【TS転生運河短編小説】運河の導き手 ~水流の記憶、少女の軌跡~(9,559字)

藍埜佑(あいのたすく)

プロローグ:封印された記憶

 高橋進が最初に「恐怖」を感じたのは、小学校五年生の時だった。


 担任の松浦美智子は、完璧主義者として知られる厳格な教師だった。特に男子生徒に対して厳しく、「将来、社会を担う者としての自覚を持て」と口癖のように言っていた。


 進は数学が得意な生徒だった。しかし彼の解き方は、教科書や松浦の教え方とは異なっていた。独自の論理で問題を解くその姿勢を、松浦は「傲慢」だと考えた。


「高橋君、また変な解き方をしているわね」


 授業中、松浦は進のノートを掲げて見せた。


「こんな解き方では、誰も理解できないでしょう? あなたは、みんなと同じように解かなければいけないの」


 クラスメートの笑い声。

 進は顔を真っ赤にして俯いた。


 それから松浦は、進の「矯正」に執着するようになる。


 休み時間も放課後も、進は教室に残されて「正しい」解き方を書かされた。同じ問題を何度も何度も解き直させられる。間違えれば、容赦のない叱責が待っていた。


「なぜ分からないの? こんな簡単なことが!」

「いい加減にして! それでも男の子なの?」

「こんなことじゃ、将来どうなるのかしら、心配だわ」


 松浦の声は次第に進の悪夢に登場するようになった。


 六年生になっても状況は変わらなかった。むしろ、「卒業までに矯正しなければ」という焦りからか、松浦の態度は更にエスカレートしていった。


 決定的な出来事は、卒業間近に起きた。


 松浦の目が、硝子細工のように冷たく輝いていた。その瞳の奥には、何かが渦を巻いていた。理性の外側で蠢く、得体の知れない感情。


「先生、これは微分を使えば、もっと簡単に……」


 進の言葉は途中で途切れた。


 松浦の右手が、蛇のような素早さで伸びてきた。長い指が、進の制服の襟首をきつく掴む。


 甘い香水の香りが、鼻腔を突き刺した。ジャスミンとローズの混ざったような芳香。その甘美な香りが、これから起こる出来事の恐怖を際立たせた。


「この生意気な……!」


 松浦の声は、かつて聞いたことのない調子を帯びていた。


 進は本棚に強く押しつけられた。背中に突き刺さる本の角。痛みで顔をしかめる間もなく、首の周りが締め付けられる。


「分からないの?」


 松浦の声が耳元で響く。吐息が頬をかすめる。


「あなたはただ、言われた通りにすればいいの!」


 服の襟が、喉を圧迫する。呼吸が困難になっていく。


 進は必死で松浦の腕をつかもうとした。しかし、力が入らない。


「それ以上のことを考えてはいけないの!」


 松浦の目が、進の目の前で大きく見開かれていた。瞳孔が異常なまでに開いている。化粧の滲んだ目の縁が、狂気じみて見えた。


 酸素が足りない。視界が歪み始める。


 甘い香水の香りが、さらに強く鼻腔を突く。その香りと窒息感が、吐き気を誘った。


 進の意識が遠のき始めた時、温かい液体が足元を伝う感覚があった。


 自分が失禁しているということに気づいた時、激しい恥辱感が全身を襲った。それは身体的な苦痛以上に、彼の心を深く傷つけた。


 やがて誰かが図書室に入ってきて、悲鳴を上げる声が聞こえた。


 松浦の手が緩み、進は床に崩れ落ちた。


 激しく咳き込みながら、彼は這うようにして図書室の隅に逃げ込んだ。


 その後の出来事は、断片的な記憶としてしか残っていない。


 司書の先生の悲鳴。職員室から駆けつけてきた教師たち。保健室でうずくまっている自分。


 そして、あの甘い香水の匂いだけが、鮮明に記憶に刻み込まれた。


 それは彼の悪夢の中で、何度も何度も蘇ることになる匂いだった。


 傷は深く残った。


 中学、高校と進むにつれ、進は女性との関わりを徹底的に避けるようになっていった。特に、年上の女性や権威的な立場の女性に対しては、激しいパニック発作を起こすようになった。


 大学では、指導教授が女性だと知った瞬間に、その研究室を諦めた。代わりに選んだのが、人との関わりが最小限で済む水理工学の研究室だった。


「水は、人を裏切らない」


 進はそう信じていた。


 社会人になってからも、彼の症状は改善されなかった。


 研究所では、女性研究者と同じプロジェクトになることを必死に避けた。昇進の機会さえ、上司が女性だという理由で断ったこともある。


 日常生活でも、女性店員のいる店は避け、宅配便は男性配達員の時間帯を指定し、可能な限りオンラインでの買い物を選んだ。


 そんな生活の中で、唯一の救いはバーチャル空間だった。


 研究室に籠もり、運河の水流シミュレーションに没頭する。複雑な方程式を解き、データを分析する。そこには、人間関係の面倒な問題は存在しなかった。


「なぜ、私はこんなに歪んでしまったのだろう」


 夜遅くまで研究室で作業をする日々。モニターに映る運河の3Dモデルを見つめながら、進は時折、そんなことを考えた。


 松浦との出会いから二十五年。


 病院でカウンセリングを受けることさえ、女性カウンセラーへの恐怖から避けてきた。男性カウンセラーとの面談も、「女性恐怖症」という問題の核心に触れることができないまま、中断してしまった。


 表面上は、優秀な研究者として評価される生活。しかし、その内面は深い闇を抱えたままだった。


 彼は気づいていた。このままでは、自分は一生、人類の半分と親密な関係を築けないのだと。

 

 しかし、どうすることもできなかった。


 トラウマは、彼の意識の深層に、巨大な水門のように重くのしかかっていた。それは、彼の人生から、多くの可能性を締め出し続けていた。

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