第15話 汽車
太陽が輝く青空の下、熱に揺らめく荒れ地は砂の海のような様を見せている。蒸気が噴き出して黒く無機質な塊は幾つもの車輪を回しながらその重たい体を軽快な様子で進めて行く。レールが作り出した道に従って進む汽車は人々の足で出せる速度を大幅に超えている。
その景色は本来キールとユユの一か月程度の収入では到底手の届かないものだった。
「雇い主からの通勤手当も無いのに乗れるの快適」
「故郷から都市に渡るための学校からの援助で旅行最高」
サボテンや雑草の毬が残像を描きながら目前を通り過ぎて行くように感じられてしまう。実際にはキールたちを乗せた汽車が通り過ぎているだけであったが。
「速いね」
日頃は味わう事のない速度で変わり映えのしない景色。すぐそばのものはしっかりとブレを生じさせ、遠い景色は一向に視界から失われる気配がなかった。
汽車の席は固く、お世辞にも座り心地がいいとは言えない。そんな席が両端に伸びて埋める車内を歩く若い男の姿を目にしてキールは呼び止める。
「注文いいか」
「ああ、構わない、伺おう」
黒い制服は汽車やそこから上がる煙とお揃いの色をしているように感じられた。車内スタッフがポシェットを開くと共にキールは口を開く。
「オレンジジュースを一つ」
キールの言葉に乗っかるようにすぐさまユユも顔を上げた。
「メロンジュースとカカオ粉練り込み柔らかパン、お願い」
販売スタッフとしての経験はどれだけ積んだのだろうか、すぐさま墨を尖らせたペンを黄ばんだ紙の上で走らせて読み上げ、値段を告げた。
「銅貨三十枚」
その数字が持つ価値の重さは一か月程度でも都市部の仕組みを採用した街での労働生活を送れば痛いほどに分かってしまう。
キールは銅貨を三十枚取り出し彼に手渡す。その時の指の震えや緊張感、浅く速い呼吸がもたらす黒々とした感情がその価値の重みを語っていた。
しばらく見渡す景色の色が失われたような錯覚に襲われる。目に映る景色が現実のものとは思えなくて何度の瞬きを繰り返した事だろう。次に目を開いた途端に映る景色が鮮やかで幸せなものになればいいのに、そう思わずにはいられない。しかしその目に映る地は名前を冠する通りに荒れていて、見ているだけでも内側の何かが削れて行くよう。
ユユはキールに肩を寄せて眉をひそめて見つめる。
「楽しくないのかな」
キールは首を振りながらどうにか頭の中から返すべき言葉を取り出した。
「そんな事は無い」
あまりにも下手な嘘はすぐさま見抜かれるだろう。既に見抜かれてしまっているだろう。まさに想像通りの言葉が訪れて景色の残像に重みをかけていく。
「今はお金のことは忘れていいのに」
薄暗い認識を植え付けた本人からの言葉はあまり気分をほぐしてはくれない。鐘の事を考えている時とユユの声を聞く時の重なりが訪れる度にキールの頭の中には過去の彼女が現れるのだから。
汽車が進む音に削られた足音が寄って来る。例の車内スタッフが大小様々な枠の仕切りが差し込まれた木の箱を持って訪れた。
「こちらが注文の品でよいか」
席と席の間に取り付けられたテーブルにオレンジジュースとメロンジュースに所々が茶色に染まったパンが並べられる様を確認してキールは頷いた。
「用があれば声を掛けるように」
それだけ述べて立ち去る男、残された二人、急ぐように荒々しく走る汽車は目的地に着くまでどれ程の時間を残しているのだろう。
ユユはパンを少しだけ千切りキールに差し出した。
「はい」
沈黙の二拍はゆったりとしていた。その間にキールはどのような思考を繰り広げていただろう。
「ありがとう」
どうにか口を開いてそのままパンを受け取り放り込む。ほのかな甘みを持ったパンをカカオの苦みが重厚な香りで大人な味わいへと仕立て上げた一品は気品に満ちていて噛み締める度に高級な雰囲気を表に晒していた。
「おいしいな」
「こんなに高いもの久しぶり」
何を手に入れようにも金が必要な街が点在している地域。分かりやすい単位があるこの辺りと金は飽くまでも補助で物々交換や手伝いが主要な田舎の故郷。この世界を構築する文明に感謝を込めるべきか恨むべきか。ユユの頭では簡単に答えを打ち出すことが出来なかった。キールの中では答えを出すという発想すら残されていなかった。
オレンジジュースはどこで出されたものでも強い酸味が気を引き締めてくれる。濃厚な果汁は少しの苦みと爽やかな酸味を奏でて舌の上に残って踊り続ける。
「この味が好きなんだ」
キールの言葉にユユは首を傾げてしまう。
「もう少し甘い方が良い」
メロンジュースを口に含み、紙コップを眺める。高級な店の持ち帰りや汽車の中でしか見ないこのコップは高級感を喪失した合理的な印象を刻み付け、使い捨てのそれが高額なものだとはにわかには信じられない。
「このカップ何で使ってるんだろう」
「高級店だと技術の普及のために採用するらしいな」
ユユは不満を述べ続けていた。カップやグラスの材質によって見栄えや味わい、香りの差し込み方が変わって来る中で紙コップは決して上等な道具だとは思えなかった。
そんな気品を打ち消す技術の結晶は人の心を満たすことなく、ただ合理的という言葉を突き詰めた道具。遠ざかって行く街に建っていたアパートや様々な技術が張り巡らされた鉄の都市、飾りの少ない道具の数々。文明という人々に宿る姿無き生き物は何処へと向かっているのだろう。発明や開発、普及を繰り返して突き詰めていった世界、利便性に支配された社会はあまりにも味気ないものだと想像を巡らせてしまう。
「もっと色々楽しみながら生きて行けないのかな」
ユユが零したそんな言葉を噛み締めながら窓の外の景色を眺め続ける。
「ガラスは高級で鉄の建物は暗くて眩しくて」
キールがどこにとも言えない呟きを零す様をただ見つめ続ける事しか出来なかった。
「それらが安くて当たり前の世界が来るかもしれない」
未来に夢を見るか過去に取り残されるか、どちらが賢明でどちらが懸命か。過ぎる想いはどちらも愚かで稚拙にしかなりえない。
「その時にはその時の楽しみ方があるから乗らなきゃな」
飽くまでも追いかけるだけ。学校という高度な教育を施してもらえる施設に足を踏み入れる身にその心構えは認めてもいいものだろうか。積極性が足りないという一言に尽きる。それを告げる事すらばかばかしく思えた。
汽車が進み、紙コップで味わったジュースも過去のものとなる。しかしながら舌が覚えている、コップからの果汁の伝わりの悪さと口の中での香りの広がり方の曖昧な様。パンは美味しかったものの、最後に味わったものは当然ながらジュースの方で、舌に絡みつく過去がねっとりと感情を染め上げてしまう。
ユユの感情は明るみに晒されていたのだろうか、キールはユユのまつ毛が少し下がっていると指摘を始める。
「紙コップ、ユユには厳しかったか」
キールの中では傑作の一つだったのか、太陽にも負けない顔の明度を車内で浮かべている。
「キールは良かったの」
「ああ、更に改良されたらもっと便利になりそうだ」
人それぞれに与えられる物差しは長さも色も異なって、単位すら違うものなのかもしれない。キールの満足感はユユとは違う基準で測られたものなのか、同じ基準で測ってもそのような結果をもたらすのか。分かる火が来て欲しい、そう願うのみ。
呆けている間に汽車は挙動を変え始めていたようで、空気の重い衝撃が微かに頭を揺らす。鋭い音を立てながら少しずつ速度を落としていく汽車、先ほどまで窓ガラス越しに映されていた鮮明な荒れ地はすっかりと蒸気を着飾り景色の在り方を変える。人の中の世界など人の行いによっていとも容易く変えられてしまうものだと実感した瞬間だった。
「止まるぞ」
キールは目の前の景色の激しい動きに心を躍らせていた。ユユはしっかり止まることが出来るのか不安を覚えていた。重い鉄の塊を止めようとする想いがしっかりとブレーキを操る手から伝わっているのだろうか、運転手の姿など壁に隔てられて見えない。
速度を落としていく。景色が少しずつ動きを抑えていく。ブレーキの音は更に響き、汽車の叫びのようにすら見えてしまう。
動きを止めたそこには石を固めた土台の姿。屋根はすっかり汚れて黒ずんだ木と赤いはずのレンガ、煤に塗れて変色したそれで組まれていて新旧の文明が入り乱れている様を拝むことが出来た。
汽車のドアは重い動きで開かれ、車内スタッフの誘導によって二人の身は外の空気に触れるに至った。
「煙は吸い込んだら危ないからね」
制服に身を包んだ若い男の言葉にはただ頷くだけ。ホームに降りて、ゆったりと歩き出す。石を叩く靴の音が刻むリズムに耳を澄ましながらキールの手を緩く握る。
「これから釣りとか船に乗ったりとか、だよな」
ユユの提案は彼女の欲から来るものだろう。そういった事を職としているキールの為を想うのならば離すことが最善に思えた。
「他にも回りたいところはあるよ」
ユユの言葉が空を舞う。荒れ地のアクセサリーとなっている太陽を見上げて時間を探る。
「向こうの街の鐘の時間には遠いか」
時間は大量にある。そんな確認を経ている内にも石の階段を降りて二人は初めて訪れた街の空気に包まれた。
馬車で今の生活の拠点としている街に向かった二人はこの街に寄る事も無かったのだ。
「確か宿の看板娘がいるんだよね」
トマトの運び屋と共に訪れたあの美しさの権化がこの街に、キールたちが過ごす街と大きな違いのない造りをした街の中にいるのだと想像するだけで不思議に満ち溢れてしまう。キールにとってあの女は本や劇団といった幻想の中に住まう者のような印象を得てしまうのだから。
「会うわけでもないがな」
キールの言葉はまさにその通りだった。明日も仕事、宿に泊まってしまっては確実に遅刻してしまうだろう。日帰りの旅行でしかない、それを心に留めながら今という癒しの時を過ごしていた。
「昼食の時にでも会えたらね」
それは起こり得ないこと、彼女は一日中宿の中で働いているか運び屋について行くだろう。ユユの幻想はキールの夢でもあったものの、叶う事は無いと知って絶望に打ちひしがれるのみ。
肩を落とすものの気持ちをすぐに切り替えて食堂へと向かう。しっかりとした昼食を取らなければこれからの目的を果たす半ばで音を上げてしまう事となるだろうことは空走に留められた空想でも容易にたどり着ける。仕事と疲れはあまり変わらないものだと断言出来た。
街を歩く人々の顔触れや顔色からこの街の特色が滲み出ている。隣の街と比べて穏やかで温かな様はまさに荒れ地に隔てられた思想。都会に近付くだけで大きく変わってしまうものかとユユは驚かされていた。
「こういった違いが生まれるまでのいきさつとかも学校で学ぶのかな」
「俺より学ぶことに積極的だな、学校行かないのに」
キールの言葉はまさにその通りで、ユユは学びの為ではなくキールと一緒に生きるためにここまで来たのだった。
「まさかこんなに変わってるなんて」
昔の人柄は何処へと消え去ったのだろう。少なくとも今よりは真面目でユユという女と釣り合う人物だった。今の惨状はどの歳の内に固められてしまったのか。
「会わない内に」
「人は誰だって変わる、ユユもそう」
落胆させてしまった自覚はあっても断固として謝る事はしない。キールにとっては今の振る舞いが当たり前だった。
ユユは二人で共に進む将来の姿を思い描いていた。輝かしい生活と呼ばれた夫婦生活の隙間に挟み込まれた影、それが大きな陰となって全てを飲み込み打ち消してしまいそう。幸せを掻き消す瞬間など一瞬にして訪れるものだった。
この関係はきっと長くは続かない。ユユの中にて描かれる未来の肖像はそう告げていた。ペンを走らせてみても同じように紡がれてしまう事だろう。キールが変わらなければたどる未来は変えられない。
ユユはキールの変化に期待を込めて寄り添い続けていた。
「いつか幸せになれるかな」
「ああ、なれるさ」
キールの一言を信じようと言葉に指を絡めようとするもののどうにも信用に至らない部分が芯となって残っているよう。
「信じてる」
想いを飲み込み隣の街と違いの分からない地面を歩く対極とまで呼べるほどに明るい人々の波の流れを無視して進む。
やがて入った店でサラダと羊の腸に臭い消しと味付けのスパイスを効かせたひき肉を詰めて茹でた料理を頼み、ついてきたパンと共に肉を口に入れ、しっかりと噛み締める。パンの生地はふっくらとしていて隣の街で食べられているようなただこねて焼いただけのものとは大幅な違いが見られた。
「発酵したパンは美味しいね」
その言葉の意味を噛み締めることが出来ずに呆けた顔で頷くキールの姿がそこにあった。
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