(四) 疑問

 死者の世界から戻ってきた縁は、大学受験に合格して入学するまで約半年の間、その浪人生活のおおくをおれたち山田の家で過ごした。入学後、山田の家を出て鵜足に移ったのは、その方が大学に近いからである。それ以前にも、ときどきは鵜足の家に通っていた。向こうの人たちにも事情を理解してもらうためであり、また、生まれ変わった縁は以前よりも華奢になったから、サイズが合う服をとりにいくためでもあった。

 こうしたこまごましたことはあったが、大きな事件はなかった。つまり、彼女が死んで生まれ変わったことなど、まるでなかったかのようだった。

 山田の両親たちが即座にことを了解したのは、おれたちの目の前にあらわれた花白縁がその記憶をあまりにもちゃんと覚えていたからだ。たとえば、縁の部屋の本棚にある、とあるマンガの全巻セットが一昨年のクリスマスプレゼントであることも知っていたし、リビングの壁にかけられているカレンダーが去年の旅行のついでに言った美術館で買ったものであること、さらに古い過去としては、幼いころ露店で飲んだ洋梨のジュースがきっかけで、いまに至るまで洋梨という果物が好物となっていることなど、縁でなければ、おれたち家族でなければ知らないようなことを、彼女ははっきりと覚えていた。

 記憶だけではない。考えごとをするときにこめかみを指で押さえる癖や、寝るときに靴下を履く習慣、漬物を口にしない食事の嗜好、さらには声の抑揚なども、縁がまさにそうしていたようにした。面と向かって会話すれば、彼女のことを縁として扱うほかにいかなかった。

 日々はのどかにすぎていった。

 鵜足の花白家が、彼女のふるまいについてあまり口うるさく言ってこないことはさいわいだった。ただ、このことは安堵を覚えつつも、すんなりと了解できないところがあった。

 いまでこそ成人の基準は十八才だが、当時はまだ二十才だった。そして、おれたち家族がどう思ったところで、わが姉・縁はすでに死亡届が受理され、戸籍謄本には死亡が記録されている。公的には、死者であり、もともと鵜足の「花白縁」とは別人である。もしもこの点に鵜足の花白家がこだわったなら、山田の花白家は、まだ未成年である我が子を誘拐しているかのように言いたてられて、その立場が危うくなりかねなかった。

 もちろん、そうならないように、二つの花白家の四人の親たちの間で、連絡はとっていたらしい。とはいえ、山田の花白家は、山田の彼女が死亡して、あたらしく鵜足の花白縁になったということを認めたのかというと、そういうわけではないようだった。記憶が変わったことがあきらかでありながら、あいかわらず、山田の花白家にとって、彼女は娘であるのだった。

 「じゃあ、向こうがその気になれば、いつでもこっちは娘を誑かしている犯罪者みたいにされても、おかしくなんだ」

 と、おれは言った。

 「大丈夫」

 と母親は答えた。

 「鵜足さんはちゃんと承知してくれてるわ」

 「承知って、なにを?」

 「生まれ変わったあの縁が、私たちの家族であることよ」

 「やっぱりちょっと変に思うんだけど、あの縁が生まれ変わりなら、鵜足の縁さんは死んだことにならない?」

 「ならない」

 母は強く断言した。

 「でも、それならさ」

 とおれは言った。

 「向こうの縁さんがあの縁と同じなら、こっちの縁は死んだことにならない? 少なくとも、鵜足さんたちはそう考えてるんじゃないの?」

 「それも違うわ」

 「どうして?」

 「どうしてもよ。こういうのは気持ちの問題だから」

 と、母は答えた。

 あとでおれは父からも「信も子どもができたら分かる」と言われてしまった。


 この説明は、おれが訊いた疑問にたいするなんの答えにもなっていなかったが、それでも、一個の説明ではあった。つまり、おれにとって疑問であることが、四人の親たちにとって疑問にならないということを説明してくれていた。

 よするに、おれは、親たちがそうであるほどには、縁の蘇生を受けいれてはいなかったのだ。

 たとえば、家族そろって夕飯を食べているとき、ふとした表紙に縁のすがたを盗み見たりする。すると、どこにも歪みがないその横顔の輪郭や、気高くてそれでいて自己主張しすぎない鼻筋や、真っ白な額が目に入って、こじんまりとしたこの花白家の食卓に、なにか不釣合いなものがそこにあるように思えてならなかった。もっとも、あんまり見すぎると、テレビに向けられている縁の目がこちらに向けられてしまう。黒くて丸いその瞳を自分に向けられると、おれは心中が見抜かれているようで、落ちつかなかった。だから、こっそりと見る。

 こんな動揺は、単純に相貌が変わったことに慣れなかったというだけである、とはじめはおれも思っていた。けれども、いつまで経っても慣れることはなかった。

 父が言うようにおれにはまだわからないことながら、親たちは、すべて気づいていないか見逃していた。親たちは、親たちであるがゆえに、おれのように審さなる観察力を持ちえないというわけだ。

 ただ、おれは彼女が偽物と確信していたわけではない。

 釈然としないだけである。

 けれども、あらためて考えてみるまでもなく、生まれ変わりなどということ自体が、ばかげていないだろうか?

 現世から遠く離れたところに冥界があって、その冥界では我が国の官僚よろしく死神大王やその部下たちが働いていて、彼らのちょっとした手違いによって縁が死に、その修正と弁償のために、三日後に別人の身体を借りて蘇った。

 まったくの他人からこの話を聞かされたなら、どうだろう? 当然、おれは信じないし、親たちだって同じであるはずだ。ということは、親たちはこんなお話を聞く前から彼女のことを縁と信じていたということではないだろうか? 彼女の物語がもっともらしかったから彼女が縁であることを信じたのではなくて、彼女のことを縁と思っているから、こんな話に耳を貸すことができた。そういうことなのではないか?

 じっさい、考えようと思えば、ぜんぜん違った風に考えることもできたはずである。

 たとえば、いまこの山田の家で寝泊まりしている彼女は、身も心も鵜足に住んでいた花白縁さんで、ほんとうの縁はやっぱりもう死んでいる、といったようなことだ。霊魂が冥界往還するなんていう物語は、まったくのデタラメ、作り話である。

 そう考えたほうが、ほんとうらしくはないだろうか? 超常的なことなんかないと言ったのは縁じしんでもある。

 この場合、、一つの謎となるのは彼女の記憶だが、これだって生前縁が彼女と連絡を取りあっていたと考えるなら、不可能ではない。縁は、自分と同姓同名の者が鵜足の家にいることを知っていたのだ。その彼女が、おれたちの前で、縁から教えられたかぎりの記憶をとりあげて、もっともらしく振る舞うくらい、できないことではないはずだ。知らないことがあったとしても、誰でも忘れたり、記憶違いをしたりするのだから、不自然ではない。さらに、病身の彼女に奇跡が起こって回復したというも話もあるが、これだって鵜足の家が口裏合わせてでっちあげた話かもしれないではないか。彼女ははじめから健康体だった。過去病身で死をまつばかりだったなどというのも、嘘である。悲劇の入院も、死を待つ日々も、奇跡の回復もほんとうはなくて、彼女はただここにやってきたのだ。

 こう考えれば、奇跡を抜きにして、我が身のまわりに起こっている出来事を説明できるはずだった。けれども、もしそうであるとするならば、縁は、自分がこれから死ぬことを知って、自殺に近いかたちで亡くなったことになるだろう。自分が死ぬことを前提にした計画をたてて、鵜足の花白家が助力をした。

 だが、いったい、なんのために?

 これは考えてみたところで、なにもわからなかった。

 なにかそこには得体の知れない巨大な悪意が、それこそ不可視の妖怪とでも言うべきようななにかが、おれたち家族を不吉な暗雲のように垂れこめているのでなければならなかった。目下、そのことに気づいているのはおれだけ。この山田の家を守ることができるのはおれだけだった。

 それでいて、日常生活のなかでいくら目を凝らして見ても、そんなものはなかった。つまり、なにもかもが平和にすぎていった。もしかしたら、おれの人生のなかで一番平穏無事に過ぎていったのが、この時代だったとさえ、言えるかもしれない。おれは規則ただしく寝起きをして、学校にいって、下校したあとは、だいたい家で勉強をしていた。

 ときどき水緒が家庭教師に来てくれた。

 べつに高い目標を掲げていたわけではないが、おれ自身の高校受験もあったからだ。

 行く先が学校ではなくて予備校であるだけで、縁もだいたい同じだった。縁が浪人生で、見ているかぎりちゃんとやってくれていたことは、おれ自身のモチベーションを維持する上で、よいことだった。

 親たちは、おれたちが上手くいくことを願ってくれていた。

 時間は、静かに、穏やかにすぎていった。なにごともなく、頭に知識が定着していくことを願うような、淡々とした日々だった。 こんななかで、ちょっと釈然としないくらいで、縁はやっぱり死んでいるかもしれないなどという懐疑を表に出したりすることなんてありえなかった。

 当然、本人に訊いてみるなんてできなかった。それは、冥界に魂が行き来したり、重病の人間が一夜明けたら健康体になったりすること以上に、よほどありえないことにちがいなかったのだ。

 結局のところ、翌年には無事に、おれも縁も、志望校に合格することができた。

 こうして縁は山田市から鵜足市に移った。縁もだんだんと髪がのびてきて、昔の面影をとりもどしはじめた春だった。

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