第19話 休日の釣り
暗闇の中、いつもの通りの動きで歩き出す。慣れてしまったもので目の意識を必要としないまま歩き出す。床を踏む感覚、ドアに触れた時に滑らかとは言い難い木の取っ手の手触りが伝わりしっかりとした硬い床を踏む感覚は更に硬い石の地面を踏む感覚へと顔を変える。
ドアの向こうから吹き込んでくる風の歓迎を受けて外へと身を放る。ユユを起こさないようにと入念な足取りと迅速に風を防ぐ事を意識しながらドアを閉じて訪れた一人きり。先程までの二人きりは何処へと去ってしまったのだろう。
向かうべき場所へと一つ、また一つ。足音を落として空気を割る。整備された静寂は乱れて炎一つ無いこの世の中でのキールの動きは星ですら見抜くことが出来ない。幾度となく人の重みを乗せてきた石と今まさに人の重みを乗せている革が叩き合い、世界に心地よく響いて。
キールの耳は音の行く末を追いかける事が出来ず、その足は新たな音を生みながら進むものの、どの音にも追いつくことが出来ない。
世間の流れに置いて行かれるキール。本来ならば既に働き続けて行かなければならない年齢、この国の学校が取った制度はまさに延々と世間から後れを取ってしまうもの。音を追うことの出来ない今のキールの姿にそっくりだった。
「独り言も聴衆一人いないんだ」
孤独のステージ、姿すら許さない闇模様。いつもの通りに歩いているだけのはずが異なる心情を呼び起こしてしまうのは何故だろう。入学という変化が待ち受けているキール、そんな自分自身の無性に焦っているだけという近しい事すら見えていなかった。そんな彼の声は誰に向かって放っても届かない事だろう。
街を出て、一日たりとも欠かさず身を置いている海へとたどり着く。待ち受けていた男が、雇い主が松明の輝きを受けて潤いと煌めきを形にしている瞳を向けていた。
「もうすぐお別れか」
学校に通う人物が食料の調達という分野に再び相見えるという映像が浮かばない。曖昧な未来の空の上の話でもそれだけはくっきりと浮かんだ。
「もっと一緒にいたかった」
キールはそう口にするものの、男は首を左右に振り、秘めていた言葉を続けて口にする。
「人生は航海のようなもの」
「今までずっと感じて来てたさ」
キールは分かっていた。これまでの出会いと別れと分かってしまった未来と分からないままの過去。全てが今のキールを作っているという事。彼の見たものを否定してはならないという事。
「二度と会えないという事は煌めく海の先に行ってしまうという事だ」
雇い主は初めから分かっていたのだろう。特に止める事も無ければ働く時の指導は優しく。
「短い間だったがとても良い仲間だった」
彼にとってキールは一人の人間として大切だという考えだったのだと今更になって気付かされた。
キールは昂る気持ちを、震える身体を闇に隠し、誤魔化すように釣り竿を握って海と向かい合う。勢いをつけて振って針を飛ばした先は見通すことの出来ない闇の中。呼吸を整えて待ち続ける事。時間の感覚が失われている。どれだけの経過なのか上手く計ることが出来ない。心の中で打ち続ける拍の速度を正しく把握できているかそれすら分からない。
海の波が静かに歌う。柔らかなメロディーを奏でる中で調を乱す音が混ざり、キールの手にまで感触が伝わって来る。
それからすぐの事だった。引き揚げた魚が水を撒きながらキールの足元に落ち、砂を打ち、暴れ回る。その姿を目にしてキールは口元を緩めながら水を張った樽桶に放り込む。
太陽の輝きが闇というガラスを射る。空を炒る。雇い主はそんな光景を目にして声にせずにはいられなかった。
「珍しい、空が燃えている」
朝焼けという現象。空を焼く太陽が朝の訪れを示していた。キールの目にもしっかりと焼き付いた光景。瞬きというシャッターを切り、思い出というアルバムの中に挟み込んだ刹那の光景。美しさは素直に受け入れる事が望ましかった。
「とても赤いな」
雇い主の言葉に頷く。明るくなり、雇い主の目に映るようになった収穫量はしっかりと笑顔を与えてくれるだけの実態を持っていた。
「良い休日になりそうだ」
根拠の一つもなく、しかしながらどこか説得力のある言葉に同調する以外の選択肢を見付けられない。
しばらく流れる沈黙を聞き届けて雇い主はキールの顔を再び見つめ、しっかりと形作られた笑顔を咲かせる。
「これからもう少しだがよろしくな」
「もちろん、しっかりと働く」
誓いは交わされた。結ばれた言葉という魔法はこの世で類まれなる優しさと強さを兼ね備えた美しい感情のアート。
やがてキールがもう一尾釣れた事を確認して雇い主は全員に引き上げるよう声を掛ける。キールが働いていた木材の仕事に従事する仲間も同じように言葉を用いて残されたわずかな時間を大切に想っていた。
いつも通りに市場に売って賃金と休日まで働く彼らへの褒美としての魚の缶詰を手渡す。銅貨を受け取るという光景を目にするのはあと何度か。想像するだけで再び震えが訪れた。
朝の陽気はやけに温かで柔らか。いつも通りに安らぎをもたらしながらユユを迎える。何度でも昇っては降りる太陽の姿がいつ見ても眩しくて。煌びやかな笑顔の裏に隠した表情が見えなくて。
決まりきった徘徊に太陽も飽き飽きしているのではないだろうかと気に掛けても無駄でしかなくて。
明るい景色は音も無くざわめいてユユの足音を掻き消してしまう。
いつもの仕事を簡単に終わらせるだけの元気はあり、窯の仕事が終わった後に控えているキールとの釣りもしっかりとこなしていけそうな気がしていた。そう、気がしていた。
職場に着いてすぐに始まる窯の調子や温度の管理の中でパンは相変わらずしっかりと焼けてくれる。窯の外側にまで伝わって来る熱。それが揺らす空気は透明な層を幾つも作り上げる。
「今日も頑張って行こう」
仕事仲間の声掛けがユユの気合いを更に高める。太陽の宝石が輝くさざれ水晶の空にやる気の熱は昇り、巡り回るように広がりながらどこかへと飛んで行ってしまう。しかしながら彼女の中ではやる気が溢れて仕方がないのだ。
結局時間が二人の想いの壁を取り払う事などなく、ただ伝え合った上で溝の正確な深さを知っただけの事に過ぎない。
それを認めた上で今日の鐘の告げる昼以降は一緒にいようと誓ったものだ。何一つ解決しなかったにもかかわらずユユの目前に広がる世界は遥か遠くまで澄み切った晴れ空。
今日の仕事の一挙一動に力がこもっていていつも以上の疲れを知らず分からず見えず聞こえないままに呼び込んで溜め込んで。派手な疲れでさえ分からないのは気分の高揚から来るものか疲れを自覚する暇さえ与えていないためか。
客の相手を続けて何人も通しては銅貨を受け取り続ける。その全てがユユの取り分になってしまえばいいのに、ふと過った欲望は抱いて当然のもの。今の社会を生きるために必要なものがそこにあるのだ。ユユの家計でいらないと言ってしまうのは嘘に他ならない。
そんないつもに増して湧いて来る情を見ないふり。流れる時間と共に昇る太陽がユユの肌に彩りを与えてくれる。
鐘は鳴り、ユユ達の仕事の終了が、飲食店の仕事の始まりが街中に伝えられる。今日はキールには迎えに来ないように伝えていた。今日も一緒に歩く姿を見られてしまえば仲間というレッテルを掲げた追い回しが訪れること間違い無し。そんなもしもの話を想うだけで気が重たくなってしまう。
太陽の光を受けて伸びる影を地に焼きつけながら一人で歩き、簡単な昼食を済ませて街の裏の泉で身体を洗ってあの場所へと向かって行く。
身体と共に清められた心は空の青を青と思うことなく、大きく広がる空だけが持つ唯一の色だと思っていた。日々変わる色。必ず同じものを見せてくれるとは限らないそれがたまらなく好きで、踏み出す一歩が弾んでいた。
やがて海へとたどり着き、ユユはようやく自覚を持った。
「少し、眠たい」
今日の働きぶりはいつもと比べて無駄な情の動きや気合いの入った声の振り絞りがあった。それだけで留まることなく遂にはこの場所へと向かう時にまで弾んでしまっていた。
明るい空、太陽のダイヤ、水晶の空に砕け散った歪な光の粉を吸いながら木に寄りかかってしゃがみ込む。頭の中で揺れる。考える事すらままならず、うつらうつらと下がる意識。失おうとしていても明るみの中では抵抗を持ってしまって上手く意識を落とすことなく浮いたような、雲に乗ったような心地に身を任せながら気が付けばこの世から別の場所に意識を持ち去ってしまう。
暗闇から解き放たれた。身体を揺らす感触に従い心地よく揺れながらゆっくりと目を開けたそこ、目を覗き込むように近付けていた顔は彼氏のものだった。
「ユユ、起きて」
目を擦り、疲れの揺れの余韻に揺られながらキールに身を預ける。
「こんなところで寝たら怖い男たちに捕まるぞ」
心配は本気のものだろうか、ユユにとっては冗談の一つにしか思えなかった。
「私の顔見てもそう思うかな」
目を覗き込み、少し離れてユユの顔全体を見つめて生まれた沈黙の末に顔を逸らして答えは弾き出された。
「充分カワイイしそれに」
「それに、何かな」
ユユの細長い指を包み込む温かな手が心強かった。
「あいつらは見た目関係ないしな」
男だからこそわかる世界なのだろうか。本能的な欲望に飢えた人という名の危険な獣はなりふり構わず女をあらゆる意味で襲うというのだろうか。
「金が目的かも知れない」
「私貧乏だよ」
ユユの言葉の流れを追うように首を横に振り、ユユの手を更にしっかりと握り締めた。
「誰がどれだけ金を持ってるか分からないし貧民だからなあいつら」
酒に溺れて金を溶かして足りない分は奪い取ってしまおうという獰猛な男たちの恐ろしさを語るキールの目には冗談の一つも宿っていなかった。考えの余白を全て一色の濃い瞳で塗り潰していた。
「無事で良かった」
心から出てきた言葉は夏の暑さには到底勝てない程度の温度で、しかしながら気温の熱よりもよく伝わる温もりに満ちていた。
立ち上がり、キールが用意した釣り竿を手に海へと向かう。周りを歩く人々の笑顔があまりにも眩しい。羨みながらも同じ色に染まる気は起きなくて、しかしながらキールの笑顔に合わせる事で結局は周囲に溶け込んでしまっていた。
「人に当てないようにな」
今から振り回すものは長い棒状の物。後ろに気を配りながら竿を振り、糸を飛ばす。刺さってしまったら、釣り針が人に引っ掛かってしまったら。想像するだけでも鳥肌が立ってしまう。
餌は飛ぶように空を舞い、自由気ままな動きを見せた末に海へと身を沈め、二人の釣りの時間は無事に幕を開けた。
それからしばらくは人々の喧騒を聞きながら待つ。キールが日頃の経験で身につけた感覚からして騒がしければ釣果は見込めない。実際今こうしている間にも夜釣りとの差が目に見えている。明らかに長い沈黙の時間。それを打ち破り続ける群衆に対して怒りの声を向けたくなってしまうのだろう。キールの手は熱に震えていた。しかしながら理不尽な行為は異常者の認定をいただいてしまうだけ。
「我慢しようね」
ユユがわざわざ掛けてしまった言葉が更に彼の苛立ちを増しているようで身を震わせながら海を睨み付けていた。
波の揺れは彼の激情を映し出す劇場か。透き通る空は彼女の感性を完成へと至らしめるか。
それから太陽が少し降り、更に続けて下りて空に澱を残して。ようやくユユの竿が震えを見せ始めた。
「来た」
キールの竿に魚が食いつかないのは握り締める感情が動きとなっているためだろうか。
隣で不満を顔に出している彼に構うことなく竿を引き、巻いていく。
海という幕の裏にてどのように生きているのだろう。張り巡らされた想像を引っ込めて糸を手繰り寄せ、魚が上げる飛沫を瞳の中に散らすように輝きを宿らせる。
「やった」
釣り上がった魚は勢いよく尻尾を地面に打ち付けて跳ね続ける。針を外そうとユユが寄り始めたその時の事だった。空という自由気ままな空間を裂く勢いで魚に迫り来る白を目にした。その影の出す速度はユユの瞳の中で震えながら進むほど。
地に足を着き、尖った嘴を開く姿は人々が鳥と呼ぶ生き物だった。魚を狙って現れるハンター、横取り漁の名手はそのまま魚を咥えようとするものの、ユユは砂地を勢いよく踏みながら駆け寄る。
途端に鳥は逃げ出し釣果が事なきを得た事を、ユユは難を逃れた事を改めて確かめて大きなため息をつきながら魚を樽桶に入れて身の近くに置いて再び釣りを始めた。
「危なかったな」
後にキールは釣りの雇い主から教えてもらっていたという話の封を解くと共にユユの機嫌を損ねたのはこの場に居座る群衆には分かる事のない話。
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