第17話 足りないもの
汽車が元の生活拠点の街へと運んだ二人は暗闇の中を歩き出した。関所の前で待ち構えていた二人の男は剣をつかみ構えを取りながら訊ねる。
「通行許可証を見せたまえ」
キールは頷きながら二つの木の札を取り出して差し出した。男たちはしばらく文字を見つめ、今すぐにでも剣を引き抜こうと当てていた手を放して背筋を伸ばす。
「通ってよし」
背負っていた重たい気配すら消えてしまったように表情の緩みは現れキールとユユにも移って行く。夜遅くまで外出していた男女はしっかりと気を抜いて札を関所の壁に掛ける。
「急にどうしたのかな」
ユユの疑問の夜闇を照らす答えなど見つける事が出来なかった。
夜の闇ははっきりと続いている。失う事を知らないまま広がり続けている。きっとこれからも同じように続いていくのだろう。
キールはユユを家まで送った後、休むことなく海へと向かっていた。星を釣り上げたい、暗闇に空いた白い穴のような一等星でなくともよい。ユユという六等星、キールもまた六等星。周りから見れば目立つことも無ければいないという事も無いただの恋人同士で過ごす二人。しかしキールにとってはユユという女は一等星の輝きを持っていた。この一か月と半分の生活の中で幾つもの不満や嫌味を飛ばされて来たものの、好きだという思いをどうしても否定できない。
街を照らす松明たちはその役目を休んでいる。微かな煙を上げて焦げの香りが空気と交わる。磨かれ削れた石の地面を踏む度に音は上がり、細かい音の連続として拾い上げる敏感な耳に軽く触れる髪が風に揺れてくすぐったい。視界が役に立たない分他を意識してしまう。
海へとたどり着くと共に木を背もたれにしてしゃがみ込み、眠りに就いた。熱に覆われた季節の中、ブランケットや上等な寝具は必要ない。藁を敷く必要すら感じずに眠り続ける。浅い眠りはどれだけの時間を星へと運んでくれるだろう。
肩に触れる感触が訪れた。静かだった想いが突然騒ぐように現実に灯る。
動きを確認したのだろう。聞き覚えのある声が耳へ届く。
「目覚めたな、仕事だ」
雇い主の宣言により、これから夜が明けるまでの時間は労働に消費されるのだ。キールは釣り竿を構えながら昨日の甘美なる出来事の数々を思い返していた。
「ユユ」
キールの中に浮かび上がるそれはこの夜空が広がり始める直前までの出来事で、思い出すだけで夜空が晴れてくれそうで。
「しっかり働けよ」
固まっていたキールの事などお見通し。風の靡く音や空気の肌触りだろう。釣り竿を振って釣り針を飛ばす感覚が昨日の思い出を蘇らせる。
そんな事の一つがため息を生んで一滴、更に一滴。夜の水面に零れ落ちた。
「何か足りないんだよな」
その正体は既に把握している。仕事の中では言葉にしないだけ。呟いてしまえばそれは心という魔法となって恋しさを呼んでしまうから。とてもではないが耐えられる気がしなかった。
竿が揺れる。感触一つで海の中の出来事の一端を知った気になりながらキールは竿を引く。暗闇の中で頼りになるものは感覚と勘。しっかりと引き寄せて行く毎に音が大きくなっていき、やがて塩水の飛沫が顔に触れる。
砂浜へと持ち込まれた生き物は全身をくねらせながら砂浜を跳ね回っている。キールは釣り針を外して樽桶へと放り込んで次の釣りの準備に取り掛かる。
昨日の昼の歓喜や生きた感情が見られない。充たされない。仕事とはいえ好きな事をしているはずなのに物足りなく感じてしまう。竿を振って針を飛ばす動作も魚が食いつくまで待ち続ける静寂も、獲物が掛かり引き揚げるまでの緊張が付き纏うはずの瞬間も、全てが物足りない。感情に空白が出来てしまっていた。
釣りを続け、空は当然のように太陽の輝きを浴びて青に染まる。暗くとも暑い事に変わりはなく、汗と飛沫に濡れた肌と重みを増した服に不快感を覚えつつ空の宝石を見上げた。
「もう少しで終わりだ」
雇い主の言葉を導にして深く息を吸う。潮の香りを肺に満たしてもう一度釣り竿を振った。
太陽が内側へとこもる意識にノックする。窓の隙間から差し込まれる細い光の群れがユユを現実への案内役。
身体を起こして目を擦り、網膜に焼き付いた昨日の出来事を思い返していた。言いたいことは幾つかあったものの楽しかったという言葉の華を束にして意識の内側に挿して。
目を擦っていた指が今なぞっているのは微かに瞼にかかる髪。シュシュを手に取り後ろで括り朝食のパンを口にして。
ドアを開けた途端に浴びる朝日の眩しさに目を細めながら外へと出る。細くてきれいな指が唇に触れ、昨日の思い出の味わいを思い出していた。あまりにも鮮明な昨日。夜空に乾杯して飲み干したジュースは容器の質の悪さを差し引いても格別なものだった。
木々にかかる日差しは風に揺れ、ユユが手に持っているパンの材料もまた風を受けてどこか変わったような心地を覚えた。
「発酵させたパン、美味しかったな」
つい現れてしまう呟きは本音を風に乗せて日差しの下に晒しだしていた。木々の微笑み、零れた日差しのような優しい笑い声が語りかけてくるようで。地を叩く靴の音で答えてみせて笑顔を浮かべる。規則正しく刻む足音は夏のメロディーと呼ぶに相応しい爽やかさを薄っすらと広げていく。
やがていつも通りの職場。太陽が注いだ熱に悲鳴を上げるドアの温度を手で感じながら開き、いつも通りに窯の温度や設備の調子を確かめるべくパンを焼き始める。
無事に焼き上がった事を確かめてエプロンを纏う。毎日同じことの繰り返し。本当に別の日の事なのだろうかと疑ってしまう程の似た日々は生きた心地を奪い去って行く。潤いを奪い、日差しに溶かして消してしまう。天にまで昇った想いは果たして他の誰かに伝わるものだろうか。
ユユは遂にそんな同じことの繰り返しの終止符を見つけ出した。雇い主へと提出するそれは次に汽車に乗るはずの最後の日まで、キールが学校に入学する三日前をもって退職するという宣言だった。
「彼氏が入学するからか」
「そう」
ユユは眉を顰め、感情を飾り付けて接していた。悲しさは作り出す事が出来る。雇い主を喜ばせるための演出、媚びを売っておいて損はないはずだと判断しての行動。
雇い主はユユの想いになど気付くことも無く優しい表情を浮かべながら紙を取り出す。重要な書類は羊皮紙と言われているものの、雇い主という階級の者は労働に関する契約を交わす際には酸性紙で充分だと考えているようだった。
「もしも街に戻ってくることがあればここでも別の仕事でも紹介するぞ」
「ありがとう」
こうして少しでも人生を有利に進めておく事がどれだけ大切か、ユユはしっかりと学んでいた。
しかしながら彼女の中で何かが充たされない。建て前だけの関係、そこでのやり取りでは得られない何かがある。恋人であるはずのキールにすら打ち明けていない感情には埃が溜まり、気が付けばどこか遠い景色へと成り果ててしまっていた。
「浮かない顔だな」
隠し通すことが出来なかった。感情の片鱗の色は見抜かれた。中に宿るものまでは見えていなくとも、本音は分かっていなくとも、心の底には触れられなくとも。心配してくれる表情がそこにはあった。
「特に問題はないよ」
雇い主と労働者の関係、少しの親しさはあったもののユユはあの表情に悪態を零してしまいそうになっていた。抑え込み、顔を逸らして息を吐く。想いの全てを吐き出すように力強く想いを外へ出して空の輝きで掻き消して。
この思いが誰にも届かない事に感謝の想いを込めずにはいられなかった。
いつも通りの疲れを背負って窯を後にして、いつも通りにパンを持ち帰っていつも通りの安い昼食を取る。夏の明るさは気分を跳ねさせてくれるものの、冬になってしまえばそうは行かない。日差しが弱まる事で少しずつ気分が落ち込んで行く様が容易に想像できてしまうのだった。
すぐさま平らげて午後の職場へと向かって行く。足音は周囲から不規則に鳴っている。大きなものに小さなものに素材や重みによる響きの良し悪し、それぞれのテンポまで異なって耳に刻んで行く。ユユも同じように混ざる中でどのような音をしているものだろうかと想像を膨らませる。周りの流れ、それぞれの耳はどのように音を感じているのだろう。出来ればあまり響かない音であって欲しいと願うユユは見回すものの答えは何処にも転がっていない。
服の製作所に入り、仕事の準備を始めている女性たちを見つめていた。彼女たちはそれぞれにユユの訪れに煌びやかな笑顔を浮かべながら話を進める。
「彼氏との舟の釣りどうだった」
「ユユは楽しかったの」
「ねえねえ」
それぞれに放り込んでくる言葉はどれもが同じ感情を揃えていた。
ユユは弱り果てた笑顔を浮かべつつも昨日の事を思い返しては元気を振り絞る。
「楽しかったよ、男って子どもみたいになるよね」
そう、あの日のキールの騒がしい笑顔は紛れもなく出会ってすぐの頃のものと同じ。成長を知らない彼がこの街に来てすぐさま遊び惚けようと提案したあの時から分かっていた事だった。
「よかったね」
「やっぱり男ってそうなんだ」
揃っていた感情は乱れて個性に満ちた花となる。そんな景色を見つめてユユの頬はつい緩んでしまう。
「やっぱり楽しかったんだね」
「うん、確かに」
笑顔の意味を取り違える彼女たちに対して同意を捧げる。この場所で大切なことは自分の意見を述べる事で事実を伝える事ではない。彼女たちを如何に満足させるか、それこそが求められる事だった。
やがて雇い主が現れる。固いスーツに季節に見合わないロングコートを纏った姿を、この街の正装を纏う人物を目にすると共にユユは仕事を辞める事を告げる。
「優秀な彼氏だな、戻ってきたらユユの事は幾らでも雇う」
キールが持ち込むかもしれない知識や技術に期待を込めているのだろう。将来を見つめる雇い主の目は未来の輝きを受けて潤んでいた。したたかな打算が見え隠れしているものの、今は全て見なかった事として話を進めていく。
「ええ、こちらにまた住むことがあれば」
キールが優秀な生徒として学校を出た場合は確実に学校の職員だか都市の住民だとか、或いはもっと大きな世界への跳躍を見せる事だろう。学校に通った果てにたどり着いた場所がこの街であるとするならば、落ちこぼれか理由持ちに他ならない。
「今後のあなた方には期待している」
期待の本体は飽くまでもキール、ユユは本命の導き手として利用するに過ぎない。或いはユユの生涯を保証するという形で遠回しな脅しをかける材料であるか。
そんな会話の中、妙な緊張に気温とは異なる汗を感じていた。首筋を伝う水の気配は仲間にも伝わってしまったものだろうか。
「そんな固い顔しなくても大丈夫」
そう告げてユユの在り方を、振る舞いを整えてくれる布の芸術家たる衣料品の作り手たちはまさに心の花の刺繍職人。
気が付けば気持ちの悪い汗は日差しの熱に混ざり込み、蒸発していた。
今日の仕事は鐘の音と共に終わりを告げる。片付けが始まりその中でも雇い主から期待の声援を飛ばされた後、被服工房の外で一人ため息をついていた。
「キールに振り回されっぱなしだよ」
街に足を踏み入れたのもこのような生活を送るも学校のある都市へ行くのも全て彼の都合と現実を見ての事。夕日が鋭く刺さる。何もかもが痛くて疲れてしまう。あまりにも大きな負担は訪れては立ち去る素振りすら見せない。
「私って何だろうね」
必要とされているのは彼の方。ユユの事など利用価値のある人物としか見ていないあの雇い主。その目が焼き付いて仕方がなかった。あの人物の目に映るユユの姿は金や高価な石の原石を背負った貧しい人物なのかもしれない。
息苦しさを感じてしまう。傾いた日差しが傾斜を付けた現実に乗って降り注いで。
鐘が空気のひび割れのような音を奏でたあの時の余韻が身に染みて、踏み出す一歩が重々しい。
これから向かう先に夕飯の気配、街で働く有象無象が揃いも揃って通う飲食店たち。必要なものだからと等しく役割を与えられ、待つ者は少数派。
ユユは昨夜キールと集まると決めていた店へと足を運ぶ。中へと入るまでも無く用意されたテーブルとイスの数々、そのうちの一つに座っているキールの姿を見た。
「お疲れ」
キールの顔に夕焼けの光と夜の影が入り乱れる。屋根によって髪が影の色に染められていた。
ユユは向かい合うように座り、チーズとレタスのサンドとトマトジュースを頼む。
「仕事辞める日は大丈夫かな」
キールはしっかりはっきりと頷いた。その返事を目にするだけで、大丈夫の一言を耳にするだけで満足した自分がいた。
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