白線の内側から
しんしん
帰り道
帰ることができる人間は帰る場所がある人間だ。
「電車が参ります。危険ですので、白線の内側でお待ちください」
やばい奴はそんなアナウンスなんて聞きやしない。私は、内側に下がりながらそんなことを考えた。
その女が白線の内側で電車を待ち続けてもう三時間になる。十分に一度は彼女の目の前を電車は通り過ぎすぎる。
今にも線路に飛び込みそうな彼女から目が離すことができなかった。
身なりはボロボロ髪もボサボサ。間違いなく何日も風呂に入っていないはずだ。乱れた前髪からのぞく目と、破れたスウェットから露出した手足からとても若い女性なのが分かった。
家出少女かホームレスのようにも見える。私は、彼女がここまで落ちぶれた物語に悪趣味な想像を味付けして、ビールを一口二口と舌の上で転がして楽しんだ。
彼女の周囲には、私と同じように彼女に気付いて人たちが何人かいた。
一人はスマホでずっと動画を取り、一人はこっそりと刃物を忍ばせていた。もう一人は、ズボンの中に手を突っ込み激しく快楽に身を任せている。もう一人はどこにいるのかは分からないが、確かに彼女の隠し撮りをSNSに上げている。『飛び込みLIVE』。衝撃的なタイトルとともに配信をしているが、視聴者数は1人だった。
もう一時間が経った頃だった。
彼女の周りに三人の若者が集まってきた。電車が通り過ぎる度に、彼女を突き落とす素振りをする。下品な笑い声がホーム内に反響する。あまりに不快で止めに入ろうかと思ったほどだった。
次の電車が入ってくる時だった。初めて女は口を開いた。
「私はもう死んでますよ?」
その言葉に取り囲んだ若者達は大笑いをした。
先ほどにはなかった「行け、行け、飛び込め」という声が上がる。周囲に少しだけ人が増えたような気がしたが、それででもとんどの人は見て見ぬふりだ。
「電車が参ります。危険ですので、白線の内側でお待ちください」
アナウンスと共に電車が入ってくる。この電車は止まらない。猛スピードで通り過ぎていく。
私は彼女をじっと見ていた。
鉄の塊が風を切る。ホームに響く、擦り切れるほどの金切り声のような車輪の音。
通り過ぎた電車を見送ると、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。線路に飛び込んだ訳ではなかった。
私は、彼女の姿がスッと消えていくのをこの目ではっきりと見た。消えていく瞬間、笑っているようにも見えた。
「なんだ、幽霊だったのか」
がっがりした声があちこちから聞こえてくる。
私もやることがなくなってしまったので帰ることにした。
私は白線の内側に立ち、次の電車を待った。
白線の内側から しんしん @sinkou
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