第2話 女王
遠い空が閃光に包まれてから、すでに数か月が経過していた。ジョンの脳内に生じた変異は日を追うごとに進行し、彼の神経細胞は新たな回路を次々と形成していた。彼は他のアリたちと同様に列に並び、黙々と働いていたが、その脳内では異常が密かに広がり続けていた。そしてある日、食料を運んで巣のトンネルを歩いているとき、変化が臨界点に達した。
ジョンは突然、電撃に打たれたようにその場で立ち止まった。空中に浮かんだ足は静止し、彼の視神経を通じて流れ込む情報が急速に処理され始めた。目の前では、働きアリたちが列を成して、いつものように巣の貯蔵部屋へと食料を運んでいた。それは、日常の光景であったが、ジョンの視界に映る世界は、まったく異なるものに変わっていた。まるで深い眠りから覚めたかのような感覚が、彼の全身を包み込んだ。
ジョンの目には、前を行くアリの動きが驚くほど鮮明に映り、トンネルの形状や影までが異様なほど鮮明に感じられた。背後のアリたちは、ジョンが突然立ち止まったことで前進できず、苛立ちから彼を押しのけようとした。その衝突で、ジョンが運んでいた昆虫の切れ端が床に落ちたが、彼はそれを拾い上げることもせず、ただ呆然と見つめていた。
ジョンの脳内で新たに形成された神経回路が、今までとは異なる指令を送り始めていた。彼は本能的な労働から距離を置き、まるで観察者となったかのように、周囲の状況を冷静に眺めていた。再び歩き出したものの、今度は食料に目を向けることもなく、周囲のアリたちに関心を示すこともなく、巣の狭い通路を進んでいた。彼は他のアリたちと何度かぶつかったが、誰一人として彼に注意を払うことはなかった。
ジョンは無意識のうちに巣の中をさまよい始めた。迷路のように広がるトンネルを探索しながら、彼の脳内では次々と新しい神経回路が形成されていった。新たな部屋や未知の道を見つけるたびに、彼はかすかな喜びを感じた。
彼の変異は、もはや後戻りできない地点に達していた。ジョンは完全に別の存在に変わり果てていた。かつての「働きアリ」ではなく、今や「ジョン」という異なる存在として巣の中を動き回っていたのだ。
その後、数日間、ジョンは食事を摂らず、眠ることもなく歩き続けた。身体は限界に近づいていたが、彼の内側には不思議な喜びが満ち溢れ、疲労を感じさせなかった。
彼の足は自然と巣の最深部へ向かっていた。そこは、ジョンがこれまで一度も足を踏み入れたことのない未知の領域だった。脳内では期待と緊張が高まり、彼の心拍はかすかに速くなっていた。
巣の最深部にたどり着いたジョンは、探索を始めた。彼の心は未知への探求心でいっぱいだった。彼は通路を進み、分かれ道に出ると左へ、時には右へと進みながら迷宮のような巣を歩き回った。狭いトンネルでは、巣の兵士アリたちが巡回していたが、彼らはジョンを一瞥しただけで、兵士アリの一員だと思い込んだのか、そのまま通り過ぎていった。
ジョンが狭い通路を歩いていると、ある部屋から異様な気配が漂っているのを感じた。彼の感覚器官が、何か異常なフェロモンか化学物質がその部屋から漏れ出ているのを察知し、自然と彼の足はその部屋へと向かっていった。
部屋の中央には大きな影が横たわっていた。ジョンは慎重に部屋に入り、辺りを見渡したが、そこに兵士の姿はなかった。やがて彼は、その影がこの巣を支配する女王アリであることに気づいた。彼女の巨大な体の下には、いくつかの卵が転がっていたが、すでに腐敗し始めていた。
ジョンは恐る恐る女王を観察したが、何か違和感を覚えた。兵士アリの護衛がいないこと、そして彼女が放置されたかのように孤独であったことに気づいた。
ジョンはゆっくりと彼女に近づき、声をかけた。もちろん、アリが言葉を話すことはないため、ここではすべて想像上の描写に過ぎない。仮に彼女の名を「タマル」とする。ジョンはタマルに気をかけた。
「勝手に部屋に入ってしまい、申し訳ありません。あなたが我々の巣の女王でいらっしゃいますか?」
ジョンは本能的に、彼女に敬意を払いつつ話しかけた。タマルは悲しげな目でジョンを見た。
「私はもう女王ではありません……今の女王は、巣のさらに奥の部屋にいます」
タマルは落ち着いた声で、しかし悲しそうに答えた。ジョンは再び尋ねた。
「では、あなたのお腹の下にある卵は何ですか? それは、あなたが産んだものではないのですか?」
タマルは卵の方を見やり、小さな声で応えた。
「そうです。これらは私が産んだ卵ですが、もう私は優れた働きアリを産むことができません。これらは、すべて失敗作なのです……」
タマルはジョンに、自らの運命を語り始めた。もともと彼女はこの巣の女王アリとして多くの働きアリを産んできたが、最近になって彼女が産む卵には異常が現れるようになった。正常なアリが孵化しなくなり、生まれてくるのは欠陥のあるアリばかりだったため、彼女は女王としての役割を剥奪され、今や孤立して巣の片隅で死を待つ身となっていた。
「私の子供たちは、働きアリとしての役割を果たせないと言われ、すべて処分されました。私にはもう何もできません」
タマルの悲痛な表情を見たジョンは、彼女を何とか助けたいと思った。実は、ジョンとタマルの運命は似ていた。ジョンが数か月前の閃光によって変異を遂げたように、タマルもまた変異を起こしていた。直接光を浴びたわけではないが、巣の外から運ばれてくる食料を摂取することで、彼女の体にも異常が蓄積され、正常なアリを産むことができなくなってしまったのだ。もちろん、ジョンもタマルも、そんなことを知る由もなかった。
ジョンは部屋を出て、巣の食料貯蔵室へ向かった。そこでは、かつての自分と同じように、黙々と働くアリたちが食料を運び入れていた。彼らはジョンの存在に気づくこともなく、ただ与えられた任務を機械的にこなしていた。ジョンはその光景を一瞬見つめたが、すぐに気ままにその場を通り過ぎ、食料室の奥へ進んだ。大量に積まれた食料の山から、持てるだけの食料を顎でくわえた。
戻る途中、ジョンの空腹は限界に近づいていた。顎にしっかりとくわえた食料を運びつつ、つい少しだけ口にしてしまった。しかし、今は別の目的を果たすことが優先だった。彼のちっぽけな理性は、空腹を必死で我慢し、できる限り多くの食料を持ち帰るべく、再び女王の部屋へ向かった。
部屋に戻ると、タマルは疲れ切った様子でまだ床に横たわっていた。その姿は、かつて女王アリとして君臨していた威厳を感じさせず、今はただ衰弱した生き物に見えた。ジョンは慎重に近づき、彼女の前に食料をそっと置いた。彼の動きは、まるで触れれば壊れてしまいそうなほど繊細だった。
「女王、これを召し上がってください。少しでも力を取り戻してください」
彼の声は優しく、同時に切実だった。しかし、タマルはその言葉に反応することなく、無言で食料に視線を落としただけだった。彼女の目は虚ろで、希望の色が完全に消えていた。数秒後、彼女はゆっくりと首を横に振った。その動きには重苦しい疲労が滲み出ていた。
「ありがとう、ジョン。でも、もう私はそれを食べることができないのです。私はこの巣には不要な存在です。残された道は、ただ静かに死を待つことだけです」
その言葉はまるで、彼女自身がすでに運命を受け入れているかのように響いた。ジョンは一瞬、言葉を失った。彼女の視線は床に落ちた腐り果てた卵に向けられ、その朽ちた命の痕跡が彼女の失敗と絶望を物語っていた。ジョンはその光景を黙って見つめながら、自分が感じた無力感に耐えていた。しかし、彼は諦めることを良しとしなかった。
ジョンは静かにその場に座り込んだ。彼の心には、タマルを見放すことなどできないという思いが芽生えつつあった。そして、不意に新しい考えが頭の中に浮かび上がった。
「それなら、ここを離れ、新しい巣を築いてはどうでしょう。あなたはまだ女王アリです。あなたには、まだその力が残っているはずです」
その言葉はタマルに希望を与えようとするものだった。だが、タマルは再び首を横に振った。その顔には、深い疲労と諦めが刻まれていた。
「新しい巣を築くなど、私には無理です。もう何も産む力も、巣を支える力も残っていません。ここで終わることが、私の運命なのでしょう」
タマルの言葉には深い悲しみが宿っていた。彼女の目は再び床に向けられ、そこには腐敗した卵が散らばっていた。彼女の失意が、その卵の無惨な姿と共に伝わってきた。ジョンは彼女を励まそうとしたが、その光景が彼の心にも重くのしかかった。
しかし、ジョンはこのみじめな女王から目を背けることができなかった。彼は静かに息を吸い、再び口を開いた。
「女王、私は最近、不思議なことに自由を得ました。ある日、突然、労働から解放されたのです。そして、その自由を使って巣全体を歩き回り、他のアリたちが働いているのを見ました。けれども、そこには自由はなく、すべてのアリがただ機械のように動いているだけでした。それを見て、私は違和感を覚えたのです。自分の人生にもっと意味があるのではないかと」
タマルは、ジョンの言葉に耳を傾けながらも、彼が何を伝えたいのか理解できない様子だった。しかし、彼女は黙ってジョンの話を待っていた。彼女の中にある本能が少しずつ変わろうとしている。ジョンはさらに続けた。
「女王、私たちがここで出会ったのは、きっと何かの運命だと思います。私は、自由を得たことで世界をもっと知りたいと思うようになりました。もしあなたが共に巣を出て、新しい場所で王国を築けるのなら、私はそれを手伝いたい。それが私の望みです」
ジョンは自分の壮大な計画をタマルに話した。タマルの顔には依然として疲労が見えたが、彼女は徐々にこの奇妙な働きアリに心を許し始める。
その日から、ジョンは毎日タマルに食料を運び続けた。最初は無関心だったタマルも、次第にジョンの真摯な行動に心を動かされていった。そして、ある日、彼女は決心を固めたように、ゆっくりとジョンに告げた。
「分かりました。あなたがそう言うのなら、共に巣を出ましょう。新しい王国を探す旅に出るのです」
その言葉は弱々しかったが、彼女の目には確かな決意がこもっていた。
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