタマルたちが属する巣とは異なる種のアリで、その巨体は敵対関係というよりも、捕食者と被食者の差を物語っていた。歩哨がその姿を目にした瞬間、驚愕し、彼の全身に電気信号が走る。彼には逃走と闘争の選択肢が示された。

 しかし、歩哨は選択をし損なう。近づいてきたアリは、迷うことなく鋭い顎で彼の身体を真っ二つにする。歩哨は無惨にもその場で命を絶たれた。彼は巣の繁栄のために生き、何も得ることなく死んでしまった。

 だが、その死は無駄ではなかった。彼の死は、危険を告げるフェロモンという微粒子を空気中に放出し、巣全体に敵の侵入を知らせる役目を果たした。

 フェロモンによって巣の中のアリに危険が伝えられると、その信号を受け取ったアリがさらにフェロモンを増幅させる。空気中の危険信号の濃度が急激に上昇し、重力に従ってアリの巣全体に広がると地下の奥にいたジョンとタマルにもその情報が伝わった。

 危険信号に呼応して、兵士たちは敵との戦いに向かう。人間の細胞中の抗体が、侵入した病原体に対して免疫を活発させるかのように、巣は外敵に対して反応した。敵アリが入り口へと侵入を始める。

 巣のトンネルは、敵のアリが通るには一回り小さく、彼らが移動するには窮屈だった。しかし、そんな障害などまるで意に介さない様子で、敵のアリたちは強引に狭いトンネルを押し進んでいく。

 飢えに駆られた巨大な敵アリたちは、巣内に蓄えられた食料を求めて狂ったように突進してきた。森全体の食料が減少し、採集が困難になったため、彼らは飢えが極限に達し、凶暴な本能に支配されていた。鋭い顎と強靭な足で巣の構造を次々と破壊し、働きアリたちを食い尽くしながら巣の中心に向かって進んでいく。

 巣全体が恐怖に包まれ、やがて秩序は崩壊する。働きアリたちは一斉に逃げ惑い、巣の中は大混乱に陥る。ジョンとタマルも緊迫感に押されながら状況を把握し、すぐに危機の深刻さを悟った。異様な音と臭いが、巣のあちこちから漂ってくるのを感じ取ったのだ。

 ジョンはタマルの手を引き、冷静に出口を目指した。彼はこの巣の構造を熟知していた。巣は長い歴史を持ち、多くの女王が生まれ、アリたちが繁栄してきた。その結果、トンネルは次第に複雑な迷宮を形成し、出口も複数あった。ジョンはその中から、安全な脱出口を探す。

 巣の長い歴史に終止符が打たれようとしていた。敵は破壊と殺戮の限りを尽くしていた。ジョンは恐怖を抑え、嗅覚を最大限に働かせ、巣全体から発せられる仲間の危険信号を探った。攻撃が起きている方角を予測し、彼らが進むべき安全なルートを見極める。タマルは巣内で聞こえる悲鳴や戦闘の音に心を乱されていたが、ジョンは彼女の背中に手を置き、「大丈夫だ、行こう」と静かに語りかけた。

 途中、ジョンたちは食糧貯蔵庫で略奪を行う敵のアリたちを目にした。彼らの巨大な体と圧倒的な力を前にして、ジョンは戦うことの無意味さを悟った。彼らは静かにその場を通り過ぎ、見つからぬように細心の注意を払いながら出口へと進む。

 やがて、彼らは薄暗く汚れた通路の入り口にたどり着いた。それは、ジョンが巣を探索していた際に偶然見つけた、忘れられた古い通路だった。通路は狭く、一匹のアリがようやく通れるほどの幅しかなく、不気味な雰囲気が漂っていた。

「ここから外に出られるはずだ。早く逃げよう」と、ジョンはタマルに言う。タマルは大きな身体でここまで走って来たため、息が荒く、疲労が彼女を襲っていた。彼女は深呼吸をしようとしたが、空気中に漂うフェロモンが彼女の神経を刺激し、身体を落ち着かせてくれない。

「少し待って……もう動けない……」

 彼女の声は小さく、かすれている。ジョンは胸の中で焦りが燃え上がるのを感じたが、彼女を急かすわけにはいかなかった。しばらくして彼女の呼吸がある程度回復すると、先に彼女を通路に行かせる。

 ジョンが一歩を踏み出した瞬間、背後に不穏な気配を感じた。振り返ると、新女王として育てられた若い女王アリたちとその護衛兵たちが無言で並んでいる。彼らは淡々と、だが確かな存在感を放っていた。護衛兵のリーダーは冷静な瞳でジョンを見据え、静かな声で話し始める。

「そこのアリたちよ、どこへ行こうというのだ。ここは女王たちの避難ルートだぞ」

 ジョンは護衛兵たちの方を見やった。全身の鼓動が激しく、視線が定まらない。大きな女王アリと並んで、屈強な護衛兵たちが整列している。彼らの目は、まるでジョンを敵のように見つめる。

「私たちも同じ目的です。タマル女王を避難させるためにここへ連れてきたのです」

 彼は働きアリの役割をずっと前に捨て去っていたが、今はその役割を演じるしかない。しかし、護衛兵たちは厳しい視線をジョンに向け続けた。

「そうか……ならば、お前も理解しているはずだ。この巣を守るため、働きアリとしてお前は死ななければならない。そして前女王も同じだ。我々にとって重要なのは、過去ではなく、ここにいる新しい女王たちだ」

 巣にとって、ジョンやタマルは他の名もないアリたちと変わらぬ存在だった。彼らは巣と共に見捨てられ、死にゆく細胞の一部に過ぎない。

 ジョンたちの背後からは死体の腐敗臭が漂い、迫りくる足音が絶え間なく響いていた。冷や汗がジョンの背中を伝い落ちる。

 ジョンはこれまで、巣の「異常な細胞」として行動してきた。しかし、その役割も今、終わりを迎えようとしている。ジョンは護衛兵の言葉が正しいのか、自分やタマルが死ぬべきなのかを考えた。

 ジョンは護衛兵の方を見つめ、身体の筋肉に力を込める。

「女王を先に行かせてください。彼女がここに来たのが先ですから……」

 ジョンは自分たちが生き延びるべきだと信じていたが、その言葉は護衛兵たちを苛立たせるだけだった。護衛兵のリーダーは顔をしかめる。

「働きアリの分際で逆らうのか? タマル女王はすでに女王としての役割を失った。我々に必要なのは巣を再建できる健康な女王である。さあ、そこをどけ」

 その冷たい声に、ジョンは反論することができない。背後からは敵の足音がすぐ近くまで迫っていた。

 最終的に、ジョンたちは護衛兵たちに屈し、道を譲ることにした。新女王たちはゆっくりと体を動かし、狭い通路に滑り込んでいく。彼女たちの進行は苛立つほどに遅く、ジョンは焦りを露わにしてその様子を見守っていた。

 ようやく3匹目の新女王が通路に入り、その後ろを護衛兵たちが無言で続ぬ。彼らはタマルには目もくれず、振り返りもしないまま、冷淡に通路に吸い込まれていった。そして、タマルが最後に通路へ足を踏み入れた。

 その瞬間、敵のアリたちが一斉に現れた。無機質な目がジョンに向けられ、次いで鋭い顎が光った。顎にはすでに血がついている。迫りくる足音に、ジョンは死の恐怖が胸に押し寄せた。

 ジョンは一瞬、体が凍りついたように動けなくなった。同時に、仲間の血の匂いが感覚器官を刺激した。焦りと恐怖が心を支配し、目の前の現実がぼやけていく。それでも、彼の体は恐怖に抗いながら自動的に動き始めた。

「タマル、急げ!」

 彼はタマルの巨体を押し込み、彼女をさらに奥へと追いやる。タマルは、狭すぎる通路の中を、必死にその巨体を縮めながら進んでいく。

「ジョン、後ろに敵が……!」

「分かっている!だから早く!」

 ジョンはパニック寸前だったが、なんとか冷静を保とうとしていた。脳内の時間感覚が狂い、目の前の出来事が夢のように映った。時間がゆっくり進んでいるかのように感じる一方で、瞬く間に過ぎ去っていくようにも思えた。

 奇妙な落ち着きを感じながら、ジョンの体は無意識に反応した。彼は壁に爪を立て、土を掻き出し始めた。その動きは荒々しく必死でありながらも、本能に刻まれた効率的なものだった。

「ジョン、何をしているの!あなたも早く来て!」

 タマルが通路の隙間から叫んだが、ジョンは答えない。彼はただ無心に作業を続けた。敵はすでに背後に迫り、数匹のアリがジョンの匂いを嗅ぎながら、顎を鳴らしていた。

 次の瞬間、ジョンは微かに笑う。アリに「笑う」行為はないはずだが、彼の心には不思議な感情が芽生えていた。死を目前にしながらも、未来への期待が浮かんだ。ジョンは自分の使命を理解していた。

 崩れた土が通路を遮断し、タマルの姿がジョンから消えた。そしてジョンは、振り返ることもなく敵のアリたちに襲われた。巨大な顎が彼の体を噛み砕き、命は一瞬で奪い去られる。電気信号が途絶え、ジョンはその生を終えた。

 ジョンは働きアリとして生き、最期は捕食者の餌となった。その生は無意味だったように思えるかもしれない。しかし、彼の犠牲によって、新たな未来が確実に芽生えつつあった。

 敵のアリたちは、土で遮られた通路の向こうに女王たちがいることなど理解できなかった。彼らの原始的な脳は、三次元的に広がる空間を理解できない。彼らは、飢えた衝動に突き動かされて次の獲物を探している。

 タマルはジョンの死を感じながらも自分の使命を理解していた。彼女は新たな世界で王国を築き、アリの巣を再建するために進む必要があった。その体内には、新たな運命が確実に育まれていた。

 

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