3話

 昌子は一番最後に目覚めた妻だった。

 音を聞いた。なにかが衝突する音だった。

 目をあけた。黄緑色の光。その現象はコウライシバと呼称される草のもつ色素が反射し、二十坪ある空間を通して昌子の眼球に嵌めこまれたガラスに届いたためであると即座に理解する。視界がぶれる。鼻に衝撃を感じたため視界がぶれたのだ。


「ごめん、昌子」


 五百五十ヘルツの言葉を知覚する。

 顔をあげると、パパが居た。

 初めから昌子は、その水色のストライプ柄のシャツを着た男がパパであると知っていた。そのため、彼が朝の運動兼テニスの練習のために壁打ちを毎朝七時にすることも、朝食をその三十分後からとることも、八時から九時の間に妻たちのメンテナンスが行われることも、そのあとの予定もすべて知っていた。


「ああ、すこし待って」


 朝食の準備をしようと立ちあがった昌子を、パパは呼びとめて手を引いた。昌子はその皮膚に生来の冷たさを感じた。手の冷たい人間だ。人間は手が冷たい。昌子は頭の中に情報を埋め込むために繰り返した。冷たい、冷たい。

 リビングには三人の女がいた。春先の柔らかい光が大きな窓からふりそそぎ、無表情な四人の女と、微笑んでいる男を包みこんでいた。

 昌子は一人一人の顔を確認した。

 部屋の一番右側でソファに腰かけているトアは、この五人の中でもっとも美しいが、もっともいいかげんな女でもあった。

 その横で茶色い毛布にくるまって小さくなっているのはレティ。彼女はもともとこの研究院に勤めていたコックの妻だった。気が弱く頭が悪い女だ。

 奥のキッチンで花瓶の水をとり変えている女は由美だ。すぐれた研究員だった彼女はパパの右腕として、女たちのメンテナンスを助ける役割がある。

 昌子は彼女たちの眼球にレンズの反射と光源の定量的な存在を確認したが、違和感を感じた。玄関に飾られた絵が一センチだけ右にずれているような感覚だった。

 パパが昌子に女たちを紹介した。彼女たちは機械的な挨拶をかわし、頰にキスした。

 それは人工皮膚の彼女たちにとって不必要な柔らかさだった。それが誰のために存在するのか、昌子も他の女たちも知らなかった。知る必要もなかった。


「サナは?」


「屋上にいるよ」


 パパが聞くと、レティが上を指さしたので、パパと昌子は二階へ上がった。女たちには一つずつ部屋が与えられており、それらの前を通りすぎた廊下の突き当たりに金属製の扉があった。パパが扉を開け、昌子も続いた。すると人一人が立てるほどの狭いテラスに短いはしごが備えつけられており、屋上とは名ばかりの屋根の上に登れるようになっていた。

 昌子は空の青さを見上げた。その上に宇宙があり、星があり、空気はなく、延々と果てがあるのか無いのか記録にないが、とにかく昌子のデータにある空の青はすきとおった心のすくような色だった。いくつかの雲が旗のようにはためく、その下に白いワンピースを着たサナが何かを抱えて座っていた。


「サナ、少し降りてこないかい」


 パパが声をかけた。するとサナは氷のような無表情で彼をふりかえり「無理」と言った。


「どうして無理なんだい?」


「昌子、みんなを呼んで」


 昌子は驚いてサナを見上げた。


「早く」


 昌子は指示を仰ごうとパパを伺った。すると彼は「サナの言う通りに」と言い、すごすごと廊下へ戻っていってしまった。昌子は来たばかりの道を戻り、リビングに居た他の女たちに声をかけ、命じられたとおりに屋根の上へ連れてきた。

 四人の女たちは屋根の上を軽やかに歩き、サナを囲んだ。


「これ」


 サナは立ち上がり、抱えていた物を見せた。それは布に包まれた、五十センチほどの物体に見えた。


「いきもの?」


 レティがたずねた。太陽光とは別の温度を見たのだ。そっと手を伸ばして包みをめくり、驚いて後ずさった。


「わんちゃんの死体?」


「バカ、生きてる」


 レティの横から覗きこんでいた由美は、声を上擦らせながら言った。


「これは……つまり赤ん坊だ」


「嘘つきなさいよ。赤ちゃんは人間の幼少期ってインプットされているわよ。これじゃ猿よ」


 トアは顔を両手で抑え、その隙間から赤ん坊を眺めている。


「じゃあ正しいじゃないか。人間は猿なんだから」


 由美が反論すると、トアは横目でにらみつけた。

 昌子は困惑する他の妻たちの顔を伺いながら「なあ」と初めて声を出した。それは昌子が想像していた声とはかなり異なったので、彼女は目を丸くした。そしてその瞬間に、生前の過去が頭の中を過ぎさった。たしかに、昌子という女はこのような声だった。


「その赤ん坊はどこで拾ったんだ」


 サナは昌子の顔をじっと見ると、ふいに右手を差しだした。


「手? 手から産まれたのか?」


「いや、ほんとにバカ。握手だ」


 由美がため息をついて、昌子の左手をつかみ、サナに握らせた。サナはうなずいた。


「昌子、よろしく」


「あ、ああ? よろしく」


「空から」


 サナは天を指さし、その指先をゆっくりとおろして赤ん坊の頭部を撫でた。和毛のような細い毛をかき分けて、二つの直線が見えるようになった。それは赤ん坊のまぶたで、眠りしか知らないように、ぴったりと閉じられている。

 トアが怪訝そうに赤ん坊を見下ろし、口を開いた。


「あんたね、空って……ハリケーンで運ばれてきたんじゃないの?」


「最近は大気が安定していて、なかったと思うが」と由美が言う。


「じゃあ、どっかから拾ってきたんでしょう」


「違う」


 サナは否定したが、それ以上はなにも説明する気が無いようだった。

 昌子は赤ん坊を見つめた。顔の下に二つの白い塊があり、小さな芋虫のような五本の指が固く握り締められていた。


「貸してくれ」


 昌子はサナの胸に向かって両腕を伸ばした。サナは躊躇いなく赤ん坊を手渡した。他の妻たちは固唾をのんで、受け渡された赤ん坊と昌子を見つめた。

 臭いがした。赤ん坊のわきばらに鼻を寄せると、生臭さと同時に酵母のような香りがする。


「あたしも」


 レティが手を伸ばした。小柄な彼女は赤ん坊をよろめきながら支えたので、由美がとっさに膝をついて反対側から支えた。ふたりは赤ん坊の匂いに眉をひそめたが「あたたかいね」とレティは言い、由美は「トアは持たない方がいい」と断言した。


「どうしてよ?」


「汚いから」


「なによ。あたしだって、それくらい持てるわ」


 トアは唇をとがらせて赤ん坊を奪いとった。すると赤ん坊の排泄物が、ぼとぼとと布のすきまからこぼれたので、トアは悲鳴もあげずに手を離した。それを受け止めたのは大きな手の持ち主で、その指先がみじめに汚れるのを、昌子は見つめていた。


「間一髪」


 パパは安堵の息をつくと、服が汚れるのも構わず赤ん坊をしっかりと抱え直した。そして汚れていない指先で赤ん坊の頬をつつくと、わずかに口をあけてうめいた。パパはその声を目を輝かせて聞くと「可愛いね」と言った。


「かわいい?」


 トアが首をかしげた。


「あたしよりも?」


「ああ、トアよりも」


 パパは笑いながら、赤ん坊の頰にもう一度触れた。赤ん坊は嫌がるように首を振った。


「ふーん、でも、そんなことはないと思うわよ……猿みたいだし」


 トアは、しげしげと赤ん坊を見下ろした。その後ろから由美が覗きこむ。


「赤ん坊という概念に対してパパは言っているんだろう? 審美的な観点ではなく」


「でも、たしかに、うーん、可愛いかも?」


 レティがパパの腕にしがみつきながら言った。


「あんたはパパが可愛いって言ったから、そう思うだけでしょ。ねえ、サナはどう思う?」


 サナは首をひねり「昌子はどう思う」と質問を投げてきた。


「は? わたしか?」


 昌子は困って、とっさに返答ができなかった。自分たちのような機械が、そのような感情的な話をしてどうするのだろうと思ったが、その一瞬後には素直に「可愛い」と言った。


「この、手が」


 昌子が指さすと、みな一斉に赤ん坊の手を見つめた。


「パンみたいで」


 パパが吹きだした。


「本当だね。なんだか、すごく美味しそうだ」


「たしかにね」


 トアが口角を上げた。つられて由美が微笑み、レティが「おいしそうね」と嬉しそうに飛びはねた。サナは「わかる」と真顔で言った。


 赤ん坊の手がパパの小指をつかんだ。ゆっくりと二つの直線が開き、黒い鏡のような両目で女たちを見上げ、笑った。心の裏側をさすられるような不思議な笑い声に、昌子はなぜか怒りに似た悲しみを覚えた。赤ん坊があまりに幸福そうな反面、自分たちがあまりに不幸に思えたからかもしれない。それほどまでに赤ん坊は温かかった。

 愛と出会った日から、昌子たちの生活も始まったのだ。

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