第2章:揺れる水面

 エミリーとしての生活が始まって一週間が過ぎた。女性の体で生活することへの違和感は依然として強かったが、少なくとも日常的な動作には慣れてきた。


 パブでの仕事は、予想以上に興味深いものだった。運河労働者たちとの会話を通じて、教科書では知り得なかった当時の生の声を聞くことができる。


「おい、エミリー。最近、お前さんの様子が変わったな」


 常連客の一人、トム・ハーディが言った。中年の運河船長だ。


「そうでしょうか?」


「ああ。妙に博識になった。特に運河のことを聞くと、まるで技師のように詳しい」


 進は焦った。知識を出しすぎていたようだ。


「本で読んだだけです。父の蔵書には工学の本もありますから」


 言い訳をしながら、グラスを拭く手が震えた。女性が教育を受けることに厳しい目が向けられる時代。目立たないよう、もっと注意する必要がある。


 しかし、その知識が思わぬ形で役立つ時が来た。


「困ったもんだ。ロック・ゲートの調子が悪くて、荷物の運搬に支障が出ている」


 ある日、運河工夫のウィリアム・スミスが嘆いていた。進は思わずその話に耳を傾けた。


「どんな具合に悪いのですか?」


「開閉が重くなって。潤滑油を差しても、あまり改善しない」


 進は問題の本質を即座に理解した。設計上の欠陥というより、メンテナンスの方法が適切でないのだろう。


「ゲートの蝶番の部分に、泥が溜まっているのではありませんか? 定期的に清掃すれば……」


 言いかけて口をつぐんだ。余計なことを言いすぎた。しかし、ウィリアムは興味を示した。


「ほう、そういえばしばらく清掃してなかったな。他に気をつけることはあるか?」


 進は迷った。しかし、これは運河の効率的な運用に関わる重要な問題だ。


「水位の変動を記録してみるのはどうでしょう。潮の満ち引きのように、一日の中でも水量は変化します。その記録があれば、ゲートの操作をもっと効率的にできるはずです」


 ウィリアムは感心した様子で頷いた。


「なるほど。お前さん、見かけによらず賢いな」


 その会話を、常連たちが興味深そうに聞いていた。


 翌日から、パブには技術的な相談をする労働者が増えた。進の助言は的確で、実務に即していた。しかし同時に、周囲の視線も気になり始めた。


「あの子、どこでそんな知識を得たんだ?」


「本当に本だけで学んだのか?」


 噂が広がっていく。女性が専門的な知識を持つことへの違和感が、疑念を生んでいた。


 しかし意外なことに、パブの父ことジョージは娘の変化を肯定的に見ていた。


「お前の知識は、みんなの役に立っている。それは良いことだ」


 ある夜、閉店後に彼はそう言った。


「でも、女の子が……」


「時代は変わりつつある。お前のような若い世代が、新しい道を切り開いていくのだろう」


 その言葉に、進は複雑な感情を覚えた。


 確かに産業革命期は、社会の大きな変革期だった。しかし、その変化の中で女性の立場は依然として制限されていた。そして自分自身、女性として生きることへの強い抵抗感がある。


 しかし同時に、この時代に生きる人々を目の当たりにして、何かできることはないだろうかと、そう思い始めてもいた。自分の知識を活かして、彼らの暮らしを少しでも良くすることはできないだろうか。


 運河の流れを見つめながら、進は考え続けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る