第18話 休日の前日

 今日も一日各々が二つの労働を終わらせて飲みの場に足を運んでいた。

 キールは毎日暗い内から働いて夕飯を食べた後にはすぐに寝て次の日もまた明るみに身を浸す前に仕事を始めるという生活を送っていた。

「材木の方は出発前日まで」

 雇い主へと告げた事を確認しながら告げているキールは身を震わせていつまでも落ち着かない。新しい生活を思い描いては疼く気持ちを抑えることが出来ないようで暗闇を背景にしてその動きは目にうるさい。

「出発の日まで釣りは続ける」

 ユユに告げられた通り、スケジュール管理は全て任せてしまっている。学校に通い始めた後には学問のスケジュールは自らの頭で整理整頓しなければならないにもかかわらず、その練習を怠っていた。

「そうだね、私も午後の被服の仕事は前日で窯は当日まで」

 予定では午後から荷物の運び出し、予約済みの馬車に乗せて既に申し込みが済んでいる格安の住居へと運び二人は夕刻前に列車に乗り込む。そのような手はずになっていた。

「限界まで働くよな」

 キールの表情は不満に覆われていた。言葉にするまでも無く伝わってしまう不満。しかしながら堕落した意思は許されない。

「当然、学校に行ったら甘えも効かないし聞かないよ」

 ユユの発言を拾い上げては納得する他なく黙り込んでいた。

 差し込む茜の輝きは明るくて穏やかでありながらもどこか寂しく不穏な雰囲気を纏っている。ユユが抱く将来への不安を煽るように、キールの不満に同調するように。

「キールは甘いよ」

 運ばれてきた肉の燻製とキュウリのサラダを見つめ、キールはため息をついた。

「ユユは何事も深く考えすぎだ」

「深くなんてないよ」

 当然の事のはず、それですらこの男にとっては重い思考なのだろうか。子どものままであって欲しくない部分までもが幼いまま、そんな彼に辟易することもしばしばあった。

 焼き魚のコショウ仕立てとオレンジの果汁で割ったウイスキーが運ばれて来る。ちょっとした息抜きのようなもの。許された緩いひと時を堪能するユユと重みを頭に抱えるキール。夕日の陰影は感情の壁をはっきりと映し出す空の鏡。夕空は貴族でなくても許される絵画の所持。心に残るそれを奪い取る事は誰にも許されなかった。

「魚美味しい」

 ユユの呑気な声はしっかりと耳に届いていた。夕焼けの酒場では音を掻き消す事は出来ない。

「キールが釣った魚かもね」

 突然の事だった。キールの目を覗き込み、顔を微かに傾けながら丸みを帯びた表情を浮かべながら口を動かした。

「ありがとう」

 街に暗闇が覆い被さり始める。人々は目に見える時間の進行に煽られて歩き続ける。誰も彼もが慌て焦る毎日。心の余裕は果たしていつの時代に置いて来てしまったのだろう。ユユですらこの街に入る際に子どもの頃の自分は置いて来てしまった。キールや一部の独身のまま生涯を終えようと志した若者たちのみが今でも若々しさを保ち続けていられるという。

 しかしそんな中に一つの大きな喧騒が見られた。三人の男たちが威勢よく言葉を飛ばし合う。声の圧と刺激は、立ち振る舞いが放つ雰囲気は、濃くて不快な争いの気配を持っていた。

「喧嘩してるのか、うるさいな」

 静かに呟くキールだったが争いを止めに行く事などなく酒を飲み続ける。テーブルで向かい合う彼の目には希望の星がきらめいている。今は良くとも歳を重ねて行った末に変化が見られなければ絶望的だった。歳不相応の輝きは見栄えが悪いだけではなく、いつまで経っても現実を見ない男の悪しき習慣が抜けていないという事。

「キールはちゃんと大人になってよ」

 ユユの言葉が一瞬の沈黙を生んでいた。キールの表情は動きを知らないまま、星の灯火は相も変わらず揺れ続ける。

「俺はもう大人だ」

 意味の取り違え、考えの溝が決して埋まらない距離を生んでいる。言わなければ分からない事もあるのは間違いない、ユユの理解はそれすらつかめない程に浅いものではない。しかしながら期待を裏切る彼に対してまた一つ、一抹の失望を抱いてしまっていた。

「本当の大人ってどういう事か分かってるかな」

 訊ねるもののキールが開いた口から出て来る音の意味はどれもが年齢、肉体における話とそれによって許される行為だけだった。

 きっと学問の深みへと手を突っ込み探る彼には必要のない事、下らない事の一つにしか思えないのだろう。ユユは街に入ってから責任や自立する事、現実へと向けるべき単純な事しか求めていない。それが耳を通り抜けて意識として根付く事は無い。この一か月以上の時間がそれを証明していた。

「キールは私の事、愛してるのかな」

 右手の樽ジョッキの中のものを一気に飲み干す。頭の中に紛れて渦巻くアルコールに頭を揺らしながらユユに気怠さ全開の視線を向けながら唇を力なく横に引く。

「当然だ」

 その言葉にどれだけの本音を感じられただろう。薄っぺらなものにしか見えない。酒がなければ想いを吐き出すことが出来ないのか、酔っているのは酒ではなく自分に対してではないのだろうか。想いの影はどこまでも深まって行く。抜け出さなければならない、きっと彼なりに本当に愛してくれている。分かっていても止まらない苦しみが口を突いて出た。

「本当に愛してるなら一緒に生きて行けるよう工夫してよ」

 食事の味わいは劣悪なものになってしまうだろう。感情というスパイスはあまりにも効き目が強すぎる。

「節約とか頑張ってくれてないよね」

「それは」

 否定の言葉など出すことが出来ない。嘘にしかならない言葉に力など宿らないから。

「これから都会に行くんだよ、生きるだけでもっとお金がかかるの」

 間違いではない。確かにユユの言う通りで、現実は甘くない。現実離れした希望など見るだけ無駄なもの。

「これじゃ私がいなかったら生きて行けないよ」

 キールは言葉をひねり出すことすら出来ず、ただ見つめ続けるだけ。酔いすら醒めてしまう固い空気は居心地の悪さを増長させてしまう。

 ただ黙り続けるだけのキールに対して追加の言葉を構え、勢いに任せて刺す。

「黙ってないで」

「ごめん」

 今のユユには何を言っても機嫌を損ねるだけ。ただ静かに聞き続けるだけの事だった。

「分かったらそれでいいよ」

 これからもう少しの間、キールの贅沢は許されないのだろう。ユユの方に少し多めの金を支払うくらい、彼女の出費を追い越さないようにする事だけが今のキールに出来る事。

 空はすっかりと眠りに就いていた。夜風がテーブルを冷やしている。酒を飲み、それからどのように過ごすか語り合う事で時を消化していく。仕事の後に訪れた二人きりの時間の中で真剣そのもの、安らぎのはずの時間が圧倒的に苦しいものとなっていた。キールにとっては働いている事と変わりのない事、釣りの仕事の方が楽と言って差し支えのない状態だった。

 続いて全てを流し込むように最後の一杯の水を頼む。二人の樽ジョッキに注ぎ分け、一気に飲み干し会計を頼む。

 支払いを済ませて夜の空気の冷たさに冷え切ったポシェットを、風に吹かれるように銅貨が出て行ったそれを見つめ、キールは大きなため息をついた。

「普通の飲みでもこのザマだ」

「だから頑張らなきゃいけないんだよ」

 酔いはある程度冷気の壁に吸われて、星々の輝きの一つ一つが天から覗く目玉のように思えて来る。中途半端に残された酔いがあまりにも心地悪い。目が回るよう、立っているだけで気分を悪くしてしまいそうだった。

 人々が歩き続ける通りを見ているだけで気が滅入ってしまう。何故だか遠い所にいるように錯覚してしまう。

 一歩踏み込む。人々の流れは変わることなく、ユユは横断を試みるものの人々の流れは許してくれそうになかった。誰もが同じ方向へと流される。時間の流れのよう、決められた運命の姿がそこにあった。

「向こうを少し歩きたいんだけど」

 ユユの意思を尊重すべく一度頷いて、その手を伸ばす。

「どうしよう」

 そんな声は人々の雑踏に潰されてしまいそう。不揃いな足音が刻む旋律は誰のものでもなく、人類の何も際立たせてくれない。

「行くか」

 キールの手がユユの柔らかな手を握り締める。人の波へと横から掻き分けるように入り込み、大股で歩き続ける。松明の強い輝きの余韻によって明るみになる表情はどれもが険しく異物を見る目。しかしながら移動の自由は彼らの手では奪うことが出来ない。彼らの足では横薙ぎの直進を止める事など叶わない。

 松明の上で踊る炎がより一層激しくなる。風の気まぐれに乗って様々な姿を取り、生きているよう。キールとユユの動きはまさに炎の踊りのよう。感情に揺られた運命という流れの中に息づく踊り手。人の波を抜けて更に進む。暗がりはしっかりと明るみを際立たせる影の色を染み込ませて景色を染めている。

「それで、何か見たいものがあるのか」

「ちょっと、気持ちが舞ってて」

 日頃は酒など口にしない二人にとっては街の大酒飲みたちのように数軒回って時と共に己を潰すことや次の日にまで記憶を持ち越せないような飲み方は出来なかった。

「夜の散歩、景色が綺麗だと思うよ」

 キールは静かに首を軽く傾げて無言をその場で提供する。ユユの感性を理解する事などできないのか。

「夜は星しか見えない」

「星が見えるから綺麗なんだ」

 切り出した石を敷き詰めて作られた地面を踏み、ユユの手は冷たさを宿してキールの心を落ち着かせる。

「結局俺はユユが好きなんだな」

 今更のように確かめる。自分の中で燃える感情さえ一か月以上も共に過ごさなければ分からないものかとユユの表情が語っていた。

「そうじゃなくて、何度もそう思い返してるんだ」

 好きだという想いは関係の中で時折立ち去ってしまうものの何度でも巡って帰って来ては眩い光となる。その姿は抱え込む人物の考え方によって星のようにも太陽のようにも変わり果てるものだから不思議なものだ。ユユには考えられない不器用な想いだった。

「愛してるから色々言ってるんだけどね」

 その言葉の本当の色彩を知るのは遠い未来か果てにすら訪れないか。いずれにせよ今この空気を味わう上では邪魔なものでしかなかった。

 思考に仕切りを入れて大きく息を吸う。風によって運ばれて来る微かな潮の香りに身を浸し、すっかりと暗闇の中に姿を消してしまった鐘の塔の姿をあるべき場所にて思い描く。

 ユユの目には映らないそれはキールには見えているのだろうか。

「夜の塔って怖いよな」

 子どもを怯えさせる恐怖の話は大人になっても通用するそうで、キールの想像は膨らみ続けるばかり。

「誰かが落ちて来るかも知れない」

「検査の人なら日没後には来ないよ」

 瞳一杯に広がる星空から男が降って来るという話。この世の者ではない顔と生きた心地のしない身体が突然目の前に落ちてくるという恐怖を与える事でこの辺りでは有名な話は夜に塔の整備をしていた男がバランスを崩して落ちてくるというオチで締めくくられている。

 そのような事がこの世に起こるものだろうか、整備ならば明るい内にすればいいのではないだろうか。そのような感想を抱いていたユユだったものの、どうやら暗い内に蝋を燃やして頼りない灯りで視界を作って作業をするという業者は実在のものだったよう。

「今はそうだな」

 キールも分かっていた。しかしながら別の想像を掻き立て悪戯に騒ぐことがやめられないのだ。

「別の理由なんかがあるかも知れない」

「例えば何かな」

 ユユの疑問を投じる声は空気を裂いて雰囲気を台無しにしてしまう。安らぎを与える質感を持った女の声は怪談の盛り上げには向いていないようだ。

 それから沈黙が流れる。ゆったりとした拍が一つ、二つ、三つ四つ。空白の時間が延びて不安がゆっくりと育って行った。

 そんな中で急にキールは口を開いて静かに音を這わせる。

「殺人とか」

 考えてそれなのか、静寂は恐怖を呼び起こすための演出だったのか、ユユには分かり得なかった。

「物騒だね」

 それから海の方へと歩みを進めていく。街を出てしまえば正真正銘の暗闇。照明となりうるものは何一つとして存在せず、安全の証明すら困難な場所。

 揺れているはずの海を、星のきらめきが沈む黒い水を眺めてユユは立ち尽くす。

「怖いよな、俺は慣れてるが」

 キールは毎日通っている。数時間後には再びこの海と顔を合わせるのだろう。

「どうだ、俺が見てる景色は」

 キールの質問は内で響き、何度も跳ね返る。静かだった心を優しく掻き立てユユの口から穏やかな声を引き出した。

「綺麗。慣れたらもっといい景色かも」

 誰もいない、なにも見えない。そんな地上に宿った独特な美は今も揺らめき続けている。

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