第3章:運河の流れ
噂は予想以上に早く広がった。パブには、技術的な相談だけでなく、読み書きを教えてほしいという労働者たちが集まるようになった。
「私にできることなら」
進は慎重に言葉を選びながら、彼らの要望に応えることにした。閉店後のパブで、簡単な読み書きや計算を教える。それは、高橋進が得意とする分野でもあった。
しかし、その活動は新たな課題も生んだ。教会関係者からの批判の声が上がり始めたのだ。
「女性が労働者に教育を施すなど、秩序を乱すものだ」
地域の有力者たちからの圧力も強まった。しかし、ジョージは毅然として娘を守った。
「うちは自由な場所だ。誰が何を学ぼうと、それは個人の自由だろう」
その姿勢に、進は感銘を受けた。実の娘ではないにも関わらず、ここまで守ってくれるなんて……。
ある日、若い運河工夫のサム・ウィルソンが、真剣な表情でやってきた。
「エミリー、君の知識を活かせる場所がある」
彼が案内したのは、労働者たちの非公式な集会場だった。そこでは、労働条件の改善や権利の主張について、密かな話し合いが行われていた。
「私たちの声を、きちんとした文書にまとめてほしい。それと、運河の安全管理について、具体的な提案も」
進は躊躇した。こういった活動は、当局から危険視される可能性が高い。しかし、彼らの真摯な眼差しに、断る理由は見当たらなかった。
「分かりました。できる限り協力させていただきます」
その決断が、エミリー・ブリッジズの人生を大きく変えることになった。
夜を徹して文書を作成し、データを収集する。運河の水流管理から労働安全基準まで、現代の知識を当時の技術レベルに合わせて提案する。
その過程で、進は気づいていった。自分の中の変化に。
かつての女性恐怖症は、徐々に薄れていた。エミリーとして過ごす日々の中で、女性であることの意味を、違う角度から見つめ直すようになっていた。
そして何より、このパブに集まる人々との関わりが、自分を変えていった。彼らは、高橋進が長年避けてきた「生身の人間との関係」そのものだった。つまり、人類の半分との。
「エミリー、この提案書は素晴らしい」
運河会社の技師長が、驚きの表情で言った。労働者たちの要望と、技術的な裏付けが見事に調和している、と。
その評価は、予想以上の反響を呼んだ。運河会社は、労働者たちの声に耳を傾け始めた。安全基準は改善され、労働時間も徐々に是正されていく。
しかし、それは新たな試練の始まりでもあった。
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