第16話 舟釣り

 食事を終えてすぐさま港へと向かった。石やレンガを敷き詰めた地面を歩く二人に声を掛ける商売人たちには目をやる事もなく目的地へとまっすぐ進む。そんな二人に微笑みかける太陽にかかる微かな雲はレース生地のドレスとなって透き通る空の明るさを抑えていた。

 これからどこへと向かうのか、方向はあっているのか、ユユには分からない。キールはうわさで聞いただけの事に過ぎない。しかしながら足取りに迷いは見られない。今の空よりも澄んだ確信に驚きを覚えるユユだった。

「そこか」

 キールはきっと釣りの仕事の雇い主からあらかじめ詳細な話を聞いていたのだろう。遊ぶことに関しては本気を出す男。もっと仕事に情熱を注いでくれることを期待するのは罪なのだろうか。

 キールの足は早まって、一つの建物へと向かって行く。ユユからすれば子どもの頃のままでいて欲しくない部分に限って子どものまま。そんな彼に抱く不満と微かに残された行為の残滓を舌で転がしながら後を追うように小刻みな足取りで駆ける。

 レンガと切り出した石を組んで作り上げた建物、大きく開かれた口の中へと踏み込む。

 そこでは既にキールと小太りの男が言葉を交わし続けていたようで、キールはポシェットの口を開き始めていた。

「暗くなるまでだ、銅貨十二枚」

 言われたとおりに支払う姿を見てただ安心感を手に取った。キールの目を見つめながら男は舟の貸し出し場いっぱいに響き渡る声で空気を揺らす。

「いっぱい釣って来い、場合次第では儲けにできるぞ」

 夢のある話、魚を釣って貸出料金をも上回る収入が得られればそのまま有り金に出来るのだという。また、本人の申し出により好きな魚だけを持ち帰る事すら出来るという。

「夢を釣れ、俺たちに明日の楽を贈呈してくれ」

 キールは頷き舟を持ち上げ始める。ユユも駆け寄って運び出す。二人共に楽しみにしていた瞬間がようやく訪れるのだと胸を躍らせていた。

「釣り竿はあるから安心しろ」

「よかった」

 仕事道具を休日に持ち歩く心境はいかがなものだろう。しかもいつもより一本多く持つ事、運ぶのが大変だったのではとユユは彼の顔を窺う。

「楽しい日にしよう」

 先ほどまでのユユの湿った感情は一切伝わっていないようだと悟り、ユユの目は安心をつかみ取った。太陽の光が再び降り注ぐ。先程まで空を彩っていたレース生地のドレスを思わせる薄い雲は何処へと消えたのだろう。目前に広がる海すら感じさせない爽やかな風と熱は紛れもない本物。

 舟を海に浮かべ、櫂を持って飛び乗るキールの動きに倣ってユユもまた飛び込んで行く。

 足は無事に木を組んで作られたそれを捉えて着地の心地に沈みかける。舟は波の揺れに脅かされて正気を保っていられるだろうかと肝を冷やしてしまう。

「出発するぞ」

 キールには恐怖心というものがないのだろうか。ユユの心配など人格の壁に阻まれて太陽の輝きの中に散り散りとなって伝わらない。

「櫂をしっかりと動かすんだ」

 海をかき分けて進むんでいく舟は時たま大きく揺れて実に頼りない。激しい波が舟という世界に訪問して来ればすぐにでも人生の終わりをもたらすという用件を突き付けられてしまう事だろう。

 海は輝く。陽光の破片を受けて宝石のよう。散りばめられたそれが時たま風に巻き上げられて踊っている。櫂に持ち上げられては落ちる。そんな様を見つめているだけでもユユの中の恐怖感は薄れて行った。

 どれだけ離れた事だろう。舟の外は四方八方海という光景。美しさの中に命の循環の香りが漂っていて魚たちの生々しい生き様を思わせる。

 キールは釣り竿を取り出してユユに手渡す。

「釣りの時間だ」

 渡された棒には糸が結び付けられていて、糸の先には釣り針。釣り針の先には海にも似た香りの小さなエビが刺さっていた。

 釣り竿を思い切り振り、糸を飛ばそうと試みる。空を真っ直ぐに突き進もうとするものの、風の薙ぎによって糸は横へと逸れていく。凪が良かった、想いを滲ませながら睨み付ける。風は髪を暴れさせ、塩を吹き付けて傷め、乙女の質感は損なわれて行く。

 海に沈んだ針は何処にあるのだろう。浮きを見つめても把握できているのか出来ていないのか。

「俺もやるぞ」

 キールはユユとは反対の方向へと素早く竿を振ってより遠くへと飛ばす。経験者の行ないを覚えておこう。視線を向けて糸を焼いてしまう程に熱い注目を浴びせる。

「やられた」

 風が吹き、糸は舟に近い所に、手を伸ばせば届きそうな距離まで引き戻されてそのまま海へと落ちて行った。

「なんてことだ」

 一度引き揚げてもう一度投げてみたものの、風はキールを妨害するように吹いてあまり大きな距離を稼ぐことを許さない様子。

 やむを得ずに待ち続けた。そんなキールの心情をつかみ加速させるようにユユの竿が動きを見せた。始まりは小さな動きが何度か繰り返され、続いて大きな振れを描き、ユユは懸命に引き始める。

「大変、釣れそう」

 しっかりと引いて、上手く手繰り寄せていく。

「キール、網」

 力の入った声に短い言葉、歪められた表情が海と空の輝きに挟まれて強調される。余裕など一切残されていないことを見て取ってキールはすぐさま網を構えて待ち始める。

 少しずつ引き寄せられ、海は不規則に飛び跳ねて小刻みに暴れる。

 やがて水面から異なる輝きが現れた。頭を出したそれは硬質で光沢は海に潜む者の姿をなぞる。

 キールは網を海に差し込み勢いよく動かし魚を掬い上げる。引き揚げられたそれは棘のような鱗を全身に纏い鋭く尖った手を思わせるヒレを持っている。人の柔らかな肌に刺されば軽いケガくらいならばすぐにでも負ってしまう事だろう。

「しっかり釣れたな」

「うん」

 ユユの表情は太陽と区別がつかない程に輝かしく、ヒマワリを思わせる可憐な雰囲気を空に塗り付ける。

 見蕩れている内にキールが持っていた竿もまた激しい動きを取る。音で気が付いた時には既に海に引き込まれ始めていてキールは慌てて竿を取り思いきり引っ張り始めた。

「網を」

 言われた事に従うのみ。次はユユが網を扱う番。キールが引っ張る竿から伸びる糸の先を見つめる。糸を飲み込む海をしっかりと捉えて。気が付けば網の柄を握る手に力がこもっていた。

 やがて風の踊りに巻き込まれる海の受動的な揺れとはまた異なった受動的な踊りを始める。弾ける水は獲物の存在をはっきりと主張している。

 ユユが行なう事など簡単の極みだった。ただ網を使って魚を掬い上げるだけ。

 釣り上げた魚を見つめ、キールは思わず空気を破る勢いで歓声を上げた。

「よっしゃ」

 それからユユの方へと顔を向け、鋭い明るさを見せつけて述べる。

「あと三尾は釣るぞ」

 それから更に釣ろうとエビを釣り針に刺し、海へと放り込む。心を躍らせるキールの姿は子どもの姿そのもの。彼の目に宿る感情は人が変わってしまったのはユユの方だと告げているようだった。

 それから待ち続けて冷静な感情を取り戻すことなくユユの竿に獲物がかかる。竿は大きく振れて、強い引きを見せる。

「キール」

 ユユの言葉を受けてすぐさま網を手に取り構えた。狙うものはすぐそこに。どれ程までに底に近いか分からない、海の姿が分からない。そんな中から出て来る魚の姿は不思議そのもの。

 網で掬うと共に銀色の輝きを放つ魚。その光沢は金属を思わせるもので、しかしながら人の口へと運ばれるもの。

「この調子なら儲けが出るかも知れないな」

 期待を抱き太陽にかざすその姿が微笑ましく思えて来る。休日には愉快な彼、そんな彼の事が好きだと主張する想いは加速を続けて止まらない。

 大海原の深い青から夏の晴れ空の澄んだ青へと銀の身体を上げる。空を舞う細長い身体は質感を変えた海を泳ぐ一羽の鳥のよう。雲の泡は陽光に照らされて相変わらず白いドレスの姿を取り続けていた。その模様があまりにも心を揺らす。ユユをいつでも乙女に仕立て上げる一方で手を掲げてみても飾ってみせようとも届かない貴族の装いについ盛大なため息とひっそりと隠れた湿っぽい感情を零してしまう。

「羨ましい」

 ただの羨望、ユユは信じていたかった。しかしその感情に違和感がある事をどうしても否定できない。貴族を羨む一方で彼ら彼女ら問うことなく貧民の味を知って欲しい、貧しい食べ物の香りを、労働を。

 そんな想いの中でキールの横顔に目を向けて目を見開く。続けて勢いよく青空と雲のカクテルを飲み干して透明の笑顔を見せ始めた。

「いっぱい釣ろうね」

 キールの中に生まれた一瞬の沈黙はユユの何かを感じ取ったのか曖昧なまま仕舞い込んだが故なのか、感情に軽い壁を挟み込むものの、キールの顔にすぐさま輝く彩りが生み出され、同調を示した。

「そうだな」

 それから少しずつ魚を釣り上げては樽桶の中へと放り込んで再び針を海へと放り込む。そんな作業を幾度も繰り返して樽桶に入る数は増えていき、やがて魚の入った樽桶の数が増えていく。

 時間の経過は空に描かれていく。太陽は空から降りようとゆっくりと角度を落とし海へと沈もうと試みている。毎度の事で手慣れた動きはしかしながら先月とは異なる速度と動きを持っているようだった。

「随分釣れたな」

「楽しかったよ」

 キールは分かっていた。日頃の生活の中で夜闇の恐ろしさをしっかりと体感していた。大きな漁船であれば多少の闇や冷えた温度を気にせずに済むだろう。遅くなっても尚たどり着けなければ寝泊まりが出来るだろう。しかしながら今のキールとユユを乗せる舟は二人と荷物だけで埋まってしまう程のもの。もしも船の上で寝ようなどと思ったならば太陽が昇る頃には二人の姿は海の上に残されていないだろう。

「暗くなる前に帰らないと危ないな」

 キールの声に従ってユユは櫂を構える。キールもまた櫂を取り、先を海に突っ込んで掬い上げるように動かしていく。

 少しずつ進み、賑やかな人の波へと身を上げた時には海は橙色を乗せていた。太陽が顔を隠し、汽車の蒸気は空の色を濁らせている。

 舟を返して魚を売り、無事に金を得たキールはそれを全てユユに手渡し笑顔を向ける。

「今日一日楽しかった」

 ユユは金を受け取ってすぐさまキールの手を引いて食堂へと向かう。

 そんな様子を見つめて舟の貸し出し人は朗らかな笑顔を浮かべていた。

「いいお二人さんだな」

 零した呟きは海には流れず人の波に掻き消され、音は何処に落としてしまったのか目を凝らしても見えない程の細かさに砕かれてしまっていた。


 薄く伸ばしたパンにサラダとベーコンを挟んでバジルソースをかけたものとメロンジュース。安い夕飯はしかしながら二人にとっては中々値の張るもので、ポシェットの中を見つめては黙り込む事しか出来なかった。

 夕空は闇に閉ざされて景色は小さな灯火によって作り上げられる。二人揃って足元の見えない駅のホームに立ち、このまま次の列車を待ち続ける。

「疲れたよ」

「明日も夜中には仕事だ」

 このままではキールの仕事ぶりに悪影響を及ぼしてしまう事だろう。

 外から入って来る汽車の動きは遅く、しかしながら音と姿に鋭いランプの輝きは立派な物でどうしても目立ってしまう。

 まき散らされる煙から逃げるように乗り込み、キールに向けて放つ言葉もそのまま乗せ、席に座ったところでようやく音として空気に刻んだ。

「明日も早いならしっかり寝ていいよ」

 従って席に身体を預けてすぐさま目を閉じる。言葉に甘えたのが丸分かりの動きを見て思わず微笑んでしまう。

「明日も頑張ってね」

 汽車の中は明るく揺れも激しい。その場で眠るには快適とは言い難い環境の中でもすっかりと夢の海へと潜り込んでしまう辺り、余程の疲れに身を浸していたのだろう。夜闇の海に輝く星の美しさすら台無しにしてしまう明るさは調整が効かないのか、訊いてみたものの返って来る言葉はユユの期待に沿ったものではなかった。

 星空と共に走る汽車はどれほど美しいものだっただろう。日頃は味わうことの出来ない速度から見つめた星空は美しかったことだろう。期待したものの大きさと目の前に聳える現実の差はまるで日頃のキールとユユのよう。

 汽車が吹き出す蒸気は量を増して行く。やがて進み始めるのだろう。一日の終わり、汽車は二人を明日へと運び始める。

 大袈裟な音と揺れを見せ、鋭い音と共にレールの上を進み始める。大きな車輪は重い鉄の身体すら運ぶ力強さに押されて回っているようだがその姿を拝むことは叶わない。

 ユユはオレンジジュースを頼み、窓の外を見つめる。

「働き者の汽車にお疲れ様」

 乾杯の意を込めて掲げた紙コップ。口を付けた時の感触や含んだ時の香りや舌触りは相変わらず慣れないものではあったがそれでも無いよりはましだと言い聞かせ、一気に飲み干した。

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