第1章:異世界への沈潜
高橋進は暗い研究室の中で、今日もバーチャル空間に映し出された運河の3Dモデルを見つめていた。水理学のシミュレーションは彼の人生そのものだった。人との接触、特に女性との関わりを極力避けながら、デジタルの水流の中に没頭する日々。
「やはりここの水圧分布が……」
呟きかけた瞬間、画面が激しくちらついた。続いて全身を電流が走るような衝撃。意識が闇の中へと吸い込まれていく。
目を開けた時、そこは薄暗い木造の一室だった。
「エミリー! 客が待っているわよ!」
耳慣れない英語で名前を呼ばれ、進は混乱した。自分の手を見て、彼は凍りついた。繊細で小さな、明らかに女性の手だった。
そして古びた鏡に映る顔は、進の知るものではなかった。
栗色の巻き毛が、後ろで一つに束ねられている。薄い肌に散る雀斑は、春の星座のように不規則な模様を描いていた。そして何より、その緑がかった瞳――。
「これが……僕?」
声を発した瞬間、喉から異質な音が漏れる。高橋進の低い声ではない。少女特有の、か細く繊細な声。その音色に、背筋が凍るような戦慄が走った。
その時、記憶が蘇る。
「なぜ分からないの? こんな簡単なことが!」
松浦の叫び声が、突如として脳裏に響いた。図書室での悪夢のような光景。女性の香水の甘ったるい匂い。首に食い込む指の感触。
「うっ……」
進は洗面台に身を屈める。喉の奥から胃液が込み上げてくる。しかし、それを押し戻すように、必死で深い呼吸を繰り返した。
鏡に映る少女の姿が、まるで嘲笑うように揺れている。
両手を見つめる。繊細で小さな指。血管が透けて見えるほどの白い肌。爪は短く切り揃えられ、労働する者の手であることを示していた。
「いい加減にして! これでも男の子なの?」
松浦の声が、また聞こえる。進は耳を塞ごうとしたが、それは内なる声。塞ぐことはできない。
自分の胸に触れる。確かにそこにある膨らみ。ドレスのコルセットが締め付ける感覚。
吐き気が再び激しく込み上げてきた。今度は押さえることができない。
進は洗面器に向かって胃の中身を吐き出した。酸っぱい胃液の臭いが、狭い部屋に充満する。
「それでも男の子なの?」
「男の子なの?」
「なの?」
松浦の声が、頭の中でエコーのように反響する。その度に、鏡の中の少女の姿が歪んで見えた。
冷や汗が背中を伝う。シーツのような薄手のナイトドレスが、汗で肌に張り付く感覚。それもまた、吐き気を誘う。
「落ち着け……落ち着くんだ……」
自分に言い聞かせるように呟く。しかしその声さえ、もはや自分のものではない。
鏡の中の少女は、血の気を失った顔で震えている。緑がかった瞳に涙が溜まり、それが頬を伝って落ちていく。雀斑が、涙の跡にそって揺れているように見えた。
「僕は……私は……」
自己の存在が、まるで霧の中で溶けていくような感覚。高橋進という実体が、エミリー・ブリッジズという見知らぬ少女の中に、飲み込まれていくような??。
その時、階下から声が聞こえた。
「エミリー! 客が待っているわよ!」
現実の声に、進は我に返る。額の汗を拭い、震える手で髪を整えた。
鏡の中の少女も、同じように髪を整えている。それは紛れもなく、今の自分の姿。
「まるで悪夢……でも、これが現実なのか」
最後にもう一度、深く呼吸をする。
そして、エミリーとして生きていかねばならない現実に向き合うため、よろめく足取りで階段を降り始めたのだった。
「まさか……」
周囲を見回すと、古びた木製の家具、手作りらしき寝具、窓の外には煤けた建物の列。そして遠くに聞こえる水の音――。
「急いで!」
声の主は、太った中年の女将だった。彼女の態度から察するに、自分はここで働く給仕娘らしい。服装も19世紀初頭のイギリスの労働者階級の女性のものだ。
研究者として歴史は詳しかった。ここがバーミンガムの運河地区であることは、建物の特徴から明らかだった。時代はおそらく1830年代。産業革命の真っ只中――。
「は、はい……」
自分の声に震える。女性の声で話すこと自体が、トラウマを刺激する。しかし今はパニックを起こしている場合ではない。この状況を理解し、対処する必要がある。
階段を降りると、そこは活気に満ちた酒場だった。運河労働者たちが、仕事帰りに一杯やっている。煙草の煙と麦芽の香りが漂う。
「ようやく起きたな、エミリー」
カウンター越しに話しかけてきたのは、やせ型の初老の男性。パブの主人のジョージ・ブリッジズだ。どうやら、ここでは彼の娘として暮らしているらしい。
「すみません」
よろめきながらカウンターに立つ。女性の体で動くことに違和感を覚えながらも、給仕の仕事を始めた。
幸い、以前の記憶も部分的に残っているようだ。このパブは運河沿いの「キングス・アームズ」。労働者たちの憩いの場所として知られている。
一晩中、グラスを運び、注文を取り、会計をこなす。その間も、高橋進の意識は研究者として状況を分析し続けていた。
この時代のバーミンガムは、産業革命の中心地の一つ。運河網の発達により、内陸の工業都市として急速に発展していた時期だ。労働者たちの様子を見ていると、彼らの多くが運河関連の仕事に従事していることがわかる。
閉店後、疲れ切って部屋に戻る。女性の体に閉じ込められているという事実に、再び吐き気を催す。しかし、パニック発作を抑えながら、状況を整理した。
自分は確かに2025年の水理工学者、高橋進である。しかし今は、1832年のバーミンガムで、エミリー・ブリッジズとして生きることになった。この事実を受け入れ、対処していくしかない。
枕に顔を埋めながら、進は呟いた。
「これは悪夢なのか、それとも……何かの機会なのか」
窓の外では、運河の水が月明かりに照らされて静かに流れていた。
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