第20話 鐘

 熱が蔓延る。日差しが無くとも暑さは消えることを知らず。なかなか寝付くことが出来ないまま夜中の音を耳で捉えていた。虫たちが上げる鳴き声は優しく楽しく打ち合うさざれのよう。熱気の舞う空はどのような色をしているのだろう。真っ黒なキャンバスの存在を信じることが出来ないか弱い一人。

 隣で身体を起こす人物がいた。足音を立てないように慎重に歩いているのだろう。揺れは既に見え切っていた。パンを千切る微かな音が葉のざわめきの代わりにユユの耳をくすぐる。

 ドアは開かれた。キールが外へと出てからドアが再び外気との間の壁となるまでの微かな隙間の間に星が飛び回る暗闇空を目にしてユユは心を洗う。

 一人になっても尚寝付けず、風が掠れたハープとなる様を耳で感じていた。静寂は訪れない。随分と愉快な世界が外で繰り広げられている。大自然はきっと毎日祭りの気分なのだ。

 そんな彼らの戯れに誘われてユユはパンを手にしてドアを開く。視界を掠める星々の踊り、虫たちの演奏会、木々の動きと葉が鳴らす拍手。全てが生きていた。生を主張する人々よりも大袈裟で立派で不自然過ぎない姿で息づいていた。

 そのまま踏み出し夜の散歩を始める。誰の言葉も飛んで来る事は無い、誰かの言葉が飛んで来たところで構う事は無い。

 自然の一部になりたくて、しかしながら叶わなくて。

 自然の真の姿に独自の枠組みを創り上げてしまった人間は適わなくて、自然の力には敵わなくて。

 風が髪を揺らす。括った後ろ髪が乱れる様を肌で感じながら、はためく服に宿ったひんやりとした温度を見て取りながら、運ばれて来る湿気に触れながら、歩き続ける。

 パンを齧る。海の近くでは湿気が多くて日持ちが望めないそれは内陸であれば保存食として用いられているという。荒れ地の向こうに知らない国はどれ程あるのだろう。知らない文化は幾程存在するのだろう。

 好奇心がざわめいていた。キールよりもユユの方が余程勉学に向いているようだった。

 それでも生きる事を優先したユユには果たすことの出来ない事。星空の下で想いを文字にして描いた物語は彼女の思い出と見知らぬ世界への想像で溢れている。

 これからどのように時を跨ごうか、隅から隅まで歩いたとして仕事に間に合うだろうか。分からない事が頭の中で大量に湧いてきて眠りの時間から眠りを遠ざけていた。

 歩きながら今日の予定を整理する。太陽が昇れば仕事の始まり、鐘が鳴れば昼食を済ませて引っ越しの準備と馬車への積み込み。

 どれだけでも楽しみはあり、見渡せば溢れている。ありふれているそれはユユの短い人生の中では斬新なものだった。外の世界をあまり知らない、夜という時間にも縁のなかった彼女の身体を包む外気が目新しくて心を躍らせる。

 太陽が世界の明かりとして顔を出したその時、ユユは白く色付いた空から霞のように降りては積もり澱になる赤を見た。

「キールはそろそろ仕事納めかな」

 ユユが見渡しているのは澄み渡る空だけだろうか、太陽から降り注ぐ光は瞳に未来を映し出す。どれだけ当たっているものか、その時に追い付いてみなければ分からない。

「仕事、行こうかな」

 この街での生活、労働の日々は終わりを告げようとしていた。

 辺りにはレンガや石を敷き詰めて作られた建物が生えている。街というのは無機質な森林なのかもしれない。想いながら進み、気が付けばいつもの建物のすぐそばに立っていた。

 カギは開かれていない様子で仕方なく壁に凭れて待ち続ける。小鳥のさえずりが奏でる音色が空に雲の五線譜を引いて音符を気ままに撒いていた。そこから芽を出し育った音楽はあまりにも優しくて、しかしながら心に染み入っても尚残り続けるだけの力強さを持っていた。

 太陽が少しだけ昇ったその時、心を自然のアートに奪われていたユユの瞳の端で影が動き回る。

 次第にそれは大きくなっていき、実体を持つ者だと知覚した。

「ユユ、どうしたのだこんなに早く」

 聞き慣れた声、その持ち主は窯を持つ貴族でありユユの今の仕事の雇い主。

「眠れなかったよ」

 乙女の疲れに擦れた声を耳にして笑顔を浮かべながら妙に膨らんだ新聞紙を手渡した。

「それでも食べて元気を出すんだ」

 新聞紙を開くとそこには乾いたパンが収まっていた。こんがりと焼けた表面には主役とも呼べる茶色だけでなく赤や黒みがかった紫が散りばめられていた。

「フルーツのはちみつ漬けの入ったパンは珍しいか」

 この人生の中で一度たりとも口にしたことはおろか、耳にすらしたことのないそれを目にして驚きに乱された言葉を放り込まずにはいられなかった。

「良いのかな、そんな高価なもの」

 雇い主は己の胸を叩いて得意気に言ってのけるのだった。

「仲間の笑顔の方がより高価さ」

 それから錠を外してドアを開き、ユユを先に通して準備に取り掛かる。裏部屋に積まれた薪を運びながらユユは思い返していた。キールが選んだ二つ目の仕事はこのような木材を調達する仕事ではなかっただろうか。様々な事が複雑に絡まり意識した時にはそこにある。それこそが人間が築き上げた社会。気が付く事で広がる世界がそこにはあった。

 彼が社会の役に立っているという事実を受け止めながら薪と共に抱きしめて、開かれた窯に入れて火を起こす。黄鉄鉱にパイライトを叩きつけて散らした火花が薪へと移り、そのまま木材を食らう炎へと成長を遂げる。

「知ってるか、マッチという物もあるのだが」

 箱の側面を擦るだけで軽々と火を起こす道具。しかしながらこの雇い主はその科学の先端技術を扱わなかった。

「うちでも導入しようと検討していたのだがね」

 そう告げる顔には続きが、否定的な話が眠っている事をユユはしっかりと見て取った。

「黄燐の自然発火による火災の報告が相次いでな」

 即刻中止という流れだった。一つの企業、働くための環境はその存在そのものが財産であり、失ってしまえば働く側だけでなく日頃から利用している側まで、幾つもの人々の想いを枯らしてしまう事となる。可能な限り大きなリスクを背負いたくないといった見解だった。

「彼氏は学校に行くのだったよな」

「そう」

 雇い主は朗らかな笑顔を空に浮かべ、ユユが進む未来を想像しながら描いていた。

「彼が安全なマッチか気楽な火起こし道具でも作ってくれると嬉しいな」

 期待が宿った瞳は重々しくのしかかる。勉強するのは飽くまでもキール。それにもかかわらずユユにまで責任がかけられているように思えてしまう。

「都会では電気が普及しているそう。きっとこれから技術は大きく進歩する」

 その架け橋となる事が出来るかどうか、キールが背負うものは大きくてキールが踏み出すべき一歩は小さくありながらも大きく感じられた。途方も無く遠く伸びる道をあっという間に駆け抜けてしまう彼の姿が目に映っていた。

「期待しているぞ」

 それからユユの最後の仕事は始まった。別れの時はすぐ傍にあり、次の出会いもすぐそこに、気が付けば変わり果てようとしている関係を憂える暇も無く進んで行く。

 次から次へとやって来る客の姿もこの時間が終わってしまえば見納め。忙しくありながらも苦しみは少なく、利用者が少ないと言われる日でも退屈しない仕事は不満を生み出すこともあったものの、充実感が大きくてよく目立つ。

 そんな仕事が終わった後のユユが抱くさよならの言葉は仕舞い込んだまま、代わりに別の言葉を選び抜いた。

「ありがとう、またいつか会えるように」

 周りで帰りの支度を済ませる彼女たちから手渡された言葉は温かなものだった。



 鐘の音は仕事の終わりを告げる。この街での最後の食事はどのようなものにしようかと悩みつつ一旦泉へと向かう。体を洗うべく水浴びをする女たちを見つめながら考えて。流れゆく水の如き未来はどのような結末を迎えるのだろう。

 未来を少しでも進めるために思い返す。過去へと立ち返り、未来に生きようとする。今日はキールからの指定も無く、好きなように食事を済ませていいと言いつけられていた。キールはきっと最後の日だと言い訳を付けて贅沢な昼食を取っていることだろう。ユユが気を抜けばすぐに至らない方向へと突き進んでしまう男なのだから。

 信用など一片たりとも残されていないあの男の事など忘れて食堂へと向かい、魚を頼む。バジルとコショウを振りかけて窯焼きにした魚、こんがりと焼けて表面に黒々とした炭を乗せた魚を味わい、口いっぱいに広がるコショウの刺激とバジルの香りに身を包みながら心を調理して去った。

 続いて満足という感情一つに足の動きを任せていつも通りの道を歩く。途中で遭遇する高級アパートは相変わらず狭そうで無機質。機能性の為に遊びやゆとりを排除したそれは物足りなくて、住むというよりは労働外の時間に押し込むという言葉を当てはめた方が適切に思える程。就労と収納。人は文明を築き上げる毎に利便性と機能性だけを残して結果として仲間であるはずの人間までを物に近しい扱いへと転換して行く。これ以上の発展は好ましくない結果をもたらすこともあるのではないだろうかと不安を覚えながら歩みを進めてアパートを視界から追い出す。

 続いて見えて来た家の群れに安心感を覚えながら今日でさようならを告げる家の姿を見つめる。馬車が停まっており、いつもと異なる景観を差し出している。

 キールが御者とともに荷物を馬車に積んでいる様を見て言葉を掛ける。

「キール、昼食は」

 荷物を積み込む手を一旦止めてユユの目を見て笑う。

「そんなもの無いな」

 どうやら暇がなかったようで、夜が明ける瀬戸際の刻に食べたパンが最後の食事だという。

「ごめん、じゃあこれ食べて」

 パンを差し出すものの、キールは両腕の肘から先を力なく広げて首をゆっくりと左右に振る。

「仕事が終わるまでいらない」

 それだけの言葉で会話を切ろうとするキールに向けている目をそのまま緩める。

「休憩だと思って」

「食べてすぐ動いたら吐き気がするし休憩してる暇も無いからな」

 引っ越しの準備だけはユユには任せられないという。恐らく自分の都合で振り回しているからだろう。

「ユユは街の見納めに見回ってみればいい」

 多大な迷惑をかけてきた自覚くらいはあるのか、その目が歪む。苔むした岩を思わせる緑に薄っすらと色付いた灰色の髪の飾りにちょうど良い色合いをしていた。

「出発前の駅に集合だ」

 そのまま荷物の積み込みの続きに取り掛かるとユユの入る隙間など無くなりそのまま去ってしまう。

 残された御者はキールと顔を合わせ、己だけはと保ち続けていた沈黙を断ち切った。

「人の都合に介入するなとは言うがどうにもな」

「どうかしたのか」

「これで良かったものか」

 御者の質問に対しては何も答える事がない。その沈黙は肯定として固められ、御者の口からは会話を繋ぐことすら許されなかった。

 重みが直接腰を殴るように掛かって来る。御者は一苦労も二苦労も表情でさらけ出しては訊ねる。

「汽車は使わないのか」

「あれは荷下ろしやそこからの運搬が大変なんだ」

 しっかりと考えた上での発言なのか過去につかまされた入れ知恵をただ声にしているだけなのか。御者にはキールが聡明な人物には到底思えない。その目に映る顔が答えを出していた。

「精々研究の方面で向いている事を探せばいい」

「丁寧な一言どうも」

 互いに仲間だとさえ思っていないようにしか取れない発言。飛び交う感情は乾いたもので互いに好むものではないにもかかわらず今の姿勢を崩すには至らない。

「しかしあの彼女といつ別れるんだ」

 始めから長く続く関係ではないと決めてかかる御者の事を気に入ろうとするほどキールの精神は未熟ではなかった。

「死が別れを運んで来るかもな」

 しかしながら成熟を感じさせる精神性でもなく、強い口調が飛び出してしまっていた。反省を込めることも無いままただただ張り詰めた空気の中で荷物を積み込み続けていた。



 ようやく全てを終えたと思ったその時には太陽も顔を隠してしまおうと空から海へと沈み始めていた。漂う青の形を変えて気分転換だろうか。

 御者は馬に乗り、キールに一言も告げることなく馬車を走らせ始める。

 それからキールは昼に交わした言葉の通りに駅へと向かう。結局のところ今日はあまりにも長い時間食料を口にしていない。

 駅に着くとそこに立っていたユユが膨らんだ新聞紙を差し出した。

「さすがに食べなきゃ」

 開くと共に目に入るそれは小麦を練って作り上げた生地に野菜やバジルを挟み込んだ簡単なもの。

「ありがとう」

 しかしながらまだ口へと放り込む真似はせず、汽車を待ち続ける。

 太陽が空を赤く塗り、鐘はもうじきかと言った時間の中で汽車は訪れた。蒸気を纏った黒い体と相変わらずの重い動き。

 乗り込み席を確保してようやくキールは昼食の代わりを噛み締める。

 ユユが頼んだ二つのメロンジュースは紙コップに注がれており、やはり飾りっ気が見られない。

 汽車が走り始めると共にジュースをキールと共に口へと流す。そんな二人に別れの挨拶を告げるように夕刻の鐘は響き渡った。

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休暇は労働で 焼魚圭 @salmon777

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